紫黒の雨水
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中学からアパートに帰れば、それは酷く空虚に感じた。
元々広いアパートではなかった。
ボロだったし、雨風を凌ぐための住まいのようなもので、とてもじゃないが立派なものではなかった。
それでも、――それでも。
『おかえり、恵。』
そう言ってくれるあの人は、もうここにはいない。
紫黒の雨水#03
「ちゃんとご飯は食べてるの?」
俺を盛大に投げ飛ばした名無しが、唐突に問うてきた。
「…それなりに。」
「それなりじゃあ駄目でしょ。成長期なんだから、しっかり食べて筋肉をつけなさい、筋肉を。」
――呪術を本格に教わるようになり、俺は週末になると高専へ足を運んでいた。
『入学はほぼ確定したようなものだから、いつでも来ればいいんじゃない?』
五条…先生は、あっけらかんとそう笑い、電車の定期券を渡してきた。
――が、肝心の本人は不在の事が多く、俺はよく手持ち無沙汰になっていた。
そんな時、会いたいような会いたくないような人物に出会う。
箒を片手に持った彼女だ。
『五条先生は出張中だよ。…え?呪術を教えて貰いに?あの人、来週までいないけど』
わざわざ電車を乗り継いで来たというのに、とんだ骨折り損だ。
そんな時『代わりに稽古つけてあげようか?』なんて、彼女が言い出すものだから。
「いいよねぇ、成長期。鍛えたら鍛えた分体力つくし」
「アンタだってそう歳は変わらないだろ…」
「私?うーん…私は駄目かな。」
ジャージの裾を叩きながら名無しは笑う。
「伏黒くんは式神使いだから、術者本人を叩かれがちになると思うんだよねぇ…。咄嗟に身を守れるように、呪力で身体強化出来るようになれば更にいいんだけど」
「まぁ、私が教えるより五条さんの方がしっかり教えてくれるかな。」と言いながらジャージの上着のファスナーを下す。
どうやら午前の手合わせはこれにて一旦終了らしい。
「どうする?お昼ご飯まだだったら適当に作るけど……」
そう言って、名無しは「あ。」と小さく声を漏らす。
「無理にとは言わないよ。気味が悪いだろうし。」
嫌味でもなく、申し訳なさそうでもなく。
極々自然に…というよりさも当たり前のように問うてくる彼女に、俺は僅かな違和感とう後ろめたさを感じた。
「……いや。食う。」
「そう。じゃあ、お腹いっぱいになるようなものでも作ろうか。」
そう言って笑う名無しに、引っ掛かった違和感を問い質すことは、俺には出来なかった。
***
「で、どう?ちゃんと学校には行ってる?」
トントンと規則的にまな板を鳴らす包丁の音。
ふわりと香る出汁の匂い。
炊飯器の湯気の匂い。
数ヵ月前まで当たり前だった香りの記憶は、今は酷く遠く思えて。
「なんでアンタが保護者面してんだよ。」
「ん?だってキミの将来の寮母さんだからね。」
理由になっているようななっていないような回答をしながら、少し離れたところで名無しが笑う。
「喧嘩は?してない?」
「…控えてる。」
「よしよし。」
満足そうに頷き、再びまな板へ落される視線。
津美紀と名無しは似ていないというのに、その伏目がちな目元。
生活感のある匂い。
何もかもが懐かしくなって、俺は無意識のうちにぽそりと呟いた。
「…津美紀がいなくなって、色々思い知ってる。」
最初は、誰もいなくなった空っぽの家。
津美紀の方が帰宅が遅い時もあった。それとは全く別物の空虚感。
誰もいない。
文字通り、一人も。
ろくでなしの父親がいなくなった時も、津美紀の母親が失踪した時も、こんな風に思わなかったのに。
窓を叩く風の音がやけに大きく聞こえる。
遠くで鳴る救急車のサイレンや、時々思い出したように吠え出す犬の鳴き声も。
一人でいる方が気楽だと思っていた時期の自分を殴りたい。
だってこんなにも、一人の家は、
「喧嘩をすれば…姉は、津美紀は本気で怒った。事なかれ主義の偽善だと思ってた。」
大人がいなくなっても、寂しさなんて微塵も感じなかった。
諦めはあれど、心細いなど思わなかった。
それは誰よりも前向きで、善人で、手を引いてくれる姉がいたからだ。
「でもそれは、多分、」
言葉が、出ない。
鼻がツンと熱くなって、今声を出せば情けないものが出てきそうな予感がした。
「伏黒くんを心配していたからでしょ」
長い沈黙を破ったのは、名無しの声だった。
他人に理解を求めるなと言ったその口が、俺が言いたかった痛い程に優しい事実を言葉にする。
「なんで、アンタが言うんだよ」
「だって泣きそうな顔してたから。」
ローテーブルに置かれた、大盛りの親子丼。
半熟の玉子と柔らかそうな鶏肉が溢れそうなくらい盛られていた。
「しっかり食べなさい。食べることは生きることなんだから。」
くしゃりと撫でられた頭。
あぁ、――ああ。
撫でられるなんて、何時ぶりだっただろうか。
元々広いアパートではなかった。
ボロだったし、雨風を凌ぐための住まいのようなもので、とてもじゃないが立派なものではなかった。
それでも、――それでも。
『おかえり、恵。』
そう言ってくれるあの人は、もうここにはいない。
紫黒の雨水#03
「ちゃんとご飯は食べてるの?」
俺を盛大に投げ飛ばした名無しが、唐突に問うてきた。
「…それなりに。」
「それなりじゃあ駄目でしょ。成長期なんだから、しっかり食べて筋肉をつけなさい、筋肉を。」
――呪術を本格に教わるようになり、俺は週末になると高専へ足を運んでいた。
『入学はほぼ確定したようなものだから、いつでも来ればいいんじゃない?』
五条…先生は、あっけらかんとそう笑い、電車の定期券を渡してきた。
――が、肝心の本人は不在の事が多く、俺はよく手持ち無沙汰になっていた。
そんな時、会いたいような会いたくないような人物に出会う。
箒を片手に持った彼女だ。
『五条先生は出張中だよ。…え?呪術を教えて貰いに?あの人、来週までいないけど』
わざわざ電車を乗り継いで来たというのに、とんだ骨折り損だ。
そんな時『代わりに稽古つけてあげようか?』なんて、彼女が言い出すものだから。
「いいよねぇ、成長期。鍛えたら鍛えた分体力つくし」
「アンタだってそう歳は変わらないだろ…」
「私?うーん…私は駄目かな。」
ジャージの裾を叩きながら名無しは笑う。
「伏黒くんは式神使いだから、術者本人を叩かれがちになると思うんだよねぇ…。咄嗟に身を守れるように、呪力で身体強化出来るようになれば更にいいんだけど」
「まぁ、私が教えるより五条さんの方がしっかり教えてくれるかな。」と言いながらジャージの上着のファスナーを下す。
どうやら午前の手合わせはこれにて一旦終了らしい。
「どうする?お昼ご飯まだだったら適当に作るけど……」
そう言って、名無しは「あ。」と小さく声を漏らす。
「無理にとは言わないよ。気味が悪いだろうし。」
嫌味でもなく、申し訳なさそうでもなく。
極々自然に…というよりさも当たり前のように問うてくる彼女に、俺は僅かな違和感とう後ろめたさを感じた。
「……いや。食う。」
「そう。じゃあ、お腹いっぱいになるようなものでも作ろうか。」
そう言って笑う名無しに、引っ掛かった違和感を問い質すことは、俺には出来なかった。
***
「で、どう?ちゃんと学校には行ってる?」
トントンと規則的にまな板を鳴らす包丁の音。
ふわりと香る出汁の匂い。
炊飯器の湯気の匂い。
数ヵ月前まで当たり前だった香りの記憶は、今は酷く遠く思えて。
「なんでアンタが保護者面してんだよ。」
「ん?だってキミの将来の寮母さんだからね。」
理由になっているようななっていないような回答をしながら、少し離れたところで名無しが笑う。
「喧嘩は?してない?」
「…控えてる。」
「よしよし。」
満足そうに頷き、再びまな板へ落される視線。
津美紀と名無しは似ていないというのに、その伏目がちな目元。
生活感のある匂い。
何もかもが懐かしくなって、俺は無意識のうちにぽそりと呟いた。
「…津美紀がいなくなって、色々思い知ってる。」
最初は、誰もいなくなった空っぽの家。
津美紀の方が帰宅が遅い時もあった。それとは全く別物の空虚感。
誰もいない。
文字通り、一人も。
ろくでなしの父親がいなくなった時も、津美紀の母親が失踪した時も、こんな風に思わなかったのに。
窓を叩く風の音がやけに大きく聞こえる。
遠くで鳴る救急車のサイレンや、時々思い出したように吠え出す犬の鳴き声も。
一人でいる方が気楽だと思っていた時期の自分を殴りたい。
だってこんなにも、一人の家は、
「喧嘩をすれば…姉は、津美紀は本気で怒った。事なかれ主義の偽善だと思ってた。」
大人がいなくなっても、寂しさなんて微塵も感じなかった。
諦めはあれど、心細いなど思わなかった。
それは誰よりも前向きで、善人で、手を引いてくれる姉がいたからだ。
「でもそれは、多分、」
言葉が、出ない。
鼻がツンと熱くなって、今声を出せば情けないものが出てきそうな予感がした。
「伏黒くんを心配していたからでしょ」
長い沈黙を破ったのは、名無しの声だった。
他人に理解を求めるなと言ったその口が、俺が言いたかった痛い程に優しい事実を言葉にする。
「なんで、アンタが言うんだよ」
「だって泣きそうな顔してたから。」
ローテーブルに置かれた、大盛りの親子丼。
半熟の玉子と柔らかそうな鶏肉が溢れそうなくらい盛られていた。
「しっかり食べなさい。食べることは生きることなんだから。」
くしゃりと撫でられた頭。
あぁ、――ああ。
撫でられるなんて、何時ぶりだっただろうか。