新月メランコリー
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雨の日。
外での鍛錬が出来ないせいか、はたまた気を遣っていてくれているのか。
窓ガラスに打ち付ける雨音に紛れて、刀を手入れする音が聞こえる。
砥粉をはたいたり、懐紙をめくる音だったり。普段何気なく聞いている音が、酷く大きく聞こえた。
それは彼が隣にいる、何よりもの証拠。
「あの、神田さん。鍛錬場に行かれても大丈夫ですよ?私のことはお気になさらず…」
「いたら迷惑か」
「いやいや、そんなことは微塵もありません!けど、その、ヒマじゃないかな〜…と思って…」
「たまにはダラダラするのも悪くねぇだろ」
まぁ確かに最近は元帥の仕事も忙しかったようだ。
気を遣って声をかけたのだが、もしかすると『出ていけ』と催促しているように聞こえてしまって逆効果かもしれない。
彼の思うように過ごしてもらうことにしよう。
「じゃ、じゃあお茶でも用意しましょうか?」
「見えないのにか?いいからそこに座ってろ」
…逆に気を遣わせてしまった。これは失敗だ。
ぽん、とひと撫でされる頭。
隣から僅かに遠のく足音。
(目が見えないと、なんか色々意識して…ちょっと疲れるなぁ…)
目が見えていれば……指が長い大きな手を意識することも、足音が遠のいて寂しい気分になったりも、しなくて済むのに。
なんとも不自由だ。
半盲はもちろん全盲の人の、生活自体がいかに大変か身をもって思い知る。
(……五感のひとつを塞げば他の五感が冴える、とは聞いたことがあるけど)
何の変哲もない石鹸の匂いも、不意に触れる感触も、心地よく響く声も、潜めたような息遣いさえ意識してしまうとは。
すぐに心拍数が上がってしまうのは、どうにかならないものか。
(心臓に、悪い)
事ある毎に『これは ではない』『ただの師弟』『心拍数が上がるのは見えなくて、緊張しているからだ』と自分に言い訳を何度も何度も重ねるのは、中々疲れてしまうのだ。
……そう。
この感情に、名前をつけてはいけない。
***
「…………名無し?」
特に、用はない。何となく呼んだだけだ。
入れた茶はすっかり温くなり、雨足が多少弱くなった頃合。
することもなく暇を持て余していた愛弟子は、壁に頭を預けて規則的な呼吸を繰り返すばかり。
呼んでみても返事がない。
瞼を閉じているか開いているか包帯で分からない――つまるところ起きているか寝ているかの確認は、こうして声を掛けるくらいしか方法がなかった。
雨音をずっと聞いていて眠くなったのだろうか。
鉛色の重たそうな雨雲は、初夏の鮮やかな新緑ですらモノトーンに染め上げているように見える。
その中で生白く浮き上がるのは名無しの頬と、痛ましくも丁寧に巻かれた白い包帯だった。
一見すれば死んでいるようにも見えるそれを否定するように、俺は柔らかそうな頬に手を伸ばした。
微睡むように、あたたかい。
僅かに漏れる呼吸に乱れもない。
大丈夫だ。生きている。
ほっと小さく息をついて、名無しの頬に掛かった髪を指先でそろりと払った。
(ちゃんと顔が見てぇな)
ころころと変わる表情。視線。
雲ひとつない夜の空のような瞳。
アクマを屠る時のみ見れる、神が造った金色の満月。
笑ったり、拗ねたり、怒ったり、落ち込んだり。
目は口ほどに物を言う、という言葉があるほどだ。
包帯を巻いていても名無しは名無しなのだが、やはり少しだけ物足りない感じはあった。
――贅沢、なのだろうか。
それでもやはり、その顏を。…笑った顔が見たかった。
「……早く治せよ」
あぁ。鍛錬は一人の方がよかったはずなのに。
いつから充足感を感じられなくなったのだろう。
溺れる。
おぼれる。
オボレル。
こんな感情、すっかり忘れてしまっていた程、久方ぶりだった。
静かに眠る弟子の包帯に口付けをひとつ落として、俺は緑茶の濁りが溜まった、最後の一口を一気に飲み干した。
新月メランコリー#05
(あたたかい感触に触れた気がした)
(やさしい声を聞いた、気がした)
外での鍛錬が出来ないせいか、はたまた気を遣っていてくれているのか。
窓ガラスに打ち付ける雨音に紛れて、刀を手入れする音が聞こえる。
砥粉をはたいたり、懐紙をめくる音だったり。普段何気なく聞いている音が、酷く大きく聞こえた。
それは彼が隣にいる、何よりもの証拠。
「あの、神田さん。鍛錬場に行かれても大丈夫ですよ?私のことはお気になさらず…」
「いたら迷惑か」
「いやいや、そんなことは微塵もありません!けど、その、ヒマじゃないかな〜…と思って…」
「たまにはダラダラするのも悪くねぇだろ」
まぁ確かに最近は元帥の仕事も忙しかったようだ。
気を遣って声をかけたのだが、もしかすると『出ていけ』と催促しているように聞こえてしまって逆効果かもしれない。
彼の思うように過ごしてもらうことにしよう。
「じゃ、じゃあお茶でも用意しましょうか?」
「見えないのにか?いいからそこに座ってろ」
…逆に気を遣わせてしまった。これは失敗だ。
ぽん、とひと撫でされる頭。
隣から僅かに遠のく足音。
(目が見えないと、なんか色々意識して…ちょっと疲れるなぁ…)
目が見えていれば……指が長い大きな手を意識することも、足音が遠のいて寂しい気分になったりも、しなくて済むのに。
なんとも不自由だ。
半盲はもちろん全盲の人の、生活自体がいかに大変か身をもって思い知る。
(……五感のひとつを塞げば他の五感が冴える、とは聞いたことがあるけど)
何の変哲もない石鹸の匂いも、不意に触れる感触も、心地よく響く声も、潜めたような息遣いさえ意識してしまうとは。
すぐに心拍数が上がってしまうのは、どうにかならないものか。
(心臓に、悪い)
事ある毎に『これは ではない』『ただの師弟』『心拍数が上がるのは見えなくて、緊張しているからだ』と自分に言い訳を何度も何度も重ねるのは、中々疲れてしまうのだ。
……そう。
この感情に、名前をつけてはいけない。
***
「…………名無し?」
特に、用はない。何となく呼んだだけだ。
入れた茶はすっかり温くなり、雨足が多少弱くなった頃合。
することもなく暇を持て余していた愛弟子は、壁に頭を預けて規則的な呼吸を繰り返すばかり。
呼んでみても返事がない。
瞼を閉じているか開いているか包帯で分からない――つまるところ起きているか寝ているかの確認は、こうして声を掛けるくらいしか方法がなかった。
雨音をずっと聞いていて眠くなったのだろうか。
鉛色の重たそうな雨雲は、初夏の鮮やかな新緑ですらモノトーンに染め上げているように見える。
その中で生白く浮き上がるのは名無しの頬と、痛ましくも丁寧に巻かれた白い包帯だった。
一見すれば死んでいるようにも見えるそれを否定するように、俺は柔らかそうな頬に手を伸ばした。
微睡むように、あたたかい。
僅かに漏れる呼吸に乱れもない。
大丈夫だ。生きている。
ほっと小さく息をついて、名無しの頬に掛かった髪を指先でそろりと払った。
(ちゃんと顔が見てぇな)
ころころと変わる表情。視線。
雲ひとつない夜の空のような瞳。
アクマを屠る時のみ見れる、神が造った金色の満月。
笑ったり、拗ねたり、怒ったり、落ち込んだり。
目は口ほどに物を言う、という言葉があるほどだ。
包帯を巻いていても名無しは名無しなのだが、やはり少しだけ物足りない感じはあった。
――贅沢、なのだろうか。
それでもやはり、その顏を。…笑った顔が見たかった。
「……早く治せよ」
あぁ。鍛錬は一人の方がよかったはずなのに。
いつから充足感を感じられなくなったのだろう。
溺れる。
おぼれる。
オボレル。
こんな感情、すっかり忘れてしまっていた程、久方ぶりだった。
静かに眠る弟子の包帯に口付けをひとつ落として、俺は緑茶の濁りが溜まった、最後の一口を一気に飲み干した。
新月メランコリー#05
(あたたかい感触に触れた気がした)
(やさしい声を聞いた、気がした)