ちぇしゃネコ症候群(ナワトレ)

第七章 赤ん坊

第七章 赤ん坊

「うにぃぃぃぃ……」
べしゃりと潰れて呻く事しかできない猫に、マイクは新しい柔らかな布を被せる。まだまだ濡れている毛皮の水分を拭き取りながら苦笑いを浮かべる。
「そんなになるまで暴れなくてもいいのに」
「分かってる、分かってるけど猫の本能が……」
爪切りの為に抱き上げられた時からずっと全力で暴れまわって鳴き喚いていたトレイシーは、シャンプーの最中でとうとう力尽きた。ぐったりしたのをチャンスとばかりに伯爵はマイクにトレイシーを抱えさせててきぱきとシャンプー、トリートメントと作業を終え、今に至る。
大人しくしていたほうが嫌な時間が短いのはトレイシーも分かっているのだが、猫の時はどうしても猫の本能が勝ってしまう。これでも我慢しようという気持ちはあるのだ。それでも、どうしても水への忌避感はどうにもならない。
そして残念ながらまだグルーミングは終わりではなく、水分を拭き取ったら毛の奥まで乾かす作業と櫛で全身の毛並みを整える必要がある。
「はいゴロンー」
「うなー……」
また暴れ出す前にとマイクは猫の体をころころと転がして乾いた布で水気を拭き取る。元々体力がないトレイシーは最早されるがままだ。伯爵だとどうあっても警戒されるので、こうはいかない。
そうやってマイクがせっせとトレイシーの体を拭く作業をしている間に、どこかに行っていた伯爵が戻ってくる。その足取りはどこか楽しげだ。
「伯爵、どこ行ってたのさ」
「ふふふ、ちょっとした野暮用ですよ。さてそちらはどうですか?」
「こんくらい乾いた」
伯爵の問いに、マイクは半乾きくらいになったトレイシーの体を持ち上げて見せる。途端、それまでおとなしかったトレイシーが低い声で唸り始める。
「ううううううう……」
「そんな状態になってまで威嚇しないでくださいって」
「ごめん、分かってるんだけどさあ……!」
爪を切られブラッシングをされ、体をずぶ濡れにされと嫌なことが続いたせいで、伯爵を見ただけで威嚇してしまう。猫の本能なのでトレイシーにもどうしようもない。
「では後はこちらで乾かしましょうか」
伯爵が新しい布を可動式暖炉の前の台に広げる。温風が出るように改造された暖炉は程よい風量なので心地いい。台の上に乗せられたトレイシーは、こんな時でなければここで昼寝したいと思ったくらいだ。今は人を待たせているからそんなことはしないけれど。
トレイシーは後ろ脚で立ち上げると、伯爵に向かって前脚を交互に動かしてみせる。
「伯爵伯爵。もう我慢できるから、早く乾かして!早く早く!ブラッシングも我慢するから早く!」
「急かしますね。落ち着いてください」
「ニャワーブ待たせてるから急いでるの!」
「あー、ナワーブならもうここいるけど」
トレイシーの尻尾を乾かしていたマイクが口を挟む。シャンプー騒ぎで、すっかりそのことを伝えるのを忘れていた。トレイシーは首を傾げてマイクを振り返る。
「あれ?私、行き先言ってにゃいのに」
「んー、ナワーブは泥棒さんの手掛かりを探しに来たんだけど、それについてトレイシーに伝えることがある」
「んにゃ?」
「トレイシー、泥棒は君であの枕、ナワーブの探してた肘当てだったみたい……」
「‼︎嘘っ⁈」
「や、ほんと」
「うそおおおお⁉︎」
「あっはっはっはっはっはっ‼︎」
瞳孔を真ん丸にして叫ぶ猫に、伯爵は大口を開けて笑う。人間に懸想しかけた猫と鈍感人間というだけでも面白いのに、まだ楽しませてくれるのか。そんな喜劇要素まで差し込んでくるとは。
トレイシーは前脚で頬を抑えて呆然とした後、思い出したように四つ脚でうろうろと台の上を動き回る。まだ乾いていないので人型にはなれないのだ。毛皮で顔の色は分からないが、人だったらきっと真っ青になっていることだろう。
「ど、どどどどうしよう⁈ニャワーブ怒ってるよね⁈怒ってるよね⁈でも違うの、盗んでにゃいのー!落ちてたと思ったの!」
「そのすぐ脇にナワーブ本人も落ちてたんだよ、トレイシー」
「うそお⁈」
「まあまあ。謝ったら許してくれるよ、きっと。……肘当てに穴空いてたら拳骨って言ってたけど」
「うにゃああ……」
トレイシーが添えた前脚に頭を乗せて「ごめん寝」ポーズになったのを見て、おやとマイクは思う。この反応は。
伯爵は肩を揺らして噴くのを耐えながら、トレイシーの体を拭きにかかる。
「その様子だと、穴開けたんですね。その肘当てに」
「だってええ!だってええ!いい匂いするんだもんん!」
「ああ……噛みついちゃったんだ」
あれだけ気に入ってたら、玩具にして遊んでもいた筈だ。トレイシー本人はすっかり自分のもののつもりだったのだから、遠慮もないだろう。
縮こまってうなうなと泣いている猫に、マイクはそんなに怯えなくてもいいんじゃないかなとこっそり思う。トレイシーがあんまりナワーブナワーブというので一方通行な感じかと思っていたが、話してみると向こうも結構トレイシーに甘い印象があった。
「ジョゼフも気付いてた訳だ!だったらにゃぞにゃぞにしにゃいで直接言ってよー!もー!」
「あのじいさんに?無理でしょ」
「謎かけと詩的な表現が大好きですからね、あの御仁は」
イチハツの老人を思い浮かべて、伯爵は首を振る。彼はとても博識でこの世界の事を把握しているが、普通に会話ができる相手ではない。
トレイシーがずっとうんうんと悩んで動かないので乾かす作業が順調に進む。猫の毛皮を拭った布の山を籠に詰めながら、これならあとは伯爵一人で十分だろうとマイクは判断する。一人、台所で待たせているナワーブも暇を持て余しているはずだ。
「伯爵ー、僕そろそろ戻っていい?お客放置して来ちゃったからさ」
「人間のことなら当分戻って来れないと思うので大丈夫ですよ」
「へ?」
猫の被毛を丁寧に乾かしながら、伯爵は顔も上げずにそう答える。マイクは眉を顰めて主を振り返った。ナワーブはトレイシーを待っていたはずなのに、彼女を置いてどこに行ったと言うのか。
まさかと胡乱げな眼差しを向ければ、にやりと伯爵の赤い眼が歪む。
「先程、彼に頼んだのですよ。『愛犬』の散歩をね」
「…………愛犬だって?」
「おや、どうかしましたか?」
空惚けている伯爵に、マイクは顳顬こめかみを抑える。さっきふらっといなくなった時にその指示をナワーブに出していたに違いない。暴れる大型犬すら軽くいなせる男が、トレイシー程度の小さな猫に手こずるはずがないのだ。その為に自分を呼び出したのか。
この性悪男があっさりと証印を渡すと言い出した時からおかしいとは思っていた。あれはトレイシーのグルーミングだけではなく人間にも興味があったので、そちらでも遊ぶ気満々だったのだろう。
「ジャックが犬飼ってるなんざ、僕初めて知ったけど?」
「ふふふ、名前はスワインです。素敵でしょう」
「それもしかして!」
犬の名前にマイクが声を上げるのと同時に、トレイシーが空中に躍り上がった。瞬きの間に猫の姿はそこから消え失せ、残された布がはらはらと床に舞い落ちる。
伯爵はゆっくりとした動作で布を拾い上げ、肩を竦める。
「おやおや。困りましたね。まだ作業は終わっていないのですが」
「はーくしゃーく。態とやってるよね」
据わった目を向ける料理人に、伯爵は素知らぬ素振りで服についた猫の毛を払う。
久々にやってきた人間と言うだけでも特別なのに、チェシャ猫娘がそこに関わっている。淡い感情劇に喜劇が加わり、折角こんな面白い事が起きているのに、盛り上がりがなくてはつまらない。だから自分は少しだけスパイスを混ぜてみただけだ。
呑気に鼻唄を歌っている男に、マイクは呆れた眼差しを送る。
「もー……ちゃんと証印あげるんだろうね?」
「当たり前でしょう!私は騙しはしますが約束は守りますよ」
「どういうこっちゃ……」



伯爵の『愛犬』の黒い眼が空っぽである事に、ナワーブは気付いた。
犬の引き紐は既に手にはない。伯爵の屋敷から離れた途端に犬の首輪が外れたので、持っている意味がなくなったのだ。
『愛犬』は今、ナワーブと向かい合う形で静かに佇んでいる。先程まで茶色の大型犬だった筈だが、首輪が外れるとその姿は大きなイノシシへと変わっていた。
――スワインて、そう言うことかよ。
ナワーブは冷たい汗が背筋を流れるのを感じながら、目の前のイノシシから目が離せないでいる。
イノシシは今にも突っ込んできそうな体勢だと言うのに、不自然なくらいに静かなのだ。それに何故だろう、生きているものの気配を感じ取れない。ただただ敵意だけを感じている。
ナワーブは舌打ちをする。また、自分はお貴族様の遊びに使われてしまったのだろうか。あの伯爵といい、女大公といい、どうにも一筋縄では行かない連中ばかりだ。
武器を抜こうかどうしようかと悩んでいる間に、イノシシが蹄で地を掻く。だがそういう生き物の「真似」をしているだけなので、動きは機械的だ。興奮状態なら呼吸も荒くなるものだが、あのイノシシは静かなままだ。
――来る!
ナワーブは腰のナイフに手をやろうとして、思いとどまる。あのイノシシ相手では動きを止めでもしない限り、きっとこの短い刃では歯が立たない。
こちらへと突進してくる巨体を避ければ、イノシシはすぐに方向を変えて突っ込んでくる。身を翻せば、間一髪で牙が服を掠める。
――見た目より機敏だな。
距離を取って、ナワーブはイノシシを油断なく見据える。
イノシシを避けるには高い所に登るか、物陰に隠れるかが正解だが、ナワーブがいる場所は開けた草原だ。木は生えているが、少し距離がある。完全にロックオンされてる状況で向かうにはリスクが高すぎる。人間の足ではイノシシの速さには到底敵わない。
伯爵のこの『遊び』の意図も分からない。ただ自分が逃げ回る姿でも見て面白がっているのだろうか。それにしては少し度が過ぎているが。あの牙に貫かれるか噛まれるかしたら怪我で済む気がしない。
イノシシはぐるぐると落ち着きなく動き回り、首を振っている。あの「生きているイノシシのふり」を見る限り、まだまだ止まる気は無そうだ。
――なにが「歩いて帰ってくればいいだけ」だ。帰す気ねえだろ。
自分の位置と木の位置を確認し、身を屈める。右腕にだけ装着した肘当てに触れ、ナワーブは唇を引き締めた。片腕だけでもいけるだろうか?
鉄が組み込まれた肘当てを引き絞り、近場の大岩に押し当てる。誰かが見ていたら、ナワーブが視界から消え失せたと思ったことだろう。彼は音速の速さで草原を走り抜け、木の手前にまで到達する。肘当てが両腕だったら木の根本まで届いていた筈だが、悪くはない位置だ。
あとはこの木に登れれば。そうナワーブは思ったのだが、うなじに走った冷気を感じると共に地を転がる。ナワーブが避けたルートを巨体が走り抜け、凄まじい音を立てて木にぶつかった。
そして、木はめりめりという音を立て、ナワーブの目の前で根本を残して真っ二つに折れてしまったのだった。
「っ嘘だろ……!」
流石にこれにはナワーブも目を見開いて固まってしまう。人間が三人くらいは入りそうな太さの木だ。それが体当たりの一撃で折れるとは、まさか思っていなかった。
呆気に取られ、動きを止めたのは一瞬だった。しかし戦場においてはその一瞬が命取りになることを、ナワーブはよく知っていた。知っていたのに、止まってしまった。
ナワーブが体を起こす前に、イノシシがこちらに向き直る。そして蹄が地を蹴った。真っ直ぐにこちらに向かって駆けてくる。全ての動作がゆっくりと動いて見えた。しかし、それ以上に自分の動きも遅く感じる。牙は目前だ。もう、自身がイノシシに跳ね飛ばされる未来しか見えなかった。


――まずい……!


「ニャワーブー‼︎」

衝撃を覚悟したナワーブだったが、落ちて来たのは牙ではなくふわりとした毛並み。金色の尾が二本、眼前を通り過ぎる。
瞬いたナワーブの視界にあったのは、巨体に飛び込んでいく小さな猫の後ろ姿だ。
「てーい!」
「ギュオアアアアアアアアア‼︎」
敵うわけがない。そう思って止めようと伸ばしたナワーブの手は空を掻き、気の抜ける掛け声とイノシシの絶叫が響いた。
「は?」
先程までは生きている気配が全く感じられなかったイノシシがぶるぶると首を振り、狂ったように回り始める。その顔面にしっかりと跨った金の猫が、鼻先に噛みついている。イノシシは猫を振り払おうと必死に首を振っているが、全く猫に堪えた様子はない。
今度こそ完全に呆気に取られたナワーブは、猫とイノシシの攻防を見ていることしかできない。
イノシシの鼻や耳が弱点だという情報は、生活のために狩りをしていたナワーブだって知っている。しかし、そんな的確に急所を狙えるわけがないのだ。
猫はあぐあぐとイノシシの鼻を散々攻撃すると、くるんと宙を舞って地面に降り立った。
「ほーら、こっちこっちー!」
「グオオオオオオオオ!」
挑発するように長い尾を振り走り出した猫を、イノシシは血走った眼で追いかけていく。完全にナワーブのことなど眼中になく、存在を忘れてしまっている。
ナワーブは慌てて立ち上がると、猫とイノシシの後を追いかける。猫の脚の速さはかなりのものだが、あのサイズでは持久力があるとは思えない。体力が尽きれば危険だと思ったのだ。
しかし猫は走るだけでなく、姿を消しては先の方に現れるという能力を使ってイノシシを翻弄している。
――そういえばあいつ、チェシャ猫だった。
余計な心配だったことにナワーブは気付くが、この先あの猫がどうする気なのかが分からないので、とにかく後を追いかけることにする。
追いつきそうで追いつかない猫に苛立ち、イノシシはより一層苛立たしげな咆哮をあげている。
金の猫は伯爵の屋敷とは正反対の方向に走っていき、草原の終わり、大きな河に渡された石橋の上で足を止めた。そしてそのど真ん中にちょこんと座ると、呑気に毛繕いをし始める。まるで「来れるものなら来てみろ」とでも言うような態度だ。
「ブオオオオオオオオオ!」
イノシシは地を掻き、怒りの雄叫びを上げると橋へと突進していく。
流石に知ってる猫が跳ね飛ばされる姿は見たくはない。ナワーブが止めに入ろうと肘当てを圧縮させる。
ところがそれを発動させる前に、イノシシに異変が起きた。橋に差し掛かった途端にイノシシがひっくり返り、ぴくりとも動かなくなってしまったのだ。
「は……っはあ、なんだ……⁈」
石橋へと漸く辿り着いたナワーブは、恐る恐る巨体に近付いて行く。用心して観察してみるが、イノシシに起き上がる気配はない。体に触れてみれば、完全に体温は失われている。先程まで動いていた生物の温度ではなかった。
「もう動かにゃいよ。魔法が切れちゃったから」
ナワーブが不思議そうにイノシシを見ていると、猫がとことこと歩み寄ってくる。
初めて正面から見る金の猫に、ナワーブはなんとも言えない気分になる。猫なのに垂れている困ったような緑の目、如何にも鈍臭そうなずんぐりむっくりとした体躯。ゆらゆらと感情を表す二本の尾。そして見覚えのある藍色のリボンと鈴。ずっと泥棒猫だと思って追いかけてきた相手だったが、正体が分かった状態で見るとどうやっても「トレイシー」なのだ。
トレイシーはえっちらおっちらとイノシシの体によじ登るとそこに座り込んだ。
「魔法ってのは?」
「あのね、このイノシシは今度の晩餐会にってマイク達みんにゃと狩った食材用にゃんだ。伯爵がそれ使ってニャワーブに悪戯したの。スワインイノシシてにゃまえつけてね」
「道理で生きてる気配が無かったのか」
「そう。もう死んでるから。で、動かにゃくにゃったのはその橋の手前までが伯爵の領地だから魔法が切れたの」
猫がちょいちょいと前脚で示す方を振り返り、なるほどとナワーブは顎を撫でる。だからイノシシは橋に差し掛かった途端に倒れたのか。
ナワーブは小山のようなイノシシの前に屈み込んだ。同じ高さにある猫の瞳は静かにナワーブを見つめている。
「……本当にトレイシーなんだな」
「うん」
「また、お前に助けられた」
「違うでしょ。ニャワーブがここに来たのは私のせいにゃのに」
耳を下げてしょんぼりとしている猫が頭を垂れる。全身で申し訳なさを出しているトレイシーに、ナワーブは猫でも人でもこいつやってること変わらねえなと思う。
「ごめんにゃさい。盗むつもりはにゃかったの」
「んなことは分かってる。お前俺がいた事もお前のすぐ後ろをつけていることにも気づいてなかったからな」
「うにっ」
「散々人をドジ呼ばわりしてたが、俺に言わせればドジはお前だ」
「返す言葉もございません。本当にごめん」
「ぶふっ」
後ろ脚ですっくと立ち上がり、前脚を合わせて振る猫の姿にナワーブは思わず吹き出してしまう。短い脚で拝むような、妙に人間臭い動きをする姿がなんともコミカルで愛くるしい。元々そんな気はなかったが、これでは怒る気も失せるというものだ。
くつくつと笑い続けるナワーブにトレイシーは二本脚のまま首を傾げる。それがまた笑いを誘う事は当人は気付いていない。
「?にゃんで笑うの?」
「いや……猫も悪くねえなと思ってな」
トレイシーの丸い頭を掌で撫でてやる。人の時よりも柔らかい毛はまだ湿っていて獣特有の臭いはしたが、トレイシーだと思えば気にはならなかった。
人の時と同じく、トレイシーはへにょりと耳を倒すともっと撫でてと頭を擦り付ける。仕草が全く同じで笑ってしまう。
「ところで、俺の肘当てはどこにあるんだ」
「うぎっ……」
気の済むまで撫でてやった後で、ナワーブは気になったことを尋ねる。
トレイシーが肘当てで遊んでいた姿は見た。だからあの部屋に置いてきているのかもしれないと思ったのだが、それにしてはどうにもトレイシーの反応がおかしい。
トレイシーは視線を明後日の方向に向けながら、うろうろと四つ脚でイノシシの上を歩き回る。
「おい?」
「えっとえっと……あの、その、枕、じゃにゃくて肘当て返すの、ちょっと後じゃだめ?」
「落ち着かねえからすぐ返せ」
「すぐ?」
「すぐだ」
「うにぃぃぃ……」
自身の犯行を認めた癖に、何故か肘当てを返すことを渋るトレイシーにナワーブは首を捻る。もう隠すこともないだろうに、何故そんなに嫌がるのだろうか。
頭を抱えるように突っ伏している猫をナワーブがじっと見ていると、トレイシーはおずおずと体の下から肘当てを差し出した。
トレイシーと全く同じ大きさのそれをどこから出したのかは分からなかったが、恐らくこのイノシシを動かしていたのと同じ魔法のようなものなのだろう。
ナワーブは差し出された肘当てを見て、すうと目を細めた。
「…………ほーう?」
「ごめんにゃさいいいいい!ごめんにゃさい!」
トレイシーが差し出した肘当てには、しっかりくっきりと猫の歯型がついていた。革の弾力の痕ではなく、しっかりと穴になっている。
トレイシーはナワーブの表情を見て、肘当ての上に頭を垂れて蹲る。
「ううう、あんまり痛くしにゃいで欲しいけど、どうぞ!」
「………………は?」
「か、覚悟は決めたから早く!」
「……何をだ?」
「にゃにって、拳骨でしょ」
「お前に?俺がか?なんでだ?」
「あにゃ開けたら拳骨って聞いた……」
「ああ」
そういえば、そんなことを言ったような気もする。確かに肘当てに傷は残っているし、何もお咎めなしというのもな。
ナワーブは小さな猫を見やり、頬を掻く。
「今はやらねえよ。小さすぎる。お前が人型に戻ったら考えておく」
「うう、分かった」
しょんぼりとしている猫に、デコピン程度で許してやるかとナワーブは心の中でこっそりと思う。そうしてトレイシーが下敷きにしている肘当てに手を伸ばす。
ところが。
「うなーう」
「……おい」
「にゃうー」
「…………」
「んなー!」
「おい」
「にあー!」
「……離せ、こら」
肘当てへと伸ばした手首にがっしりと組みついて、ばしばしと金の尻尾で抗議する猫にナワーブはひくりと青筋を浮かべる。手を引こうとしても振り解こうとしても、トレイシーはしっかりと手首に組みついて離れる気がなさそうだ。
「トレイシー!なんのつもりだ!」
「違うの違うの!猫の本能にゃのー!私のせいじゃにゃいのー!」
「じゃ、離せ」
「いや」
「おい」
お前の本音も入ってるじゃねえかとナワーブは逆の手でトレイシーの首根っこを掴む。しかしどこにそんな力があるのか、トレイシーは本当にしっかりがっしりとナワーブの右腕に組みついて離れない。余程肘当てを返したくないらしい。
「もうちょっと!もうちょっとだけ!やだやだまだ抱っこして寝てにゃいー!」
「なんでこんなもんで寝たがるんだお前は」
「いい匂いするの!ニャワーブとおにゃじ匂いするのー!」
「そりゃ俺のだからな」
「一回だけ!一回だけ!お願いー!」
「……一回寝たら満足するんだな?」
「する!」
「返せよ、本当に」
「返す!」
「はあ……ったく」
ナワーブは仕方なく肘当てから手を離す。トレイシーが言い出したら聞かないのはもう充分に分かっていた。力付くで取り返すことも出来たが、どうにも自分はこの猫又に甘くなってしまう。
ナワーブが目頭を押さえている間に、トレイシーはいそいそと肘当てを体の下に仕舞い込んだ。ナワーブの気が変わっては困る。
そしてトレイシーはイノシシの上からナワーブに向かって跳躍すると、空中で人の形に変わる。猫の姿で飛び込んでくるとばかり思っていたナワーブは、身構えていなかった為にまた押し潰されることになった。
「ぐふっ!」
「わあ、ナワーブ。大丈夫?」
仰向けに倒れた自身の上に正座して、心配そうに顔を覗き込むトレイシーにナワーブは絞り出すような声で「膝!」と呻いた。
「膝?」
「圧迫してんだよ。内臓潰す気か」
「あ、ごめん」
正座したトレイシーの膝が、前のめりになっているせいでナワーブの胃に食い込む位置にある。しかし「降りろ」という意味で伝えた言葉は、トレイシーには通じなかった。彼女は足だけ下ろすとナワーブの上に跨った状態になる。これでいいだろうという態度のトレイシーに、ナワーブは物言いたげな顔を向けたが、やがて諦めた。
――まあ、いいか。
「はい、ナワーブ」
「うん?」
ナワーブが体を起こすと、トレイシーが差し出す様に頭を下げた。トレイシーの意図が分からないナワーブはただただ頭巾の無い頭を見つめる。
金の髪はまだ濃い色をしており、完全に乾いていないのが分かる。
「早く早く、ナワーブ。体濡れてるから猫に戻っちゃう!」
「……何をすりゃいいんだ」
「拳骨するんでしょ」
強く目を瞑ってすっかり覚悟を決めているトレイシーに、ナワーブは脱力して仰向けの体勢に戻る。確かに人に戻ったら考えるとは言ったが。
やることは破茶滅茶な癖にどうしてこうも律儀なのか。罰を与えないと、トレイシーはきっと納得しないだろう。ナワーブはトレイシーの額に指を当てると、軽めに弾いた。
「んえ?」
トレイシーは弾かれた額を摩り、首を傾げる。衝撃はあったものの、痛みは感じなかった。きょとんとした顔をしているトレイシーに、ナワーブは億劫そうに体を起こす。
「これでいいだろ」
「拳骨じゃないよ?」
「あれは俺の手も痛ぇからな」
ナワーブがそう嘯けは、トレイシーは「そっか」と納得する。頑固だが聞き分けのいい、素直な奴だ。
「なあ、そろそろ降りて欲しいんだが」
「ん?ああ、うん」
腹の上にトレイシーがいるので、ナワーブは後ろ手をついて上半身を起こしている状態だ。耐えてはいたが、この体勢でいるのも腕と首が辛くなってきた。
トレイシーは言われた通りにナワーブから降りようとして、前屈みの体勢でぴたりと動きを止めた。どうかしたのかとナワーブが顎を引くと、至近距離にトレイシーの顔がある。その近さにナワーブが驚いている間に、トレイシーはちょんと鼻と鼻をくっつけた。
「あ、戻る」
目を見開いて固まるナワーブの眼前でトレイシーは猫に変わる。ぼとりと背中から落ちた猫は、そのまま地面に転がった。
体が濡れていると、人の姿を保てないのが本当に不便だ。
「うにゃ!イタタ……もー、これだから濡れるの嫌にゃんだよ!」
「………………」
「ニャワーブ、どうしたの?」
不機嫌に尻尾を振っていたトレイシーだったが、ナワーブの様子がおかしいことに気づいて膝の上に乗り上がる。
ナワーブは顔を抑えて彫像の様に固まっている。トレイシーが肩にまで飛び上がってみても、動かない。
「ニャワーブってば。ねー」
あまりに反応がないので、トレイシーは爪を立てないように前脚でナワーブの頬を押してみる。
ひんやりとした肉球の感触に、ナワーブはびくりと体を揺らすと肩に乗っているトレイシーに漸く気付いた。目が合うと慌てたように猫の体を両手で掴み、そそくさと地面に下ろした。
「にゃににゃに?どうしたの?」
「お前、今俺の鼻に……」
「ありがとうのおはにゃちゅーだよ。ニャワーブは特別だよ!」
得意げにヒゲをピンと上向かせて答えるトレイシーに、ナワーブは両手で顔を覆った。
絶対それ、猫同士でやるやつだろ。人の姿の時にやらないで欲しい。無いとは思うが、一瞬唇が狙われたように思えて心臓に悪かった。
ようやく平常心を取り戻して顔を上げれば、金の猫は如何にも猫らしい仕草で伸びをし、後ろ脚で耳裏を掻いている。
トレイシーの呑気な態度に、人の気も知らずこの野郎とナワーブは内心苛立ちを覚えた。
「トレイシー。お前に言うことがある」
「にゃに?」
トレイシーが首を傾げて尋ねると、ナワーブは眉間に皺を寄せて腕を組む。
こいつには一度、きちんと言い聞かせなくてはならない。
「人の顔にいきなり触るな。初対面の相手の顔は以ての外だ。敵意があると思われて反撃されてもおかしくねえからな」
「猫はあいさつでするよ?」
「人間はしねえんだよ。お前が猫でも人の形の時は人のルールで動け。勝手に触るのは駄目だ」
「うにぃ……じゃあ、人間はもう絶対触っちゃダメ?ニャワーブは私が触るのいや?」
「…………」
耳も尻尾もヒゲも垂らして、しょんぼりしているトレイシーにナワーブはぐっと言葉を詰まらせる。顔は弱点の部位が多い。だからナワーブも当然他人になど触らせたくはないし、許さない。
しかし、今トレイシーにこの話をしたのは、彼女があまりに無防備に他人に触れるからだ。意図を勘違いされ、危害を加えられることもあるかもしれない。だからやめるように注意をしているのだ。決してナワーブが嫌かどうかという話はしていない。
「……無断で触るのは、駄目だ。顔に触るなら先に言え」
「!うん、分かったぁ!」
元気にお返事するトレイシーの耳と尻尾はぴんと立っている。許可をもらえた喜びを全身で表す猫をナワーブは撫でてやる。ぐるぐると喉を鳴らしながら手にじゃれつくトレイシーにナワーブは知らず口角が緩む。出来ることなら持って帰りたい可愛さだ。
――その前に帰る算段をつけなくてはならないのはこっちだが。
さて、こいつをどうするかとナワーブは小山のようなイノシシを振り返る。伯爵の悪戯心によって動いていた巨体は、今やもうただの肉の塊だ。自身の脚で帰ってもらうことはできないだろう。
そもそも相手がしでかしたことなのだから、このイノシシを放置しても構わないのではないかとも思う。思うのだが、『ただ歩いて帰ってくればいいだけです』と言っていた伯爵の言葉に、何か含みを感じずにはいられない。
トレイシーが言うにはこれは晩餐会の食材だというし、持って帰らなくてはならないだろう。そもそも証印を貰う立場なので、伯爵の悪印象になることは避けなくてはならない。
それら全てを含めて「帰ってくればいいだけ」というのは皮肉が効き過ぎていると思う。いけすかない伯爵様のご尊顔、絶対に拝んでやらないと気が済まねえなとナワーブは思う。
「え!もしかして持って帰る気⁈」
ナワーブがイノシシの右後ろ脚を掴んで歩き出したのを見て、トレイシーは信じられない思いで叫んだ。
イノシシは倒れている状態でもナワーブの膝上くらいの高さがある。相当な重さがあるはずだ。トレイシーとてそのまま放置しておくつもりはなかったが、流石に誰が応援を呼ぶ気でいたのだ。それをナワーブは一人で運ぶつもりなのか。
「距離あるよ⁈流石に大変だと思うんだけど……」
「見た目よりは重くねえぞ、これ」
「見た目よりはそうでも重いでしょ!」
足元でちょろちょろしているトレイシーに構わず、ナワーブはずりずりとイノシシを引きずって石橋を戻って行く。
何故か意地になっているナワーブはトレイシーの提案を聞く耳はないようだ。トレイシーは仕方なく、ナワーブの後を追いかけた。


「うっわ、本当に持って帰ってきてる……」
マイクは信じられない思いで呟いた。伯爵から聞いてはいたが、本当にナワーブはあのデカいイノシシを引きずって歩いている。あんな目にあわされたんだから、置いて来ても良かったろうに律儀にも程がある。
あんなデカいイノシシ誰も持っていかないし、回収なんて後でいいだろうと思っていたのに、伯爵が今すぐ迎えに行けと言った理由が分かった。あのナワーブの足取りでは屋敷に着くのは日が暮れた後だ。
「あ、マイク!」
「迎えに来たよー」
草原に立つ料理人に気付き、トレイシーが走り寄ってくる。と言っても短足の猫は草に埋もれているので、ピンと立った尻尾しか見えていないのだが。
マイクはとことこと草の中を歩いてくるトレイシーを見ながら心の内で溜息をつく。
――あれ、多分洗い直しだろうなあ。
「あんたまで来るとは、どうしたんだ?」
ナワーブは引きずっていたイノシシの脚を降ろし、マイクに尋ねる。少し息が上がっているが、ナワーブはまだまだ余裕がありそうだ。体格はあまりいい方ではないが、体力はかなりあるのだろう。それでも重量のあるイノシシを引きずって行くのは無茶が過ぎると思うが。
マイクはぴくりとも動かないイノシシの脇に屈んで、ナワーブを見上げる。
「うちの御主人がやらかした事態の回収に来たんだ」
マイクはそう言いながら、肩に担いできた白い袋を下ろした。白い袋はマイクの背中を覆う程度の大きさのものだ。
それで何をするのかとナワーブが見ていると、マイクが袋の口を開いた。そして袋にイノシシの鼻先を入れると、ずるずると体に被せていき、最終的に尻尾まで覆ってしまう。最後に袋の紐をキュッと結ぶとマイクが担げる程度の大きさになった。
マイクはぱんぱんに膨らんだ袋を満足げに見下ろし、手を払う。
「これでよし!」
「よしじゃねえよ、なんだこれ」
「え、イノシシじゃん」
「そっちじゃねえ、この袋だ」
「あー…………魔法の袋だよ!」
「ウインクで誤魔化すな。お前今あからさまに説明面倒くさがっただろ」
「もー細かいことはいいじゃん!早く戻ろうよ」
マイクは億劫そうに手を振ると、袋を肩に担いで歩き出した。 用は済んだといった態度を見るに、本当にイノシシの回収の為に来たのだろう。主の後始末に駆り出されるとは散々だな。
伯爵も女大公も主の酷さとしてはどちらも似た様なものだが、大公邸の召使達よりマイク一人の方が優秀そうだなとナワーブは思う。
「ニャワーブ、マイク行っちゃうよ」
「ああ」
ぼうっと突っ立って考えていたナワーブの足元で、トレイシーがゆらゆらと尻尾を揺らしている。とことこと歩き始めた短足猫をじっと見下ろしてると、トレイシーが振り返る。
「ニャワーブ?」
「……なあ、お前それ腹大丈夫なのか」
「へ?」
トレイシーが首を傾げているとナワーブが脇にしゃがみ込んだ。確認するようにトレイシーのお腹を掬いあげ、体を持ち上げる。
先ほどからちょこまかとトレイシーが歩き回っているのを見ながら、ナワーブは気になって仕方がなかった事がある。
「地面に擦ってるんじゃねえか、腹。脚が短過ぎて」
「はあ⁈」
両手で腹が見えるように抱え上げてみるが、トレイシーの白い毛並みは汚れてはいないようだ。腹がたぷたぷとしているので、折角あれだけの悲鳴をあげながら体を洗ったのに大丈夫なのかとナワーブは気にしていたのだ。
しかしナワーブなりの気遣いは、トレイシーには無礼な質問にしか聞こえなかった。すっかりと腹を立てた猫は、短い前脚を振りたくって抗議をする。
「短く‼︎にゃい‼︎短く‼︎にゃいよ‼︎」
「短えだろ。届いてねえよ」
顔の前に体を掲げているのに、トレイシーの脚は全くと言っていいほどナワーブに届いていない。懸命に猫パンチをお見舞いしようと頑張っているが、ただただぬいぐるみが暴れている様にしか見えない。
少し面白くなってしまったナワーブがその様を眺めていると、トレイシーの尻尾がばしばしと激しく揺れ始めた。可愛らしかった垂れ目も吊り上がり、どうやら本当に機嫌を損ねてしまったようだ。
「うにいいいいいいいい……」
「そんなに怒ることねえだろ。いてて、おい」
あやすように片腕に抱え直してみるも、トレイシーはナワーブの逆の手を前脚で捕らえて噛み付いている。本気では無いだろうが、そこそこ痛い。
なかなかやってこないナワーブ達に、マイクは振り返って訝しげな目を向ける。
「なに遊んでるのさ、二人とも」
「ああ、短足に短足っつったらキレた。いてっ!」
「うにいいいい!」
赤子の様に仰向けで抱っこされながらも、ぎらぎらとした目でナワーブの手を齧っているトレイシーはすっかりご立腹の様子だ。だが、ナワーブの腕から降りる気は更々無いらしい。
「おい、離せ」
「うにいいいいい……」
「分かった、噛むな。短足なんじゃなくて腹が弛んでるだけだっ、いてえっての」
「太ってにゃいもん!」
「言ってねえだろ」
太くなった尻尾を振りたくって不機嫌さを表すトレイシーは、仰向けのまま四本の脚でナワーブの腕をがっちりとホールドしている。抗議するように噛みついているが、ナワーブが大して痛がっていない様を見るに、絶対あれは甘噛みだ。
マイクはそんな二人を横目に、顳顬こめかみに手をやる。
「はー……」
あれだけ猫と人間の感情劇を楽しんでいたくせに、いざ現場に行くとなった途端に「君に任せます」と宣っていた伯爵の意図が分かった。
これは確かにいたたまれない。いちゃいちゃするなら二人だけの時にしてほしい。僕大分損な役回りでは?とマイクは盛大にため息をついた。
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