君色カトラリー

以前、何の用事だったか忘れてしまったが、彼に少し待って貰う機会があった。

『待てと言うのならいつまでも。迎えに来てくれるのであれば』

そう言って彼・長谷部は寂しそうに笑っていたのが、頭から離れない。


煤色スコール


今日は主命で万屋まで買い出しをしていた。

夏の湿った空気、眩しい日差しが照りつける屋外。
最近睡眠不足の主も買出しについて行くと駄々をこねておられたが、俺と燭台切で無理矢理部屋へ押し込んだ。
間違いなく熱中症になる。倒れてしまったら一大事だ。

そう、だから一人で用事を済ませ、帰ろうとした矢先だった。
晴れていた空は暗雲が立ち込め、槍のように鋭く注ぐ雨。喧しい蝉の音すら掻き消され、雨音だけの世界になった。

主に頼まれた品が、危うく濡れるところだった。
上着の中に慌てて隠したのはいいが、見事に俺は濡れ鼠になってしまった。
服を絞れば水が滴る…程ではないが髪は根元まで濡れており、額に張り付いていて些か不愉快だった。

(雨、か)

今川を討った時も、この夕立程ではなかったが雨だったな。

戦国の世に名を轟かせ、苛烈を極めた、元の主。黒田家では、それはそれは大切に扱われたが、未だに鮮明な記憶で蘇るのはあの魔王だった。
あの様な性格では部下に裏切られるのも当然と思うと同時に、俺があの場にいたならば何かが変わっていたのだろうか、とか。

一言では言い表せない感情が渦巻く。
元の主のことが好きだったか嫌いだったか。そう問われても上手く答えることができない気がした。

以前、主と町へ用を済ませに行った時だった。
少し店の外で待っててくれ、と言われた時だ。

『待てと言うのならいつまでも。迎えに来てくれるのであれば』

主は不思議そうに首を傾げ、あの男が絶対にしなかったような、穏やかな笑みを浮かべた。

『もちろん。置いて行ったりなんかしませんよ』

迎えに来ますから、待っててください。

可笑しそうにクスクスと笑われ、ほんの少しの恥ずかしさと、こみ上げる嬉しさで、頬が熱くなった。

(主の隣は、あたたかい)

ふぅ、と一息つき、空を見上げる。

相変わらず雨脚は弱まる気配が見られず、地面には海のような水溜りがいくつも出来ていた。
梅雨の時期の雨は紫陽花の涼やかな色と、少し肌寒い空気を纏っているからか今よりは心地よかった。

だが、夏の夕立は違う。
一気に人の気配が消え、土を穿ち、雨音が支配する世界を一瞬にして作り出す。
梅雨の雨を色で例えるなら、青藤。
夏の夕立は煤色だ。

色のない世界。
軒先をぴしゃりと閉じた町並みは、華美さの欠片もない。


嗚呼 まるで世界でたった独りになったみたいだ。

軒先の壁に寄りかかり、そっと俯く。
あの人に、会いたい。

「…主、」
「呼びましたか?」

撫子色の着物に、いつもお召になっている月白の羽織。
白に鮮やかに映える 鮮やかな薄紅が目に入った。

目に刺さるような深紅の番傘。
まるでその場所だけ、世界に色がついたようだった。

「あ、主!?なぜここに、」
「お仕事が一段落ついたんですよ。そしたら、夕立降ってきたので『あー長谷部さんは多分おつかいの物を濡らさないように、雨宿りしてるんだろうなぁ』って思ったので、迎えに来ちゃいました」

図星だ。

この人はぼんやりしているようで、本当によく周りを見ていらっしゃる。

「その通りでございます。…申し訳ございません。主のお手を煩わせて」
「ちょうど気分転換に外へ出かけたかったし、いいんですよ。どこかの誰かさん達に、無理矢理部屋へ押し込まれちゃいましたけどね?」

ニヤリ、と嫌味を込めたような笑み。
あぁ、少々機嫌を損ねてしまったか。いたずらっぼい笑顔で顔を覗き込んでくる目の前の主君に、つい曖昧な笑顔で苦笑いしてしまった。

主は持っていた袋からタオルを一枚取り出し、俺の頭にそっと被せた。
つま先立ちで手を伸ばし、俺の濡れた髪から優しく水分を取り除いていく。ふわふわとした繊維が頬に当たる度に、なんだか擽ったい気持ちになった。

「申し訳ございません」
「まぁ元はと言えば寝不足の原因だって、仕事にまだ慣れていない私に原因がありますから。
長谷部さんや燭台切さんからしたら当然の反応です。謝らないでください。ね?」
「左様、でございますか」
「左様でございますよ」

満面の笑顔で微笑む主。
あぁ、まるで、太陽のようだ。

「…まさか付き人も付けずに町まで?」
「?、そうですけど」
「主の身に何かあったらどうされるおつもりですか…」
「お迎えくらい一人でできますよ、失礼ですね」

俺の心配も他所に、呆れたように大きくため息を吐く目の前の主君。
いや、正直ため息を吐きたいのはこちらだ。
何かあったら、俺はどうすればいいんだ。考えたくもない。

「長谷部さん、」

傘を前へ突き出し、入れと言わんばかりに主は笑う。


「約束通り、お迎えに来ましたよ」


ふわりと花が咲くような、柔らかな微笑み。

――嗚呼、本当に、この人は。

胸を締めつける、この嬉しいような泣きそうになる感情の名前を、俺はまだ知らない。




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