紫黒の雨水
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俺が『ななし名無し』という人物の、知っていること。
高専の寮母。
一級呪術師。
飯が美味しい。
『妙なもの』に呪われている。
それから――
紫黒の雨水#04
なんて事ない、身代金が目当てだったようだ。
高専の最寄り駅を降りれば、伽藍堂の無人駅。
人気もない、駅員もいない。
あるのは葉擦れの音。
人慣れした地域猫。
噎せ返るような雑草の匂い。
鼓膜を劈く蝉の鳴き声。
『買い出し終わったら、ついでに駅まで迎えに行くから待っててね。暑いから水分補給も忘れずに!』
そんなメッセージが名無しから飛んできたのは、電車に揺られている時だった。
駅に降り立ち、蜘蛛の巣が張られた古めかしい自販機からスポーツ飲料をひとつ。
それと、差し入れ用に無難な緑茶をひとつ買えば、自販機の取り出し口がゴトンゴトンと音を立てた。
日陰に入って名無しを待つ。
ありふれた夏の一幕。
日常になりつつある高専へ向かう道中の景色。
汗ばんだTシャツが気持ち悪くて、裾を掴んでパタパタと空気を送り込んでいた。
その時だった。
手入れが行き届いていない山から、人影が一つ。
何処かの民族が彫ったような奇妙な面を被り、その手には鈍色の鉾。
ガタイのいい大男の風貌は、そこら辺の一般人とは一線を画していた。
目を凝らさなくても分かる。
男の持っている鉾は、呪具だ。
「お前が、禪院家のガキか。」
面の下でくぐもった声が聞こえる。
明らかに俺へ向けられた敵意。
問いではなく『確認』のような口振り。
俺は玉犬を喚ぶべく、手を咄嗟に組んだ時だった。
ジャラリと耳障りな鎖の音。
左手首は呆気なく拘束され、無様にも焼けついたコンクリートの上に引きずり倒された。
「兄者ァ!捕まえた、捕まえた!これで身代金がっぽりだな!」
もう一人。
鉾を持った男と対になる面をつけた男が、反対の茂みから顔を出した。
禪院家。
身代金。
呪具。
少なくとも高専の関係者ではない。
――これが、俺が初めて見た『呪詛師』だった。
「暴れられたら困るからなァ。手足のどれか切り落としておくか?」
呪詛師の兄が、鉾を振り上げる。
鋭い切っ先がカンカン照りの太陽に反射して鈍く光り、それが酷く眩しかったことを覚えている。
「白昼堂々誘拐とは恐れ入る。」
涼やかな、声。
陽炎が揺れる景色の向こうで、クロックスをペタペタと鳴らしながら歩くのは――
「名無し!逃げ」
ろ。
咄嗟に出た言葉を遮ったのは、鉾を蹴り上げる音。
瞬きをした刹那、数十メートル離れていたところから目の前にいたのだ。
脱ぎ捨てられたクロックスだけが、名無しがいた場所へころりと転がっている。
生白い脚が目の前でハイキックを繰り出す様を、俺はただ呆然と見惚けてしまった。
「こ、このガキがどうなってもいいのか!?」
呪詛師の弟であろう男が鎖を引けば、半袖で露出した俺の腕がコンクリートへ深く擦れた。
バキン。
――状況の整理が追いつかない。
俺と呪詛師を繋いでいた鎖が、まるで切れ味のいい包丁で大根を真っ二つに切ったように壊れた。
鎖を断ったのは勿論包丁ではない。
いや、包丁の方がもっと理にかなっていただろう。
僅かに白く濁った水。
俺が落としたスポーツ飲料の中身。
名無しが缶を拾い上げたところまでは目で追えていた。
スポーツ飲料水が氷になり、刃になり、鎖を断ち切る。
術式なのだろうが、精度がおかしい。
呪いを付与された鉄の鎖を、氷が切るなんて。
「こ、の!死ね!」
呪詛師の兄の方から、響く銃声。
ドラマの中でしか聞いたことなかった音は立て続けに鳴り、実際に聞くと耳の鼓膜が破れそうになるもので。
今思えば『呪詛師のくせに実際の拳銃を持っているなんて』
『あれは対人の奥の手だったのかもしれない』
『銃自体に呪いが付与されていたのかも』とか、色々思うところはある。
しかし、その時の俺は目の前に飛び散る赤に、思考が真っ白になった。
腹部に一発。
足に一発。
そして、頭に一発。
知り合って一年も満たない彼女が、凶弾に撃ち抜かれた様を今でも鮮明に思い出せる。
「ッ……名無し!」
「は、はは!ざまぁみろ!」
蹴り飛ばされた呪具を拾い上げながら、呪詛師の兄が声を上げる。
撃ち抜かれた身体はアスファルトに倒れ――
「痛いなぁ、もう。」
先程銃弾が撃ち抜いた側頭部に指を差し込まれる。
真っ赤に染った指が摘んでいるのは鉛玉。
頭を撃ち抜かれたというのに出血量が比較的少ないのも異常だ。その分野が素人の俺でも分かる。
「大丈夫だよ、伏黒くん。」
何がどう、大丈夫なのか。
その意味を理解する前に、名無しは申し訳なさそうに小さく笑った。
「ごめんね。」
高専の寮母。
一級呪術師。
飯が美味しい。
『妙なもの』に呪われている。
それから――
紫黒の雨水#04
なんて事ない、身代金が目当てだったようだ。
高専の最寄り駅を降りれば、伽藍堂の無人駅。
人気もない、駅員もいない。
あるのは葉擦れの音。
人慣れした地域猫。
噎せ返るような雑草の匂い。
鼓膜を劈く蝉の鳴き声。
『買い出し終わったら、ついでに駅まで迎えに行くから待っててね。暑いから水分補給も忘れずに!』
そんなメッセージが名無しから飛んできたのは、電車に揺られている時だった。
駅に降り立ち、蜘蛛の巣が張られた古めかしい自販機からスポーツ飲料をひとつ。
それと、差し入れ用に無難な緑茶をひとつ買えば、自販機の取り出し口がゴトンゴトンと音を立てた。
日陰に入って名無しを待つ。
ありふれた夏の一幕。
日常になりつつある高専へ向かう道中の景色。
汗ばんだTシャツが気持ち悪くて、裾を掴んでパタパタと空気を送り込んでいた。
その時だった。
手入れが行き届いていない山から、人影が一つ。
何処かの民族が彫ったような奇妙な面を被り、その手には鈍色の鉾。
ガタイのいい大男の風貌は、そこら辺の一般人とは一線を画していた。
目を凝らさなくても分かる。
男の持っている鉾は、呪具だ。
「お前が、禪院家のガキか。」
面の下でくぐもった声が聞こえる。
明らかに俺へ向けられた敵意。
問いではなく『確認』のような口振り。
俺は玉犬を喚ぶべく、手を咄嗟に組んだ時だった。
ジャラリと耳障りな鎖の音。
左手首は呆気なく拘束され、無様にも焼けついたコンクリートの上に引きずり倒された。
「兄者ァ!捕まえた、捕まえた!これで身代金がっぽりだな!」
もう一人。
鉾を持った男と対になる面をつけた男が、反対の茂みから顔を出した。
禪院家。
身代金。
呪具。
少なくとも高専の関係者ではない。
――これが、俺が初めて見た『呪詛師』だった。
「暴れられたら困るからなァ。手足のどれか切り落としておくか?」
呪詛師の兄が、鉾を振り上げる。
鋭い切っ先がカンカン照りの太陽に反射して鈍く光り、それが酷く眩しかったことを覚えている。
「白昼堂々誘拐とは恐れ入る。」
涼やかな、声。
陽炎が揺れる景色の向こうで、クロックスをペタペタと鳴らしながら歩くのは――
「名無し!逃げ」
ろ。
咄嗟に出た言葉を遮ったのは、鉾を蹴り上げる音。
瞬きをした刹那、数十メートル離れていたところから目の前にいたのだ。
脱ぎ捨てられたクロックスだけが、名無しがいた場所へころりと転がっている。
生白い脚が目の前でハイキックを繰り出す様を、俺はただ呆然と見惚けてしまった。
「こ、このガキがどうなってもいいのか!?」
呪詛師の弟であろう男が鎖を引けば、半袖で露出した俺の腕がコンクリートへ深く擦れた。
バキン。
――状況の整理が追いつかない。
俺と呪詛師を繋いでいた鎖が、まるで切れ味のいい包丁で大根を真っ二つに切ったように壊れた。
鎖を断ったのは勿論包丁ではない。
いや、包丁の方がもっと理にかなっていただろう。
僅かに白く濁った水。
俺が落としたスポーツ飲料の中身。
名無しが缶を拾い上げたところまでは目で追えていた。
スポーツ飲料水が氷になり、刃になり、鎖を断ち切る。
術式なのだろうが、精度がおかしい。
呪いを付与された鉄の鎖を、氷が切るなんて。
「こ、の!死ね!」
呪詛師の兄の方から、響く銃声。
ドラマの中でしか聞いたことなかった音は立て続けに鳴り、実際に聞くと耳の鼓膜が破れそうになるもので。
今思えば『呪詛師のくせに実際の拳銃を持っているなんて』
『あれは対人の奥の手だったのかもしれない』
『銃自体に呪いが付与されていたのかも』とか、色々思うところはある。
しかし、その時の俺は目の前に飛び散る赤に、思考が真っ白になった。
腹部に一発。
足に一発。
そして、頭に一発。
知り合って一年も満たない彼女が、凶弾に撃ち抜かれた様を今でも鮮明に思い出せる。
「ッ……名無し!」
「は、はは!ざまぁみろ!」
蹴り飛ばされた呪具を拾い上げながら、呪詛師の兄が声を上げる。
撃ち抜かれた身体はアスファルトに倒れ――
「痛いなぁ、もう。」
先程銃弾が撃ち抜いた側頭部に指を差し込まれる。
真っ赤に染った指が摘んでいるのは鉛玉。
頭を撃ち抜かれたというのに出血量が比較的少ないのも異常だ。その分野が素人の俺でも分かる。
「大丈夫だよ、伏黒くん。」
何がどう、大丈夫なのか。
その意味を理解する前に、名無しは申し訳なさそうに小さく笑った。
「ごめんね。」