short story
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名無しの部屋にはカレンダーが掛けてある。
そこには『リナリーとお買い物』とか『ラビさんに本を返す日』など他愛ない事から、何日かホームを留守にする任務の日など大体の予定を書き込んでいる。
名無しは小さく溜息を吐いて、今週の水曜日から再来週の日曜日まで羽根ペンで真っ直ぐ線を引いた。
愛おしいって、こういうこと。
(クソだりぃ。)
中央庁に呼び出され、近状報告の会議に出席させられた神田は不機嫌以外の何物でもない。
数日に一度は本部へ電話をかけ、名無しの声を聞いて活力を貰っていたが、それでも触れ合えないもどかしさは積もる一方だった。
しかも『今日は図書室でたくさん本を借りました』とか『鍛錬、いつもより多めに出来ました』とか、なんてことないながらも充実している日々を送っており、神田の中で形容しがたい靄がうっすらと積もっていった。
本をのんびり読んでる名無しの隣で黙々と六幻の手入れをしたいし、鍛錬だって同じセットを彼女がこなすことは出来なくとも、頑張る名無しを見ていたい。
何より、自分がいなくとも意外と楽しんでいることが少し──ほんの少しだけ面白くなく、口には出さないものの神田はちょっとだけ拗ねていた。
自分でも自覚している子供じみた感情。
いつから自分はこんなに女々しくなったのか呆れてしまうが、これもどれも全て『名無しに対してだけは』という枕詞がついてしまう。
惚れたら負け、なんて誰が言い始めたのやら。
コムイへの報告も端的に済ませ、神田は自室へ戻らず名無しの部屋へ真っ直ぐ向かった。
神田のピリピリとした空気にすれ違う団員は顔を強ばらせたり、一歩身を引いたり、交わしていた会話を止めたり、反応は様々だ。
昔の彼ならこんな不機嫌は日常茶飯事だったのだが、ここ数年はとても穏やかだった。
理由は言うまでもないだろう。
詰まるところ、団員とて多少は理解している。
神田がヴァチカンへ出張していたことも知っているし、聞きたくもない長ったらしいありがた迷惑な話を聞かざるを得ないし、それがいかに彼にとって苦痛なのか重々承知なのである。
勿論、機嫌が悪い時は大抵名無し不足ということも周知の事実だ。
だからこそ、全員口を揃えてこう言う。
『名無し、早く神田の機嫌を直してくれ』と。
「名無し。」
声を掛け、部屋をノックする。
だが部屋の主の返事はなく、しんと静まり返ったまま。
(寝てんのか?)
時刻は夜だが、就寝するには少しばかり早い時間だ。
駄目元でドアノブを回せば、不用心なのかあっさりとドアが開いてしまう。
『今度言い聞かせねば』と呆れ返り部屋を覗き込めば、やはり無人のようで息遣いさえ聞こえてこなかった。
(任務、とは聞いていないが、)
名無しの予定は大体カレンダーに書き込んでいることを、神田は知っていた。
だから任務に出ているなら何かしら書いているだろうし、何もなければホームの何処かでフラフラしているのだろう。
明かりもつけず、薄暗い部屋の中で壁掛けのカレンダーを見遣る。
『リナリーとお買い物』
『ラビさんに本を返す日』
楽しみにしている予定から備忘録に近い内容まで、ちまちまと書き込んでいるあたり彼女のまめな性格がよく出ている。
その中で神田の視線にとまったもの。
先々週の水曜日から今日まで、青いインクでアンダーラインのように真っ直ぐ引かれた線。
内容は『神田さん出張』と書かれた、今回の中央庁へ出向く予定がメモされていた。
──しかし神田が固まったのはそれが直接的な原因ではない。
英語で書き込まれたテキストの下に、ぽそりと小さく書かれた日本語。
それが読める人間は教団の中でも数が限られる。
博識なラビなら読めるかもしれないが、少なくともアレンやリナリー達は『日本語だろう』と認識する程度の、他愛ない一文。
『さみしい』
部屋のカレンダーなんて本来名無しだけが見るものだ。
油断していたのか、はたまた我慢できないくらい寂しかったのか。
電話口ではそんな素振りを一切見せなかった彼女だが、その四文字には嘘偽りのない、正直な心情が一言に綴られていた。
見てはいけないものを見てしまった罪悪感。
寂しい思いをさせてしまった後ろめたさ。
チクチクと痛む良心を遠くに置いていってしまうくらい、今すぐ──
「あれ。神田さん?帰ってきてたんですか?」
ドアを開け、灯りをつける小柄な影。
明るくなった部屋の入口には、会いたくて逢いたくて仕方なかった名無しが立っていた。
早足で、大股で、一歩、二歩、三歩。
彼女が瞬きをするより速く、腕の中にしまい込み、力を入れれば折れてしまいそうなくらい強く抱きしめた。
心臓が痛くなるくらい抱擁したくなる衝動を、人はきっと『愛おしい』と言うのだろう。
「ど、どうかされました?」
「会いたかった。」
飾らない一言。
ぶっきらぼうで誰よりも不器用な恋人の、珍しく甘えるような台詞に名無しは驚いたように大層目を丸くした。
「……嫌なことでもありました?」
「いつもの面倒くせぇ話だった。」
溜息混じりに息を吐き出し、名無しのふわふわとした髪へ顔を埋める神田。
風呂にはもう入ったのだろう。普段より濃いシャンプーと石鹸の匂いを肺いっぱいに吸い込み、長い睫毛に縁取られた瞼をそっと閉じる。
「おかえりなさい、お疲れ様でした。」
『任務の方が百倍もマシ』と文句を言っていた師匠は相当お疲れなのだろう。
名無しが労いを込めて背中を擦れば、それに応えるように神田の腕へより一層力が込められた。
狂おしい程に名無しを抱きしめたくなった理由は『疲労』ではないのだが、本人は知る由もない。
「……電話した時、」
ぽつぽつと。
まるでバツが悪いことを告白する子供のような声で神田は口を開く。
「俺がいなくても意外と楽しんでんな、って思った。」
返答に困るようなことを白状している自覚はある。
言われた名無しはというと一瞬意外そうに目を見開き、困ったように「あー…」と笑った。
「図書館から本を借りたのはいいんですけど、その、あまりページが進まなくて」
いじけた子供をあやす様にぽんぽんと背中を撫でる。
「……鍛錬も数はこなしたんですけど、モチベーションは正直あんまり上がらなかったです」
神田へ電話で話した、あれこれの裏話。
名無しの頭頂部から顔を上げ、腕の中にしまった彼女の顔を覗き込むように神田は視線を真下に向けた。
「えっと、つまり、その」と言い淀む名無しは気恥しいのか、ぽぽぽっと頬を上気させる。
勿論それは風呂上がりだからではなく、漸く最近慣れてきた『甘え』を口に出したから。
「私も、会いたかった、です。」
無遠慮に見上げ、目元をやわらかく蕩けさせて。
花が綻ぶように笑う彼女を、神田は離さないように強く抱きしめた。
そこには『リナリーとお買い物』とか『ラビさんに本を返す日』など他愛ない事から、何日かホームを留守にする任務の日など大体の予定を書き込んでいる。
名無しは小さく溜息を吐いて、今週の水曜日から再来週の日曜日まで羽根ペンで真っ直ぐ線を引いた。
愛おしいって、こういうこと。
(クソだりぃ。)
中央庁に呼び出され、近状報告の会議に出席させられた神田は不機嫌以外の何物でもない。
数日に一度は本部へ電話をかけ、名無しの声を聞いて活力を貰っていたが、それでも触れ合えないもどかしさは積もる一方だった。
しかも『今日は図書室でたくさん本を借りました』とか『鍛錬、いつもより多めに出来ました』とか、なんてことないながらも充実している日々を送っており、神田の中で形容しがたい靄がうっすらと積もっていった。
本をのんびり読んでる名無しの隣で黙々と六幻の手入れをしたいし、鍛錬だって同じセットを彼女がこなすことは出来なくとも、頑張る名無しを見ていたい。
何より、自分がいなくとも意外と楽しんでいることが少し──ほんの少しだけ面白くなく、口には出さないものの神田はちょっとだけ拗ねていた。
自分でも自覚している子供じみた感情。
いつから自分はこんなに女々しくなったのか呆れてしまうが、これもどれも全て『名無しに対してだけは』という枕詞がついてしまう。
惚れたら負け、なんて誰が言い始めたのやら。
コムイへの報告も端的に済ませ、神田は自室へ戻らず名無しの部屋へ真っ直ぐ向かった。
神田のピリピリとした空気にすれ違う団員は顔を強ばらせたり、一歩身を引いたり、交わしていた会話を止めたり、反応は様々だ。
昔の彼ならこんな不機嫌は日常茶飯事だったのだが、ここ数年はとても穏やかだった。
理由は言うまでもないだろう。
詰まるところ、団員とて多少は理解している。
神田がヴァチカンへ出張していたことも知っているし、聞きたくもない長ったらしいありがた迷惑な話を聞かざるを得ないし、それがいかに彼にとって苦痛なのか重々承知なのである。
勿論、機嫌が悪い時は大抵名無し不足ということも周知の事実だ。
だからこそ、全員口を揃えてこう言う。
『名無し、早く神田の機嫌を直してくれ』と。
「名無し。」
声を掛け、部屋をノックする。
だが部屋の主の返事はなく、しんと静まり返ったまま。
(寝てんのか?)
時刻は夜だが、就寝するには少しばかり早い時間だ。
駄目元でドアノブを回せば、不用心なのかあっさりとドアが開いてしまう。
『今度言い聞かせねば』と呆れ返り部屋を覗き込めば、やはり無人のようで息遣いさえ聞こえてこなかった。
(任務、とは聞いていないが、)
名無しの予定は大体カレンダーに書き込んでいることを、神田は知っていた。
だから任務に出ているなら何かしら書いているだろうし、何もなければホームの何処かでフラフラしているのだろう。
明かりもつけず、薄暗い部屋の中で壁掛けのカレンダーを見遣る。
『リナリーとお買い物』
『ラビさんに本を返す日』
楽しみにしている予定から備忘録に近い内容まで、ちまちまと書き込んでいるあたり彼女のまめな性格がよく出ている。
その中で神田の視線にとまったもの。
先々週の水曜日から今日まで、青いインクでアンダーラインのように真っ直ぐ引かれた線。
内容は『神田さん出張』と書かれた、今回の中央庁へ出向く予定がメモされていた。
──しかし神田が固まったのはそれが直接的な原因ではない。
英語で書き込まれたテキストの下に、ぽそりと小さく書かれた日本語。
それが読める人間は教団の中でも数が限られる。
博識なラビなら読めるかもしれないが、少なくともアレンやリナリー達は『日本語だろう』と認識する程度の、他愛ない一文。
『さみしい』
部屋のカレンダーなんて本来名無しだけが見るものだ。
油断していたのか、はたまた我慢できないくらい寂しかったのか。
電話口ではそんな素振りを一切見せなかった彼女だが、その四文字には嘘偽りのない、正直な心情が一言に綴られていた。
見てはいけないものを見てしまった罪悪感。
寂しい思いをさせてしまった後ろめたさ。
チクチクと痛む良心を遠くに置いていってしまうくらい、今すぐ──
「あれ。神田さん?帰ってきてたんですか?」
ドアを開け、灯りをつける小柄な影。
明るくなった部屋の入口には、会いたくて逢いたくて仕方なかった名無しが立っていた。
早足で、大股で、一歩、二歩、三歩。
彼女が瞬きをするより速く、腕の中にしまい込み、力を入れれば折れてしまいそうなくらい強く抱きしめた。
心臓が痛くなるくらい抱擁したくなる衝動を、人はきっと『愛おしい』と言うのだろう。
「ど、どうかされました?」
「会いたかった。」
飾らない一言。
ぶっきらぼうで誰よりも不器用な恋人の、珍しく甘えるような台詞に名無しは驚いたように大層目を丸くした。
「……嫌なことでもありました?」
「いつもの面倒くせぇ話だった。」
溜息混じりに息を吐き出し、名無しのふわふわとした髪へ顔を埋める神田。
風呂にはもう入ったのだろう。普段より濃いシャンプーと石鹸の匂いを肺いっぱいに吸い込み、長い睫毛に縁取られた瞼をそっと閉じる。
「おかえりなさい、お疲れ様でした。」
『任務の方が百倍もマシ』と文句を言っていた師匠は相当お疲れなのだろう。
名無しが労いを込めて背中を擦れば、それに応えるように神田の腕へより一層力が込められた。
狂おしい程に名無しを抱きしめたくなった理由は『疲労』ではないのだが、本人は知る由もない。
「……電話した時、」
ぽつぽつと。
まるでバツが悪いことを告白する子供のような声で神田は口を開く。
「俺がいなくても意外と楽しんでんな、って思った。」
返答に困るようなことを白状している自覚はある。
言われた名無しはというと一瞬意外そうに目を見開き、困ったように「あー…」と笑った。
「図書館から本を借りたのはいいんですけど、その、あまりページが進まなくて」
いじけた子供をあやす様にぽんぽんと背中を撫でる。
「……鍛錬も数はこなしたんですけど、モチベーションは正直あんまり上がらなかったです」
神田へ電話で話した、あれこれの裏話。
名無しの頭頂部から顔を上げ、腕の中にしまった彼女の顔を覗き込むように神田は視線を真下に向けた。
「えっと、つまり、その」と言い淀む名無しは気恥しいのか、ぽぽぽっと頬を上気させる。
勿論それは風呂上がりだからではなく、漸く最近慣れてきた『甘え』を口に出したから。
「私も、会いたかった、です。」
無遠慮に見上げ、目元をやわらかく蕩けさせて。
花が綻ぶように笑う彼女を、神田は離さないように強く抱きしめた。