anemone days
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それは、目玉のついた足だった。
「中々、すごいビジュアルだなぁ。あなた、名前は?」
『女子が、そんな口をきくでない』
「じゃあどうしろと」
『敬語で話せば育ちが良く見えるぞ』
「小学校入ってからは育ちはよかったはずなんだけどなぁ。はいはい、分かりましたよ。『一ツ目』」
『…なんだ、その名は』
「見たままですよ。足、って呼ぶよりはいいと思ったけど」
『…一ツ目でいい』
「よし。」
『名前など、付けられたのは初めてだ』
「ふぅん」
さぞかし、不便だったでしょう。
そう言って、目の前の小娘は笑った。
余と、この小娘の共同生活は、ちょうど一年だった。
anemone days#09
「一ツ目、あなたご飯ってどこから食べるんですか?」
そう言って名無しと名乗った小娘は振り返った。
『余に食事など不要だ』
「えー、それじゃあ作りがいがないですよー。何とか食べれるでしょ、気合で食べてくださいよ」
…中々無茶苦茶を言う娘だった。
「はい」
『…なんだこれは』
「肉じゃがです。知らないんですか?美味しいから食べてみて下さい」
『……』
足だった形を変え、口を作る。
空間を司る霊力をもってすれば、容易かった。
食事なんていつぶりだっただろうか。
まだ余が『 』で、本体と切り離されていなかった時の話。思わず気が遠くなりそうな昔の記憶だ。
「どう?」
『…悪くない』
この姿になって初めて食べた食事は、今までに喰らったどんな生き物の霊力より美味だった。
そう答えたら、少しだけ寂しそうに娘は笑った。
なぜそんな風に泣きそうな顔で笑うのか。
その時、余にはわからなかった。
***
忌引とやらが終わったら、学校というところに名無しは行かなければいけない。彼女の口からそう告げられた。
この家に、余がひとり。
それが無性に気に食わなく、前日の夜に学校用鞄の中に潜り込んだ。…居心地は、意外と悪くなかった。
学校とやらに到着し、余を見つけた時の名無しの反応は最高だった。
大きな黒い瞳は丸く見開かれ、呆然と鞄の中の余を見る顔はとても滑稽だった。
「どうしてついてきちゃったんですか」
『余をこの家に置いていくからだ』
家に帰ってから呆れたように問われ正直に答えれば、困ったように彼女は笑った。
「そうですね、留守番は…寂しいですもんね」
さみしい。
その感情はいまいち余には理解出来なかったが、確かに置いていかれるのは些か不満だった。
「学校で人目のあるところでは話しかけられないけど、大人しくしているならついてきていいですよ」と言われた。
なぜ、話しかけられないのかと問えば、顔をくしゃくしゃにして名無しは笑った。
彼女は、時々泣きそうな顔で笑う。どうしてだろう。
「あなたが見えるのは、普通じゃないんだって。変な子だと思われたら、この世の中生きづらいみたい」
だから、ごめんね。
泣きそうな顔で、謝られた。
その顔を見て、余も なんだか泣きたくなった。どうしてだろう。
それから、彼女と四季を過ごした。
冬。
コタツというものは温かく、人間・人外無差別に堕落させる大変危険な魔物だと知った。
師走の中頃に、余が出会った時に抱えていた祖父の遺骨を、墓に納めに二人で出かけた。
そこには二人分の名前が刻まれており、そっと彫られた名前をなぞった名無しの指先が微かに震えていたのをよく覚えている。
春。
桜の咲く丘にて、周りに人がいないのを確認したあと二人でお花見とやらをした。
「外で食べるお弁当は格別ですね」と名無しは言ったが…余は、正直違いがよく分からなかった。
不味いわけではない。名無しの作る食事はどれも美味かった。
どうやら、先に黄泉路へ発った祖母の遺した手帳を見て、覚え、作っているらしい。
最初に祖母から教わった料理は、肉じゃがだと言っていた。
初めて余が食べたときに寂しそうな顔で笑った理由が、なんとなく分かった…気がした。
夏。
暑いのは、どうやら嫌いらしい。
人間はどいつもこいつも暑そうに汗を流して大変そうだった。
この時期は妙に素麺が出る頻度が高かった。不満を言えばかき氷が出てきた。…そうじゃない。何か違う気がする。
「どうしてそんなに、真っ黒なのに暑くないの…」と恨めしそうに言われた。余はその言いがかりを少々理不尽だと思った。
好きでこの醜い姿でいるわけではないのに。酷い話だ。
夕暮れ時の買い物帰り、電柱に貼られていた町内主催の肝試しのビラを見て彼女は鼻で笑った。
「本当に怖いのはお化けや妖怪よりも、人間なのにね」
そう吐き捨てるように言った彼女の目は、どんなものよりも昏かった。
齢十五そこらの子供の目ではない。
どうしてそんな目をするのか、訊けなかった。
理由は…秋に分かった。
秋。
彼女の両親と名乗る男と女が家にやって来た。
親父の残した財産が・とか、どうしてお前なんかに・と聞いたことがない罵声を一方的に彼女は浴びせられた。
名無しは眉ひとつ動かさず、ただ黙って聞いていた。
それに痺れを切らした男が拳を振り上げれば、軽く倒れる彼女の身体。
お世辞にも大きいと言えない小さな身体は、板間に大きな音を立てて叩きつけられた。
余の、全身がざわつく。
彼女と出会う前は、無感情だった。
無機質な白黒の世界。理不尽に『本体』から切り離された余は、怖くなって逃げ出した。
彼女と出会ってからというものの、世界に鮮やかな色がついた。
こんなにも、世界は美しいのだと、教えてもらった…はずだった。
これは、知らない色だ。
黒く、淀んだ、濁った感情。まるで、余の身体のような色だった。
怒りに呼応するように揺れる影。使うことのなかった霊圧が溢れ出すような感覚。
そんな余を抑えるため、なのだろうか。
彼女以外の誰からも見られることも触れられることもないというのに、名無しは必死に余を背中の後ろで隠すように守っていた。
殴られて、罵られる度に身体が揺れる。
触れる指先がかつてない程に震えているのに、彼女は声ひとつ上げなかった。
嵐のような騒ぎが去った後、「びっくりさせて、ごめんね」と痛々しい青痣を作った顔で笑った。
余には、泣いているように見えた。
数日学校を休んだ後、怪我を担任に問い詰められた時、頑なに「階段から落ちました」と言い張っていたのは少し無理があるのではと思った。
そして冬が近づいてきた、霜月のこと。
その日は、雨だった。
余と名無しが会った日のように。
月に一度、月命日に墓参りを欠かさなかった名無し。
これで余がこの墓前に来るのは、12回目だ。つまり、彼女と出会ってから一年が経った。
いつも、日本酒でフランベを初めてやってみた、
カレーはスパイスから作ると意外と難しいだとか、
余は…一ツ目はオクラが苦手らしい、だとか。
くだらない話題を楽しそうに報告しているだけだった墓参り。
いつも通り丁寧に墓掃除を行ったあと、墓前にしゃがみ込んで手を合わせる名無し。
いつもならここで話し出すのだが、今日は違った。
傘をさしているのに、足元の余に雨がひと粒落ちる。
あたたかくて、少しだけ塩味の雨。
見上げれば、くしゃくしゃになった泣き顔の彼女がそこにいた。
最初は声を押し殺して泣いていたのに、途中から脇目もはばからず声を上げて泣きじゃくった。
轟々と降り注ぐ雨が嗚咽をかき消していく。
黒いモヤを伸ばして涙を拭おうとしても、余がその雫に触れることは出来なくて。
何だか無性に、泣きたくなった。
***
「名無しサン、」
手を伸ばしても、するりとすり抜ける手。
まるで自分が幽霊になったように、彼女の過去を追体験している。
子供のように泣きじゃくる彼女を見てしまった。
見たくなかった。
『…まだ、続きがある』
***
何も言わず、鼻を啜りながら帰る、帰り道。
余がいた世界もロクなものではなかった。
霊力を抑えるという理由で無残に四肢と心臓をもがれたあと、『祀る』とは名ばかりの幽閉。
手足は自由になったと聞こえはいいが、本体の身体に近づけさせないようにバラバラに各地へ棄てられた。
両手と、両足と、心臓。
それぞれ宿る霊力は違えども、元はと言えば、余も『人間』だったことを思い出した。
世界の安定という大義名分を掲げ、余を天空へ縛り付けたのが死神だということも。
だからこそ、この泣きじゃくる人の子がいとしくて、仕方なかった。
空間を司るこの力を、この娘に。
彼女を悲しませる世界から、どこか遠くへ逃げられるように。
いつしかそう思うようになっていた。
***
『そうして貴様が開けたほんの僅かな歪みに、余の霊力を捩じ込み、彼女の中で眠りについた』
浦原の前には、足の形をした影。
ゴポリと沼地のように時々泡を吹く姿は、まさに異形だった。
彼――名無しに一ツ目と呼ばれ続けた『ソレ』は、ゆらりと儚げに揺らめく。
彼の足元には、死んだように眠る名無しがいた。
『そこからはおぬしがよく知っておるだろう』
「そりゃもう」
『余は、死神が憎い。人間も憎い』
「…そうでしょうね」
『余は、おぬしが一番嫌いな男だ。もう泣かせまいとあちらの世界から逃がしたというのに、この娘を、泣かした。』
「ボクもその節は反省してるっス」
もしかして、彼女が元の世界に帰りたかった理由は、彼だったのだろうか。
仮に元の世界に戻ったとして、探しても見つかるはずがなかっただろう。
なぜなら彼は、名無しの中にいた。
『…しかし、おぬしの隣にいる時が、一番名無しの世界が色鮮やかなのも事実だ』
黒いモヤは、少しずつ小さくなっていく。
『邪魔な鎖を付けよって。おかげでおぬしを喰らい殺す機会を逃してしもうたわ』
「何言ってるんですか、さっき」
『余は喰らおうとした。それを名無しが咄嗟に止めた。あとは、分かるだろう』
だから暴走した空間の歪みは最初に名無しを取り込んだ。つまり、そういうことだった。
「…本当に、命知らずっスね」
『全くだ。しっかり叱ってやってくれ』
「おや、一ツ目サンが叱ればいいじゃないっスか」
『余は、しばらく眠る』
霧が晴れるように消えていく足の影。
それはサラサラと砂が風に攫われるようだった。
『余は、本当はこの娘に拾われたあの日、消えるはずだったのだ。少しずつ、名無しの漏れた霊力を喰らいつつ、生き永らえた。…しばらく、眠る。その間、彼女を預けるぞ』
足の形は、もうない。
瞳がいくつも浮かんだ、特徴的な目玉が残っているだけ。
「二つ、聞いてもいいっスか。ボクに、彼女の過去を見せたのは?」
『同じ轍を、踏ませぬ…め、だ…。ゆめ、め、気をつけ…死神、ふぜい、…』
「…善処します」
浦原は小さく頷き、足元で眠る名無しの手をそっと握った。
「二つ目。あなたの『本体』は、もしかして」
『…かつ、て……、『…いお…う』と呼ばれた、こ…も、あった…な』
まさかとは、思った。
けれど、これで全て合点がつく。
底なしの霊力と霊圧。
まだ未成熟な小さな身体に不釣り合いな力は、『彼』が混ざり、融けて出来たものだった。
「…名無しサン、あなたは、とんでもない『人』を拾ったもんだ」
「ん…」
倒れている名無しの頬を撫でれば、ゆっくりと瞳が開かれた。
彼女の視界に映ったのは、浦原の姿と、消えかけている最後の『家族』の姿だった。
「あれ、一ツ目…?」
『…名無し』
「え?」
『……いっ、てらっ、しゃい』
そう言って、彼は空気に溶けるように消えていく。
――あぁ、最後に泣かしたかったわけじゃなかった。
いつでも、一緒だった。
孤独を埋め合うように、世界に棄てられた異形同士寄り添った。
今なら、わかる。
きっとカケラになったのは、この愛し子に出会うためだ・と。
余が、一度も口にしたことない見送るための言葉を言うと、彼女は一筋流した涙を力いっぱい拭い、眩しいくらいの笑顔で答えた。
「…いってきます!」
閉じられていた黒が、音を立てながら白く瞬いた。
***
「どうするんじゃ鉄裁。おぬしの鬼道でどうにかならんのか!」
「そうは言われましても」
悩む一匹と一人。
消えた空間を調べても、鬼道を放っても何も反応がなかった。
正直、お手上げだ。
そう二人が思った時だった。
「う、おっ…と!」
「スキあり!!」
何も無い空間から二人分の影が降ってくる。
背中から落下する浦原と、彼の帽子をもぎ取る名無し。
二人分の砂煙を上げて、無様に不時着をした。
「ズルいっスよ、名無しサン!あの流れで帽子を取るなんて」
「油断している浦原さんが悪いんですよ。これで最終レッスンもクリアですね」
浦原の上で馬乗りになり、満面の笑みで彼の帽子を誇るように被る。
浦原は「それもそうっスけどぉ…」と言いながら口先を尖らせていた。
「おぬしら、どこから降ってきた」
「あ、夜一さん。ただいま帰りました」
「いやぁ、ちょっと彼女の家族にご挨拶をしてきただけっスよ」
雨が、泣き止んだ。
「中々、すごいビジュアルだなぁ。あなた、名前は?」
『女子が、そんな口をきくでない』
「じゃあどうしろと」
『敬語で話せば育ちが良く見えるぞ』
「小学校入ってからは育ちはよかったはずなんだけどなぁ。はいはい、分かりましたよ。『一ツ目』」
『…なんだ、その名は』
「見たままですよ。足、って呼ぶよりはいいと思ったけど」
『…一ツ目でいい』
「よし。」
『名前など、付けられたのは初めてだ』
「ふぅん」
さぞかし、不便だったでしょう。
そう言って、目の前の小娘は笑った。
余と、この小娘の共同生活は、ちょうど一年だった。
anemone days#09
「一ツ目、あなたご飯ってどこから食べるんですか?」
そう言って名無しと名乗った小娘は振り返った。
『余に食事など不要だ』
「えー、それじゃあ作りがいがないですよー。何とか食べれるでしょ、気合で食べてくださいよ」
…中々無茶苦茶を言う娘だった。
「はい」
『…なんだこれは』
「肉じゃがです。知らないんですか?美味しいから食べてみて下さい」
『……』
足だった形を変え、口を作る。
空間を司る霊力をもってすれば、容易かった。
食事なんていつぶりだっただろうか。
まだ余が『 』で、本体と切り離されていなかった時の話。思わず気が遠くなりそうな昔の記憶だ。
「どう?」
『…悪くない』
この姿になって初めて食べた食事は、今までに喰らったどんな生き物の霊力より美味だった。
そう答えたら、少しだけ寂しそうに娘は笑った。
なぜそんな風に泣きそうな顔で笑うのか。
その時、余にはわからなかった。
***
忌引とやらが終わったら、学校というところに名無しは行かなければいけない。彼女の口からそう告げられた。
この家に、余がひとり。
それが無性に気に食わなく、前日の夜に学校用鞄の中に潜り込んだ。…居心地は、意外と悪くなかった。
学校とやらに到着し、余を見つけた時の名無しの反応は最高だった。
大きな黒い瞳は丸く見開かれ、呆然と鞄の中の余を見る顔はとても滑稽だった。
「どうしてついてきちゃったんですか」
『余をこの家に置いていくからだ』
家に帰ってから呆れたように問われ正直に答えれば、困ったように彼女は笑った。
「そうですね、留守番は…寂しいですもんね」
さみしい。
その感情はいまいち余には理解出来なかったが、確かに置いていかれるのは些か不満だった。
「学校で人目のあるところでは話しかけられないけど、大人しくしているならついてきていいですよ」と言われた。
なぜ、話しかけられないのかと問えば、顔をくしゃくしゃにして名無しは笑った。
彼女は、時々泣きそうな顔で笑う。どうしてだろう。
「あなたが見えるのは、普通じゃないんだって。変な子だと思われたら、この世の中生きづらいみたい」
だから、ごめんね。
泣きそうな顔で、謝られた。
その顔を見て、余も なんだか泣きたくなった。どうしてだろう。
それから、彼女と四季を過ごした。
冬。
コタツというものは温かく、人間・人外無差別に堕落させる大変危険な魔物だと知った。
師走の中頃に、余が出会った時に抱えていた祖父の遺骨を、墓に納めに二人で出かけた。
そこには二人分の名前が刻まれており、そっと彫られた名前をなぞった名無しの指先が微かに震えていたのをよく覚えている。
春。
桜の咲く丘にて、周りに人がいないのを確認したあと二人でお花見とやらをした。
「外で食べるお弁当は格別ですね」と名無しは言ったが…余は、正直違いがよく分からなかった。
不味いわけではない。名無しの作る食事はどれも美味かった。
どうやら、先に黄泉路へ発った祖母の遺した手帳を見て、覚え、作っているらしい。
最初に祖母から教わった料理は、肉じゃがだと言っていた。
初めて余が食べたときに寂しそうな顔で笑った理由が、なんとなく分かった…気がした。
夏。
暑いのは、どうやら嫌いらしい。
人間はどいつもこいつも暑そうに汗を流して大変そうだった。
この時期は妙に素麺が出る頻度が高かった。不満を言えばかき氷が出てきた。…そうじゃない。何か違う気がする。
「どうしてそんなに、真っ黒なのに暑くないの…」と恨めしそうに言われた。余はその言いがかりを少々理不尽だと思った。
好きでこの醜い姿でいるわけではないのに。酷い話だ。
夕暮れ時の買い物帰り、電柱に貼られていた町内主催の肝試しのビラを見て彼女は鼻で笑った。
「本当に怖いのはお化けや妖怪よりも、人間なのにね」
そう吐き捨てるように言った彼女の目は、どんなものよりも昏かった。
齢十五そこらの子供の目ではない。
どうしてそんな目をするのか、訊けなかった。
理由は…秋に分かった。
秋。
彼女の両親と名乗る男と女が家にやって来た。
親父の残した財産が・とか、どうしてお前なんかに・と聞いたことがない罵声を一方的に彼女は浴びせられた。
名無しは眉ひとつ動かさず、ただ黙って聞いていた。
それに痺れを切らした男が拳を振り上げれば、軽く倒れる彼女の身体。
お世辞にも大きいと言えない小さな身体は、板間に大きな音を立てて叩きつけられた。
余の、全身がざわつく。
彼女と出会う前は、無感情だった。
無機質な白黒の世界。理不尽に『本体』から切り離された余は、怖くなって逃げ出した。
彼女と出会ってからというものの、世界に鮮やかな色がついた。
こんなにも、世界は美しいのだと、教えてもらった…はずだった。
これは、知らない色だ。
黒く、淀んだ、濁った感情。まるで、余の身体のような色だった。
怒りに呼応するように揺れる影。使うことのなかった霊圧が溢れ出すような感覚。
そんな余を抑えるため、なのだろうか。
彼女以外の誰からも見られることも触れられることもないというのに、名無しは必死に余を背中の後ろで隠すように守っていた。
殴られて、罵られる度に身体が揺れる。
触れる指先がかつてない程に震えているのに、彼女は声ひとつ上げなかった。
嵐のような騒ぎが去った後、「びっくりさせて、ごめんね」と痛々しい青痣を作った顔で笑った。
余には、泣いているように見えた。
数日学校を休んだ後、怪我を担任に問い詰められた時、頑なに「階段から落ちました」と言い張っていたのは少し無理があるのではと思った。
そして冬が近づいてきた、霜月のこと。
その日は、雨だった。
余と名無しが会った日のように。
月に一度、月命日に墓参りを欠かさなかった名無し。
これで余がこの墓前に来るのは、12回目だ。つまり、彼女と出会ってから一年が経った。
いつも、日本酒でフランベを初めてやってみた、
カレーはスパイスから作ると意外と難しいだとか、
余は…一ツ目はオクラが苦手らしい、だとか。
くだらない話題を楽しそうに報告しているだけだった墓参り。
いつも通り丁寧に墓掃除を行ったあと、墓前にしゃがみ込んで手を合わせる名無し。
いつもならここで話し出すのだが、今日は違った。
傘をさしているのに、足元の余に雨がひと粒落ちる。
あたたかくて、少しだけ塩味の雨。
見上げれば、くしゃくしゃになった泣き顔の彼女がそこにいた。
最初は声を押し殺して泣いていたのに、途中から脇目もはばからず声を上げて泣きじゃくった。
轟々と降り注ぐ雨が嗚咽をかき消していく。
黒いモヤを伸ばして涙を拭おうとしても、余がその雫に触れることは出来なくて。
何だか無性に、泣きたくなった。
***
「名無しサン、」
手を伸ばしても、するりとすり抜ける手。
まるで自分が幽霊になったように、彼女の過去を追体験している。
子供のように泣きじゃくる彼女を見てしまった。
見たくなかった。
『…まだ、続きがある』
***
何も言わず、鼻を啜りながら帰る、帰り道。
余がいた世界もロクなものではなかった。
霊力を抑えるという理由で無残に四肢と心臓をもがれたあと、『祀る』とは名ばかりの幽閉。
手足は自由になったと聞こえはいいが、本体の身体に近づけさせないようにバラバラに各地へ棄てられた。
両手と、両足と、心臓。
それぞれ宿る霊力は違えども、元はと言えば、余も『人間』だったことを思い出した。
世界の安定という大義名分を掲げ、余を天空へ縛り付けたのが死神だということも。
だからこそ、この泣きじゃくる人の子がいとしくて、仕方なかった。
空間を司るこの力を、この娘に。
彼女を悲しませる世界から、どこか遠くへ逃げられるように。
いつしかそう思うようになっていた。
***
『そうして貴様が開けたほんの僅かな歪みに、余の霊力を捩じ込み、彼女の中で眠りについた』
浦原の前には、足の形をした影。
ゴポリと沼地のように時々泡を吹く姿は、まさに異形だった。
彼――名無しに一ツ目と呼ばれ続けた『ソレ』は、ゆらりと儚げに揺らめく。
彼の足元には、死んだように眠る名無しがいた。
『そこからはおぬしがよく知っておるだろう』
「そりゃもう」
『余は、死神が憎い。人間も憎い』
「…そうでしょうね」
『余は、おぬしが一番嫌いな男だ。もう泣かせまいとあちらの世界から逃がしたというのに、この娘を、泣かした。』
「ボクもその節は反省してるっス」
もしかして、彼女が元の世界に帰りたかった理由は、彼だったのだろうか。
仮に元の世界に戻ったとして、探しても見つかるはずがなかっただろう。
なぜなら彼は、名無しの中にいた。
『…しかし、おぬしの隣にいる時が、一番名無しの世界が色鮮やかなのも事実だ』
黒いモヤは、少しずつ小さくなっていく。
『邪魔な鎖を付けよって。おかげでおぬしを喰らい殺す機会を逃してしもうたわ』
「何言ってるんですか、さっき」
『余は喰らおうとした。それを名無しが咄嗟に止めた。あとは、分かるだろう』
だから暴走した空間の歪みは最初に名無しを取り込んだ。つまり、そういうことだった。
「…本当に、命知らずっスね」
『全くだ。しっかり叱ってやってくれ』
「おや、一ツ目サンが叱ればいいじゃないっスか」
『余は、しばらく眠る』
霧が晴れるように消えていく足の影。
それはサラサラと砂が風に攫われるようだった。
『余は、本当はこの娘に拾われたあの日、消えるはずだったのだ。少しずつ、名無しの漏れた霊力を喰らいつつ、生き永らえた。…しばらく、眠る。その間、彼女を預けるぞ』
足の形は、もうない。
瞳がいくつも浮かんだ、特徴的な目玉が残っているだけ。
「二つ、聞いてもいいっスか。ボクに、彼女の過去を見せたのは?」
『同じ轍を、踏ませぬ…め、だ…。ゆめ、め、気をつけ…死神、ふぜい、…』
「…善処します」
浦原は小さく頷き、足元で眠る名無しの手をそっと握った。
「二つ目。あなたの『本体』は、もしかして」
『…かつ、て……、『…いお…う』と呼ばれた、こ…も、あった…な』
まさかとは、思った。
けれど、これで全て合点がつく。
底なしの霊力と霊圧。
まだ未成熟な小さな身体に不釣り合いな力は、『彼』が混ざり、融けて出来たものだった。
「…名無しサン、あなたは、とんでもない『人』を拾ったもんだ」
「ん…」
倒れている名無しの頬を撫でれば、ゆっくりと瞳が開かれた。
彼女の視界に映ったのは、浦原の姿と、消えかけている最後の『家族』の姿だった。
「あれ、一ツ目…?」
『…名無し』
「え?」
『……いっ、てらっ、しゃい』
そう言って、彼は空気に溶けるように消えていく。
――あぁ、最後に泣かしたかったわけじゃなかった。
いつでも、一緒だった。
孤独を埋め合うように、世界に棄てられた異形同士寄り添った。
今なら、わかる。
きっとカケラになったのは、この愛し子に出会うためだ・と。
余が、一度も口にしたことない見送るための言葉を言うと、彼女は一筋流した涙を力いっぱい拭い、眩しいくらいの笑顔で答えた。
「…いってきます!」
閉じられていた黒が、音を立てながら白く瞬いた。
***
「どうするんじゃ鉄裁。おぬしの鬼道でどうにかならんのか!」
「そうは言われましても」
悩む一匹と一人。
消えた空間を調べても、鬼道を放っても何も反応がなかった。
正直、お手上げだ。
そう二人が思った時だった。
「う、おっ…と!」
「スキあり!!」
何も無い空間から二人分の影が降ってくる。
背中から落下する浦原と、彼の帽子をもぎ取る名無し。
二人分の砂煙を上げて、無様に不時着をした。
「ズルいっスよ、名無しサン!あの流れで帽子を取るなんて」
「油断している浦原さんが悪いんですよ。これで最終レッスンもクリアですね」
浦原の上で馬乗りになり、満面の笑みで彼の帽子を誇るように被る。
浦原は「それもそうっスけどぉ…」と言いながら口先を尖らせていた。
「おぬしら、どこから降ってきた」
「あ、夜一さん。ただいま帰りました」
「いやぁ、ちょっと彼女の家族にご挨拶をしてきただけっスよ」
雨が、泣き止んだ。