ちぇしゃネコ症候群(ナワトレ)

呼ばれた方に向かうと、きゅるきゅると弦楽器の音も聞こえてくる。きちんと演奏されたものではなく、手遊びで掻き鳴らしているような音だ。
家を回り込み、二人が庭に入れば手入れされた花々と凌霄花のアーチ、そして見事な藤棚があった。その下に長テーブルが置かれ、そこにいくつもの椅子と食器が並んでいる。テーブルの正面に帽子を被った髪の長い大男が座り、金色の楽器をつまらなそうに弾いている。弾くと言っても手はカップとソーサーを持っており、楽器を鳴らしているのは彼の長い髪先にある青い顔だ。
そしてその隣には白い兎を模した衣服の女性が座っている。彼女は大きなハニーポットに何かを押し込めていた。二人の共通点は顔が鼻から下しか見えない事だ。
帽子の男はトレイシーとナワーブに気付くと大きな口を笑みの形に歪ませた。
「人間にチェシャ猫!珍しい客じゃないか。そうだろう?三月うさぎ」
「私はご招待した記憶はないのですが……」
三月うさぎの落ち着いた低い声にナワーブは目を瞬いた。家の前で聞いたのはこの声だ。格好が非常に若々しいので意外だったが、もしかすると年は見た目よりも上なのかもしれない。
三月うさぎはハニーポットを抑える手を緩めずに、顔だけをこちらに向ける。
「なにか御用でしょうか、トレイシーさん。今手が離せないのですが」
「お届け物だよ。料理人がパンケーキ作りすぎたからどうぞって。蜂蜜にきっと合うからお茶請けにって」
「それはありがたいですね」
バスケットをトレイシーがテーブルに置くと、帽子男がうきうきとした様子で立ち上がる。
「君らも座るといい。丁度退屈していたんだ。いいだろう?」
「ええ。構いませんよ」
三月うさぎ、の返答を聞く前に、帽子男の長い髪がうねって椅子を二つ掴んで引いている。この風変わりなお茶会にナワーブとトレイシーが参加することは彼の中で決定のようだ。
トレイシーは慌てて両手を振って後退る。
「いやいや、お邪魔する気はないんだ。私たちこれからお城に行かなきゃいけないし」
「何を言う。城はそこから逃げないだろう。だがティーパーティーは時間が来たら終わってしまう」
「よく分からないが、俺らが参加したら席が足りなくなるんじゃないか?」
「足りなくなるかもしれないし、余るかもしれません。でもこのお茶会では大した問題ではないですよ」
「余る?招待した客が来ないのか?」
「それはない。そもそも招待してないからな、誰も」
帽子男と三月うさぎはなぞなぞめいた事ばかりをいうので会話が噛み合わない。通じているようで通じていないやりとりに、ナワーブは頭が痛くなってきた。
さっきまで常識的なマイクと居たので忘れていたが、この世界の連中はこっちが普通だ。最初のトレイシーとの会話もこんな感じだったのを思い出す。
「誰も招待してないのに、パーティーなのか?」
「お茶会はいつでもやっているのです。ウロボロスの帽子屋さんがいれば、そこは彼のお茶会の会場になります。そして彼がヴァイオリンを弾きたくなったらいつか終わります」
「?どういうことだ?」
三月うさぎに問うても、彼女はハニーポットの蓋を縄で縛り上げるのに夢中になっている。そんなナワーブの袖を引いて、トレイシーがこっそりと耳うちをする。
「あそこの帽子の人ね、アントニオって言ってヴァイオリン奏者なの。でも弾くのが好きじゃなくて『女王様』に演奏会呼ばれてるのにお茶の時間で忙しいって言ってずっと断ってるんだよ。お茶を飲み終わったら行く、ずっと自分はお茶会中だって言い張ってるの」
「それが許されんのか」
「許されてるから首と体が繋がってるんだよ」
三月うさぎの家なのに、上座に帽子男が当然の様に座っていたのはメインだからかとナワーブは納得する。
ナワーブが席に座り、トレイシーがバスケットの中身を並べていく。パンケーキにクッキー、土産にとマイクから渡された赤ワインのボトルを取り出すと、帽子屋が歓声を上げる。
「おお!これは気が利いている!紅茶も素晴らしいが赤ワインに勝るものはない!」
「蜂蜜を用意しましょう。グラスも必要でしょうし」
三月うさぎは縄で雁字搦めにしたハニーポットをテーブルに置くと、席を立った。帽子屋――アントニオはしかしグラスの到着が待ちきれないようで、赤ワインのコルクを髪で引き抜きにかかっている。器用にも他の髪はナワーブとトレイシーの前のカップに紅茶を注いでくれている。
ナワーブがカップを手に取ると、向かいにある縄で雁字搦めのハニーポットががたんと揺れた。三月うさぎが押し込めていたのは生き物だったようだ。ポットはがたがたと揺れ、こてんと転がった。その後もごとごとと揺れている。
ナワーブはその様をじっと見ていたが、やがてトレイシーの方に視線を向ける。トレイシーもハニーポットを見つめている。
「なあ、あれなんだ?」
「うーん……もしかして」
トレイシーは手を伸ばしてハニーポットを引き寄せると、なんとか縄の固い結び目を解いた。蓋を開ければにゅっと薄茶色の耳と頭が出てきた。ポットから顔を出した巨大ねずみが低い怨嗟の声で唸る。
「人が寝ている間にあの女……」
「やっぱり!」
トレイシーがポットをひっくり返して振ると、嵌っていたねずみがテーブルに転がり落ちた。ねずみは人のような動作で首を振ると、ひくひくとあたりの匂いを嗅ぐ。アントニオ、パンケーキの山と視線を巡らし、最後にトレイシーとナワーブに目を向けた。
ねずみは首を傾げるとぺたんとそこに腰を下ろす。本当に人間臭い動きをする奴だ。
「トレイシーと、誰?キウイ?」
「人間だよ、ナワーブっていうんだ」
「へえ」
質問しておきながら、言うほど興味なさげな態度でねずみは皿から取ったクッキーを齧り始めた。なんだか太々しい奴だなとナワーブは思う。
薄茶色のネズミは中型犬より少し小さいサイズで、顔の片側、目の辺りに古い傷痕がある。なかなか凄みがある顔なのだが、どこかぼーっとした雰囲気だ。トレイシーがちょろちょろと動くねずみの尻尾を見ているので、まさか飛びかからないよなとナワーブは少し心配になった。
しかしそんなナワーブの心配をよそに、トレイシーは身を屈めてねずみの顔を覗き込んでいる。
「ノートンはお茶会に招待されたの?」
「違う。茶会には茶菓子が出るだろう。だから帽子屋さんについていけばただ飯にありつけるなと」
「勝手に参加してるんだね……」
「構わんさ!ティーパーティーには客がいなくてはな!」
アントニオはご機嫌に叫び、ワインのコルクを放り投げた。そう言う割には、お客が壺に詰められてるのを放っておいたんだよなとナワーブは思う。
クッキーを両手に抱えてもぐもぐと口を動かしているねずみの顔はぱんぱんになっている。頬袋などないはずなのによく膨らむものだ。
ねずみ――ノートンの尻尾をじっと見入ってるトレイシーに、ナワーブはやっぱり不安を覚える。その可愛らしい少女の姿でいきなりガブっといかれたら夢に見そうなので、勘弁して欲しい。
「トレイシー」
「なに?」
「……その、獲物見る目やめろ。流石に茶会の卓でねずみの狩猟は見たくねえんだが」
「やだなあ、ナワーブ。そんなこと出来るわけないじゃん」
トレイシーの肩を掴んでナワーブがそう言うと、トレイシーはけらけらと笑い出した。
そうしてトレイシーは猫に姿を変えると、ノートンの隣に座って見せる。金の猫と薄茶のねずみは並ぶとその大きさがちぐはぐだった。ねずみの方が、猫よりも一回り大きいのだ。
なるほどとナワーブは思う。飛びかかったところで、ねずみの鋭い歯で反撃されたらトレイシーの鈍臭さでは勝てそうにない。
「ほら。こんななの」
「でっかいな、あんた」
ナワーブが感心していると、ノートンはクッキーを飲み込んだ。
「うんまあ、僕よりトレイシーの方がねずみ取りに引っかかるし」
「は?」
「ち、違うの!バターに似てたんだもん!あのチーズ!」
トレイシーは慌ててそう取り繕おうとするが、寧ろ襤褸が出ている事に本人は気づいていないらしい。ナワーブが呆れた溜息を吐き、アントニオは大笑いを始める。
ノートンはスコーンを抱えて齧り付きながら話を続ける。
「にゃーにゃー鳴いてるから何かと思ったら前脚挟まれてて。仕方ないから僕が外して上げたんだけどその後尻尾ぶぐっ」
「もう黙ってて!」
トレイシーは前脚でスコーンをノートンの口にぐいぐいと押し込む。これ以上暴露話をされては堪らない。このねずみさんは何を余計な事を話し始めているのか。
アントニオはと言えば、頬杖をついてにたりと楽しそうにしている。カップにワインが入っているので、より陽気になっているのだろう。
「なんだ、続けてくれていいぞ?ティーパーティーとは話に花を咲かせるのも大事だろう」
「他のはにゃしにして!ほら!ニャワーブ人間だから、にゃんか面白い事知ってるかも!」
「お前な……」
話をはぐらかすのに俺を利用するなとナワーブは思ったが、トレイシーはノートンの口に次から次へと食べ物を詰め込んで話をさせないようにしているのに忙しい。
そして見るからに期待している顔の帽子の男に、ナワーブは額を抑えた。話題を提供できるような社交性は無いぞ、俺には。
頭を抱えているナワーブの全身を見回し、アントニオは顎を撫でる。
「そうだな、人間は珍しい。特に君のような青年が来るのは。大抵は子供が入り込んでくるからなぁ」
「どうしてだ?」
「そちらの世界の入り口は小さくて、幼い子供がしでかすような悪戯や遊びでしか入り込めないからだ。時々大きな穴が開くこともあるが。例えば、誰かが無理やり両方の世界を行き来する、とかだな」
「ほう……」
アントニオが意味ありげにトレイシーに目線を向ける。ナワーブは目を細めて腕を組んだ。つまり、ナワーブが落ちるほどの穴を開けた犯人もトレイシーだった訳だ。
――あいつ、よくも人をドジ扱いしやがったな。
アントニオはカップを揺らし、ワインの香りを楽しんでいる。
「うさぎを追いかけて穴に落ちた子供もいたか。しかし君はそんな可愛げがあるようには見えんが」
「あんたの言う通り、装備をあの猫に取られてな。それ追っかけてここに落ちたんだ。帰るには城に行く必要があるとかで」
「ふむ。あんなところに行きたがるとは酔狂なと思っていたが、そういうことか」
城を「あんなところ」呼ばわりするとは。余程この帽子男は城か、もしくは城にいる人間が苦手なようだ。
ナワーブのカップが空になったのを見て、アントニオがワインボトルを差し向けようとするのを手で断る。そうすると髪先の青い顔がティーポットを傾ける。変人と思ったが、一応客をもてなそうとする気持ちはあるようだ。
紅茶をカップに注ぎながら、アントニオはテーブルの上で両手を組む。
「しかし君を疑うわけではないが、チェシャ猫は見ず知らずの人間にそんな悪戯を仕掛けるタイプだったのか?」
「あー、本人は拾ったつもりだったらしい。いたく気に入って、今も返してくれなくてな」
「なんだ?またたびでも入っていたのか?」
「まさか!」
ナワーブは笑いながら右腕に装着した肘当てを撫でる。
「あいつの鼻がイカれてるのか、いい匂いがするって言い張ってるんだ。精々革の匂いか、俺の匂いしかしないだろうに」
「それは」
「うにゃー!」
「!」
トレイシーの叫び声にナワーブは顔を上げる。ドーナツを抱えて気持ちよさそうに寝落ちている大ねずみの下から、金色の尻尾と脚が見えている。
「ニャワーブ!助けてー!」
「なんでそんなことになってんだ……?」
じたばたとしているトレイシーは自力でノートンの下から抜け出すことが出来ないようだ。ナワーブがねずみを持ち上げてやると、見た目よりもずしりと重い。
「うっ⁈こいつ、身が詰まってんな!」
「た、助かった。潰れるかと思った……」
トレイシーはひいひいとテーブルから逃げ出すと、人の姿に戻った。恨めしそうな顔で、ぐうぐうと寝ているノートンの鼻を弾くと「ふが」とねずみが目を開いた。
「んあ?……ああ、また寝てた」
「寝てた、じゃないんだよ!」
まだ開ききっていない目で、しかしドーナツを食むのはやめないねずみ。相当食い意地が張っているのだろう。
彼はもそもそとドーナツを完食すると、今度は座布団サイズのパンケーキに食らいついた。
「丁度いい枕がいたからつい」
「私は枕じゃないんだけど!」
「でも、確かに食べるのに邪魔だなあ、眠気。寝たら起こしてくれない?」
「寝てから食えばいいのでは……」
目をしぱしぱさせているねずみに、ナワーブはそう言ってみる。見るからに、本当に眠そうなのだ。ならば一度思い切り寝ればいいのにと思ってのアドバイスだった。
だが、本人ではなくトレイシーが首を振る。
「寝ても寝ても、眠りねずみだからいつでも眠いんだよ」
「そんなねずみがいんのか」
「ぐう……」
「もー!起きて!」
今度はパンケーキを枕に寝始めたねずみの体を揺すってトレイシーは起こしてやる。少しでも気を抜くとすぐ寝てしまうようだ。
「食べたいなら人型になればいいじゃん。そっちの方が眠気もマシなんでしょう」
「嫌だ。食べ物がこっちの方が大きい」
「もー、そんなこと言ってぐっすり寝てたからメリーにハニーポットに詰められたんでしょ」
トレイシーの努力虚しく、ノートンはパンケーキにかぶりついたまま、すやすやと寝に入ってしまう。これはもう駄目だと諦めて、トレイシーも自分の席に戻る。
ノートンは時たま起きてはパンケーキを食べ進め、アントニオはナワーブのカップが空になる度に、ワインを勧めてくる。だが何故かトレイシーのカップには紅茶しか注がなかった。
そうしている間に三月うさぎ――メリーが帰って来た。
彼女は片手に幾つかの瓶と、もう片方の手にグラスを持っている。
テーブルの上でもそもそとパンケーキを食べているねずみを見て彼女が「ちっ」と舌打ちするのをナワーブは見逃さなかった。上品な物腰の三月うさぎがそんな態度に出るとは、この二人は大分仲が良くないようだ。
「遅かったな」
グラスを受け取りながらアントニオがそう言えば、メリーは微笑んで蜂蜜の瓶をテーブルに並べていく。
「蜂蜜を選んでいて時間がかかってしまいました。帽子屋さんはみかんの蜂蜜がお好きでしたよね」
「菜花も悪くはなかった」
「そうおっしゃると思って今回もいろいろと持って来たので試してください」
「ふむふむ。だがまずはワインで乾杯といこう」
「いただきます」
帽子屋の髪がグラスに赤いワインを注ぐ。彼は変わらず紅茶のカップでワインを楽しんでいる。メリーはグラスの一つを手に取った。残り二つのワイングラスは一つはナワーブの前に、もう一つはねずみの隣に置かれた。
出されたものは仕方ないので、ナワーブはグラスに口をつける。ノートンは隣のグラスには目も向けず、パンケーキに夢中になっている。
ふと視線を感じて横を見ればグラスを見つめているトレイシーがいた。そういえば何故彼女の分が無いのだろう?ナワーブはグラスをトレイシーの前に差し出す。
「飲むか?」
「ううん。まだ飲んじゃダメって言われてる」
「?そうなのか」
頭を振るトレイシーは、きらきらとした目をグラスに注いでいる。ワインに興味はあるようだ。しかし禁じられているらしい。ナワーブは知らないが猫はワインと相性が悪い、なんてことがあるのかもしれない。
トレイシーは行儀悪くテーブルに体を伏せると、蜂蜜の瓶を突く。
「ねえ、メリーこの真っ黒のはなに?前のとは違うね」
「それはそばの蜂蜜です。少しクセはありますが深みのある味が魅力なんですよ」
「そば?そばは、あの白い花だろう?こんな黒くなるのか?」
思わず口を挟んでしまう。そばはサラダや焼き物、湯に溶かしたりと料理にもよく使うのでナワーブも知っている。あれは白い小さな花をつける筈だ。
メリーはにこにことして瓶の蓋を開けて見せる。客人二人が蜂蜜に興味を示したことが嬉しいらしい。スコーンを割って、そこに木の匙で蜂蜜をかける。
「どうぞ。試してみてください」
「ああ……」
ナワーブは言われるがまま、スコーンを口に入れる。そばの蜂蜜は独特な風味で、知っている味とはまるで違ったが悪くはない。トレイシーはあまり好きな味ではなかったようで、こっそりとナワーブの皿にスコーンを乗せている。
他の蜂蜜も味見をさせてもらったが、トレイシーはりんごの蜂蜜が気に入ったようでおかわりを催促していた。優しい味のものが好きなようだ。
ナワーブは花の香りがする蜂蜜が苦手で、ラベンダーはトレイシーの皿に移動させた。
アントニオは紅茶に蜂蜜を垂らし、香りを味を楽しんでいる。
「ふむ、悪くない」
「それは良かったです」
「蜂蜜に種類があるのは知ってたが、ここまで味が違うんだな」
ナワーブが瓶を手に取りラベルを見ていると、メリーが優雅にティーカップを降ろす。今日の彼女は特に機嫌が良い。新しい客人が気に入ったのだろう。
「良ければ他のものもご覧になりますか。コーヒーの花の蜂蜜なんてどうでしょう」
「興味はあるな」
「それではこちらへどうぞ」
家屋に向かうメリーとナワーブに、当然のようにトレイシーもついていこうと席を立つ。
ところがトレイシーの前に長い髪が通せんぼするように伸びた。振り返るとアントニオが指先でテーブルを叩いている。
「君は残るといい。話がある」
「え、うん……」
さっきまでの陽気な雰囲気がすっかりと消え失せた帽子屋に、トレイシーは促されるままに席に戻る。
ナワーブ達が屋内に消えたのを見計らい、アントニオは声を低めてトレイシーに尋ねる。
「城まであの男に付いていく気か、チェシャ猫」
「う、うん。だって証印の片方持ってるの私だし」
「譲渡することが出来るだろう。君も知っているはずだ」
「…………」
勿論、トレイシーは知っている。これを渡した伯爵も知っているはずだ。知っている上で選択権をトレイシーに託した。
ナワーブを城の前で見送るのか、最後まで付いていくのか。
黙り込んだトレイシーに、帽子屋は右手を指差す。
「悪いことは言わない。私はその証印を今すぐ人間に渡すべきだと思うがな」
「僕もそう思うけど」
いつの間にか、トレイシーの隣に背の高い男が座っている。彼はワイングラスを手に持ち、一気に中身を飲み干すと顔を顰める。その顔の片側にはねずみと同じ火傷の痕があった。
人に姿を変えたノートンは、勝手に蜂蜜の瓶を手に取るとパンケーキにふりかける。
「トレイシー、そのお腹に隠してる肘当てもすぐ返した方がいいよ」
「え」
トレイシーが慌ててお腹を抑えると、ノートンはフォークでパンケーキを突き刺した。
「な、なんで分かったの」
「さっき枕にした時になんかいつもよりゴツゴツするなーって」
「眠りねずみ、仮にもレディにまな板呼ばわりはどうだ」
「ねずみ取りにひっかかるレディは知らないんだけど」
はん、と鼻で笑うノートンをトレイシーは睨みつける。しかし実際にその現場を目撃されているのでなにも言えない。アントニオもなにをどさくさに紛れて失礼な事を言っているのか。
うぐぐと唸るトレイシーに、しかしアントニオは首を振る。
人間の、ナワーブの匂いを気に入っているというチェシャ猫。執着しているのが物ならいいが、人ならば話は違う。
「チェシャ猫、別れ難く思うだろうが人間は諦めなくてはならない」
「わ、私は別に」
「それ、本当は欲しいんでしょ。でも思い出を残しても辛いだけだよ。だから何も残さない方がいい」
ノートンが肘当てのある辺りを見ながらそう言うのを、トレイシーは俯いて聞く。欲しいと、そう思っていたのは事実だ。
耳もペタリと下がってしまったトレイシー。淡い恋心を切り裂くようなことを言うのは、二人も気持ちがいいものではない。だが、だからこそ傷が深くならないようにしてやりたい。
「城には行くな。入り口で別れるべきだ。君のためにもそれが良い」
「で、でも!ナワーブはドジなとこあるし、放っておいたらピンチになってるし、私が最後まで送ってあげないと、何あるか分からないし!無事に帰れるところまで見ないと心配なの!」
アントニオの忠告に、そう言い募るトレイシー。ノートンは目を閉じて、息を吐き出す。
「ちゃんと見送る気はあるんだね。なら、その肘当てもちゃんと返すこと」
「……分かってる。約束したから」
トレイシーが証印の浮かぶ右手を胸に押し当てる。別れなくてはならない時間が折角延びたのに、それを自分から差し出すことはできない。一分でも一秒でも先送りにしたいことだけど、ナワーブを困らせたいわけではない。
アントニオは頬杖をついて、幼いチェシャ猫を見下ろした。人の姿を得たせいで、元の世界の者に焦がれてしまうとはなんという皮肉だろうか。猫のままなら覚えなかった感情だろう。
「チェシャ猫、トレイシー。それならもう一つ、これだけは守るといい」
「なに?」
アントニオは帽子をずらすとトレイシーに顔を近づけた。
「城にどうしても行くなら、鏡と目を合わせるな。絶対に」
「鏡?鏡って」
「必ず守るといい。分かったな」
「……うん」
アントニオの有無を言わさない雰囲気に、トレイシーは頷くことしかできなかった。
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