榛と白露
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出回ってしまった『八百比丘尼の血』。
使い捨ての特級呪物なんて、ろくな事を考えていない老害共や呪詛師からしたら最高の道具であることは間違いない。
「大丈夫?名無し。」
寮の部屋で床に座り込み、ベッドに背中を預けていた彼女に声をかけた。
「大丈夫ですよ。まぁ…制服は全然無事じゃないんですけど…」
肩から肺の下まで袈裟斬りになったらしい。
痛々しいまでにボロ布と化した制服は、今頃厳重に処理されているだろう。
「僕が言ってるのはそっちじゃないよ。」
賢い彼女が僕の言葉の意図を理解していないわけがない。
確信を持ってそう答えれば、困ったように名無しが笑う。
「今更、泣いても喚いても、どうにもなりませんから」
諦めた言葉。
現状、確かに出来ることといえば尻拭いという名の対症療法だけ。
名無しのその正論としか言いようがない言葉は、とても淡白だ。
きっとそれは他人に向けられることは滅多にないのだろう。
本当に彼女が諦めているのは、自分自身なのかもしれない。
「……呪い、強くなるんですかね。」
小さく溜息をつきながら彼女が呟く。
「見ての通りだよ。」
「人が、死ぬんでしょうか。」
「最悪の場合はね。」
「呪詛師は、どうなるんでしょうね。」
「さぁ。確かめたくない例だよねぇ」
「私」
「言っておくけど、名無しのせいじゃないからね。」
口を開いた瞬間、僕は人差し指で名無しの声を遮る。
指の腹とやわらかい唇が重なり、続けられそうになった言葉をふわりと塞いだ。
くしゃりと、困ったように笑う。
彼女の笑顔はとても好きなはずなのに、泣きそうな顔で笑うこの表情はどうにも好きになれなかった。
「七海さんと、同じこと言われるんですね」
「え〜。僕とキャラ被ってるじゃん」
「いえ…七海さんの方が随分落ち着いていらっしゃいますから違うと思います」
バカ真面目にピシャリと一刀両断するが、どうもいつもよりも覇気がない。
どうしようもないのは事実なのだが、それが割り切れる程名無しも『大人』ではなかった。
「矛盾しているんだけどさぁ、」
名無しのベッドに腰を掛けながら、僕は天井を仰ぐ。
床に座り込んだままの彼女が、ゆるりと顔を上げたのを視界の端で確認しながら。
「僕、名無しがしんどい目に遭うのは嫌なんだよね。怪我しちゃったりとかさ」
「怪我はすぐ治るのでどうってことは、」
「でも、痛いものは痛いでしょ?」
そう問えば固く口を噤む名無し。
分かっている。
あれは『痛みに多少慣れている』だけで、痛くないわけがないのだ。
出会った時に刺さっていた鉄杭を抜いた時の、くぐもった声は未だに覚えている。
「痛みに目を瞑るのは感心しないな。身体も心も痛覚っていうのは自分から発信されるシグナルだからね」
痛みは、生きている証だ。
その痛みに当人が目も耳も塞いだら、誰がその痛みに手を伸ばしてくれるというのだろうか。
「でも呪術師であるからには、怪我もするし叫びたいくらい嫌な目にあうこともあると思うんだよねぇ。ま、その道を薦めたのは僕なんだけど」
本当に矛盾している。
まともな呪術師を育てたい五条悟と、この子に傷付いて欲しくないと願う五条悟。
どちらも本心だし、どちらも譲り難い。
だから、僕は名無しに選ばせた。
自分でも嫌になるくらい……本当に、狡くて、嫌な大人だ。
だから人は『ろくでなし』と言うのだろうけど。全くその通りだよ。
「泣いても喚いても確かに現実は変わらないけど、名無しが『嫌だな〜しんどいな〜痛いな〜』って思ったことは、どんな小さなことでもいいから教えて欲しいな。ほら、僕そーゆー他人の痛みに疎いらしいから」
二度と同じ轍を踏ままいと気をつけてはいるが、どうしてもやはり不安になる。
あんな風に、突然の離別はもう御免だ。
「……五条さんも、気持ちがしんどい時ってあるんですか?」
「あるよ。今一番しんどいな〜って思うのは、名無しが一人でしんどい思いしてることかな。」
「なんですか、それ。」と小さく笑い、名無しはそっと掃き出し窓の方へ視線を向ける。
すっかり日が落ち、十六夜月がうっすらと木々のシルエットを浮かび上がらせていた。
ほんの少しだけ開けた窓の隙間から秋独特の夜風が吹き込み、シンプルなカーテンの裾を踊らせる。
「……髪は使い物にならなかったんですけど、血は使えたみたいでやたらと抜かれたんですよね」
「うん。」
「血がギリギリまでなくなると、息が苦しくなって、呼吸がしたいのに出来なくなって、意識もずっとぼんやりしてくるんです。手足もびっくりするくらい、冷たくなって、ずっとずっと寒くて、」
そっと吐き出される溜息。
それは震える声を落ち着かせる為に一息ついたのか、続く言葉を見失ったのか。
顔を背けたまま、雨粒が落ちるように少しずつ紡がれる『名無しの痛み』。
彼女の口から弱音が滑り落ちるのは本当に珍しかった。
それと同時に少しだけ『嬉しい』だなんて思うのは、我ながら性悪だと自覚している。
だって仕方ないじゃないか。頼られるのが嬉しいだなんて感じるのは、この子が初めてなんだから。
一呼吸、二呼吸。
薄い唇の間から吸っては吐き出される息。
それはか細く。感嘆の色を含んでいて。
白い膝を抱えながら彼女はポツリと呟いた。
「――私が苦しむだけだったなら、よかったのに」
自分の痛みを後回しにするくせに他人の痛みにはやたらと敏感なのは、僕から言わせてみれば本当に悪癖だ。
心根が痛いほどに真っ直ぐでやさしい彼女の在り方そのものだから、無粋な指摘なんてことはしないが――
(もう少しその熱を、自分にも分けてあげたらいいのに)
しかし、これが今の彼女に出せる精一杯のSOS。
『私が苦しむだけだったなら』という言葉が何よりもの証拠だ。
「そっか。痛かったね。」
「……痛かったんだと、思います。」
少しでも自分の痛みに向き合えたなら、一歩前進だと褒めてあげていいだろう。
表情が見えないままの後ろ頭にぽすりと手を置けば、やわらかい黒髪が指の間を滑った。
榛と白露#08
「今回もよく頑張ったね。七海、褒めてたよ。」
「ちゃんと、五条先生の自慢の生徒でいられましたかね?」
「バッチリ。先生、花丸あげちゃうよ」
いつも通りの軽口を叩きながら頭を撫で回せば「先生、髪がくしゃくしゃになるじゃないですか」と、彼女がそっと笑う声がした。
使い捨ての特級呪物なんて、ろくな事を考えていない老害共や呪詛師からしたら最高の道具であることは間違いない。
「大丈夫?名無し。」
寮の部屋で床に座り込み、ベッドに背中を預けていた彼女に声をかけた。
「大丈夫ですよ。まぁ…制服は全然無事じゃないんですけど…」
肩から肺の下まで袈裟斬りになったらしい。
痛々しいまでにボロ布と化した制服は、今頃厳重に処理されているだろう。
「僕が言ってるのはそっちじゃないよ。」
賢い彼女が僕の言葉の意図を理解していないわけがない。
確信を持ってそう答えれば、困ったように名無しが笑う。
「今更、泣いても喚いても、どうにもなりませんから」
諦めた言葉。
現状、確かに出来ることといえば尻拭いという名の対症療法だけ。
名無しのその正論としか言いようがない言葉は、とても淡白だ。
きっとそれは他人に向けられることは滅多にないのだろう。
本当に彼女が諦めているのは、自分自身なのかもしれない。
「……呪い、強くなるんですかね。」
小さく溜息をつきながら彼女が呟く。
「見ての通りだよ。」
「人が、死ぬんでしょうか。」
「最悪の場合はね。」
「呪詛師は、どうなるんでしょうね。」
「さぁ。確かめたくない例だよねぇ」
「私」
「言っておくけど、名無しのせいじゃないからね。」
口を開いた瞬間、僕は人差し指で名無しの声を遮る。
指の腹とやわらかい唇が重なり、続けられそうになった言葉をふわりと塞いだ。
くしゃりと、困ったように笑う。
彼女の笑顔はとても好きなはずなのに、泣きそうな顔で笑うこの表情はどうにも好きになれなかった。
「七海さんと、同じこと言われるんですね」
「え〜。僕とキャラ被ってるじゃん」
「いえ…七海さんの方が随分落ち着いていらっしゃいますから違うと思います」
バカ真面目にピシャリと一刀両断するが、どうもいつもよりも覇気がない。
どうしようもないのは事実なのだが、それが割り切れる程名無しも『大人』ではなかった。
「矛盾しているんだけどさぁ、」
名無しのベッドに腰を掛けながら、僕は天井を仰ぐ。
床に座り込んだままの彼女が、ゆるりと顔を上げたのを視界の端で確認しながら。
「僕、名無しがしんどい目に遭うのは嫌なんだよね。怪我しちゃったりとかさ」
「怪我はすぐ治るのでどうってことは、」
「でも、痛いものは痛いでしょ?」
そう問えば固く口を噤む名無し。
分かっている。
あれは『痛みに多少慣れている』だけで、痛くないわけがないのだ。
出会った時に刺さっていた鉄杭を抜いた時の、くぐもった声は未だに覚えている。
「痛みに目を瞑るのは感心しないな。身体も心も痛覚っていうのは自分から発信されるシグナルだからね」
痛みは、生きている証だ。
その痛みに当人が目も耳も塞いだら、誰がその痛みに手を伸ばしてくれるというのだろうか。
「でも呪術師であるからには、怪我もするし叫びたいくらい嫌な目にあうこともあると思うんだよねぇ。ま、その道を薦めたのは僕なんだけど」
本当に矛盾している。
まともな呪術師を育てたい五条悟と、この子に傷付いて欲しくないと願う五条悟。
どちらも本心だし、どちらも譲り難い。
だから、僕は名無しに選ばせた。
自分でも嫌になるくらい……本当に、狡くて、嫌な大人だ。
だから人は『ろくでなし』と言うのだろうけど。全くその通りだよ。
「泣いても喚いても確かに現実は変わらないけど、名無しが『嫌だな〜しんどいな〜痛いな〜』って思ったことは、どんな小さなことでもいいから教えて欲しいな。ほら、僕そーゆー他人の痛みに疎いらしいから」
二度と同じ轍を踏ままいと気をつけてはいるが、どうしてもやはり不安になる。
あんな風に、突然の離別はもう御免だ。
「……五条さんも、気持ちがしんどい時ってあるんですか?」
「あるよ。今一番しんどいな〜って思うのは、名無しが一人でしんどい思いしてることかな。」
「なんですか、それ。」と小さく笑い、名無しはそっと掃き出し窓の方へ視線を向ける。
すっかり日が落ち、十六夜月がうっすらと木々のシルエットを浮かび上がらせていた。
ほんの少しだけ開けた窓の隙間から秋独特の夜風が吹き込み、シンプルなカーテンの裾を踊らせる。
「……髪は使い物にならなかったんですけど、血は使えたみたいでやたらと抜かれたんですよね」
「うん。」
「血がギリギリまでなくなると、息が苦しくなって、呼吸がしたいのに出来なくなって、意識もずっとぼんやりしてくるんです。手足もびっくりするくらい、冷たくなって、ずっとずっと寒くて、」
そっと吐き出される溜息。
それは震える声を落ち着かせる為に一息ついたのか、続く言葉を見失ったのか。
顔を背けたまま、雨粒が落ちるように少しずつ紡がれる『名無しの痛み』。
彼女の口から弱音が滑り落ちるのは本当に珍しかった。
それと同時に少しだけ『嬉しい』だなんて思うのは、我ながら性悪だと自覚している。
だって仕方ないじゃないか。頼られるのが嬉しいだなんて感じるのは、この子が初めてなんだから。
一呼吸、二呼吸。
薄い唇の間から吸っては吐き出される息。
それはか細く。感嘆の色を含んでいて。
白い膝を抱えながら彼女はポツリと呟いた。
「――私が苦しむだけだったなら、よかったのに」
自分の痛みを後回しにするくせに他人の痛みにはやたらと敏感なのは、僕から言わせてみれば本当に悪癖だ。
心根が痛いほどに真っ直ぐでやさしい彼女の在り方そのものだから、無粋な指摘なんてことはしないが――
(もう少しその熱を、自分にも分けてあげたらいいのに)
しかし、これが今の彼女に出せる精一杯のSOS。
『私が苦しむだけだったなら』という言葉が何よりもの証拠だ。
「そっか。痛かったね。」
「……痛かったんだと、思います。」
少しでも自分の痛みに向き合えたなら、一歩前進だと褒めてあげていいだろう。
表情が見えないままの後ろ頭にぽすりと手を置けば、やわらかい黒髪が指の間を滑った。
榛と白露#08
「今回もよく頑張ったね。七海、褒めてたよ。」
「ちゃんと、五条先生の自慢の生徒でいられましたかね?」
「バッチリ。先生、花丸あげちゃうよ」
いつも通りの軽口を叩きながら頭を撫で回せば「先生、髪がくしゃくしゃになるじゃないですか」と、彼女がそっと笑う声がした。