銀朱に交わる
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朝日が昇ってどれくらい経っただろう。
汗で濡れた浴衣でもう一度布団に入るのは申し訳なくて、薄明るくなっていく部屋の隅でぼんやりと庭を眺めていた。
「あら。起きていらっしゃったのですか。」
還暦をとうに過ぎたであろう女性が庭を横切る。
白髪なのは歳を重ねたからだろうか。
見た目の年齢の割に背筋がしゃんと伸びており、静かな足運びも淀みなかった。
確か、昨晩の夕飯を運んでくれた時、五条さんが『婆や』と呼んでいた方だ。
「おはようございます」
「おはようございます。先日は悟様を助けて頂き、ありがとうございました」
深々と三つ指を立てて頭を下げる彼女に対して、私もつい深々と頭を下げてしまう。
あれは助けるというより──
そう。言うなれば『尻拭い』『身から出た錆』『火の始末』と言った方がしっくりくる。
それに五条さんに飛び火したのは、私が彼の生徒だから九重直次の『嫌がらせ』の標的になった。
つまり、原因は。
「いえ……あれは、」
「『自慢の生徒だ』と鼻を高くされていましたよ。あぁいう風に笑う悟様は、長年お屋敷に勤めさせて頂いておりますが、私 初めて拝見いたしました」
にこにこと目尻のしわを深く刻み、我が子の事のように喜ぶ彼女に、私は何も言えなくなり、小さく俯いた。
水を差すとかそういうのではない。
喉を締め付けるような『罪悪感』。
《自慢の生徒》だなんて、迷惑ばかりかけているのに。本当にそう思っているのだろうか。社交辞令じゃないのか。
目の前の柔和に笑う彼女が大切にしている五条さんを。いや、彼ならもしかすると何とかしたのかもしれないが。それでも。
──九重直次の悪意に晒した原因は、私だ。
「それは、良かったです。」
息が、詰まる。
ありふれた、差し当たりのない返事を返すので精一杯だ。
『だからキミが一番嫌がる方法で有効活用しようと思って。』
九重が先日、嗤いながら言った言葉が脳裏に過ぎる。
全くだ。私が一番嫌がることをここまで熟知している人間は彼くらいなものだろう。
それがあまりにも恐ろしくて、おぞましくて、怖くて。
「ななし様。」
陽だまりのようなあたたかい声で、名前を呼ばれる。
「もしかして昨晩はゆっくりお休みになれませんでしたか?」
彼女の言葉に心臓が一瞬跳ね上がる。
「そんなことは」
「顔色があまりよろしくないようですが…。もしくは以前来られた時のように、使用人が何か失礼でも?」
そんなに酷い顔をしているのだろうか。
不死の術式を壊したことが相当身体に負担がかかったのか、それとも夢見が悪かったからだろうか。
思い当たる節が色々ありすぎて、一旦思考を放棄した。
「いえ。本当に何もないです。朝はその、低血圧でして」
心配されたくない一心で尤もらしい言い訳を口にすれば「左様でございましたか。では何かお食事の前に温かいお飲み物でもお出し致しますね」と余計な気遣いをさせてしまった。
スっと立ち上がる老婦人が背を向けると同時にそっと頭を抱えるが、あれをどう言い訳して躱せばよかったのか最適解が思い付かなかった。
彼女の足音が二歩、三歩、四歩、五歩とそう遠くない──そう。具体的に言えば隣の部屋の前に立つと、障子を丁寧に開ける音がした。
「悟様、朝ですよ。おはようございます」
先程よりも張った声。
目覚まし時計の方が余程けたたましいが、それでもよく通る声は気持ちよく起きるに最適だろう。
布擦れの音。
欠伸がひとつ。
襖一枚隔てた向こう側から聞こえてくる。
嘘でしょ。
「婆や、朝から元気すぎィ〜…」
「シャキッとなさいまし。ななし様はもう起床されていましたよ」
油断していた。
幽玄な雰囲気の水墨画が描かれた襖は一枚の壁のようにきっちり閉められており、他人の家ということもあって開けようとも思わなかったし昨日はそんな気力もなかった。
お陰で『隣に部屋がある』という意識がすっかり失念していた。
変な寝言や呻き声は上げていないだろうか。
だとすれば、とんだ安眠妨害なのではないのか?余計な気を遣わせていないだろうか?
そんな私の心配を余所に、昨日は使いもしなかった襖をスルリと開き、寝癖がついたままの五条さんが部屋へズカズカ入ってきた。
「名無し、おはよ。」
「おはよう、ございます」
歯切れの悪い返事をつい返してしまう。
倒れる前の一連の出来事から、酷い悪夢。
老婦人からの痛い程の優しい気遣いで自覚してしまった罪悪感。
それに付け加え、五条さんの安眠妨害をしてしまったのではないかという焦りで、今すぐ此処から逃げ出したくなった。
「朝食をお持ち致します。っと、その前に温かいお飲み物でしたね。少しお待ちくださいませ」
五条さんが『婆や』と呼ぶ彼女は、先程と変わらぬ様子で背筋をピンと伸ばし、姿勢よく廊下を渡って母屋へ戻って行った。
周りに人の気配がなくなって、五条さんは畳の上へ座り込む。
自然と視線が合う高さになり、私は思わず視線を庭の方へ向けてしまった。
「あーあ、酷い顔。」
「……そんなに酷い顔していますか?」
「うん。」
先程の老齢の女性にも言われてしまったことだが、相当顔色が悪いらしい。
ならば、尚更この人に会いたくなかった。
「隣にいるなんて聞いていません」
「言ってないからね」
「ご自分の部屋で休んでくださいって言ったのに…」
「だってこの離れ、全部僕の部屋だし。」
そう来たか。
「魘されてたけど、ちゃんと眠れた?」
問われた質問に対して咄嗟に答えることが出来ず、私は浴衣の生地をつい強く握ってしまった。
「……すみません。煩かったですか?」
「んーん。カマ掛けてみただけ。僕、爆睡してたし。」
………………。
やられた。
そうだ、この人はこういう人だった。
落としていた視線を五条さんへ向ければ、いつものように悪戯っぽく笑うわけでもなく、かといって怒っている様子でもない。
ただ、心底心配そうに目を細められていた。
──あぁ。そういう顔を、させたいわけじゃなかったのに。
これは、完全に私の落ち度だ。
「……五条さんのそういう意地悪いところ、好きじゃないです。」
こんな私なんかの為に、心を砕かないで欲しい。
どうか、どうか。
嫌いだと。憎らしいと。邪魔なのだと。口汚く罵ってくれたら。
銀朱に交わる#11
この熱を手放して、いっそ楽になれる のに。
汗で濡れた浴衣でもう一度布団に入るのは申し訳なくて、薄明るくなっていく部屋の隅でぼんやりと庭を眺めていた。
「あら。起きていらっしゃったのですか。」
還暦をとうに過ぎたであろう女性が庭を横切る。
白髪なのは歳を重ねたからだろうか。
見た目の年齢の割に背筋がしゃんと伸びており、静かな足運びも淀みなかった。
確か、昨晩の夕飯を運んでくれた時、五条さんが『婆や』と呼んでいた方だ。
「おはようございます」
「おはようございます。先日は悟様を助けて頂き、ありがとうございました」
深々と三つ指を立てて頭を下げる彼女に対して、私もつい深々と頭を下げてしまう。
あれは助けるというより──
そう。言うなれば『尻拭い』『身から出た錆』『火の始末』と言った方がしっくりくる。
それに五条さんに飛び火したのは、私が彼の生徒だから九重直次の『嫌がらせ』の標的になった。
つまり、原因は。
「いえ……あれは、」
「『自慢の生徒だ』と鼻を高くされていましたよ。あぁいう風に笑う悟様は、長年お屋敷に勤めさせて頂いておりますが、
にこにこと目尻のしわを深く刻み、我が子の事のように喜ぶ彼女に、私は何も言えなくなり、小さく俯いた。
水を差すとかそういうのではない。
喉を締め付けるような『罪悪感』。
《自慢の生徒》だなんて、迷惑ばかりかけているのに。本当にそう思っているのだろうか。社交辞令じゃないのか。
目の前の柔和に笑う彼女が大切にしている五条さんを。いや、彼ならもしかすると何とかしたのかもしれないが。それでも。
──九重直次の悪意に晒した原因は、私だ。
「それは、良かったです。」
息が、詰まる。
ありふれた、差し当たりのない返事を返すので精一杯だ。
『だからキミが一番嫌がる方法で有効活用しようと思って。』
九重が先日、嗤いながら言った言葉が脳裏に過ぎる。
全くだ。私が一番嫌がることをここまで熟知している人間は彼くらいなものだろう。
それがあまりにも恐ろしくて、おぞましくて、怖くて。
「ななし様。」
陽だまりのようなあたたかい声で、名前を呼ばれる。
「もしかして昨晩はゆっくりお休みになれませんでしたか?」
彼女の言葉に心臓が一瞬跳ね上がる。
「そんなことは」
「顔色があまりよろしくないようですが…。もしくは以前来られた時のように、使用人が何か失礼でも?」
そんなに酷い顔をしているのだろうか。
不死の術式を壊したことが相当身体に負担がかかったのか、それとも夢見が悪かったからだろうか。
思い当たる節が色々ありすぎて、一旦思考を放棄した。
「いえ。本当に何もないです。朝はその、低血圧でして」
心配されたくない一心で尤もらしい言い訳を口にすれば「左様でございましたか。では何かお食事の前に温かいお飲み物でもお出し致しますね」と余計な気遣いをさせてしまった。
スっと立ち上がる老婦人が背を向けると同時にそっと頭を抱えるが、あれをどう言い訳して躱せばよかったのか最適解が思い付かなかった。
彼女の足音が二歩、三歩、四歩、五歩とそう遠くない──そう。具体的に言えば隣の部屋の前に立つと、障子を丁寧に開ける音がした。
「悟様、朝ですよ。おはようございます」
先程よりも張った声。
目覚まし時計の方が余程けたたましいが、それでもよく通る声は気持ちよく起きるに最適だろう。
布擦れの音。
欠伸がひとつ。
襖一枚隔てた向こう側から聞こえてくる。
嘘でしょ。
「婆や、朝から元気すぎィ〜…」
「シャキッとなさいまし。ななし様はもう起床されていましたよ」
油断していた。
幽玄な雰囲気の水墨画が描かれた襖は一枚の壁のようにきっちり閉められており、他人の家ということもあって開けようとも思わなかったし昨日はそんな気力もなかった。
お陰で『隣に部屋がある』という意識がすっかり失念していた。
変な寝言や呻き声は上げていないだろうか。
だとすれば、とんだ安眠妨害なのではないのか?余計な気を遣わせていないだろうか?
そんな私の心配を余所に、昨日は使いもしなかった襖をスルリと開き、寝癖がついたままの五条さんが部屋へズカズカ入ってきた。
「名無し、おはよ。」
「おはよう、ございます」
歯切れの悪い返事をつい返してしまう。
倒れる前の一連の出来事から、酷い悪夢。
老婦人からの痛い程の優しい気遣いで自覚してしまった罪悪感。
それに付け加え、五条さんの安眠妨害をしてしまったのではないかという焦りで、今すぐ此処から逃げ出したくなった。
「朝食をお持ち致します。っと、その前に温かいお飲み物でしたね。少しお待ちくださいませ」
五条さんが『婆や』と呼ぶ彼女は、先程と変わらぬ様子で背筋をピンと伸ばし、姿勢よく廊下を渡って母屋へ戻って行った。
周りに人の気配がなくなって、五条さんは畳の上へ座り込む。
自然と視線が合う高さになり、私は思わず視線を庭の方へ向けてしまった。
「あーあ、酷い顔。」
「……そんなに酷い顔していますか?」
「うん。」
先程の老齢の女性にも言われてしまったことだが、相当顔色が悪いらしい。
ならば、尚更この人に会いたくなかった。
「隣にいるなんて聞いていません」
「言ってないからね」
「ご自分の部屋で休んでくださいって言ったのに…」
「だってこの離れ、全部僕の部屋だし。」
そう来たか。
「魘されてたけど、ちゃんと眠れた?」
問われた質問に対して咄嗟に答えることが出来ず、私は浴衣の生地をつい強く握ってしまった。
「……すみません。煩かったですか?」
「んーん。カマ掛けてみただけ。僕、爆睡してたし。」
………………。
やられた。
そうだ、この人はこういう人だった。
落としていた視線を五条さんへ向ければ、いつものように悪戯っぽく笑うわけでもなく、かといって怒っている様子でもない。
ただ、心底心配そうに目を細められていた。
──あぁ。そういう顔を、させたいわけじゃなかったのに。
これは、完全に私の落ち度だ。
「……五条さんのそういう意地悪いところ、好きじゃないです。」
こんな私なんかの為に、心を砕かないで欲しい。
どうか、どうか。
嫌いだと。憎らしいと。邪魔なのだと。口汚く罵ってくれたら。
銀朱に交わる#11
この熱を手放して、いっそ