mirage faker
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タオルで髪を拭きながら、少し軋む木製の階段をゆっくり昇る。
オイル独特の臭いは取れたが、何にせよえらい目にあった。暫くはランタンを見たくない。
あの《偽物》の女主人は、幻だったのか?
――否、あれは確かに実体だった。でなければ宿の主人である男が触れられるはずもないのだから。
かといって、アクマであれば宿を燃やすなど回りくどい手は使わない。
女主人も意識は戻っていないが無傷だ。
まだ誰一人死人が出ていないのだから、アクマの線はかなり薄い。
消去法で考えれば、恐らくこれはイノセンスによる奇怪だろう。
(イノセンスの修復はともかく、奇怪の謎解きは得意じゃないんだけどなぁ)
恐らく彼も、同じ考えだろう。
アクマを狩ることに関しては、神田ほど腕の立つエクソシストはいないだろう。
逆に頭脳労働は……元帥なのだが、なんというか、残念な方だ。
弟子になってひしひしと身に沁みる。
美人な見た目とは裏腹に、神田はかなりの脳筋だ。
(いや、そのくらい厳しい方が私はありがたいんだけど。)
余計な雑念を振り払える。見て見ぬふりができる。
師と弟子以外の余計な感情や関係は、彼にとっても私にとっても、きっと足枷にしかならないだろうから。
きっとこれは、助けてもらったから。救ってもらったから。
この淡い親愛の情は、きっと尊敬の念の錯覚だ。
ふわりと浮ついた、綿菓子のようなこの想いに、名前は付けない方がいいだろう。
師弟という早々崩れはしない堅実な関係の方が、きっとずっと楽だ。
(臆病者。)
自嘲しそうな笑みが零れそうになるが、これでいいのだと小さく頷く。
大切なものを失くすのは、もうこりごりだ。
「神田さん、すみません。お待たせしました」
アンティークなドアノブを捻り、部屋に入る。
タオルの隙間から見えるのは黒いブーツの足先。
「待ちくたびれたぞ」
「すみません、オイルの臭いがなかなか取れなくて……う、ひゃっ!?」
掴まれる腕。
ぐるりと回る視界。
不意を突かれて目の前に広がるのは生成色のシーツの海。
先程まで頭に被せていたタオルはベッドの端へひらりと落ちた。
……状況を、整理しよう。
背中で纏められた腕は関節が軋みそうなくらい強く縫いとめられ、うつ伏せでベッドへ組み敷かれている。
上から覆い被さる重さはひと一人分。
帳のようにさらりと揺れる絹糸のような黒髪に心当たりはひとつ。
――誰に?
考えるまでも、ない。
「あの、神田さん?なんのご冗談で…?」
先程の自問自答も相まって、冷静を装ってはいるが残念ながら思考回路は処理落ち寸前だ。
何がどうなって、こうなっているのか。誰か説明して欲しい。
「これが冗談だと思えるとは、楽天家なのか、それとも馬鹿なのか。どっちだろうな」
「ひっ…ぅ、あ……っ」
後頭部に目がついているわけではないから、確かなことは分からない。
分からない、が。恐らく、後ろの首筋に這っているのは、彼の舌。
腕を掴んでいるひんやりとした手とは対照的に、ぬるりとしたそれは酷くあたたかい。というか、熱い。
いや。
舌が熱いのではなく、もしかすると自分の身体が火照っているせいかもしれないが。
脚先から脳天に奔る寒気に似た感覚。
人生で経験したものに例えるとすれば、そう。飛行機から投げ出された時のような浮遊感が一番近いだろうか。
「なに、っしてるんですか、う、あっ」
「何って、分かるだろ。」
分かるけど。解りたくない。
頸骨あたりに、チクリ、チクリとした甘い痛みに目眩がする。脳髄が痺れる。思考がぐしゃぐしゃにされる。
――駄目だ。流される。
いやだ。駄目だ。怖い。
「〜〜っか、神田さん!すみません!」
首筋に甘く歯を立てていた彼に、ぶりをつけてヘッドショットをお見舞する。
私の後頭部と彼の額が派手にぶつかり、部屋に響く程の鈍音を打ち鳴らした。
「っ痛…!」
「ご、ごめんな、さ……?」
後ろに仰け反った彼を見遣れば、それは《彼》ではなかった。
姿かたち、声も仕草も、よく似ている。ほぼ同じと言っても差し支えないだろう。
でも、『違う』。
これは 神田じゃない。
先程のように、燻るような熱が目の奥に灯る。
双眸を見開いて視線で射抜く。虚を、暴くように。
「あなたは、誰」
問いかけに答えるわけでもなくピタリと動きを止めた彼は、先程の女主人の偽者のように白い靄になって消えた。
まるで最初からそこに『なかった』かのように、一切痕跡を残さず。
…いや。手首を掴まれていた感覚も、乱れたシャツの襟元も、まだ乾かぬ首筋の湿り気も未だにあるため痕跡はゼロではないのだが。
(えらいめに、あった)
バクバクと早鐘を鳴らす、心臓の鼓動。
手の甲で頬に触れれば溶けてしまいそうなくらい熱を帯びていた。
mirage faker-04
靄が完全に消えると、部屋に掛けてあった鏡に亀裂がはしる。
まるで鏡の向こうから圧が加えられているようにひび割れ、あっという間に硝子片が砕け散った。
鏡のフレームから飛び出てきたのは、
「名無し!」
「か、神田さん!?」
まるで不思議の国の童話のように、鏡から飛び出してきたのは紛れもなく神田だった。
恐らく、これは本物だ。
「どうなってるんですか…」
「鏡から『偽物』の奇怪が出てきて、取り込まれた。…傍迷惑なイノセンスだな」
チッと忌々しく舌打ちをする師に対して『むしろ私も被害者です』という言葉を、ぐっと呑み込んだ。
沈黙は金なり。余計な一言は不要だ。
もし彼が先程の『アクシデント』を知らないのなら。見ていないのなら。
『何もなかった。』そう押し通してしまうのが一番穏便だろう。
「やっぱりさっきの神田さんは偽者でしたか、良かった…。頭突き食らわしてご退場願ったので…」
「…本物だったらどうするつもりだったんだ」
呆れた顔で見下ろしてくる師を見上げ、「その時は素直にごめんなさいコースですかね」と私ははぐらかすように笑うのだった。
オイル独特の臭いは取れたが、何にせよえらい目にあった。暫くはランタンを見たくない。
あの《偽物》の女主人は、幻だったのか?
――否、あれは確かに実体だった。でなければ宿の主人である男が触れられるはずもないのだから。
かといって、アクマであれば宿を燃やすなど回りくどい手は使わない。
女主人も意識は戻っていないが無傷だ。
まだ誰一人死人が出ていないのだから、アクマの線はかなり薄い。
消去法で考えれば、恐らくこれはイノセンスによる奇怪だろう。
(イノセンスの修復はともかく、奇怪の謎解きは得意じゃないんだけどなぁ)
恐らく彼も、同じ考えだろう。
アクマを狩ることに関しては、神田ほど腕の立つエクソシストはいないだろう。
逆に頭脳労働は……元帥なのだが、なんというか、残念な方だ。
弟子になってひしひしと身に沁みる。
美人な見た目とは裏腹に、神田はかなりの脳筋だ。
(いや、そのくらい厳しい方が私はありがたいんだけど。)
余計な雑念を振り払える。見て見ぬふりができる。
師と弟子以外の余計な感情や関係は、彼にとっても私にとっても、きっと足枷にしかならないだろうから。
きっとこれは、助けてもらったから。救ってもらったから。
この淡い親愛の情は、きっと尊敬の念の錯覚だ。
ふわりと浮ついた、綿菓子のようなこの想いに、名前は付けない方がいいだろう。
師弟という早々崩れはしない堅実な関係の方が、きっとずっと楽だ。
(臆病者。)
自嘲しそうな笑みが零れそうになるが、これでいいのだと小さく頷く。
大切なものを失くすのは、もうこりごりだ。
「神田さん、すみません。お待たせしました」
アンティークなドアノブを捻り、部屋に入る。
タオルの隙間から見えるのは黒いブーツの足先。
「待ちくたびれたぞ」
「すみません、オイルの臭いがなかなか取れなくて……う、ひゃっ!?」
掴まれる腕。
ぐるりと回る視界。
不意を突かれて目の前に広がるのは生成色のシーツの海。
先程まで頭に被せていたタオルはベッドの端へひらりと落ちた。
……状況を、整理しよう。
背中で纏められた腕は関節が軋みそうなくらい強く縫いとめられ、うつ伏せでベッドへ組み敷かれている。
上から覆い被さる重さはひと一人分。
帳のようにさらりと揺れる絹糸のような黒髪に心当たりはひとつ。
――誰に?
考えるまでも、ない。
「あの、神田さん?なんのご冗談で…?」
先程の自問自答も相まって、冷静を装ってはいるが残念ながら思考回路は処理落ち寸前だ。
何がどうなって、こうなっているのか。誰か説明して欲しい。
「これが冗談だと思えるとは、楽天家なのか、それとも馬鹿なのか。どっちだろうな」
「ひっ…ぅ、あ……っ」
後頭部に目がついているわけではないから、確かなことは分からない。
分からない、が。恐らく、後ろの首筋に這っているのは、彼の舌。
腕を掴んでいるひんやりとした手とは対照的に、ぬるりとしたそれは酷くあたたかい。というか、熱い。
いや。
舌が熱いのではなく、もしかすると自分の身体が火照っているせいかもしれないが。
脚先から脳天に奔る寒気に似た感覚。
人生で経験したものに例えるとすれば、そう。飛行機から投げ出された時のような浮遊感が一番近いだろうか。
「なに、っしてるんですか、う、あっ」
「何って、分かるだろ。」
分かるけど。解りたくない。
頸骨あたりに、チクリ、チクリとした甘い痛みに目眩がする。脳髄が痺れる。思考がぐしゃぐしゃにされる。
――駄目だ。流される。
いやだ。駄目だ。怖い。
「〜〜っか、神田さん!すみません!」
首筋に甘く歯を立てていた彼に、ぶりをつけてヘッドショットをお見舞する。
私の後頭部と彼の額が派手にぶつかり、部屋に響く程の鈍音を打ち鳴らした。
「っ痛…!」
「ご、ごめんな、さ……?」
後ろに仰け反った彼を見遣れば、それは《彼》ではなかった。
姿かたち、声も仕草も、よく似ている。ほぼ同じと言っても差し支えないだろう。
でも、『違う』。
これは 神田じゃない。
先程のように、燻るような熱が目の奥に灯る。
双眸を見開いて視線で射抜く。虚を、暴くように。
「あなたは、誰」
問いかけに答えるわけでもなくピタリと動きを止めた彼は、先程の女主人の偽者のように白い靄になって消えた。
まるで最初からそこに『なかった』かのように、一切痕跡を残さず。
…いや。手首を掴まれていた感覚も、乱れたシャツの襟元も、まだ乾かぬ首筋の湿り気も未だにあるため痕跡はゼロではないのだが。
(えらいめに、あった)
バクバクと早鐘を鳴らす、心臓の鼓動。
手の甲で頬に触れれば溶けてしまいそうなくらい熱を帯びていた。
mirage faker-04
靄が完全に消えると、部屋に掛けてあった鏡に亀裂がはしる。
まるで鏡の向こうから圧が加えられているようにひび割れ、あっという間に硝子片が砕け散った。
鏡のフレームから飛び出てきたのは、
「名無し!」
「か、神田さん!?」
まるで不思議の国の童話のように、鏡から飛び出してきたのは紛れもなく神田だった。
恐らく、これは本物だ。
「どうなってるんですか…」
「鏡から『偽物』の奇怪が出てきて、取り込まれた。…傍迷惑なイノセンスだな」
チッと忌々しく舌打ちをする師に対して『むしろ私も被害者です』という言葉を、ぐっと呑み込んだ。
沈黙は金なり。余計な一言は不要だ。
もし彼が先程の『アクシデント』を知らないのなら。見ていないのなら。
『何もなかった。』そう押し通してしまうのが一番穏便だろう。
「やっぱりさっきの神田さんは偽者でしたか、良かった…。頭突き食らわしてご退場願ったので…」
「…本物だったらどうするつもりだったんだ」
呆れた顔で見下ろしてくる師を見上げ、「その時は素直にごめんなさいコースですかね」と私ははぐらかすように笑うのだった。