芒種の死
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「名無し、起きてる?」
ノックをする。
当然だが返事はなく、今や彼女一人だけになってしまった女子寮は不気味な程静まり返っていた。
ドアノブを無遠慮に回せば呆気なく開くドア。
不用心にも程があると呆れたらいいのか、それともそんな余裕すらなく部屋へ転がり帰ったのか。恐らく後者だろう。
鼻腔を刺すようなツンとした臭いと、嗅ぎなれてしまった血の匂い。
入ってすぐ右手にある洗面台の方から咳き込むような音が聞こえ、五条は靴を適当に脱ぎ散らかし、挨拶ひとつなく上がり込む。
洗面台の前で嘔吐き、吐瀉物が撒かれる音。
半袖から伸びる腕には自分で巻き直したのだろう。不格好な包帯が巻かれ、洗面ボウルの縁をようようと掴んでいた。
「けほっ……できれば、部屋に入って欲しくないんですけど」
「大丈夫だよ。無下限あるし」
蛇口を捻り、水と共に排水口へ流れされていく吐瀉物は胃液のみで、薄まり、渦巻き、吐き出された消化液はあっという間に流れていった。
五条は気にする様子もなく、ただ労わるように背中を摩る。
勝手に部屋へ上がり込んできたことへ文句の一つ二つ飛んでくるかと思ったが、名無しもそんな気力はないらしい。
大人しく背中を摩られたまま口元を乱雑にすすぎ、洗面台にかけてあったタオルを掴んだ。
「ゲロの一つ二つで幻滅しないから大丈夫だよ。」
「私が大丈夫じゃないです……」
鏡に映る名無しの顔色は死人のようだった。
顔の目立った外傷はもうないが、毒を受けたであろう腕は赤黒く変色したままだ。
不老不死と言えども毒で『死なない』というだけで、その痛みは死んだ方がマシといえるようなものだってある。
ギリシャ神話ではケイローンが毒に耐えきれず、不老不死を返上する逸話すら存在するのだから。
「出すもの出してスッキリした?」
「い、言い方……」
ぬいぐるみを抱えるように抱き上げれば、いつもよりも随分軽い気がして五条は眉をそっと顰めた。
名無しはというと膿んだ腕を隠すように身を縮こませ、普段なら『降ろしてください』と喚くところを大人しく抱えられる。
明かりもろくにつけていない部屋は薄暗く、見ているだけで陰鬱な気分になる。
もうすっかり夜なのでカーテンを開けたところで光は差し込まないのだが、空気の入れ替えはした方がいいだろう。
五条は勝手知ったる様子で窓を開ければ、雨上がりの湿り気を帯びた夜の空気が、ひやりと部屋へ流れ込んでくる。
草の濡れた、土の匂い。
山の香りに混じって、アスファルトの湿っぽい匂いがカーテンを揺らす。
初夏の香りを孕んだ雨と夜の匂いが、名無しの部屋に立ち込めていた死の匂いを数分足らずで攫って行った。
「五条さん、お仕事は」
「今日の分はおしまい。事情聴取も兼ねて、今からは可愛い生徒の看病だよ」
ベッドに横たわった名無しは深く息を吸い込んでいた口元をキュッと結ぶ。
対して五条はというと、勉強机に備え付けられていた安っぽいワーキングチェアに深く腰かけ、滲み出る怒気を隠すことなく口を開いた。
「で?なんで撤退拒否したの?」
偽りの、上がってきた報告。
これに動揺する素振りでもあれば、容赦なく例の逃げ帰った二級呪術師を罰することが出来る。
……なのに、まるで予想していたと言わんばかりに、眉ひとつ名無しは動かさないではないか。
五条はそっと溜息をついて、言葉を続けた。
「同行していた二級呪術師は撤退命令下したはずだよね。二級以下の術師の単独行動は原則禁止なのは名無しも知っているよね?」
知っている。二級呪術師から上がってきた報告が恐らく嘘であることを。
多少無茶はするものの、名無しは自ら無謀な深追いはしない賢い子だと、五条は知っている。
指一本動かせなくなる程、我武者羅に祓った理由があることも。
この問いかけに彼女が『デタラメだ』と異を唱えるだけで証拠は揃う。
例え旧歓楽街だとしても監視カメラの一つ二つはあるのだ。
音声は拾えなくとも、呪霊が映らずとも、二級呪術師の男が命からがら逃げ出した様子だけは残っているのだから。
だというのに、あろう事か。
「帳が解けていたので、一般人に被害が及ばないようあの場で全て祓うのが最善だと判断しました。命令違反と、規則違反の件は……申し訳ございません」
ベッドから起き上がり頭を下げる生徒の姿を見て、五条の表情は完全に虚を突かれたものだった。
「他に弁明は?」
「ありません。」
どこまでも清廉に、真っ直ぐに。
嘘を嘘だと思わせない、淀みのない声と瞳。
間違いなく誠実なのに、どうしようもない嘘つきなのだ。彼女は。
二律背反しているような性質。それを『矛盾している』と他人に思わせない程に、彼女の嘘には濁りがなかった。
何故なら、彼女が吐き出す嘘は大抵『誰かを庇うための嘘』なのだ。
いらぬ心配をかけさせぬよう。誰かが罰せられぬよう。はたまた、余計な敵を作らないように。
処世術というにはあまりに不器用で利他的な思考に、彼女とそこそこの付き合いを重ねた五条ですら「はー…」と呆れたように溜息を吐き出した。
「言い方変えようか。僕に隠し事、してない?」
初めて向けられた、五条の冷ややかな声。
布団の上に置いていた名無しの指先が、見逃してしまいそうになるくらい僅かに跳ねる。
「……、」
「言っておくけど、僕結構怒ってるからね。」
「命令違反と、単独行動がですか?」
「いんや。その二つは最善の判断だと思うよ、僕は」
呪霊を祓う。
呪術師として『それ』が一番最優先される使命と考える者は、意外と少なくない。
……勿論それで死んでしまっては元も子もないのだが。
しかしこうして祓いきった。
名無し自身の負傷は兎も角、実際に術師二人であたる任務を単独でこなした結果もある。
彼女は、弱くない。
むしろどんな相手でも《死なない》というメリットのようなデメリットを顧みれば、どんな状況下でも粘り勝ちで生き残ることも可能だろう。
特級呪術師・五条悟から見れば、彼女の『三級』という階級は過小評価だと考えているし、むしろ名無しは自分と同じで『単独行動の方が真価を発揮するタイプ』だと思っている。
「でもね、」
それとこれとは、訳が違う。
「大事な子を侮辱されてもへらへら笑っていられる程、僕も大人じゃないってことだよ。」
思慮深い。
大人びている。
達観した考えを持つ彼女は『いい生徒』であると同時に、どうしようもなくもどかしくもなる時がある。
いっそ子供のように喚き、我儘を振りかざし、泣いてくれた方がよかったのに。
五条は半ば呆れたように息を吐き、小さく首を傾げる。
「それでも話す気はない?」
「……はい。」
躊躇うような沈黙の後、出てきた答えは頑なな返事。
力ずくで言うことをきかせることも出来なくもないが、それは五条の本意ではない。
そもそも誰よりも頑固で辛抱強い彼女にそれを強いたところで、折れる姿を全く想像出来ないのだが。
本当に、困ったものだ。
「我慢強いのも考えものだよね」
芒種の死#03
お手上げと言わんばかりに手を挙げ、苦笑いを浮かべる五条。
名無しはただ口を噤み、静かに視線を落とすのであった。
ノックをする。
当然だが返事はなく、今や彼女一人だけになってしまった女子寮は不気味な程静まり返っていた。
ドアノブを無遠慮に回せば呆気なく開くドア。
不用心にも程があると呆れたらいいのか、それともそんな余裕すらなく部屋へ転がり帰ったのか。恐らく後者だろう。
鼻腔を刺すようなツンとした臭いと、嗅ぎなれてしまった血の匂い。
入ってすぐ右手にある洗面台の方から咳き込むような音が聞こえ、五条は靴を適当に脱ぎ散らかし、挨拶ひとつなく上がり込む。
洗面台の前で嘔吐き、吐瀉物が撒かれる音。
半袖から伸びる腕には自分で巻き直したのだろう。不格好な包帯が巻かれ、洗面ボウルの縁をようようと掴んでいた。
「けほっ……できれば、部屋に入って欲しくないんですけど」
「大丈夫だよ。無下限あるし」
蛇口を捻り、水と共に排水口へ流れされていく吐瀉物は胃液のみで、薄まり、渦巻き、吐き出された消化液はあっという間に流れていった。
五条は気にする様子もなく、ただ労わるように背中を摩る。
勝手に部屋へ上がり込んできたことへ文句の一つ二つ飛んでくるかと思ったが、名無しもそんな気力はないらしい。
大人しく背中を摩られたまま口元を乱雑にすすぎ、洗面台にかけてあったタオルを掴んだ。
「ゲロの一つ二つで幻滅しないから大丈夫だよ。」
「私が大丈夫じゃないです……」
鏡に映る名無しの顔色は死人のようだった。
顔の目立った外傷はもうないが、毒を受けたであろう腕は赤黒く変色したままだ。
不老不死と言えども毒で『死なない』というだけで、その痛みは死んだ方がマシといえるようなものだってある。
ギリシャ神話ではケイローンが毒に耐えきれず、不老不死を返上する逸話すら存在するのだから。
「出すもの出してスッキリした?」
「い、言い方……」
ぬいぐるみを抱えるように抱き上げれば、いつもよりも随分軽い気がして五条は眉をそっと顰めた。
名無しはというと膿んだ腕を隠すように身を縮こませ、普段なら『降ろしてください』と喚くところを大人しく抱えられる。
明かりもろくにつけていない部屋は薄暗く、見ているだけで陰鬱な気分になる。
もうすっかり夜なのでカーテンを開けたところで光は差し込まないのだが、空気の入れ替えはした方がいいだろう。
五条は勝手知ったる様子で窓を開ければ、雨上がりの湿り気を帯びた夜の空気が、ひやりと部屋へ流れ込んでくる。
草の濡れた、土の匂い。
山の香りに混じって、アスファルトの湿っぽい匂いがカーテンを揺らす。
初夏の香りを孕んだ雨と夜の匂いが、名無しの部屋に立ち込めていた死の匂いを数分足らずで攫って行った。
「五条さん、お仕事は」
「今日の分はおしまい。事情聴取も兼ねて、今からは可愛い生徒の看病だよ」
ベッドに横たわった名無しは深く息を吸い込んでいた口元をキュッと結ぶ。
対して五条はというと、勉強机に備え付けられていた安っぽいワーキングチェアに深く腰かけ、滲み出る怒気を隠すことなく口を開いた。
「で?なんで撤退拒否したの?」
偽りの、上がってきた報告。
これに動揺する素振りでもあれば、容赦なく例の逃げ帰った二級呪術師を罰することが出来る。
……なのに、まるで予想していたと言わんばかりに、眉ひとつ名無しは動かさないではないか。
五条はそっと溜息をついて、言葉を続けた。
「同行していた二級呪術師は撤退命令下したはずだよね。二級以下の術師の単独行動は原則禁止なのは名無しも知っているよね?」
知っている。二級呪術師から上がってきた報告が恐らく嘘であることを。
多少無茶はするものの、名無しは自ら無謀な深追いはしない賢い子だと、五条は知っている。
指一本動かせなくなる程、我武者羅に祓った理由があることも。
この問いかけに彼女が『デタラメだ』と異を唱えるだけで証拠は揃う。
例え旧歓楽街だとしても監視カメラの一つ二つはあるのだ。
音声は拾えなくとも、呪霊が映らずとも、二級呪術師の男が命からがら逃げ出した様子だけは残っているのだから。
だというのに、あろう事か。
「帳が解けていたので、一般人に被害が及ばないようあの場で全て祓うのが最善だと判断しました。命令違反と、規則違反の件は……申し訳ございません」
ベッドから起き上がり頭を下げる生徒の姿を見て、五条の表情は完全に虚を突かれたものだった。
「他に弁明は?」
「ありません。」
どこまでも清廉に、真っ直ぐに。
嘘を嘘だと思わせない、淀みのない声と瞳。
間違いなく誠実なのに、どうしようもない嘘つきなのだ。彼女は。
二律背反しているような性質。それを『矛盾している』と他人に思わせない程に、彼女の嘘には濁りがなかった。
何故なら、彼女が吐き出す嘘は大抵『誰かを庇うための嘘』なのだ。
いらぬ心配をかけさせぬよう。誰かが罰せられぬよう。はたまた、余計な敵を作らないように。
処世術というにはあまりに不器用で利他的な思考に、彼女とそこそこの付き合いを重ねた五条ですら「はー…」と呆れたように溜息を吐き出した。
「言い方変えようか。僕に隠し事、してない?」
初めて向けられた、五条の冷ややかな声。
布団の上に置いていた名無しの指先が、見逃してしまいそうになるくらい僅かに跳ねる。
「……、」
「言っておくけど、僕結構怒ってるからね。」
「命令違反と、単独行動がですか?」
「いんや。その二つは最善の判断だと思うよ、僕は」
呪霊を祓う。
呪術師として『それ』が一番最優先される使命と考える者は、意外と少なくない。
……勿論それで死んでしまっては元も子もないのだが。
しかしこうして祓いきった。
名無し自身の負傷は兎も角、実際に術師二人であたる任務を単独でこなした結果もある。
彼女は、弱くない。
むしろどんな相手でも《死なない》というメリットのようなデメリットを顧みれば、どんな状況下でも粘り勝ちで生き残ることも可能だろう。
特級呪術師・五条悟から見れば、彼女の『三級』という階級は過小評価だと考えているし、むしろ名無しは自分と同じで『単独行動の方が真価を発揮するタイプ』だと思っている。
「でもね、」
それとこれとは、訳が違う。
「大事な子を侮辱されてもへらへら笑っていられる程、僕も大人じゃないってことだよ。」
思慮深い。
大人びている。
達観した考えを持つ彼女は『いい生徒』であると同時に、どうしようもなくもどかしくもなる時がある。
いっそ子供のように喚き、我儘を振りかざし、泣いてくれた方がよかったのに。
五条は半ば呆れたように息を吐き、小さく首を傾げる。
「それでも話す気はない?」
「……はい。」
躊躇うような沈黙の後、出てきた答えは頑なな返事。
力ずくで言うことをきかせることも出来なくもないが、それは五条の本意ではない。
そもそも誰よりも頑固で辛抱強い彼女にそれを強いたところで、折れる姿を全く想像出来ないのだが。
本当に、困ったものだ。
「我慢強いのも考えものだよね」
芒種の死#03
お手上げと言わんばかりに手を挙げ、苦笑いを浮かべる五条。
名無しはただ口を噤み、静かに視線を落とすのであった。