五条悟の引越し事情
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五条が引越しして、一週間ほど経ったある日。
日課である朝のランニングから戻れば、こんな早朝から高専に伊地知がいるではないか。
まだ時刻は6時を過ぎたばかり。いつもの彼なら朝の7時頃から高専へ出勤しているはず。
……それでも十分早いのだが、今日は輪をかけて早い。
「伊地知さん、おはようございます。」
「あぁ、ななしさん。おはようございます。」
一介の生徒にも丁寧に挨拶を返してくれる伊地知の表情には、少しだけ焦りが見えた。
「どうかされたんですか?」と単刀直入に問えば、伊地知は困ったようにくしゃりと笑い、「それが…」と話を切り出した。
「7時にここを出発して、五条さんと任務に行く予定なのですが……その、朝から返信どころか既読もつかなくて。」
「昨日の夕飯の後、新作の映画観ちゃお〜って言ってましたよ?寝坊してるのかもしれませんね」
「え。」
名無しが昨夜の事を思い出しながら伊地知へ話せば、生真面目な彼は眼鏡の奥の表情を強ばらせる。
五条が寝坊しているであろうことに胃を痛めている──と名無しは考えていたのだが、実際の所はそうではない。
(……最近、家入さんがよく酒を片手に出入りしていることは知っていましたが…五条さんもですか…)
伊地知の先輩であり、五条と家入の後輩である一級呪術師が知ったら呆れ返りそうな話だ。
しかし肝心の名無しが全く意に介していない。
だからこそ余計に諸先輩方へ苦言を申し上げることは、伊地知に出来るはずもなかった。胃に穴があいてしまう。
「?、どうかされました?」
「い、いえ。まだ寝ていらっしゃるんですかね…困ったな……」
「起こしましょうか?」
「え!?」
伊地知は、面食らった。
あの特級理不尽術師を叩き起こすなんて、そんな芸当が出来る人間は高専の中で数人しかいない。
強いて言うなら同級生である家入と、元担任である夜蛾くらいなものだが……家入は女性であり憧れの先輩で、夜蛾は伊地知よりもずっと立場の偉い学長だ。
二人に頼めば呆れながら起こしてくれるかもしれないが、その後のしっぺ返しを想像しただけで卒倒出来た。しっぺ返しの具体例を述べるなら、五条からの嫌味とか。
「先日合鍵を『預かって』と渡されたので。何か嫌味を言われたら『ななしがどうしても』の一点張りでいきましょう」
伊地知は思った。
天使がいる、と。
あと『生徒に鍵を預けないでください』と。
五条悟の引越し事情#後日談
「五条さん、おはようございます。起きていらっしゃいますか?」
ななしさんの細い指が学生寮よりも新しい作りのドアを軽く叩く。
心臓がバクバク煩いのは、常日頃から胃痛の原因になっている先輩の不機嫌を買うかもしれないというストレスからか。
いや。でもここで放っておけば後々のスケジュールが全て乱れてしまう。
進むも地獄、退くも地獄。……私、前世で何かやらかしました?
勿論、五条さんに嫌味を言われたところでななしさんを盾にするつもりは毛頭ないのだが、それでも彼女が提案してくれた建設的な意見に浅はかにも飛びついてしまった。
鳩尾の奥がキリキリと痛む気がして、私はそっと両手で抑える。
「返事がないですね…」と肩を竦めながらななしさんは苦笑いを浮かべる。
交換して間もないのだろう。鍵穴周りに傷一つない錠に鍵を差し込めば、カチャンと軽い音を立ててロックが外れた。
……現代最強呪術師の住まいのセキュリティがこんなにザルでいいのか、なんて思うが、寝込みを襲われてもあの人なら寝ながらでも返り討ちにしてしまうのだろう。私は考えるのをやめた。無駄な問答だった。
「お邪魔します。」
律儀に声を掛け、靴を揃えるななしさん。
トテトテと靴下一枚纏った足音を静かに立てながら、寝室に向かう足運びは一切の澱みがない。
ドアを開けっ放しにしているのも気が引けてしまい、玄関先で大人しく立ち尽くす。
新品の家具の匂いと、五条さんが好んでつけている香水の匂いが僅かに漂う。
玄関から真っ直ぐ伸びた廊下の先は寝室で、開け放たれたドアから五条さんを起こすななしさんの姿が見えた。
「五条さん、おはようございます。起きてください、朝ですよ。」
「んー…」
子供を起こす母親のように、柔らかそうな上掛け越しに五条さんの身体を揺するななしさん。
いや、母親というより、どちらかというと──
……なんだか見てはいけない光景な気がして、私は玄関のタイルへ視線を落とした。
「ふぁ」と呑気な欠伸。
車中でよく聞く退屈そうなそれよりも、ふわふわとした眠気を含んだ音。
「おはよ、名無し。」
「おはようございます。伊地知さんが起きていらっしゃるか心配されてましたよ。」
「ん。」
柔らかい声。
いつも私に向けられている人をおちょくったものではなく、あたたかい陽だまりのように春を呼ぶような声音。
この人もこんな風にやわらかく人に接することが出来るのかと大変失礼な事を考えてしまうが、恐らく、多分、きっとこれはななしさん専用なのだろう。
この態度を例えるとして、猫を被る……という表現は相応しくない。
私をおちょくる五条さんも、家入さんに対して砕けた態度をとる五条さんも、呪霊や呪詛師に対して冷淡な表情を浮かべる五条さんも、全て本当の『五条悟』という人柄だ。
良くも悪くも最強であるが故に、他人に対して気を遣うことがない彼は、誰かに対して過大評価や過小評価もすることがなければ、必要以上に優しくすることもない。
だからこそななしさんに向けられたやわらかい声は、きっと彼の一番あたたかな部分なのだろう。
ひと握りでもその優しさを他の人へ向けることが出来れば──なんて願いは、ないものねだりだ。
それはそれで気味が悪いので、やはり五条さんは今のままでいいのかもしれない。
そんな失礼なことを考えながら、革靴の先に出来た傷をぼんやりと見ていると、ななしさんのものよりも重たい足音がのしのしと近づいてくる気配がした。
「おはよ、伊地知」
「おはようございます。すみません、お疲れのところ」
「いや、全〜然いいよん」
顔を上げれば、我が目を疑った。
寝癖にひとつついていない髪。きちんと洗われた顔。
服さえ着てしまえばすぐに出掛けられるような──いや、気のせいか。
……いいや、気のせいじゃない。
「名無し〜、僕支度してるから朝ごはん作って♡」
「いいですけど……豪華なものは出来ませんよ。伊地知さんも待っていらっしゃるし」
「大丈夫。出発は7時でしょ?」
「え、えぇ。まぁ」
歯切れの悪い返事を返せば、ななしさんは「分かりました」と二つ返事でパンをトースターに入れ、フライパンと卵、ベーコンを片手にキッチンへ向かった。
……支度と言っても、着替えるくらいだろうに。きっと歯磨きも一度済ませているに違いない。
呆れた私の顔を見て、五条さんが含み笑いを浮かべる。
ななしさんが困った私を見かねて、五条さんを起こしに来てくれるだろうという、偶然に近い予想をしていたというなら心底恐ろしい。六眼は千里眼の一種だっただろうか?
「……私、五条さんが怖くなってきました…」
「僕はここまで距離感バグらせてるのに全然気づいてくれない名無しの方が怖いけどね。」
いや、それも怖い話ですけど。
それより生徒に合鍵を持たせないでください。
喉まで出かかった言葉を私は呑み込む。
代わりに「……車でお待ちしていますので、準備が出来たらいらしてください」と溜息混じりに項垂れる私を見て、五条さんは珍しく朝から機嫌良さそうに笑うのであった。
日課である朝のランニングから戻れば、こんな早朝から高専に伊地知がいるではないか。
まだ時刻は6時を過ぎたばかり。いつもの彼なら朝の7時頃から高専へ出勤しているはず。
……それでも十分早いのだが、今日は輪をかけて早い。
「伊地知さん、おはようございます。」
「あぁ、ななしさん。おはようございます。」
一介の生徒にも丁寧に挨拶を返してくれる伊地知の表情には、少しだけ焦りが見えた。
「どうかされたんですか?」と単刀直入に問えば、伊地知は困ったようにくしゃりと笑い、「それが…」と話を切り出した。
「7時にここを出発して、五条さんと任務に行く予定なのですが……その、朝から返信どころか既読もつかなくて。」
「昨日の夕飯の後、新作の映画観ちゃお〜って言ってましたよ?寝坊してるのかもしれませんね」
「え。」
名無しが昨夜の事を思い出しながら伊地知へ話せば、生真面目な彼は眼鏡の奥の表情を強ばらせる。
五条が寝坊しているであろうことに胃を痛めている──と名無しは考えていたのだが、実際の所はそうではない。
(……最近、家入さんがよく酒を片手に出入りしていることは知っていましたが…五条さんもですか…)
伊地知の先輩であり、五条と家入の後輩である一級呪術師が知ったら呆れ返りそうな話だ。
しかし肝心の名無しが全く意に介していない。
だからこそ余計に諸先輩方へ苦言を申し上げることは、伊地知に出来るはずもなかった。胃に穴があいてしまう。
「?、どうかされました?」
「い、いえ。まだ寝ていらっしゃるんですかね…困ったな……」
「起こしましょうか?」
「え!?」
伊地知は、面食らった。
あの特級理不尽術師を叩き起こすなんて、そんな芸当が出来る人間は高専の中で数人しかいない。
強いて言うなら同級生である家入と、元担任である夜蛾くらいなものだが……家入は女性であり憧れの先輩で、夜蛾は伊地知よりもずっと立場の偉い学長だ。
二人に頼めば呆れながら起こしてくれるかもしれないが、その後のしっぺ返しを想像しただけで卒倒出来た。しっぺ返しの具体例を述べるなら、五条からの嫌味とか。
「先日合鍵を『預かって』と渡されたので。何か嫌味を言われたら『ななしがどうしても』の一点張りでいきましょう」
伊地知は思った。
天使がいる、と。
あと『生徒に鍵を預けないでください』と。
五条悟の引越し事情#後日談
「五条さん、おはようございます。起きていらっしゃいますか?」
ななしさんの細い指が学生寮よりも新しい作りのドアを軽く叩く。
心臓がバクバク煩いのは、常日頃から胃痛の原因になっている先輩の不機嫌を買うかもしれないというストレスからか。
いや。でもここで放っておけば後々のスケジュールが全て乱れてしまう。
進むも地獄、退くも地獄。……私、前世で何かやらかしました?
勿論、五条さんに嫌味を言われたところでななしさんを盾にするつもりは毛頭ないのだが、それでも彼女が提案してくれた建設的な意見に浅はかにも飛びついてしまった。
鳩尾の奥がキリキリと痛む気がして、私はそっと両手で抑える。
「返事がないですね…」と肩を竦めながらななしさんは苦笑いを浮かべる。
交換して間もないのだろう。鍵穴周りに傷一つない錠に鍵を差し込めば、カチャンと軽い音を立ててロックが外れた。
……現代最強呪術師の住まいのセキュリティがこんなにザルでいいのか、なんて思うが、寝込みを襲われてもあの人なら寝ながらでも返り討ちにしてしまうのだろう。私は考えるのをやめた。無駄な問答だった。
「お邪魔します。」
律儀に声を掛け、靴を揃えるななしさん。
トテトテと靴下一枚纏った足音を静かに立てながら、寝室に向かう足運びは一切の澱みがない。
ドアを開けっ放しにしているのも気が引けてしまい、玄関先で大人しく立ち尽くす。
新品の家具の匂いと、五条さんが好んでつけている香水の匂いが僅かに漂う。
玄関から真っ直ぐ伸びた廊下の先は寝室で、開け放たれたドアから五条さんを起こすななしさんの姿が見えた。
「五条さん、おはようございます。起きてください、朝ですよ。」
「んー…」
子供を起こす母親のように、柔らかそうな上掛け越しに五条さんの身体を揺するななしさん。
いや、母親というより、どちらかというと──
……なんだか見てはいけない光景な気がして、私は玄関のタイルへ視線を落とした。
「ふぁ」と呑気な欠伸。
車中でよく聞く退屈そうなそれよりも、ふわふわとした眠気を含んだ音。
「おはよ、名無し。」
「おはようございます。伊地知さんが起きていらっしゃるか心配されてましたよ。」
「ん。」
柔らかい声。
いつも私に向けられている人をおちょくったものではなく、あたたかい陽だまりのように春を呼ぶような声音。
この人もこんな風にやわらかく人に接することが出来るのかと大変失礼な事を考えてしまうが、恐らく、多分、きっとこれはななしさん専用なのだろう。
この態度を例えるとして、猫を被る……という表現は相応しくない。
私をおちょくる五条さんも、家入さんに対して砕けた態度をとる五条さんも、呪霊や呪詛師に対して冷淡な表情を浮かべる五条さんも、全て本当の『五条悟』という人柄だ。
良くも悪くも最強であるが故に、他人に対して気を遣うことがない彼は、誰かに対して過大評価や過小評価もすることがなければ、必要以上に優しくすることもない。
だからこそななしさんに向けられたやわらかい声は、きっと彼の一番あたたかな部分なのだろう。
ひと握りでもその優しさを他の人へ向けることが出来れば──なんて願いは、ないものねだりだ。
それはそれで気味が悪いので、やはり五条さんは今のままでいいのかもしれない。
そんな失礼なことを考えながら、革靴の先に出来た傷をぼんやりと見ていると、ななしさんのものよりも重たい足音がのしのしと近づいてくる気配がした。
「おはよ、伊地知」
「おはようございます。すみません、お疲れのところ」
「いや、全〜然いいよん」
顔を上げれば、我が目を疑った。
寝癖にひとつついていない髪。きちんと洗われた顔。
服さえ着てしまえばすぐに出掛けられるような──いや、気のせいか。
……いいや、気のせいじゃない。
「名無し〜、僕支度してるから朝ごはん作って♡」
「いいですけど……豪華なものは出来ませんよ。伊地知さんも待っていらっしゃるし」
「大丈夫。出発は7時でしょ?」
「え、えぇ。まぁ」
歯切れの悪い返事を返せば、ななしさんは「分かりました」と二つ返事でパンをトースターに入れ、フライパンと卵、ベーコンを片手にキッチンへ向かった。
……支度と言っても、着替えるくらいだろうに。きっと歯磨きも一度済ませているに違いない。
呆れた私の顔を見て、五条さんが含み笑いを浮かべる。
ななしさんが困った私を見かねて、五条さんを起こしに来てくれるだろうという、偶然に近い予想をしていたというなら心底恐ろしい。六眼は千里眼の一種だっただろうか?
「……私、五条さんが怖くなってきました…」
「僕はここまで距離感バグらせてるのに全然気づいてくれない名無しの方が怖いけどね。」
いや、それも怖い話ですけど。
それより生徒に合鍵を持たせないでください。
喉まで出かかった言葉を私は呑み込む。
代わりに「……車でお待ちしていますので、準備が出来たらいらしてください」と溜息混じりに項垂れる私を見て、五条さんは珍しく朝から機嫌良さそうに笑うのであった。
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