夢と現と妄想と〜Rêve et réalité et illusion et〜
あれから、また季節が変わり、日中は暑い日も増えてきた。
「レイさん、そろそろ行きますね」
「うん。気をつけてね」
昨晩、彼の家に泊まり、今朝はそのまま出勤する。
レイさんは、今日の午後には地方に移動してしまうから、また暫くは会えない。
Luarは今でも活動的で、最近、新曲をリリースしたばかり。なので、プロモーションで
あちこちに行ったりと忙しそうにしていた。
そんな中、昨日が束の間の休日だったのに、レイさんは私と過ごしたいと言ってくれたのだった。
地方に行くのはたった数日と、分かってはいるけれど、近くにいないと思うと少し寂しい。
玄関で靴を履いて、彼の方に向き直る。
寂しい、と伝えるようにレイさんの首に抱きついてキスをする。
「カノンちゃんからなんて珍しいね」
キスの後、彼がそう言った。
「あれ、ダメでした?」
「ううん。大歓迎」
「ふふふ。レイさんも気をつけてくださいね。向こうでうっかり風邪引かないように」
「うん。ありがとう。いってらっしゃい」
「いってきます」
そう言って、彼に手を振りながら、私はレイさんの家を出た。
彼に、いってらっしゃい、と言われたのが嬉しくて、駅に向かう間、少しだけ浮き足立っていた。
***
お店に着いて、開店準備をする。掃除をして、レジの準備を終えた。
店内のディフューザーは……。
精油のボックスを開いて暫くボトルたちを眺める。
「んー。これかな」
そう独り言を言いながら、ベルガモットをメインにして作ったブレンドオイルを選ぶ。
ディフューザーのセットを終えると、パソコンで予約管理のファイルを開いた。
「あら、またハルカさん」
最近、ハルカさんが頻繁に予約を入れてくれる。
いつも、一番最後の時間で入れてくれるので、そのまま彼の時間の前に閉店の札を下げられるから、その点は楽で良かった。
『予約受け付けました』と、メールを送信して、今日、最初のトリートメントの準備をした。
***
今日も一日、無事にトリートメントができた、と思いながら、最後のお客様ハルカさんがトリートメントルームから出てくるのを、お茶を出しながら待っていた。
レイさんもお仕事終わったかなぁ……? プロモーション大変だよねぇ……。
短時間であちこちに行かなければいけないらしいから、ちゃんとご飯食べてるかなぁ?
なんて、待っている間、余計なことを考えてしまった。ダメダメ。まだ仕事中。
そんなことを考えていたら、ドアが開く音がしたので、振り向いた。
「お疲れ様でした」
「ありがとうございました。今日もすごい楽になりました」
はにかみながらそう言ったハルカさん。
いつものように、アフターコンサルテーションをして、今日のトリートメントを終えた。
彼の薄手のパーカーをハンガーから取って、着せてあげる。
「気をつけてお帰りくださいね」
「ありがとうございます。ね、カノンさん」
振り向きながら、ハルカさんが私を呼ぶ。振り向きざまで彼の明るい栗色の髪がサラッと流れた。短くても綺麗な髪……。なんて、一瞬思ってしまった。
「はい、なんでしょう?」
「もうお店閉めるでしょ? この後は空いてますか?」
「え?」
一瞬、質問の意味が分からなくて聞き返してしまった。
「僕、カノンさんとお茶したい。カノンさん、お酒飲むならバーでもいいし」
「え……」
何それ。今度は年下イケメンからデートのお誘いだと?
これが、モテ期ってやつなのか?
と、一瞬パニックになったけれど、気を取り直す。
「あまりからかわないで下さい。トラブルの元になるから、お客様とは、そういうことをしないんです」
「じゃあ、お客様じゃなかったらいいんですか?」
「うーん、お客様じゃなかったら……まぁ、お茶くらいなら」
思いの外、ぐいぐい来る彼に戸惑う。
「んー、でもカノンさんにトリートメントしてもらえなくなるのは惜しいなぁ……。カノンさん、お願い。一回だけ」
この、可愛い顔をした青年は、なかなか積極的なようで……。
困ったなぁ。仮に、下心を抱かれていても、困るだけなんだけど……。
しかし、これ以上押し問答をしても不毛だと判断したので、『一度だけ』と約束して、お店の近くにあるバーに行くことにした。
***
「こんなお洒落なところ、近くにあるなんて知らなかったなぁ……」
「ここの雰囲気いいですよね」
駅の近くで、ちょっと地下に降りるお洒落なバーは、静かでとても落ち着いた所だった。
二人でカクテルを頼んで、少し話す。
「ねぇ、カノンさんはどうして一人でお店やってるの? 大変じゃないの?」
「もちろん大変なこともあるけど、自分の都合で働けるから、これはこれで気に入ってるんですよ。まぁ、最近忙しくなってきたから、もう一人いてもいいかな? とは思っていますけど」
「へぇ。カノンさんすごいなー。僕が一人でお店やるなんて想像できない」
子供みたいに無邪気に笑うハルカさん。
「ねぇ、カノンさんは一人暮らし?」
「えぇ、今は。もうすぐ彼と同棲しようかなと準備してるんですけど」
「あ、そうなんだ……。今日、彼は?」
「仕事の出張で、地方に行ってます」
レイさんの素性は明かすわけには行かないので、そう言ってうまいこと誤魔化した。
そんな、何でもない会話をしながら、カクテルを飲み終わる。
一杯だけ、という約束だったので、二人で店を出た。
良いお店見つけたから、今度レイさんにも教えてあげよう。
地下からの階段を上り、地上に出たところで、ハルカさんを見送ろうとしたら、急に彼が立ち止まった。
「ねぇ、カノンさん。聞いても良いですか?」
「えぇ、なんでしょう?」
「彼ってどんな人ですか?」
「……それ聞いてどうするんですか?」
「どんな人がカノンさんと付き合ってるんだろう? って、興味あるから」
何で、この人はこんなに私に絡んでくるのだろう……? 若干、面倒になってきた。
「ふぅん……。私には勿体ないくらい素敵な人ですよ。年上で、優しいし、でも可愛いところもあるし」
「へぇ。年上ってどれくらいですか?」
「えっと、10歳」
そう言うと、ハルカさんの表情が一瞬硬くなったような気がした。
「そんなに年上なんですか? カノンさん、年上好きなんですか?」
「まぁ、前に付き合ってた人は同い年だったけど……好みは年上ですねぇ」
「ねぇ、カノンさん」
ハルカさんの声のトーンが変わったと思った瞬間、手首を掴まれる。
「ハルカさんっ⁉︎」
「そんなオジサンやめて、僕と付き合いませんか?」
はい? 彼の言葉がきちんと理解できずに、体も思考も固まる。
「なっ……何を言ってるんですか⁉︎ からかうのはやめてください!」
「からかってなんてないですよ。僕、カノンさんのこと好きですから」
悪ふざけもいい加減にしてと思い、彼の顔を見ると、とてもからかっているような目ではなかった。
「そんな、数回しか会ってないのに」
「そんなこと重要じゃないです」
「私のことなんてよく知らないでしょう?」
「それは、これから知ればいいですよね」
「もうやめてください! 私はそんな気ありませんから!」
そう言って、彼の手を振りほどいて、走り出した。
そんな時でも、後を追われて家が知られてはいけないと咄嗟に思ったのか、いつもと違う道を通って家まで走った。
やっとの思いで、集合住宅の階段までたどり着いた。ここまで後ろは振り向かなかった。
全力疾走の後の変な階段は余計に消耗するな……と、がっかりしながらも、なんとか自宅に入った。
***
「はぁ……」
荷物は適当に放って、リビングのソファにかける。
そんな気は無い。私はレイさんが好き。
それは偽りはないし、今までもこれからも変わらない。
ただ、あんなに迫られたせいで、心が酷く揺らいでしまった。まだ心臓はバクバクしてるし、身体中熱い。何で、身体がこんな反応をしているか分からない。身体も震えてる気がする。
なんでよ……はやくおさまってよ……。
そう思った時、ブルブルとテーブルに置いたスマホが震えた。
《お疲れ様。予定より早く戻れそう。またそっちに戻ったら連絡するね》
レイさんからのメッセージ。なんてことないメッセージだけれど、荒れた気持ちが少しだけ凪いだ。
《レイさんもお疲れ様です。早く戻れるの嬉しいです。早くレイさんに会いたいです》
こんなこと書いたらきっと驚く。けれど、今の気持ちそのままだった。
メッセージを送って、スマホを置く。
ハルカさんからあんな風に逃げるようにして来てしまったけど……。
楠木さんの紹介だったから、色々マズかったかな……。マズかったなら、後できちんと謝ろう。
ため息をついて、ソファから立ち上がった。
ちょっと気持ちも体も落ち着かせたい。そう思いながら、お風呂の支度を始めた。
あぁ、もう。だからダメだというのに……。もう二度とお客さんと外に出ないぞ……。
洗面所の鏡を見たら、酷い顔をしていた。嫌になって、すぐに化粧を落とした。
このまま、色々な嫌なもの、流れていけ。
レイさんが戻ってきても、私は彼に会える顔をしてるだろうか……。
そんなことを考えながら、明日も仕事だし、荒れた気持ちをなんとか丸め込もうと、お風呂が沸くまでビールを開けて待つことにした。
いつもと同じビールだけど、今日はあまり美味しいとは思えなかった……。
「レイさん、そろそろ行きますね」
「うん。気をつけてね」
昨晩、彼の家に泊まり、今朝はそのまま出勤する。
レイさんは、今日の午後には地方に移動してしまうから、また暫くは会えない。
Luarは今でも活動的で、最近、新曲をリリースしたばかり。なので、プロモーションで
あちこちに行ったりと忙しそうにしていた。
そんな中、昨日が束の間の休日だったのに、レイさんは私と過ごしたいと言ってくれたのだった。
地方に行くのはたった数日と、分かってはいるけれど、近くにいないと思うと少し寂しい。
玄関で靴を履いて、彼の方に向き直る。
寂しい、と伝えるようにレイさんの首に抱きついてキスをする。
「カノンちゃんからなんて珍しいね」
キスの後、彼がそう言った。
「あれ、ダメでした?」
「ううん。大歓迎」
「ふふふ。レイさんも気をつけてくださいね。向こうでうっかり風邪引かないように」
「うん。ありがとう。いってらっしゃい」
「いってきます」
そう言って、彼に手を振りながら、私はレイさんの家を出た。
彼に、いってらっしゃい、と言われたのが嬉しくて、駅に向かう間、少しだけ浮き足立っていた。
***
お店に着いて、開店準備をする。掃除をして、レジの準備を終えた。
店内のディフューザーは……。
精油のボックスを開いて暫くボトルたちを眺める。
「んー。これかな」
そう独り言を言いながら、ベルガモットをメインにして作ったブレンドオイルを選ぶ。
ディフューザーのセットを終えると、パソコンで予約管理のファイルを開いた。
「あら、またハルカさん」
最近、ハルカさんが頻繁に予約を入れてくれる。
いつも、一番最後の時間で入れてくれるので、そのまま彼の時間の前に閉店の札を下げられるから、その点は楽で良かった。
『予約受け付けました』と、メールを送信して、今日、最初のトリートメントの準備をした。
***
今日も一日、無事にトリートメントができた、と思いながら、最後のお客様ハルカさんがトリートメントルームから出てくるのを、お茶を出しながら待っていた。
レイさんもお仕事終わったかなぁ……? プロモーション大変だよねぇ……。
短時間であちこちに行かなければいけないらしいから、ちゃんとご飯食べてるかなぁ?
なんて、待っている間、余計なことを考えてしまった。ダメダメ。まだ仕事中。
そんなことを考えていたら、ドアが開く音がしたので、振り向いた。
「お疲れ様でした」
「ありがとうございました。今日もすごい楽になりました」
はにかみながらそう言ったハルカさん。
いつものように、アフターコンサルテーションをして、今日のトリートメントを終えた。
彼の薄手のパーカーをハンガーから取って、着せてあげる。
「気をつけてお帰りくださいね」
「ありがとうございます。ね、カノンさん」
振り向きながら、ハルカさんが私を呼ぶ。振り向きざまで彼の明るい栗色の髪がサラッと流れた。短くても綺麗な髪……。なんて、一瞬思ってしまった。
「はい、なんでしょう?」
「もうお店閉めるでしょ? この後は空いてますか?」
「え?」
一瞬、質問の意味が分からなくて聞き返してしまった。
「僕、カノンさんとお茶したい。カノンさん、お酒飲むならバーでもいいし」
「え……」
何それ。今度は年下イケメンからデートのお誘いだと?
これが、モテ期ってやつなのか?
と、一瞬パニックになったけれど、気を取り直す。
「あまりからかわないで下さい。トラブルの元になるから、お客様とは、そういうことをしないんです」
「じゃあ、お客様じゃなかったらいいんですか?」
「うーん、お客様じゃなかったら……まぁ、お茶くらいなら」
思いの外、ぐいぐい来る彼に戸惑う。
「んー、でもカノンさんにトリートメントしてもらえなくなるのは惜しいなぁ……。カノンさん、お願い。一回だけ」
この、可愛い顔をした青年は、なかなか積極的なようで……。
困ったなぁ。仮に、下心を抱かれていても、困るだけなんだけど……。
しかし、これ以上押し問答をしても不毛だと判断したので、『一度だけ』と約束して、お店の近くにあるバーに行くことにした。
***
「こんなお洒落なところ、近くにあるなんて知らなかったなぁ……」
「ここの雰囲気いいですよね」
駅の近くで、ちょっと地下に降りるお洒落なバーは、静かでとても落ち着いた所だった。
二人でカクテルを頼んで、少し話す。
「ねぇ、カノンさんはどうして一人でお店やってるの? 大変じゃないの?」
「もちろん大変なこともあるけど、自分の都合で働けるから、これはこれで気に入ってるんですよ。まぁ、最近忙しくなってきたから、もう一人いてもいいかな? とは思っていますけど」
「へぇ。カノンさんすごいなー。僕が一人でお店やるなんて想像できない」
子供みたいに無邪気に笑うハルカさん。
「ねぇ、カノンさんは一人暮らし?」
「えぇ、今は。もうすぐ彼と同棲しようかなと準備してるんですけど」
「あ、そうなんだ……。今日、彼は?」
「仕事の出張で、地方に行ってます」
レイさんの素性は明かすわけには行かないので、そう言ってうまいこと誤魔化した。
そんな、何でもない会話をしながら、カクテルを飲み終わる。
一杯だけ、という約束だったので、二人で店を出た。
良いお店見つけたから、今度レイさんにも教えてあげよう。
地下からの階段を上り、地上に出たところで、ハルカさんを見送ろうとしたら、急に彼が立ち止まった。
「ねぇ、カノンさん。聞いても良いですか?」
「えぇ、なんでしょう?」
「彼ってどんな人ですか?」
「……それ聞いてどうするんですか?」
「どんな人がカノンさんと付き合ってるんだろう? って、興味あるから」
何で、この人はこんなに私に絡んでくるのだろう……? 若干、面倒になってきた。
「ふぅん……。私には勿体ないくらい素敵な人ですよ。年上で、優しいし、でも可愛いところもあるし」
「へぇ。年上ってどれくらいですか?」
「えっと、10歳」
そう言うと、ハルカさんの表情が一瞬硬くなったような気がした。
「そんなに年上なんですか? カノンさん、年上好きなんですか?」
「まぁ、前に付き合ってた人は同い年だったけど……好みは年上ですねぇ」
「ねぇ、カノンさん」
ハルカさんの声のトーンが変わったと思った瞬間、手首を掴まれる。
「ハルカさんっ⁉︎」
「そんなオジサンやめて、僕と付き合いませんか?」
はい? 彼の言葉がきちんと理解できずに、体も思考も固まる。
「なっ……何を言ってるんですか⁉︎ からかうのはやめてください!」
「からかってなんてないですよ。僕、カノンさんのこと好きですから」
悪ふざけもいい加減にしてと思い、彼の顔を見ると、とてもからかっているような目ではなかった。
「そんな、数回しか会ってないのに」
「そんなこと重要じゃないです」
「私のことなんてよく知らないでしょう?」
「それは、これから知ればいいですよね」
「もうやめてください! 私はそんな気ありませんから!」
そう言って、彼の手を振りほどいて、走り出した。
そんな時でも、後を追われて家が知られてはいけないと咄嗟に思ったのか、いつもと違う道を通って家まで走った。
やっとの思いで、集合住宅の階段までたどり着いた。ここまで後ろは振り向かなかった。
全力疾走の後の変な階段は余計に消耗するな……と、がっかりしながらも、なんとか自宅に入った。
***
「はぁ……」
荷物は適当に放って、リビングのソファにかける。
そんな気は無い。私はレイさんが好き。
それは偽りはないし、今までもこれからも変わらない。
ただ、あんなに迫られたせいで、心が酷く揺らいでしまった。まだ心臓はバクバクしてるし、身体中熱い。何で、身体がこんな反応をしているか分からない。身体も震えてる気がする。
なんでよ……はやくおさまってよ……。
そう思った時、ブルブルとテーブルに置いたスマホが震えた。
《お疲れ様。予定より早く戻れそう。またそっちに戻ったら連絡するね》
レイさんからのメッセージ。なんてことないメッセージだけれど、荒れた気持ちが少しだけ凪いだ。
《レイさんもお疲れ様です。早く戻れるの嬉しいです。早くレイさんに会いたいです》
こんなこと書いたらきっと驚く。けれど、今の気持ちそのままだった。
メッセージを送って、スマホを置く。
ハルカさんからあんな風に逃げるようにして来てしまったけど……。
楠木さんの紹介だったから、色々マズかったかな……。マズかったなら、後できちんと謝ろう。
ため息をついて、ソファから立ち上がった。
ちょっと気持ちも体も落ち着かせたい。そう思いながら、お風呂の支度を始めた。
あぁ、もう。だからダメだというのに……。もう二度とお客さんと外に出ないぞ……。
洗面所の鏡を見たら、酷い顔をしていた。嫌になって、すぐに化粧を落とした。
このまま、色々な嫌なもの、流れていけ。
レイさんが戻ってきても、私は彼に会える顔をしてるだろうか……。
そんなことを考えながら、明日も仕事だし、荒れた気持ちをなんとか丸め込もうと、お風呂が沸くまでビールを開けて待つことにした。
いつもと同じビールだけど、今日はあまり美味しいとは思えなかった……。