ちぇしゃネコ症候群(ナワトレ)
毛並みはつやつやほわほわなのに、ぐったりとしてぴくりとも動かない猫がナワーブの膝上に転がっている。
胡椒コーヒーを啜りながら、ナワーブはぽそりと呟く。
「結局こうなったか」
「そりゃそうなるでしょ」
半乾きの状態で草原を走り回って、汚れがつかないはずがない。伯爵邸についた途端に伯爵に首根っこを掴まれたトレイシーは、洗い場に連行されていった。
もう一度シャンプーからやり直しをする羽目になり、今さっきまでまた屋敷中に響く怪物の咆哮をあげていたのだ。今度こそ乾燥まで完璧に終わらせて出てきたのだが、トレイシーの体力は限界だった。
台所でマイクとお茶をしていたナワーブの膝上によじ登ると、肘当てを抱え込んで寝に入ってしまった。本当に枕にしてやがるとナワーブは呆れたが、約束をしていたのでそのまま寝かせてやることにする。そのせいでナワーブはこの場から動けなくなってしまったが、まあいいかと猫を撫でる。
「こいつ、なんたってこんな寝にくいところで寝るんだか」
口ではそういうものの、ナワーブは和やかな目で丸まっている猫を見ている。そんなこと言って嬉しいくせにとマイクは思ったが、きっと否定するので黙ってにやにやしていることにする。
うんと伸びをして、マイクは壁の時計を見やる。見たところで文字盤を指す針はないのだが、マイクはなんとなくで勝手に時間を決めている。今は小腹が空いている気がするから、おやつの時間だ。
マイクは勢いよく立ち上がると、コーヒーを飲み干し、カップを背後に放り投げた。そのままカップはぱりんと割れる。
「よっし、おやつにしよう!ナワーブ、パンケーキ好き?」
「お、おう……」
割れたカップに気を取られていたナワーブは、狼狽えた返事をしてしまう。マイクはこの世界では常識的な方だが、胡椒コーヒーといい、やはりどこかイカれている。
今、そのカップ割る必要あったか?
引いているナワーブに構わず、マイクは鼻唄を歌いながらキャビネットから大きなボウルを取り出した。そしてそこに、胡椒の実をざらざらと投入する。
「……あっと、マイク」
「んー?なに?」
「それは、パンケーキを作ってるんだよな」
「そうだよ。あ、もしかして甘いの嫌い?」
「いや、そんな事はないんだが……」
「安心してよ!甘さは控えめにするからさ!」
確かに控えめにはなるだろうが違う刺激が強くなりそうな気がする。
ナワーブは菓子作りなんてした事はないが、それでもメインの材料が粉と卵な事くらいは知っている。胡椒も使うのかも知れないが、それでもそれは挽いたものであるはずだし、あんな量は使わないだろう。
しかし、卵を黄身と白身に分け、テキパキと作業を進める料理人に「俺の方が間違っているのか?」とナワーブは不安になり、パンケーキ作りを止める事が出来ない。
そうこうしているうちに、胡椒に卵の黄身やら牛乳やらが投入され、ぷかぷかと黒い粒が浮かぶ液体が出来上がった。マイクがそれを泡立て器でかき混ぜれば、胡椒の実が浮き沈みする。到底混ざり合うわけがないと思われる作業だったが、暫くすると胡椒の実は消えてしまった。
「??」
「ナワーブどうしたのさ。あー、もしかしてちょっと興味ある?パンケーキ作り!」
「気になると言えばすげぇ気になるわ……」
自分の手元を食い入るように見ているナワーブに、マイクは純粋に菓子作りに興味があるのだと思ったらしい。
ナワーブとしては菓子作りより胡椒が気になって仕方がないのだが。これは本当に自分が知ってるパンケーキになるんだろうか。
疑問を抱えながら工程を見つめているナワーブを気にする事なく、マイクは大きなフライパンで生地を焼き始めた。
待ってる間、手持ち無沙汰なナワーブは膝の上の猫を撫でるくらいしかやる事がない。洗い立てのトレイシーのふわふわさらさらな毛並みは非常に手触りが良く、出来ることならナワーブが抱き枕にして寝たいくらいだ。
呼吸で上下する猫の腹に手を乗せるとほんのりと温かい。会って間もない人間に弱点を晒すとは、人懐っこいのにも程があるのではないだろうか。
ナワーブが金色の猫の毛並みを楽しんでいると、パンケーキを乗せた大皿を手にマイクが戻ってくる。マイクは面白くなさそうに唇を尖らせる。
「いいなあ、ナワーブは。トレイシーってば普段は全然触らせてくれないのに」
「そうなのか?」
「すんごい臆病で警戒心が強いんだよ、その子。撫でようとすると消えちゃうし、勝手に抱っこしようものなら全力で引っかかれるよ。必要な時は大人しくしてくれるけど、それでも三十秒が限界だね」
「そんなにか。相当だな」
「そー。寝てる時も大体手が届かないところにいるし。だから人の膝に自分から乗りに行ってるの、初めて見た」
「へえ」
――人懐っこい訳ではないのなら、それはつまり……
マイクの言葉に、ナワーブは少しだけ気分が高揚するのを感じる。それがどういう感情なのかは、自分でも分からないのだが。ただただ、膝の上の温もりをより一層好ましく感じている事は確かだ。
「さー出来立てだよ、食べて食べて」
「……ああ」
目の前に置かれた大皿に、猫のトレイシーが二匹入りそうな巨大パンケーキが乗っている。ほぼ胡椒でできているはずのそれは非常に食欲をそそる良い香りがしている。
パンケーキと言うのでもっと平たいものを想像していたのだが、マイクが作ったパンケーキはふわふわで厚みがある。何も知らなければ純粋に美味そうだとナワーブも思っただろう。
恐る恐るナイフとフォークを手に取り切り崩してみるが、どこにも胡椒の粒は見当たらず、匂いもしない。ナワーブは少し小さめに切ったパンケーキの切れ端を、意を決して口に入れてみる。
「…………」
「どう?」
「…………美味い」
警戒してた胡椒は、影も形も見当たらない。それどころか今まで食べた事がないくらい美味しいパンケーキだった。コーヒーもだがどうなっているんだろうか。
ナワーブが今度は少し大きめに切り分けたパンケーキを口に運ぶのを見て、マイクはご機嫌に胸を張る。
「当然!僕が作ったんだからね!まだまだおかわりはあるから好きなだけ食べてくれていいよ!」
「ああ」
正直なところ、ナワーブはこちらに来てからずっと動いていたのもあり空腹ではあったのだ。ここはマイクの厚意に甘えよう。
ナワーブが二枚目を自分の皿に移すと、マイクがフライパンから放ったパンケーキが見事に大皿の上に乗った。
「あんた器用だなあ」
「まあね」
マイクは得意げに別のフライパンのパンケーキを中に放り、焼き目を上しにて受け止める。
「おお……」
「こちらにいたんですね」
ナワーブがマイクのフライパン芸を見ていると、台所の戸口を窮屈そうに潜り抜けて、長身の屋敷の主人が入ってくる。
先程までは作業の為か、ベストのみを着用したラフな格好だったが、今はジャケットとハットを被った正装姿になっている。
「あー、伯爵。どうかした?おやつ?」
「証印がまだだったと思いましてね。そういえばトレイシーを見ましたか?客間にもいないのですが」
「ここにいる」
ナワーブが体を捻って膝が見えるようにすると、伯爵の赤い目が丸くなるのが分かった。ナワーブの膝で、丸くなってすやすやと寝ている猫の姿が信じられないようだ。静かに近寄り、まじまじとトレイシーを見下ろし伯爵は小さく首を振った。
「……可哀想に」
「?なんか言ったか?」
「いいえ。なんでもありません」
伯爵が小声で呟いた言葉は、ナワーブには届いていなかった。それでも、その目に哀れみの色が浮かんでいるのはナワーブにも感じ取れた。それがトレイシーに注がれていることも。それがとても意外に思えた。
表情を読ませない仮面といい、不気味な光を宿す赤い目といい、元殺人鬼と知らなくてもお近づきにはなりたくない相手というのがナワーブが伯爵に抱いた印象だった。人に命の危機を感じさせる遊びをする奴なので、その印象に間違いはないはずだ。
「伯爵、パンケーキどう?」
「私は結構です。ああ、紅茶は戴きましょう」
「分かったー」
伯爵は適当な椅子に腰掛けると、ずっとこちらを窺っているナワーブに微笑んだ。温度のない笑みに、ナワーブは気味の悪さを感じたが、目を逸らす事はしなかった。
「あんた、元殺人鬼なんだって聞いたが」
「おや、それは面白い噂話だ」
「女だけ切り刻みたがる奴なら俺も聞いた事があるな。確か、未解決だったんじゃないか」
「なんとも物騒な話ですね。犯人はどこで何をしているのでしょう」
「さあな。どこかで貴族ごっこでも楽しんでんじゃねえのか?」
ふふふと笑う伯爵とはははと笑うナワーブの間には冷えた空気が流れている。マイクはそんな二人の前に音を立ててトレイを置いた。
「ちょっと、人の城で物騒な空気にならないでくれる、そこ!」
「すまん」
「久々のお客に盛り上がってしまいまして」
「盛り上がる方向性が違うんだよ」
ぷりぷりと怒りながら、マイクはポットに胡椒の実を流し込んだ。紅茶もそれなのかとナワーブは目を見開くが、伯爵は特に気にした様子もない。それどころか、やかんの熱湯をポットに注ぐマイクの手元を興味深げに覗き込んでいる。
「今日は白胡椒ではないのですね」
「そう!パンケーキに合う方がいいかなと思って赤胡椒にしたんだ。ストレートでもミルクティーでも合うはずだよ」
「ほう。でしたら私はミルクティーを戴きましょう」
「はいはい。ナワーブはコーヒー?紅茶?」
「………………紅茶で」
悩みはしたが、ナワーブは好奇心には勝てなかった。胡椒コーヒーと胡椒パンケーキと来て、胡椒の紅茶がどうなるのか気になって仕方がない。
「はい。どうぞ」
白いカップに注がれた紅茶をじっと見下ろす。色はナワーブもよく知る赤色だ。香りも少し変わっているが、胡椒のものではなかった。少し口に入れれば飲んだ事はない味ではあるが、やはりお茶そのものだった。
今回は胡椒の実にお湯を注いだだけだったのだが、一体どこでお茶に変わったのだろう。一部始終を見ていたが、さっぱりナワーブには分からなかった。
マイクはミルクポットを傾けながら、「そういえば」と顔を上げる。
「証印渡しに来たんじゃなかったの、伯爵」
「そのつもりですが……」
伯爵はじっと丸くなっている猫を見つめる。革の装備を大事そうに抱え、すやすやと寝ている姿はとても幸せそうだ。時折、ナワーブが背中を撫でてやると嬉しそうに耳と尾が動く。
あれだけ他者に触れられるのを嫌う猫又が、なんという変わりようだろう。面白くも思うが、同時に哀れにも思う。
証印は城に入る資格がない者が特例で入れるようになるものだ。ナワーブは一つを手にしているので、伯爵の証印も受ければ問題なく入る事ができる。けれど、証印がない者はその先には進めない。トレイシーは城の前でこの男を見送ることになるだろう。
伯爵が右手を振ると、赤い光が宿る。それを顔の前に掲げ、目を細める。
「………………」
ナワーブと金色の猫をゆっくりと見やる。
――やはり、哀れだ。この幼い猫又が。
そんな感情は凍りついたものと思っていたが、それでも自分はこの世界のものに愛着を抱いているらしい。伯爵は小さく自嘲しながら、右手をトレイシーの額に翳した。証印の赤い光は伯爵の爪先から溢れ、金色の毛並みに吸い込まれていく。
「確かに渡しましたよ」
「今ので終わりなのか?」
「ええ」
何が起きたのかよく分かっていない顔でナワーブは赤い光を確認するようにトレイシーを撫でている。そんなことをしても見えるわけはないのだが。
証印はナワーブに一つ、トレイシーに一つ。これで城に行くには二人の協力が必要になった。
――少しだけ、刻限を延ばしてあげましょう。
心の内でそう告げ、伯爵は紅茶を一気に喉に流し込むと席を立った。
「さて、では私は出掛けます。君はごゆっくり」
「ああ……助かった」
ナワーブの返事に伯爵は僅かに頷くと、部屋を出て行った。その後ろ姿を見送りながら、マイクは釈然としない思いで腕を組む。
「うーん……?」
「どうした、マイク」
「いやあ、今さ。伯爵、最初ナワーブに証印渡そうとしてたのに、なんでトレイシーに対象変更したのかなって」
「そうだったのか?確かに何か考え込んではいたみたいだが」
「二つ揃わないと城に入れないから、トレイシーも行かないとね。まあでもその方が案内人いるからナワーブにはいいのかも?でもナワーブが二つ証印持ってた方が話が早いんだけどね。一人で城に行けるからさ」
「それだとトレイシーは城に入れねえのか?」
「そうだよ。僕もトレイシーも、貴族以外はみんな証印が無いと城には入れない」
「そうなのか……」
ナワーブはマイクの話に少し安堵した。勝手だが、ずっとトレイシーは付いてくるものと思っていたのだ。慣れて来たとはいえ、こんなよく分からない世界の城に一人で入るのは不安だ。彼女がいるなら心強い。
それに、正直なところナワーブはこの猫又と過ごす時間は嫌いではないのだ。一緒にいられる時間が延びるなら、それはそれでありがたい。
ナワーブはぴるぴると耳を震わせる金猫の頭を撫でて、口元を緩ませる。思わずぽろりと言葉が溢れた。
「こいつ、持って帰りてぇ……」
「そんだけ懐かれてたら可愛いよね。でもチェシャ猫はダメだと思うよ」
「言ってみただけだ、気にすんな」
ナワーブは口ではそう言いながら、トレイシーを撫でる手は惜しんでいるようだった。
トレイシーは脇腹を撫でられているのを感じながら、目を開いた。いつもなら人に触られるのなんて嫌だけど、この手は大丈夫。
ぼんやりとした視界でころんと仰向けになると、くつくつと笑う声が降ってくる。
「お前なぁ。腹見せるのは野生動物として致命的過ぎるぞ。噛まれたら一巻の終わりだからな?」
「うみゃぅ」
口では説教臭い事を言いながら、お腹を好き放題撫でている相手にトレイシーもおかしくなってしまう。
前脚でナワーブの手を捕えると、かぷりと噛みつく真似をする。
「隙ありー」
「そう言う罠かよ」
「そうだよ。ていてい!」
後ろ脚で捉えた腕をトレイシーが蹴り始めると、ナワーブは仕返しとばかりにトレイシーの顎の下を擽る。それがまた気持ちいいもので、トレイシーはうっとりと目を閉じてされるがままになる。
「うにゃあ……」
「あー、ごほん」
わざとらしい咳払いにトレイシーが目を開けると、マイクと目が合った。いつもはぱっちりした目を半目にして、マイクは不機嫌そうにフォークをパンケーキに突き刺している。
「起き抜けにイチャイチャし始めないでよ、僕もいるんだよ」
「悪い」
「えと、ごめん?」
トレイシーは謝りながらテーブルに前脚を掛け、立ち上がった。甘い香りがしていると思えば、座布団のようなパンケーキが五段、大皿に積み上がっていた。そのあまりの大きさにあんぐりと口を開けてしまう。
「うわあ、すんご……」
「まだまだあるよー」
「美味いぞ」
ナワーブは座布団サイズのパンケーキを半分くらい食べ進めている。よく入るなあと思いながら、トレイシーも人型に姿を変えるとナワーブの隣に腰を下ろした。
「トレイシーも食べるよね。バター多めにしといたよ」
「ありがとう。でも、流石にこれ一枚は食べれないよ……?」
皿にパンケーキを取り分けてくれるのはありがたいが、トレイシーには大き過ぎる。この四分の一くらいで充分だ。そう告げれば、ナワーブもマイクも目を瞬かせて不思議そうな顔をしている。
「そんなんで足りるのか……?」
「少食なんだね、トレイシー」
「いやいや、これ大きいよ⁈どんだけ食べるつもりなの二人とも」
「食べるというか、食べたというか。ねえ」
マイクが同意を求めるようにナワーブを見れば、ナワーブは行儀悪くパンケーキを刺したフォークを振って見せる。
「俺、これ十枚目だが」
「僕も七枚は食べたかな」
「この座布団を?そんなに?」
「座布団って大袈裟だなあ。トレイシーがどのくらい食べるか分からないから追加で焼こうと思ってたんだけど」
「そんないらない……」
焼く前に止められて良かったとトレイシーは胸を撫で下ろす。この五段パンケーキが全部トレイシーの分だったと聞かされた時は目眩さえしてきた。マイクもナワーブもどんな胃袋をしているんだろうか。
マイクは困ったように頭を掻きながら、大皿を見下ろす。
「うーんそうすると、どうしようかなあ。流石に僕ももう食べれないしなあ」
「俺もあと一枚程度だな」
一枚はまだ食べれるんだとトレイシーは呆れる思いでナワーブを見やる。人間て、未知の生物過ぎる。
マイクは考える素振りで針のない時計を睨んでいたが、暫くすると「ああ!」と声を上げた。
「いい事思いついた!」
「なんだ?」
パンケーキを頬張るトレイシーと、コーヒーを飲んでいるナワーブが揃って首を傾げる。
マイクは大皿を抱え上げるとにっこりと笑う。
「二人とも、ちょっとこの後寄って欲しいところがあるんだけど、お願いしていい?」
ナワーブは腕に下げたバスケットを一瞥して、頬を掻いた。バスケットの中にはパンケーキが入っている。マイクの依頼で人の家に届けに行く最中なのだ。
――なんだか、ずっと人の使いっ走りばかりしている気がしてきたな。
「ナワーブ、つまみ食いはダメだよ?」
あんまりナワーブがじっとバスケットを見つめているので、トレイシーは念の為に釘を刺しておく。牛もびっくりな量のパンケーキを食べていたのに、まだ足りないのか。
不安そうな顔をするトレイシーに、ナワーブは渋い顔をする。一体こいつは俺をなんだと思っているんだろうか。
「人の土産に手を出すような真似はしねえよ。大体もうパンケーキは充分だ」
「その言い方だと他のものならまだいけるんだね……」
「まあな」
さらりと答えるナワーブに、トレイシーは奇妙なものを見る目になる。あの後トレイシーが食べれなかったパンケーキの残りも食べてたのに、胃に穴でも空いてるんじゃないだろうか。
「……なにやってんだ、お前」
無言で背後から抱きついて来たトレイシーに、ナワーブは胡乱げな眼差しを向ける。「んー?」と生返事をするトレイシーは、抱きつくと言うより人の腹を撫でている。ぞわぞわするので速攻叩いてやめさせる。
叩かれた手を振りながら、トレイシーは眉間に皺を寄せてナワーブを睨む。あんなに食べていた癖に、ナワーブの体型は全く変わっていない。ちょっとはお腹が膨らむとか、何か変化があるべきじゃないだろうか。
「なんでお腹ぺたんこのままなの……」
「それを確認してたのか。触る前になんか言え、お前は」
「ナワーブも私のお腹撫でてた癖に!」
「お前が晒してたからだろ、俺は晒してねぇ。と、そう言えば忘れてたがお前俺の肘当てどうした」
「三月うさぎのおうちはあっちだよ!」
ナワーブの質問を掻き消す様に叫ぶと、トレイシーは小走りで小麦畑を駆けて行く。そんなトレイシーを大股で追いかけると、ナワーブは猫又の襟首を捕まえる。
「誤魔化すな」
「やだー!もうちょっと!もうちょっとだけ!」
「一回枕にしたら返すって話だったろ」
「すぐお別れだと思ったんだもん!まだお城もあるしいいじゃん!」
「そんなこと言いながら、お前俺が肘当てをそのまま忘れて帰ったらいいなとか考えてるんじゃねえか?」
「……そんなこと、ない」
「目を見て答えろ、こら」
ナワーブはぼそぼそと答えるトレイシーの顎を掴んで、上から覗き込む。顔を上向きに固定されても、視線を泳がせて逃げようとするトレイシーの顎を掴む手に力を込める。
ところが問い詰める前にトレイシーの体が消え失せ、腕も軽くなる。空っぽになった腕から前方に視線を向ければ、ナワーブが腕に下げていたバスケットを頭上に掲げ、走っていく猫又の後ろ姿があった。
「おい、トレイシー!」
「冷めちゃうから!パンケーキ冷めちゃうから急がないと!」
それらしい言い訳を並べながら走っていくトレイシーをナワーブも追いかける。
――冷めるわけねえだろ、温度が変わらない魔法のバスケットだってマイクが言っていたのに。
二本の尻尾を追いながら、体力がないトレイシーはすぐにへばるとナワーブは思っていたのだ。しかしチェシャ猫の能力で消えては先に現れる事を繰り返し、トレイシーはなかなか追いつくことができない。そうしている間に広かった小麦畑を抜け、一軒の家に辿り着いた。
その家は遠くから見た時はこじんまりとして見えたが、なかなか立派な造りをしていた。兎の耳に見える二本の煙突が並び、丸い窓が並んだ目の様にナワーブには思えた。
ナワーブが追いついた時にはトレイシーは扉をノックしているところだった。
「こんにちはー!お届け物に来ましたー!」
トレイシーが呼びかけて数秒待つが、家の中から反応はない。もう一度扉を叩いて呼びかけるが、やっぱり反応はなかった。
「いねえのか?」
「おかしいな、マイクはいるって言ってたのに」
ナワーブとトレイシーが顔を見合わせていると、「こちらです」と男とも女ともつかない声が聞こえた。家の中ではなく、庭の方からだ。
胡椒コーヒーを啜りながら、ナワーブはぽそりと呟く。
「結局こうなったか」
「そりゃそうなるでしょ」
半乾きの状態で草原を走り回って、汚れがつかないはずがない。伯爵邸についた途端に伯爵に首根っこを掴まれたトレイシーは、洗い場に連行されていった。
もう一度シャンプーからやり直しをする羽目になり、今さっきまでまた屋敷中に響く怪物の咆哮をあげていたのだ。今度こそ乾燥まで完璧に終わらせて出てきたのだが、トレイシーの体力は限界だった。
台所でマイクとお茶をしていたナワーブの膝上によじ登ると、肘当てを抱え込んで寝に入ってしまった。本当に枕にしてやがるとナワーブは呆れたが、約束をしていたのでそのまま寝かせてやることにする。そのせいでナワーブはこの場から動けなくなってしまったが、まあいいかと猫を撫でる。
「こいつ、なんたってこんな寝にくいところで寝るんだか」
口ではそういうものの、ナワーブは和やかな目で丸まっている猫を見ている。そんなこと言って嬉しいくせにとマイクは思ったが、きっと否定するので黙ってにやにやしていることにする。
うんと伸びをして、マイクは壁の時計を見やる。見たところで文字盤を指す針はないのだが、マイクはなんとなくで勝手に時間を決めている。今は小腹が空いている気がするから、おやつの時間だ。
マイクは勢いよく立ち上がると、コーヒーを飲み干し、カップを背後に放り投げた。そのままカップはぱりんと割れる。
「よっし、おやつにしよう!ナワーブ、パンケーキ好き?」
「お、おう……」
割れたカップに気を取られていたナワーブは、狼狽えた返事をしてしまう。マイクはこの世界では常識的な方だが、胡椒コーヒーといい、やはりどこかイカれている。
今、そのカップ割る必要あったか?
引いているナワーブに構わず、マイクは鼻唄を歌いながらキャビネットから大きなボウルを取り出した。そしてそこに、胡椒の実をざらざらと投入する。
「……あっと、マイク」
「んー?なに?」
「それは、パンケーキを作ってるんだよな」
「そうだよ。あ、もしかして甘いの嫌い?」
「いや、そんな事はないんだが……」
「安心してよ!甘さは控えめにするからさ!」
確かに控えめにはなるだろうが違う刺激が強くなりそうな気がする。
ナワーブは菓子作りなんてした事はないが、それでもメインの材料が粉と卵な事くらいは知っている。胡椒も使うのかも知れないが、それでもそれは挽いたものであるはずだし、あんな量は使わないだろう。
しかし、卵を黄身と白身に分け、テキパキと作業を進める料理人に「俺の方が間違っているのか?」とナワーブは不安になり、パンケーキ作りを止める事が出来ない。
そうこうしているうちに、胡椒に卵の黄身やら牛乳やらが投入され、ぷかぷかと黒い粒が浮かぶ液体が出来上がった。マイクがそれを泡立て器でかき混ぜれば、胡椒の実が浮き沈みする。到底混ざり合うわけがないと思われる作業だったが、暫くすると胡椒の実は消えてしまった。
「??」
「ナワーブどうしたのさ。あー、もしかしてちょっと興味ある?パンケーキ作り!」
「気になると言えばすげぇ気になるわ……」
自分の手元を食い入るように見ているナワーブに、マイクは純粋に菓子作りに興味があるのだと思ったらしい。
ナワーブとしては菓子作りより胡椒が気になって仕方がないのだが。これは本当に自分が知ってるパンケーキになるんだろうか。
疑問を抱えながら工程を見つめているナワーブを気にする事なく、マイクは大きなフライパンで生地を焼き始めた。
待ってる間、手持ち無沙汰なナワーブは膝の上の猫を撫でるくらいしかやる事がない。洗い立てのトレイシーのふわふわさらさらな毛並みは非常に手触りが良く、出来ることならナワーブが抱き枕にして寝たいくらいだ。
呼吸で上下する猫の腹に手を乗せるとほんのりと温かい。会って間もない人間に弱点を晒すとは、人懐っこいのにも程があるのではないだろうか。
ナワーブが金色の猫の毛並みを楽しんでいると、パンケーキを乗せた大皿を手にマイクが戻ってくる。マイクは面白くなさそうに唇を尖らせる。
「いいなあ、ナワーブは。トレイシーってば普段は全然触らせてくれないのに」
「そうなのか?」
「すんごい臆病で警戒心が強いんだよ、その子。撫でようとすると消えちゃうし、勝手に抱っこしようものなら全力で引っかかれるよ。必要な時は大人しくしてくれるけど、それでも三十秒が限界だね」
「そんなにか。相当だな」
「そー。寝てる時も大体手が届かないところにいるし。だから人の膝に自分から乗りに行ってるの、初めて見た」
「へえ」
――人懐っこい訳ではないのなら、それはつまり……
マイクの言葉に、ナワーブは少しだけ気分が高揚するのを感じる。それがどういう感情なのかは、自分でも分からないのだが。ただただ、膝の上の温もりをより一層好ましく感じている事は確かだ。
「さー出来立てだよ、食べて食べて」
「……ああ」
目の前に置かれた大皿に、猫のトレイシーが二匹入りそうな巨大パンケーキが乗っている。ほぼ胡椒でできているはずのそれは非常に食欲をそそる良い香りがしている。
パンケーキと言うのでもっと平たいものを想像していたのだが、マイクが作ったパンケーキはふわふわで厚みがある。何も知らなければ純粋に美味そうだとナワーブも思っただろう。
恐る恐るナイフとフォークを手に取り切り崩してみるが、どこにも胡椒の粒は見当たらず、匂いもしない。ナワーブは少し小さめに切ったパンケーキの切れ端を、意を決して口に入れてみる。
「…………」
「どう?」
「…………美味い」
警戒してた胡椒は、影も形も見当たらない。それどころか今まで食べた事がないくらい美味しいパンケーキだった。コーヒーもだがどうなっているんだろうか。
ナワーブが今度は少し大きめに切り分けたパンケーキを口に運ぶのを見て、マイクはご機嫌に胸を張る。
「当然!僕が作ったんだからね!まだまだおかわりはあるから好きなだけ食べてくれていいよ!」
「ああ」
正直なところ、ナワーブはこちらに来てからずっと動いていたのもあり空腹ではあったのだ。ここはマイクの厚意に甘えよう。
ナワーブが二枚目を自分の皿に移すと、マイクがフライパンから放ったパンケーキが見事に大皿の上に乗った。
「あんた器用だなあ」
「まあね」
マイクは得意げに別のフライパンのパンケーキを中に放り、焼き目を上しにて受け止める。
「おお……」
「こちらにいたんですね」
ナワーブがマイクのフライパン芸を見ていると、台所の戸口を窮屈そうに潜り抜けて、長身の屋敷の主人が入ってくる。
先程までは作業の為か、ベストのみを着用したラフな格好だったが、今はジャケットとハットを被った正装姿になっている。
「あー、伯爵。どうかした?おやつ?」
「証印がまだだったと思いましてね。そういえばトレイシーを見ましたか?客間にもいないのですが」
「ここにいる」
ナワーブが体を捻って膝が見えるようにすると、伯爵の赤い目が丸くなるのが分かった。ナワーブの膝で、丸くなってすやすやと寝ている猫の姿が信じられないようだ。静かに近寄り、まじまじとトレイシーを見下ろし伯爵は小さく首を振った。
「……可哀想に」
「?なんか言ったか?」
「いいえ。なんでもありません」
伯爵が小声で呟いた言葉は、ナワーブには届いていなかった。それでも、その目に哀れみの色が浮かんでいるのはナワーブにも感じ取れた。それがトレイシーに注がれていることも。それがとても意外に思えた。
表情を読ませない仮面といい、不気味な光を宿す赤い目といい、元殺人鬼と知らなくてもお近づきにはなりたくない相手というのがナワーブが伯爵に抱いた印象だった。人に命の危機を感じさせる遊びをする奴なので、その印象に間違いはないはずだ。
「伯爵、パンケーキどう?」
「私は結構です。ああ、紅茶は戴きましょう」
「分かったー」
伯爵は適当な椅子に腰掛けると、ずっとこちらを窺っているナワーブに微笑んだ。温度のない笑みに、ナワーブは気味の悪さを感じたが、目を逸らす事はしなかった。
「あんた、元殺人鬼なんだって聞いたが」
「おや、それは面白い噂話だ」
「女だけ切り刻みたがる奴なら俺も聞いた事があるな。確か、未解決だったんじゃないか」
「なんとも物騒な話ですね。犯人はどこで何をしているのでしょう」
「さあな。どこかで貴族ごっこでも楽しんでんじゃねえのか?」
ふふふと笑う伯爵とはははと笑うナワーブの間には冷えた空気が流れている。マイクはそんな二人の前に音を立ててトレイを置いた。
「ちょっと、人の城で物騒な空気にならないでくれる、そこ!」
「すまん」
「久々のお客に盛り上がってしまいまして」
「盛り上がる方向性が違うんだよ」
ぷりぷりと怒りながら、マイクはポットに胡椒の実を流し込んだ。紅茶もそれなのかとナワーブは目を見開くが、伯爵は特に気にした様子もない。それどころか、やかんの熱湯をポットに注ぐマイクの手元を興味深げに覗き込んでいる。
「今日は白胡椒ではないのですね」
「そう!パンケーキに合う方がいいかなと思って赤胡椒にしたんだ。ストレートでもミルクティーでも合うはずだよ」
「ほう。でしたら私はミルクティーを戴きましょう」
「はいはい。ナワーブはコーヒー?紅茶?」
「………………紅茶で」
悩みはしたが、ナワーブは好奇心には勝てなかった。胡椒コーヒーと胡椒パンケーキと来て、胡椒の紅茶がどうなるのか気になって仕方がない。
「はい。どうぞ」
白いカップに注がれた紅茶をじっと見下ろす。色はナワーブもよく知る赤色だ。香りも少し変わっているが、胡椒のものではなかった。少し口に入れれば飲んだ事はない味ではあるが、やはりお茶そのものだった。
今回は胡椒の実にお湯を注いだだけだったのだが、一体どこでお茶に変わったのだろう。一部始終を見ていたが、さっぱりナワーブには分からなかった。
マイクはミルクポットを傾けながら、「そういえば」と顔を上げる。
「証印渡しに来たんじゃなかったの、伯爵」
「そのつもりですが……」
伯爵はじっと丸くなっている猫を見つめる。革の装備を大事そうに抱え、すやすやと寝ている姿はとても幸せそうだ。時折、ナワーブが背中を撫でてやると嬉しそうに耳と尾が動く。
あれだけ他者に触れられるのを嫌う猫又が、なんという変わりようだろう。面白くも思うが、同時に哀れにも思う。
証印は城に入る資格がない者が特例で入れるようになるものだ。ナワーブは一つを手にしているので、伯爵の証印も受ければ問題なく入る事ができる。けれど、証印がない者はその先には進めない。トレイシーは城の前でこの男を見送ることになるだろう。
伯爵が右手を振ると、赤い光が宿る。それを顔の前に掲げ、目を細める。
「………………」
ナワーブと金色の猫をゆっくりと見やる。
――やはり、哀れだ。この幼い猫又が。
そんな感情は凍りついたものと思っていたが、それでも自分はこの世界のものに愛着を抱いているらしい。伯爵は小さく自嘲しながら、右手をトレイシーの額に翳した。証印の赤い光は伯爵の爪先から溢れ、金色の毛並みに吸い込まれていく。
「確かに渡しましたよ」
「今ので終わりなのか?」
「ええ」
何が起きたのかよく分かっていない顔でナワーブは赤い光を確認するようにトレイシーを撫でている。そんなことをしても見えるわけはないのだが。
証印はナワーブに一つ、トレイシーに一つ。これで城に行くには二人の協力が必要になった。
――少しだけ、刻限を延ばしてあげましょう。
心の内でそう告げ、伯爵は紅茶を一気に喉に流し込むと席を立った。
「さて、では私は出掛けます。君はごゆっくり」
「ああ……助かった」
ナワーブの返事に伯爵は僅かに頷くと、部屋を出て行った。その後ろ姿を見送りながら、マイクは釈然としない思いで腕を組む。
「うーん……?」
「どうした、マイク」
「いやあ、今さ。伯爵、最初ナワーブに証印渡そうとしてたのに、なんでトレイシーに対象変更したのかなって」
「そうだったのか?確かに何か考え込んではいたみたいだが」
「二つ揃わないと城に入れないから、トレイシーも行かないとね。まあでもその方が案内人いるからナワーブにはいいのかも?でもナワーブが二つ証印持ってた方が話が早いんだけどね。一人で城に行けるからさ」
「それだとトレイシーは城に入れねえのか?」
「そうだよ。僕もトレイシーも、貴族以外はみんな証印が無いと城には入れない」
「そうなのか……」
ナワーブはマイクの話に少し安堵した。勝手だが、ずっとトレイシーは付いてくるものと思っていたのだ。慣れて来たとはいえ、こんなよく分からない世界の城に一人で入るのは不安だ。彼女がいるなら心強い。
それに、正直なところナワーブはこの猫又と過ごす時間は嫌いではないのだ。一緒にいられる時間が延びるなら、それはそれでありがたい。
ナワーブはぴるぴると耳を震わせる金猫の頭を撫でて、口元を緩ませる。思わずぽろりと言葉が溢れた。
「こいつ、持って帰りてぇ……」
「そんだけ懐かれてたら可愛いよね。でもチェシャ猫はダメだと思うよ」
「言ってみただけだ、気にすんな」
ナワーブは口ではそう言いながら、トレイシーを撫でる手は惜しんでいるようだった。
トレイシーは脇腹を撫でられているのを感じながら、目を開いた。いつもなら人に触られるのなんて嫌だけど、この手は大丈夫。
ぼんやりとした視界でころんと仰向けになると、くつくつと笑う声が降ってくる。
「お前なぁ。腹見せるのは野生動物として致命的過ぎるぞ。噛まれたら一巻の終わりだからな?」
「うみゃぅ」
口では説教臭い事を言いながら、お腹を好き放題撫でている相手にトレイシーもおかしくなってしまう。
前脚でナワーブの手を捕えると、かぷりと噛みつく真似をする。
「隙ありー」
「そう言う罠かよ」
「そうだよ。ていてい!」
後ろ脚で捉えた腕をトレイシーが蹴り始めると、ナワーブは仕返しとばかりにトレイシーの顎の下を擽る。それがまた気持ちいいもので、トレイシーはうっとりと目を閉じてされるがままになる。
「うにゃあ……」
「あー、ごほん」
わざとらしい咳払いにトレイシーが目を開けると、マイクと目が合った。いつもはぱっちりした目を半目にして、マイクは不機嫌そうにフォークをパンケーキに突き刺している。
「起き抜けにイチャイチャし始めないでよ、僕もいるんだよ」
「悪い」
「えと、ごめん?」
トレイシーは謝りながらテーブルに前脚を掛け、立ち上がった。甘い香りがしていると思えば、座布団のようなパンケーキが五段、大皿に積み上がっていた。そのあまりの大きさにあんぐりと口を開けてしまう。
「うわあ、すんご……」
「まだまだあるよー」
「美味いぞ」
ナワーブは座布団サイズのパンケーキを半分くらい食べ進めている。よく入るなあと思いながら、トレイシーも人型に姿を変えるとナワーブの隣に腰を下ろした。
「トレイシーも食べるよね。バター多めにしといたよ」
「ありがとう。でも、流石にこれ一枚は食べれないよ……?」
皿にパンケーキを取り分けてくれるのはありがたいが、トレイシーには大き過ぎる。この四分の一くらいで充分だ。そう告げれば、ナワーブもマイクも目を瞬かせて不思議そうな顔をしている。
「そんなんで足りるのか……?」
「少食なんだね、トレイシー」
「いやいや、これ大きいよ⁈どんだけ食べるつもりなの二人とも」
「食べるというか、食べたというか。ねえ」
マイクが同意を求めるようにナワーブを見れば、ナワーブは行儀悪くパンケーキを刺したフォークを振って見せる。
「俺、これ十枚目だが」
「僕も七枚は食べたかな」
「この座布団を?そんなに?」
「座布団って大袈裟だなあ。トレイシーがどのくらい食べるか分からないから追加で焼こうと思ってたんだけど」
「そんないらない……」
焼く前に止められて良かったとトレイシーは胸を撫で下ろす。この五段パンケーキが全部トレイシーの分だったと聞かされた時は目眩さえしてきた。マイクもナワーブもどんな胃袋をしているんだろうか。
マイクは困ったように頭を掻きながら、大皿を見下ろす。
「うーんそうすると、どうしようかなあ。流石に僕ももう食べれないしなあ」
「俺もあと一枚程度だな」
一枚はまだ食べれるんだとトレイシーは呆れる思いでナワーブを見やる。人間て、未知の生物過ぎる。
マイクは考える素振りで針のない時計を睨んでいたが、暫くすると「ああ!」と声を上げた。
「いい事思いついた!」
「なんだ?」
パンケーキを頬張るトレイシーと、コーヒーを飲んでいるナワーブが揃って首を傾げる。
マイクは大皿を抱え上げるとにっこりと笑う。
「二人とも、ちょっとこの後寄って欲しいところがあるんだけど、お願いしていい?」
ナワーブは腕に下げたバスケットを一瞥して、頬を掻いた。バスケットの中にはパンケーキが入っている。マイクの依頼で人の家に届けに行く最中なのだ。
――なんだか、ずっと人の使いっ走りばかりしている気がしてきたな。
「ナワーブ、つまみ食いはダメだよ?」
あんまりナワーブがじっとバスケットを見つめているので、トレイシーは念の為に釘を刺しておく。牛もびっくりな量のパンケーキを食べていたのに、まだ足りないのか。
不安そうな顔をするトレイシーに、ナワーブは渋い顔をする。一体こいつは俺をなんだと思っているんだろうか。
「人の土産に手を出すような真似はしねえよ。大体もうパンケーキは充分だ」
「その言い方だと他のものならまだいけるんだね……」
「まあな」
さらりと答えるナワーブに、トレイシーは奇妙なものを見る目になる。あの後トレイシーが食べれなかったパンケーキの残りも食べてたのに、胃に穴でも空いてるんじゃないだろうか。
「……なにやってんだ、お前」
無言で背後から抱きついて来たトレイシーに、ナワーブは胡乱げな眼差しを向ける。「んー?」と生返事をするトレイシーは、抱きつくと言うより人の腹を撫でている。ぞわぞわするので速攻叩いてやめさせる。
叩かれた手を振りながら、トレイシーは眉間に皺を寄せてナワーブを睨む。あんなに食べていた癖に、ナワーブの体型は全く変わっていない。ちょっとはお腹が膨らむとか、何か変化があるべきじゃないだろうか。
「なんでお腹ぺたんこのままなの……」
「それを確認してたのか。触る前になんか言え、お前は」
「ナワーブも私のお腹撫でてた癖に!」
「お前が晒してたからだろ、俺は晒してねぇ。と、そう言えば忘れてたがお前俺の肘当てどうした」
「三月うさぎのおうちはあっちだよ!」
ナワーブの質問を掻き消す様に叫ぶと、トレイシーは小走りで小麦畑を駆けて行く。そんなトレイシーを大股で追いかけると、ナワーブは猫又の襟首を捕まえる。
「誤魔化すな」
「やだー!もうちょっと!もうちょっとだけ!」
「一回枕にしたら返すって話だったろ」
「すぐお別れだと思ったんだもん!まだお城もあるしいいじゃん!」
「そんなこと言いながら、お前俺が肘当てをそのまま忘れて帰ったらいいなとか考えてるんじゃねえか?」
「……そんなこと、ない」
「目を見て答えろ、こら」
ナワーブはぼそぼそと答えるトレイシーの顎を掴んで、上から覗き込む。顔を上向きに固定されても、視線を泳がせて逃げようとするトレイシーの顎を掴む手に力を込める。
ところが問い詰める前にトレイシーの体が消え失せ、腕も軽くなる。空っぽになった腕から前方に視線を向ければ、ナワーブが腕に下げていたバスケットを頭上に掲げ、走っていく猫又の後ろ姿があった。
「おい、トレイシー!」
「冷めちゃうから!パンケーキ冷めちゃうから急がないと!」
それらしい言い訳を並べながら走っていくトレイシーをナワーブも追いかける。
――冷めるわけねえだろ、温度が変わらない魔法のバスケットだってマイクが言っていたのに。
二本の尻尾を追いながら、体力がないトレイシーはすぐにへばるとナワーブは思っていたのだ。しかしチェシャ猫の能力で消えては先に現れる事を繰り返し、トレイシーはなかなか追いつくことができない。そうしている間に広かった小麦畑を抜け、一軒の家に辿り着いた。
その家は遠くから見た時はこじんまりとして見えたが、なかなか立派な造りをしていた。兎の耳に見える二本の煙突が並び、丸い窓が並んだ目の様にナワーブには思えた。
ナワーブが追いついた時にはトレイシーは扉をノックしているところだった。
「こんにちはー!お届け物に来ましたー!」
トレイシーが呼びかけて数秒待つが、家の中から反応はない。もう一度扉を叩いて呼びかけるが、やっぱり反応はなかった。
「いねえのか?」
「おかしいな、マイクはいるって言ってたのに」
ナワーブとトレイシーが顔を見合わせていると、「こちらです」と男とも女ともつかない声が聞こえた。家の中ではなく、庭の方からだ。