満員電車と用心棒
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それは、神田がやって来てから暫く経った頃の話。
なんて事ない、冬のある日。
それは些細な違和感だった。
「ただいま帰りました」
いつもより少しだけ沈んだトーンの声。
バイト帰りでも見せない、疲れた顔色。
考え込むように真一文字に結ばれた口元は固く、表情が強ばっているようにも見えた。
「……何かあったか?」
当てずっぽうに近い質問だった。
しかしそれは当たらずとも遠からずだったらしく、僅かに名無しが纏う空気が揺れたように感じた。
「なんでもないですよ。すみません」
何に対しての謝罪だろう。
隠し事をしている謝罪なのか、憂鬱な雰囲気を滲ませたことに対しての謝罪なのか。
どちらにせよ俺にとっては贈られても全く響かない謝罪の言葉だ。
親しみやすいかと思えば、一定の距離を詰めることがない名無し。
それは居心地が良いと思う──と同時に、少しだけ虚しさもあった。
積極的に頼って欲しいとは思わないが、一宿一飯の恩を返す機会すら与えられていないような気がして、もどかしいと思うのは事実だ。
──本人が口を割らないのなら仕方ない。
こっちだって考えがある。
満員電車と用心棒#前篇
昨日は乗る時間を変えた。一昨日は車両を変えた。
それでもあの人はついて来て、底知れない嫌悪感と気味の悪さを感じ、腹の底から冷えていくような気分だった。
今日は気休め程度かもしれないがタイツも履いた。
満員電車がいつも以上に憂鬱で、車両へ足を踏み入れた瞬間から気分が沈み、思わず溜息を吐き出したくなる。
我慢すれば、やり過ごせば。
泥を飲み込むような気分とは裏腹に、『もしあの人を捕まえるのことができたら』と出来もしないことを考える。
まず鉄道警察に『親御さんに連絡を』と言われるだろう。
こちらの事情など微塵も知らないとはいえ、その言葉を聞くと心臓が掴まれたみたいにギュッと痛んだ。
『いません』と答えれば怪訝な顔をされ、当たり障りなく事情を説明すれば可哀想なものを見るような目で憐れまれる。
『では他の保護者の方でも』と言われれば親戚の人達の顔が浮かぶけれど、間違いなく溜息を吐かれるに違いない。
《面倒なこと》を起こしたと視線で訴えられ、私に全く非がないとしても『何か原因があなたにもあったんでしょう』と片付けられる。
それに対して否定することも出来ず、ただ息を殺して時間が過ぎるのを待つことは、耐え難い沈黙だった。
実際、彼らに迷惑をかけてしまったことは事実なのだから。
窓際の通路に立ち、身を縮める。
嵐が去るのを待つように息を潜め、下唇を強くかみ締めた。
***
拷問かと思うくらい人でごった返した車両は、名無しの姿を見つけるだけで精一杯だった。
「すみません」といい慣れない断りながら人をかき分け、アイツの近くに寄れば、青い顔をしたまま唇をかみ締めて俯いている。
見たことない強ばった表情に、息を止めて耐えるような空気。
理由は瞬時に理解し、それを目にした途端腹の奥から燃えるような怒りで目の前が真っ赤になるような感覚に陥った。
「オイ。」
スカートの中をまさぐっていた男の手を掴めば、関節が脱臼する鈍い音が車両内に響く。
くぐもった中年の悲鳴に近い呻きと、無言で知らぬ存ぜぬを通していた、他人の驚いたふりをする煩わしい視線。
そして、死んだように息を潜めていた名無しが、心底驚いたように俺の顔を無遠慮に見上げてきた。
「そいつに触んな。」
***
目的地の駅を通り過ぎてしまい、痴漢を次の駅で鉄道警察に突き出すまで異様にスムーズだった。
「手首の脱臼はやり過ぎですね」
「悪いとは思ってるがやり過ぎなんてことはねぇだろ」
「失礼ですが、被害者の女性とはどのような関係で?」
「兄だ。」
「身分証はありますか?」
「家に忘れた。住所なら妹の学生証でいいだろ。」
名無しが聞かれたことといえば「いつくらいから」と期間を問われたことくらいだ。
連絡先など必要最低限の事項を質問されたくらいで、殆ど神田が矢面に立って手続きを終わらせてしまった。
男はどうやら前科があったらしく、懲役になる可能性があるらしい。
鉄道警察が『またか』といった表情を浮かべていたので、今度こそ罪が重くなればいいのだが。
学校に連絡を入れた時には既に授業が始まっており、担任の女性の教師に『痴漢にあって警察にいます』と連絡を入れれば、気を遣ってくれたのだろう。今日は美味しいものでも食べて、ゆっくり休みなさい、と労られてしまう始末だった。
鉄道警察の詰所から出て、殆ど放心状態だった名無しがぽつりと神田へ問う。
「えっと、神田さん。どうして、ぶあっ」
変な声がつい出てしまった。
それは至極不機嫌そうな表情を浮かべた神田が、名無しの頬を抓ったことに他ならない。
神田は、一言物申したそうに口を開けては、閉じる。
掛けようとした言葉は宙に浮かび、尽く上手く形に出来ず靄となって消える。
今までそんな気の利いた言葉を選んで来なかったツケがまさかここに来て回ってくるとは、神田自身も予想していなかった出来事だ。
上手く言葉が出てこず、忌々しそうに名無しの頬からそっと手を離した。
自分の言葉の引き出しの少なさに思わず溜息が零れる。
だが神田の自己嫌悪など知らない名無しは、気まずそうに視線を泳がせ、居心地悪そうに持っていた鞄を握り直した。
「……あの、ご迷惑おかけして申し訳ございません。」
深々と頭を下げる名無しを見て、神田は先程の溜息が『失敗』だったことに気づく。
こういったフォローはきっとラビならもっと上手くするし、アレンならもっと優しく宥め、リナリーなら寄り添った言葉を贈れるのだろう。
まさか自分の性分に嫌気が差す日が来ることになろうとは。
「あれくらいは、迷惑じゃねぇだろ」
「でも、」
「うるせぇ。うだうだ言ってんじゃねぇよ」
「い、いひゃい」
やわらかい頬をつまめば、冬の空気によって氷のように冷たくなってしまっている。
彼女はきっと、誰にも頼ることもなく相談することもなく生きてきたせいで、きっと『神田に相談する』という項目が抜け落ちるどころか候補にも挙がらなかったのだろう。
──それが酷くもどかしく、恨めしく、頼りにすらされない事実が腹立たしく、神田は上手く言語化できない苛立ちに眉を顰めた。
この感情に名前がつくのは、まだもう暫く先の話。
抓っていた頬肉を離し、そっと息をつく。
「そもそも俺が転がり込んでる時点でお前に迷惑掛けてんだから、使える時はちゃんと使え。」
この程度のお願いを受けたところで名無しから受けている恩義にはまだ足りない。
腕が立つことが最大の取り柄なのだから、まさに今日の件は適任だっただろうに。
「私は、迷惑だとは思っていません」
「その言葉そっくりそのまま返してやる」
神田のピッチャー返しに反論出来ないのか、言いにくそうに言葉を淀ませ、観念した後に名無しはポツポツと問うた。
「……頼って、鬱陶しかったり、迷惑じゃないですか?」
神田がそういった雰囲気を出しているからなのか、それともそう言われた経験があるのか。
彼は正解を知る由もないけれど、これだけは断言できた。
「迷惑じゃねぇ。さっきから言ってるだろうが」
ぶっきらぼうな即答。
裏表のない真っ直ぐな声に安心したのか、名無しは強ばらせていた表情をやっと緩め、ぎこちなく笑った。
「そもそも、俺に遠慮する前に自分の身の安全を一番に優先するべきだろうが。」
呆れたように小言を言う神田の言い分は尤もだ。
彼女は未成年で、普通の女子高生で、当然だが腕っ節が強いわけでもない。
親の庇護下にないことを除けば、至って平々凡々な少女なのだ。
本来なら周りを巻き込んででも自分の身を守るべきなのだが、どうもその意識が致命的に欠如しているらしい。
神田の言葉が心底意外だったのか、くるりとした黒目を意外そうに大きく見開き、珍しく驚いている様子だった。
──神田が感じたその小さな違和感は、数年越しに紐解かれるのだが、それはまた別の話。
「そう、ですね。そうでしたね。」
取り繕うように笑い、小さく肩を竦める。
「ありがとうございます、神田さん。」
「あぁ。」
謝罪ではなく、名無しがようやく言葉にできた感謝の言葉に満足したのか、神田は口元をそっと緩め、相変わらずぶっきらぼうな返事でそっと頷いた。
なんて事ない、冬のある日。
それは些細な違和感だった。
「ただいま帰りました」
いつもより少しだけ沈んだトーンの声。
バイト帰りでも見せない、疲れた顔色。
考え込むように真一文字に結ばれた口元は固く、表情が強ばっているようにも見えた。
「……何かあったか?」
当てずっぽうに近い質問だった。
しかしそれは当たらずとも遠からずだったらしく、僅かに名無しが纏う空気が揺れたように感じた。
「なんでもないですよ。すみません」
何に対しての謝罪だろう。
隠し事をしている謝罪なのか、憂鬱な雰囲気を滲ませたことに対しての謝罪なのか。
どちらにせよ俺にとっては贈られても全く響かない謝罪の言葉だ。
親しみやすいかと思えば、一定の距離を詰めることがない名無し。
それは居心地が良いと思う──と同時に、少しだけ虚しさもあった。
積極的に頼って欲しいとは思わないが、一宿一飯の恩を返す機会すら与えられていないような気がして、もどかしいと思うのは事実だ。
──本人が口を割らないのなら仕方ない。
こっちだって考えがある。
満員電車と用心棒#前篇
昨日は乗る時間を変えた。一昨日は車両を変えた。
それでもあの人はついて来て、底知れない嫌悪感と気味の悪さを感じ、腹の底から冷えていくような気分だった。
今日は気休め程度かもしれないがタイツも履いた。
満員電車がいつも以上に憂鬱で、車両へ足を踏み入れた瞬間から気分が沈み、思わず溜息を吐き出したくなる。
我慢すれば、やり過ごせば。
泥を飲み込むような気分とは裏腹に、『もしあの人を捕まえるのことができたら』と出来もしないことを考える。
まず鉄道警察に『親御さんに連絡を』と言われるだろう。
こちらの事情など微塵も知らないとはいえ、その言葉を聞くと心臓が掴まれたみたいにギュッと痛んだ。
『いません』と答えれば怪訝な顔をされ、当たり障りなく事情を説明すれば可哀想なものを見るような目で憐れまれる。
『では他の保護者の方でも』と言われれば親戚の人達の顔が浮かぶけれど、間違いなく溜息を吐かれるに違いない。
《面倒なこと》を起こしたと視線で訴えられ、私に全く非がないとしても『何か原因があなたにもあったんでしょう』と片付けられる。
それに対して否定することも出来ず、ただ息を殺して時間が過ぎるのを待つことは、耐え難い沈黙だった。
実際、彼らに迷惑をかけてしまったことは事実なのだから。
窓際の通路に立ち、身を縮める。
嵐が去るのを待つように息を潜め、下唇を強くかみ締めた。
***
拷問かと思うくらい人でごった返した車両は、名無しの姿を見つけるだけで精一杯だった。
「すみません」といい慣れない断りながら人をかき分け、アイツの近くに寄れば、青い顔をしたまま唇をかみ締めて俯いている。
見たことない強ばった表情に、息を止めて耐えるような空気。
理由は瞬時に理解し、それを目にした途端腹の奥から燃えるような怒りで目の前が真っ赤になるような感覚に陥った。
「オイ。」
スカートの中をまさぐっていた男の手を掴めば、関節が脱臼する鈍い音が車両内に響く。
くぐもった中年の悲鳴に近い呻きと、無言で知らぬ存ぜぬを通していた、他人の驚いたふりをする煩わしい視線。
そして、死んだように息を潜めていた名無しが、心底驚いたように俺の顔を無遠慮に見上げてきた。
「そいつに触んな。」
***
目的地の駅を通り過ぎてしまい、痴漢を次の駅で鉄道警察に突き出すまで異様にスムーズだった。
「手首の脱臼はやり過ぎですね」
「悪いとは思ってるがやり過ぎなんてことはねぇだろ」
「失礼ですが、被害者の女性とはどのような関係で?」
「兄だ。」
「身分証はありますか?」
「家に忘れた。住所なら妹の学生証でいいだろ。」
名無しが聞かれたことといえば「いつくらいから」と期間を問われたことくらいだ。
連絡先など必要最低限の事項を質問されたくらいで、殆ど神田が矢面に立って手続きを終わらせてしまった。
男はどうやら前科があったらしく、懲役になる可能性があるらしい。
鉄道警察が『またか』といった表情を浮かべていたので、今度こそ罪が重くなればいいのだが。
学校に連絡を入れた時には既に授業が始まっており、担任の女性の教師に『痴漢にあって警察にいます』と連絡を入れれば、気を遣ってくれたのだろう。今日は美味しいものでも食べて、ゆっくり休みなさい、と労られてしまう始末だった。
鉄道警察の詰所から出て、殆ど放心状態だった名無しがぽつりと神田へ問う。
「えっと、神田さん。どうして、ぶあっ」
変な声がつい出てしまった。
それは至極不機嫌そうな表情を浮かべた神田が、名無しの頬を抓ったことに他ならない。
神田は、一言物申したそうに口を開けては、閉じる。
掛けようとした言葉は宙に浮かび、尽く上手く形に出来ず靄となって消える。
今までそんな気の利いた言葉を選んで来なかったツケがまさかここに来て回ってくるとは、神田自身も予想していなかった出来事だ。
上手く言葉が出てこず、忌々しそうに名無しの頬からそっと手を離した。
自分の言葉の引き出しの少なさに思わず溜息が零れる。
だが神田の自己嫌悪など知らない名無しは、気まずそうに視線を泳がせ、居心地悪そうに持っていた鞄を握り直した。
「……あの、ご迷惑おかけして申し訳ございません。」
深々と頭を下げる名無しを見て、神田は先程の溜息が『失敗』だったことに気づく。
こういったフォローはきっとラビならもっと上手くするし、アレンならもっと優しく宥め、リナリーなら寄り添った言葉を贈れるのだろう。
まさか自分の性分に嫌気が差す日が来ることになろうとは。
「あれくらいは、迷惑じゃねぇだろ」
「でも、」
「うるせぇ。うだうだ言ってんじゃねぇよ」
「い、いひゃい」
やわらかい頬をつまめば、冬の空気によって氷のように冷たくなってしまっている。
彼女はきっと、誰にも頼ることもなく相談することもなく生きてきたせいで、きっと『神田に相談する』という項目が抜け落ちるどころか候補にも挙がらなかったのだろう。
──それが酷くもどかしく、恨めしく、頼りにすらされない事実が腹立たしく、神田は上手く言語化できない苛立ちに眉を顰めた。
この感情に名前がつくのは、まだもう暫く先の話。
抓っていた頬肉を離し、そっと息をつく。
「そもそも俺が転がり込んでる時点でお前に迷惑掛けてんだから、使える時はちゃんと使え。」
この程度のお願いを受けたところで名無しから受けている恩義にはまだ足りない。
腕が立つことが最大の取り柄なのだから、まさに今日の件は適任だっただろうに。
「私は、迷惑だとは思っていません」
「その言葉そっくりそのまま返してやる」
神田のピッチャー返しに反論出来ないのか、言いにくそうに言葉を淀ませ、観念した後に名無しはポツポツと問うた。
「……頼って、鬱陶しかったり、迷惑じゃないですか?」
神田がそういった雰囲気を出しているからなのか、それともそう言われた経験があるのか。
彼は正解を知る由もないけれど、これだけは断言できた。
「迷惑じゃねぇ。さっきから言ってるだろうが」
ぶっきらぼうな即答。
裏表のない真っ直ぐな声に安心したのか、名無しは強ばらせていた表情をやっと緩め、ぎこちなく笑った。
「そもそも、俺に遠慮する前に自分の身の安全を一番に優先するべきだろうが。」
呆れたように小言を言う神田の言い分は尤もだ。
彼女は未成年で、普通の女子高生で、当然だが腕っ節が強いわけでもない。
親の庇護下にないことを除けば、至って平々凡々な少女なのだ。
本来なら周りを巻き込んででも自分の身を守るべきなのだが、どうもその意識が致命的に欠如しているらしい。
神田の言葉が心底意外だったのか、くるりとした黒目を意外そうに大きく見開き、珍しく驚いている様子だった。
──神田が感じたその小さな違和感は、数年越しに紐解かれるのだが、それはまた別の話。
「そう、ですね。そうでしたね。」
取り繕うように笑い、小さく肩を竦める。
「ありがとうございます、神田さん。」
「あぁ。」
謝罪ではなく、名無しがようやく言葉にできた感謝の言葉に満足したのか、神田は口元をそっと緩め、相変わらずぶっきらぼうな返事でそっと頷いた。