雪白と帰り花
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甘い、香り。
体の奥が疼くような香気と、思考の奥が明瞭になっていくような生気に目を細めた。
「……味はただの生き血だな。」
呪力が満ちるまで飲み干せば、腕の中に抱いた名無しは生白い顔で小さく息を吐いた。
本来ならば指一本分だけの呪力しかない仮初の肉体だが──どうしたものか。
(血眼で追われるわけだ。)
千年前は八百比丘尼の血を一度も啜ることがなかった。……正しくは『そんな必要がなかった』。
それ自体の恩恵は理解していても『だからどうした』としか感想を抱いていなかったのも、また事実である。
しかし世の呪霊や呪詛師、呪術師共はコレを間違いなく欲しがるだろう。
その理由は今この身をもって体感している。
「どうした。へばったか?」
血が足りぬのか、ぐったりと額を預けて息も絶え絶えの名無し。
状況が状況でなければ抱き潰して身体を暴いてやるのだが、実に残念だ。
俺の挑発に対し、不服そうな表情で顔を上げる。
曇りひとつないない黒曜石のような瞳へ、久方ぶりに映る己の姿を見つけ俺はつい口角が上がってしまった。
「そんなわけ、ないでしょう」
「ケヒッ、精々足掻け足掻け。」
しぶとさは健在らしい。
切れ切れの呼吸で息を整えながら、力を振り絞り立ち上がる姿はいっそ手折りたくなる。
今回だけ、その限りではないが。
「一度きりだ。機を逃すなよ?」
雪白と帰り花#06
何ml啜ったんだろう、あの人は。
自ら提案したとはいえ、寒気がする程に血を吸われ目眩がする。
当人は『腹が満たされた』といった様子で、満足そうに笑うばかり。
「しっかり、働いてくださいよ」
「有象無象の呪霊など取るに足らんが、まぁいいだろう。馳走になったしな。」
両面宿儺に抱えられて山肌を駆け下りた場所は、拓けた湖の畔。
機嫌がいいのか丁寧に降ろされる身体。
地面の冷たさも最早感じず、肺に取り込む空気だけが酷く冷たく思えた。
「ふん、そうこなくてはな。」
両面宿儺の視線の先。
ひい、ふう、み……数えるのも馬鹿らしくなる程の、呪霊の群れ。
取るに足らない低級呪霊から、見るからに危険な呪物を具現化した呪霊まで選り取りみどりだ。
──しかし。一時的とはいえ本来の呪力を僅かながらも取り戻した『彼』にとって、こんな呪霊を薙ぎ払うこと自体造作もないことだろう。
肩に付着した埃を払うように。テーブルに撒いた粉砂糖を一息で吹き飛ばすように。
両手を合わせ、組まれる印。
それは一言で喩えるなら、まさに神業。
「領域展開。──『伏魔御厨子』」
結界で空間を分断しない『領域展開』。
必中効果範囲内にある呪力のない無機質物へ『解』を。
呪力を僅かでも帯びたものに対しては『捌』を。
万死の厨房が消えるまで絶え間なく浴びせられる無数の斬撃が、文字通り辺りを『一掃した』。
草木も、木々も、路傍の石すら。
言うまでもないが勿論呪霊も、だ。
核になった呪物はそこに『在った』ことすら許されず、塵一つ残すことなく吹き飛んだ。
悲鳴を上げる間すら与えられず、無慈悲に。
──縛りの効果で生き残っているのは、ある意味皮肉かもしれない。
呪霊の群れに身を潜めていた呪詛師だけが、荒野の中で立ち尽くす。
目の前で起きた地獄絵図を受け入れられないのか、糸のように細かった目元は大きく見開かれ、返り血を浴びてガタガタと震えていた。
「ひ、ぃ…!こんな、『指』が、ッこんな代物だとは聞いていないぞ!」
誰に文句をつけているのか、乾いた寒空へ声を張り上げる。
即時に不利だと悟った男は山伏の着物が乱れることも厭わなず、背中を向けて走り出した。
『縛り』がある為、実際のところ呪詛師にとって両面宿儺自体は驚異にならない。
何故なら彼から直接手を下されることは絶対に有り得ないから。
──しかし絶対的な強さを目の当たりにした呪詛師は失念していた。
怯えきった表情で駆け出す姿は、出会った当初の余裕が微塵も見当たらない。
「おうおう、走れ走れ。お前が逃げ果せるか小娘が射止めるか、賭けてみるか?」
「ん。いや、賭けにならんか」と面白そうに呟く両面宿儺の声は耳へ届いているが、返事をしない。返事を返さない。
失血で途切れそうな意識を繋ぎ止める行為は、まるで細い絹糸を手繰り寄せるようなものだ。
集中が極地に至り、無音になった世界。
射抜く一撃は、より硬く、より鋭く。
逃げる呪詛師の背。ただその一点へ狙いを定め、
大きく息を吸い、呪力を込める。
「……逃がすわけ、ないでしょう、がっ!」
オリンピックの槍投げ競技も、今なら出られるかもしれない。
逃げる男の軌道を読み、硬度を最大にまで上げた氷槍を投擲する。
足りない筋力を補うため、呪力で身体強化した反動だろう。筋肉の筋がバチンと事切れる音が身体の中で響く。
いい。腕の一本くらいくれてやろうじゃないか。
***
「手ぬるいな。」
「殺したら、色々聞き出せませんから」
目視でおおよそ100m先。凍りついた湖畔の淵。
呪詛師の脇腹を抉った氷槍を抜きながら、両面宿儺が退屈そうに首を鳴らす。
ドクドクと流れる鮮やかな赤を一瞥して、私は今にも失神してしまいそうなくらい震えている呪詛師を見下ろした。
「なに、何が知りたい!?…っ教えたら、助けてくれるのか!?」
「内容によります。当然ですが、なんの成果も得られない情報だったら話は別ですけど」
こっちも身の安全がかかっている。
なるべく殺生はしたくないけれど、残念ながら私は博愛主義でも平和主義でもないのだから。
「ここに私が来るって、誰に聞いたんですか。誰の差し金です?」
私が恐山に来た時、確かに男は『ホントに来た。』と笑っていた。
考えられるのは2つだが……。
特級呪物である『八百比丘尼』が欲しかっただけ。
もう1つ考えられるのは、誰かに雇われた可能性がある──ということだ。
しかし彼は『金は貰った』と口にしていた。
つまり、正解は後者。
そして呪物の回収任務を知っているということは、高専関係者から情報が漏洩している可能性が濃厚だろう。
思いもよらぬ人物からか、はたまた任務の情報を共有している補助監督からかもしれない。
勿論、五条さんが毛嫌いしている上層部から『嫌がらせ』で呪詛師へ情報を売られた可能性もある。
……内輪を疑いたくないが、仕方ない。
そう簡単に特級呪物を呪術師として認められるわけがない。むしろそんな奇特な人物は少数派だろう。
そんなことは分かっていた。予想していた。覚悟していた。
けれど、そう。
ほんの少しだけ、
(いやだな。)
どう足掻いても水面に出られない、泥中で溺れているような息苦しさ。
人のかたちをした異形なんて、なりたくてなったわけじゃない。
「雇い主は、」
男が、口を開く。
だが続けられるはずだった言葉は空を切り、青白がった呪詛師の顔色は血色さえ完全に消え失せた。
止まる、呼吸。
男のヒューヒューと喉を擦るような息遣いすら静寂へ変わる。
それと入れ替わるように聞こえてきたのは、チクタクチクタクと刻む時計の音。
いつだったか。五条さんの家で見た、世紀末感溢れるアクション映画。
そう。時限爆弾は確かこんな音で──
「何の音」
だ。
続けられるはずだった両面宿儺の言葉を遮り、腕を引く。
──湖畔の側で良かった。
凍った水面が先程の領域展開で砕かれていて良かった。
不幸中の幸いとはこういうことを言うのだろう。
隆々とした身体を押し倒すように湖へ飛び込む。
氷が痛いだとか、水を飲んでしまっただとか、冷たくて風邪を引いてしまいそうだとか。
色々思うところはけれど。
今は、水中の中まで響いた爆発音に目を瞑りながら、離さまいとしがみついた腕へなけなしの力を思い切り込めた。
体の奥が疼くような香気と、思考の奥が明瞭になっていくような生気に目を細めた。
「……味はただの生き血だな。」
呪力が満ちるまで飲み干せば、腕の中に抱いた名無しは生白い顔で小さく息を吐いた。
本来ならば指一本分だけの呪力しかない仮初の肉体だが──どうしたものか。
(血眼で追われるわけだ。)
千年前は八百比丘尼の血を一度も啜ることがなかった。……正しくは『そんな必要がなかった』。
それ自体の恩恵は理解していても『だからどうした』としか感想を抱いていなかったのも、また事実である。
しかし世の呪霊や呪詛師、呪術師共はコレを間違いなく欲しがるだろう。
その理由は今この身をもって体感している。
「どうした。へばったか?」
血が足りぬのか、ぐったりと額を預けて息も絶え絶えの名無し。
状況が状況でなければ抱き潰して身体を暴いてやるのだが、実に残念だ。
俺の挑発に対し、不服そうな表情で顔を上げる。
曇りひとつないない黒曜石のような瞳へ、久方ぶりに映る己の姿を見つけ俺はつい口角が上がってしまった。
「そんなわけ、ないでしょう」
「ケヒッ、精々足掻け足掻け。」
しぶとさは健在らしい。
切れ切れの呼吸で息を整えながら、力を振り絞り立ち上がる姿はいっそ手折りたくなる。
今回だけ、その限りではないが。
「一度きりだ。機を逃すなよ?」
雪白と帰り花#06
何ml啜ったんだろう、あの人は。
自ら提案したとはいえ、寒気がする程に血を吸われ目眩がする。
当人は『腹が満たされた』といった様子で、満足そうに笑うばかり。
「しっかり、働いてくださいよ」
「有象無象の呪霊など取るに足らんが、まぁいいだろう。馳走になったしな。」
両面宿儺に抱えられて山肌を駆け下りた場所は、拓けた湖の畔。
機嫌がいいのか丁寧に降ろされる身体。
地面の冷たさも最早感じず、肺に取り込む空気だけが酷く冷たく思えた。
「ふん、そうこなくてはな。」
両面宿儺の視線の先。
ひい、ふう、み……数えるのも馬鹿らしくなる程の、呪霊の群れ。
取るに足らない低級呪霊から、見るからに危険な呪物を具現化した呪霊まで選り取りみどりだ。
──しかし。一時的とはいえ本来の呪力を僅かながらも取り戻した『彼』にとって、こんな呪霊を薙ぎ払うこと自体造作もないことだろう。
肩に付着した埃を払うように。テーブルに撒いた粉砂糖を一息で吹き飛ばすように。
両手を合わせ、組まれる印。
それは一言で喩えるなら、まさに神業。
「領域展開。──『伏魔御厨子』」
結界で空間を分断しない『領域展開』。
必中効果範囲内にある呪力のない無機質物へ『解』を。
呪力を僅かでも帯びたものに対しては『捌』を。
万死の厨房が消えるまで絶え間なく浴びせられる無数の斬撃が、文字通り辺りを『一掃した』。
草木も、木々も、路傍の石すら。
言うまでもないが勿論呪霊も、だ。
核になった呪物はそこに『在った』ことすら許されず、塵一つ残すことなく吹き飛んだ。
悲鳴を上げる間すら与えられず、無慈悲に。
──縛りの効果で生き残っているのは、ある意味皮肉かもしれない。
呪霊の群れに身を潜めていた呪詛師だけが、荒野の中で立ち尽くす。
目の前で起きた地獄絵図を受け入れられないのか、糸のように細かった目元は大きく見開かれ、返り血を浴びてガタガタと震えていた。
「ひ、ぃ…!こんな、『指』が、ッこんな代物だとは聞いていないぞ!」
誰に文句をつけているのか、乾いた寒空へ声を張り上げる。
即時に不利だと悟った男は山伏の着物が乱れることも厭わなず、背中を向けて走り出した。
『縛り』がある為、実際のところ呪詛師にとって両面宿儺自体は驚異にならない。
何故なら彼から直接手を下されることは絶対に有り得ないから。
──しかし絶対的な強さを目の当たりにした呪詛師は失念していた。
怯えきった表情で駆け出す姿は、出会った当初の余裕が微塵も見当たらない。
「おうおう、走れ走れ。お前が逃げ果せるか小娘が射止めるか、賭けてみるか?」
「ん。いや、賭けにならんか」と面白そうに呟く両面宿儺の声は耳へ届いているが、返事をしない。返事を返さない。
失血で途切れそうな意識を繋ぎ止める行為は、まるで細い絹糸を手繰り寄せるようなものだ。
集中が極地に至り、無音になった世界。
射抜く一撃は、より硬く、より鋭く。
逃げる呪詛師の背。ただその一点へ狙いを定め、
大きく息を吸い、呪力を込める。
「……逃がすわけ、ないでしょう、がっ!」
オリンピックの槍投げ競技も、今なら出られるかもしれない。
逃げる男の軌道を読み、硬度を最大にまで上げた氷槍を投擲する。
足りない筋力を補うため、呪力で身体強化した反動だろう。筋肉の筋がバチンと事切れる音が身体の中で響く。
いい。腕の一本くらいくれてやろうじゃないか。
***
「手ぬるいな。」
「殺したら、色々聞き出せませんから」
目視でおおよそ100m先。凍りついた湖畔の淵。
呪詛師の脇腹を抉った氷槍を抜きながら、両面宿儺が退屈そうに首を鳴らす。
ドクドクと流れる鮮やかな赤を一瞥して、私は今にも失神してしまいそうなくらい震えている呪詛師を見下ろした。
「なに、何が知りたい!?…っ教えたら、助けてくれるのか!?」
「内容によります。当然ですが、なんの成果も得られない情報だったら話は別ですけど」
こっちも身の安全がかかっている。
なるべく殺生はしたくないけれど、残念ながら私は博愛主義でも平和主義でもないのだから。
「ここに私が来るって、誰に聞いたんですか。誰の差し金です?」
私が恐山に来た時、確かに男は『ホントに来た。』と笑っていた。
考えられるのは2つだが……。
特級呪物である『八百比丘尼』が欲しかっただけ。
もう1つ考えられるのは、誰かに雇われた可能性がある──ということだ。
しかし彼は『金は貰った』と口にしていた。
つまり、正解は後者。
そして呪物の回収任務を知っているということは、高専関係者から情報が漏洩している可能性が濃厚だろう。
思いもよらぬ人物からか、はたまた任務の情報を共有している補助監督からかもしれない。
勿論、五条さんが毛嫌いしている上層部から『嫌がらせ』で呪詛師へ情報を売られた可能性もある。
……内輪を疑いたくないが、仕方ない。
そう簡単に特級呪物を呪術師として認められるわけがない。むしろそんな奇特な人物は少数派だろう。
そんなことは分かっていた。予想していた。覚悟していた。
けれど、そう。
ほんの少しだけ、
(いやだな。)
どう足掻いても水面に出られない、泥中で溺れているような息苦しさ。
人のかたちをした異形なんて、なりたくてなったわけじゃない。
「雇い主は、」
男が、口を開く。
だが続けられるはずだった言葉は空を切り、青白がった呪詛師の顔色は血色さえ完全に消え失せた。
止まる、呼吸。
男のヒューヒューと喉を擦るような息遣いすら静寂へ変わる。
それと入れ替わるように聞こえてきたのは、チクタクチクタクと刻む時計の音。
いつだったか。五条さんの家で見た、世紀末感溢れるアクション映画。
そう。時限爆弾は確かこんな音で──
「何の音」
だ。
続けられるはずだった両面宿儺の言葉を遮り、腕を引く。
──湖畔の側で良かった。
凍った水面が先程の領域展開で砕かれていて良かった。
不幸中の幸いとはこういうことを言うのだろう。
隆々とした身体を押し倒すように湖へ飛び込む。
氷が痛いだとか、水を飲んでしまっただとか、冷たくて風邪を引いてしまいそうだとか。
色々思うところはけれど。
今は、水中の中まで響いた爆発音に目を瞑りながら、離さまいとしがみついた腕へなけなしの力を思い切り込めた。