ちぇしゃネコ症候群(ナワトレ)

猫になったトレイシーは、かりかりと前脚で「Open」の札が掛かった扉を引っ掻いた。勝手に入るより、きちんと玄関から入った方がここの主人の機嫌がいい事を知っているからだ。
「おーい、誰かいませんかー!」
「はいはーい、今開けま……ってあれ、トレイシーじゃん」
中から出て来たのは赤毛の料理人だった。食事の準備中だったのか、青いエプロンで手を拭きながら出て来た彼のコック帽には、まだ湯気の立つステーキがフォークごと突き刺さっている。
料理人は戸口に屈んで、トレイシーと目線を合わせようとするので、トレイシーも後ろ脚で立ち上がる。
「どうしたの?」
「あのさ、伯爵いるかにゃって」
「もうすぐ帰って来ると思うけど……え、まさかその格好で来たってことは」
「うう、覚悟決めて来た」
目を剥いて驚く料理人に、トレイシーは直立したまま項垂れる。ばったばったと揺れる尻尾が、彼女の本音を表している。
「そういうことなら入って入って」
「お邪魔します……」
開かれた扉を四つ脚で潜り、トレイシーは迷いない足取りで廊下を進む。「客」として利用した事はないが、何がどこにあるかは知っている。
待合室を兼ねた客間に入り、トレイシーが落ち着きなく部屋中を歩き回っていると、料理人がソファーの上を叩いた。ここで待ってろということだろう。
トレイシーは料理人に勧められた通りにソファーに飛び乗る。そしてぐるぐるとその場で回り、蹲った。尻尾は相変わらずぶんぶんと荒ぶっている。
「落ち着きなってトレイシー。なんでそんな嫌なのに来たのさ」
「お城に行くのに証印が必要にゃんだよ」
「ああー、それで。トレイシーが自分から手入れ来るなんて、槍でも降るのかと思った」
料理人はヒゲを反らして耳をイカ耳にしている猫に成程と納得する。本当に嫌そうだ。
ここは動物たちのグルーミングを引き受けている店だ。店とはいうが、主人である伯爵の道楽なのでいつ営業しているかは彼の気分次第になる。料理人もそれに巻き込まれ、スタッフを務めている。
伯爵は元はあちらの世界では有名な殺人鬼であったようだが、紆余曲折を経てこの世界にやってきて人外になったのだそうだ。
人間の女を切り裂く事を愉しみとしていた伯爵だったが、この世界では動物の手入れに愉しみを見出している。わざわざ住処を店に改築するほどの執着だ。
なんでも女の腑を丁寧に一つ一つ解体し、綺麗に取り出して並べるのと動物達の毛並みを美しく整える過程に似た高揚を覚えるらしい。幾度か説明されたが料理人にはさっぱり全く理解できないし、したくない。グルーミングを受けに来る動物達には、絶対に聞かせられない話だ。
伯爵曰く、特に柔らかく絡まりやすい毛質の手入れが気に入っており、長毛種の猫をふわふわに仕上げることに生き甲斐を感じるのだとか。まさに目の前にいるトレイシーは伯爵お気に入りの条件を全て揃えた毛並みをしているのだ。
しかしトレイシーは臆病な猫らしく、抱き上げられることは疎か、撫でられることも嫌う。ブラッシングや風呂なんて以ての外だ。強行しようものならぱっと姿を消して逃げてしまう。
恐らく他の者ならばそこまでは嫌がらないのだろうが、トレイシーは伯爵の物騒な気配を敏感に感じ取ってしまっている。
入浴も散髪も人型の時に済ませれば良いのでトレイシー自身が困ることは無いが、猫型のふわふわの猫毛と短足のずんぐりボディは猫好きにはとても魅力的だ。撫でたいなと思ったことは料理人にもある。なんなら今もわしゃわしゃしたい。
店長はトレイシーの毛をふわふわに整えたいと、以前から虎視眈々と狙っている。
「めちゃくちゃ嫌そうだけど、コースどうする?」
「煮るにゃり焼くにゃりどんと来い……!」
「はい、爪切りからブラッシング、シャンプーのフルコース一名様ご案内ー」
料理人が羽根ペンでカリカリと注文票を書いている間も、トレイシーは唸ってソファーに爪を立てている。どんと来いという態度ではない。絶対暴れる。本当に暴れる。安全策で噛まれないように顔周りを覆うカラーも出しとこうと、料理人は注文票に書き留める。
「うにぃー……」
「すんごい毛が逆立ってるよ、トレイシー。分かった、バター持って来てあげっからさ。落ち着こう、一回」
「!ばたー!」
あれだけ荒ぶっていた尻尾が、ぴよっと立つ。好物への反応が顕著だ。料理人は笑いながらバターを取りに台所へ向かう。バターはあげすぎてはいけないけれど、少しなら猫にも問題はない。ちゃんと、こういう時の為に塩分が少ないのも用意してある。
バターを小さく切り分けた小皿を持って、料理人は客間に戻ると、トレイシーはソファーの上で丸くなって、何かを大事に抱え込んでいる。近付いてみれば、それは彼も見たことがない革製品だった。トレイシーはそれを前脚で抱え込んですりすりと体を擦り付けている。
「トレイシー、それなに?」
「森で拾った!ツヤツヤしてていい匂いするんだ」
「いい匂い?革なのに?」
「うん、いい匂いする、好き」
トレイシーはそう言って、額を革製品に擦り付ける。本当に、よっぽど気に入った匂いがしているようだ。さっきまで忙しなかった尻尾もゆらゆらと揺れている。リラックスしているのがよく分かる。
「すっかりお気に入りじゃん」
「うん。これは枕にするんだ」
「へえ……バターここ置いとくよ」
「わー!マイク、ありがとー!」
トレイシーはテーブルの上に飛び移ると、ふさふさとした金色の尻尾を揺らしながらバターを舐め始める。
料理人――マイクは見たことのない革製品が気になってしまう。トレイシーに許可を得て、革製品を手に取ってみる。
それは年季が入ってはいるが、よく手入れをされていて革に傷んだ様子はない。ずしりとした重みがあるので金属が内側についているのかもしれない。
トレイシーは拾ったと言うが、持ち主の手から離れてそれ程時間は経ってなさそうだ。マイクは袋なのかと思っていたが、筒状になっているので恐らく何かのカバーか、体に装着するものなのかもしれない。
「トレイシー、これってさ」
「トレイシーが来ていると⁈」
大きな音を立てて、客間の扉が開く。背の高い男が勢いよく入って来たのだ。驚いたマイクは革製品を取り落とし、トレイシーは文字通り飛び上がった。そして体を低くすると、凄まじい表情で牙を剥き出す。
「フシャアアアアアアア‼︎」
「おや」
「折角いい感じに落ち着かせたのになにしてくれんのさ、『店長』」
「すみません、こっちの姿だとは」
マイクに謝る伯爵は、シルクハットも豪奢な赤と黒の外套も身につけたままだった。ただでさえ高身長な男が更に大きく見える姿で部屋に飛び込んで来たので、臆病なトレイシーは完全にパニックになってしまった。
体毛を膨張させて、尻尾もブラシの様な太さになっている。さっきまでの愛らしさなど消し飛ぶ獣の顔で威嚇する姿は、家猫とは思えない野生味に溢れている。しかしその耳はぺたりと伏せているので、完全な防御の体勢だ。驚いてすっかり中身まで猫になってしまっている。
マイクは一度伯爵を部屋から締め出すと、距離を離したまま「どーどー」とトレイシーに声をかける。こういう時は下手に近づいても目を合わせてもいけない。
「大丈夫だよー、トレイシー。怖くないよー」
「ウウウウウウウ……」
「びっくりしたねー、でもほら怖いの追い出したから、ね」
「ウウウウ……」
トレイシーの唸る声が小さくなっていく。もうちょっと、と思ったマイクはバターが残った小皿を押し出した。
唸るのをやめたトレイシーが警戒しながら小皿の匂いを嗅ぐ。マイクが離れた位置で動かないでいると、そのままバターを舐め始める。やっぱり好物に弱い、この子。
トレイシーがバターに夢中になっている間に、そろりそろりと今度は静かに伯爵が入ってくる。威嚇されない為か、黒いジャケットもシルクハットも脱いでいる。
小皿がすっかり綺麗になり、猫が口の周りを満足そうに舐めているのを確認して、マイクはテーブルの脇に屈み込む。
「落ち着いた?トレイシー」
「バター美味しい」
「それはなによりなんですが、貴女なにしに来たんですか」
少し不機嫌な声の伯爵に、トレイシーは後ろ脚で立ち上がり、短い前脚を合わせ、お願いをするように空を掻いて見せる。
「今日はお客ににゃりに来たんだよ」
「あざといポーズをすれば人を威嚇したことが許されると思ってるんですか。ご注文は」
「ちょろ」
マイクが呟いた声を無視して、伯爵は服の中から羊皮紙を取り出す。トレイシーがテーブルの上から伯爵の肩へと一瞬で移動し紙を覗き込むと、先ほどマイクが書いていた注文票の内容がそこに浮かび上がっている。
伯爵は注文の内容と肩に乗っている猫を見比べて、首を傾げる。
「グルーミング嫌いの貴女がフルコース?槍でも降るのでしょうか」
「なんでも、証印が必要なんだって」
「城に行かれるのなら、マリーさんかジョゼフさんについていけばいいのでは」
「必要にゃのは私じゃにゃいの、人間にゃの」
「ほう?」
伯爵とマイクが人間に興味のある素振りなので、トレイシーはナワーブの事を話して聞かせることにする。
少しだけ伯爵が不気味な気配を漂わせていたので、しっかりとナワーブが「オス」である事は主張しておく。
全て話し終わると、伯爵は「なるほどなるほど」と頷きながら、羊皮紙をくるくると巻いて服に仕舞い込む。白い仮面から覗く赤い眼が、酷く愉しげに輝いている。
「その人間のオスの為に、証印と引き換えにこれまで逃げ回ってどうあってもさせてくれなかったグルーミングを受ける気になったと」
「だめかにゃ?」
「いいでしょう。ふわふわつやつやの最高の仕上がりにして見せますよ、頭の先から尻尾の先まで完璧に!」
「うにいいい……」
「めっちゃ嫌そう」
うきうきとしている伯爵の肩で、ぼわりと全身の毛を逆立てている猫にマイクは両手を差し出す。トレイシーはそそくさとマイクの腕に逃げ込んだ。
「途中で貴女が逃げて中途半端な仕上がりを人目に晒すことは我慢なりませんので、きっちり乾燥まで終えてから証印をお渡ししましょう。分かりましたね」
「うう、分かった」
「それでは私は準備に取り掛かりますので、少々お待ちください」
鼻唄を歌いながら隣室へと消えた伯爵に、トレイシーはマイクの腕から降りるとばりばりとソファーで爪研ぎを始める。マイクは苦笑しながらその側に屈み込む。
「八つ当たりはやめてよ、お客様」
「そんにゃつもりはにゃいけどぉ!やっぱ嫌にゃものは嫌だああ‼︎」
「ここまで来たらもう諦めなよ」
「覚悟はしてるけどそれとこれは別にゃの!」
ばたばたと振りたくられた尻尾が二本に増える。普段は隠していたもう片方の尻尾が顕現してしまっていることにもトレイシーは気付いていない。
仕方がないなとマイクは肩を竦めて、追加のバターをとりに台所に向かう。今日は特別だ。



ナワーブはあちらこちらにある看板の通りに進み、赤い丸屋根の大きな建物に辿り着いた。正面の門に回り込めば、「グルーマーサロン」の看板が掲げられている。目的地はここで間違いないようだ。
問題があるとすれば、建物のサイズがナワーブには大分大きいということだ。今のままでは門に手が届かない。ナワーブは少し考え、先ほどのきのこの欠片を僅かに齧る。途端に眩暈が起きたが、丁度いいサイズに背が伸びたのでよしとする。
ところが門に手をかけると鍵がかかっているのか開かない。休みなのかとも思ったが、ナワーブの目には店の扉に「Open」と札がかかっているのが見える。
改めて門の回りを確認すると、看板の文字が「施術準備中。しばらくお待ちください」に代わっている。タイミング悪く客が来てしまっていたらしい。
「困ったな」
話を聞きたいだけなんだがとナワーブは頭を掻く。グルーミングというのがどれだけ時間を使うのかは分からないが、その間ずっと待つというのもな。
なにか中の様子を窺う手はないかと柵の外周を確認すると裏門の外に手頃な高さの木が生えていることに気付く。行儀は悪いがあれで店内を覗かせてもらおうとナワーブは木をよじ登る。
理想的な枝ぶりの木はがっしりとしており、多少のことでは枝もびくともしない強さがある。これ幸いと立派な枝の上を進むと、家具の立派な部屋が見える。人はいないのかとナワーブが思っていると、ゆらりと金色のものが視界の端で揺れる。
「!」
ナワーブが枝の上から身を乗り出すと、部屋のソファーに金色の猫が寝転がっているが見えた。ふさふさとした毛並みにずんぐりむっくりとしたボディ、藍色のリボンに鈴。間違いなくナワーブが探していたあの猫だ。
ようやく見つけたとナワーブが目を凝らすと、あろう事か猫は盗んだ肘当てを抱え込んで噛みつきながら、後ろ脚でかかかと蹴り付けている。
「あいつ……!」
何してやがると怒りに拳を握るも、窓は鍵がかかっている上に流石にそこまでは枝も届かない。ナワーブが見ている先で、猫は肘当てを抱え直すと今度はすりすりと体を擦り付けている。相当気に入っている様子だが、盗んだものは返してもらわなくては。
正当な手順も何も頭から吹き飛んだナワーブは、枝から庭に飛び降りる。そうして手近な裏口の扉を叩くが、反応は返ってこない。窓から中を確認しても人影はない。どうやらこちら側には誰もいないようだ。
仕方なくナワーブはぐるりと大きな建物を迂回して、正面の扉を目指す。美容院というには貴族の屋敷のようなデカさだなとナワーブは庭の豪華な装飾を見やる。
ようやく辿り着いた正面の扉の前に立ち、ナワーブはノッカーを鳴らす。準備中の看板を見てから大分時間が過ぎてしまっている。もしかすると施術が始まってしまっているかもしれない。
誰も出てこなかったらどうしようかとナワーブが考えていると、「はーい」という返事があった。反応があったことに安堵しながらナワーブが扉の前で待っていると、ステーキを頭に乗せたエプロン姿の青年が出て来た。
「はいはいどなたーっ、て君本当にどなた⁇」
「突然すまん。中にいる猫の事なんだが」
「ああ!そうか人間!話は聞いてるよ、入って入って!」
エプロンの青年は何故かナワーブの事を知っているらしい。人懐っこい笑顔で招き入れてくれる相手に、ナワーブは戸惑いつつも言われた通りにする。勝手に侵入した事は何も気にしていない様だ。
「君、ナワーブでしょ?僕はマイクだよ、よろしく!」
「ああ……」
「こんなところで立ち話もなんだね。こっちどうぞー」
すたすたと先に立って歩き出したマイクに、ナワーブはここの連中は話を聞かない奴らばかりだなとその後ろを追いかける。
マイクは頭の後ろで手を組んで、ナワーブを振り返ってにかりと笑う。
「槍が降るかと思ってたけど、成程ねえ。納得しちゃった。こんだけ男前なら一生懸命にもなっちゃうよね。そうかそうかー、そういうことかー。ようやくあのお子ちゃまにも春が来たか……でも人間なんだよなあ」
「?あんた、何の話を」
「そういえばナワーブ、正面閉まってたと思うけどどこから入ってきたの?」
きょとんとした顔で尋ねられ、ナワーブは渋面になる。その質問をされると非常に気まずい。
「………………悪い、裏の木を伝って侵入した」
「おお、猫並みの運動神経だね。どこかの猫又とは大違いだ。怒ってるんじゃないからそんなしょぼくれないでって」
「勝手に入ったことには変わりないだろ」
「あー。あれはどっちかっていうと、逃亡対策?」
「誰のだ」
「お客さん。濡れるの嫌がって逃げる客がいるから、そういう場合は中から出られないようにするんだよ。この敷地内なら『店長』の範疇だからさ。特に今日の『上客』は手強いから」
「ふぎゃおおお‼︎」
「!」
マイクの言葉が終わらない内に、凄まじい獣の叫び声が廊下に響く。その叫びは一度では収まらず、何度も何度も聞こえてくる。『上客』というのはどんな化け物なんだとナワーブは顔を顰める。「毛のある方ならどなたでも」と看板に書いてはあったが、物には限度がある筈だ。
「うぎゃおお!ふぎゃおう‼︎ぎゃあ‼︎」
「どんな怪物が客に来てるんだよ……」
「猫だけど」
「猫の鳴き声じゃねえだろ、あれ」
「ナワーブ、猫の可愛いとこしか知らないんだね。猫って猛獣の仲間なんだよ。そりゃもう危険なんだから。爪とか刺さると本当に大事だし、噛まれると穴が開く上にえらいことになる」
「へえ……」
笑顔を消してそう言うマイクは実体験しているのだろう。穴ってなんだとナワーブは思ったが、今後猫がトラウマになりそうなので尋ね返すことはしなかった。
「うーん、あの調子だと『店長』の手が空くのも時間かかりそうだなあ。お茶でも出そうか?」
「いや、俺は猫に用があるだけで」
「その猫だよ、あれ」
マイクが人差し指を立てる。その背後で猫の凄まじい鳴き声が響き渡る。しばらく考えて、ナワーブはもしやと眉を顰める。
「……俺が用があるのは、金色のずんぐりした尾の長い猫なんだが」
「その猫がさっきから鳴き叫んでるんだよ」
「……他に猫は?」
「いないよ。今日のお客はあの子だけ。今ブラッシングしてるから、ここから体洗って乾かして毛並み整えて完成。それ終わるまで多分出してもらえないと思う」
マイクが手順の説明をしている間も猫の悲鳴が止むことはない。これは腕のいい美容師も相当手こずるのではないだろうか。
終わるまであの泥棒猫も逃げられないのだ。ならばナワーブも焦る必要はない。トレイシーの事は少し気になったが、恐らくは大丈夫だろう。
「悪いが待たせてもらっていいか?」
「いいって。『店長』も会いたがってたし、ゆっくりしてってよ。丁度いいから僕の話し相手になってくれると嬉しいんだけど」
「ああ、いいぞ」
「んじゃ、ちょっと散らかってるけど僕の城に行こう!」
マイクは嬉々とした足取りで廊下の先の扉を開く。そこはよく陽が入る窓と高い天井のある台所だ。建物の大きさに反し、広さはそれほどではないが、居心地の良い空気に満ちている。
食料庫も兼ねているようで部屋の一角には吊るされた干し肉や加工肉、果物が積まれた籠に、野菜の箱が並び、穀物の入った袋も並んでいる。作業中だったのか調理台の上には乱雑に胡椒の実の袋が置いてある。
――なるほど、料理人の城というわけか。
こんなでかい台所に入るのはナワーブも初めてだ。物珍しさに室内を眺めていると、マイクが椅子を引きずって来る。
「ここ座ってー。コーヒーでいい?」
「ああ」
マイクはコーヒーミルを取り出すと、無造作に黒胡椒を袋から掴み出し、そこに投げ入れた。ナワーブはあれは自分の知らないコーヒー豆なのかと一瞬考えたが、ミルで挽かれた香りは間違いなく胡椒なのだ。
マイクは絶句しているナワーブを他所に、慣れた手つきで胡椒「コーヒー」を入れていく。
「はい、どーぞ」
「……ああ」
差し出されたコーヒーカップをナワーブは無言で見つめる。どういうわけか、胡椒で入れていたはずの未知の液体はきちんとコーヒーの香りがしている。
マイクは当然のように自分のカップに口をつけているので、ナワーブも恐る恐るその液体を口に含む。どういう原理かは謎だが、間違いなく味も香りもコーヒーだった。
胡椒の汁だったらどうしようと思っていたナワーブは、そっと安堵の息を漏らす。「お代わりもあるよ」と親切にマイクは言うが、ナワーブはもう充分だと心の中で答えた。
ルキノもマイクも普通の人間に見えたが、やはりどこかおかしい。この世界の住人は全員そうなのか。マイクは見た目はナワーブと変わらないように見えるが、彼らは何故かナワーブを「人間」という。もしやイライ達のように違う姿に変化するのだろうか。
「聞きたいんだが、あんたもなんかの動物なのか?」
「動物じゃない、料理人だよ」
「人間って事か?」
「違うよ、料理人。人間は君」
「……料理人と人間は違うのか?」
「当たり前じゃん」
何を言っているんだという顔をされ、ナワーブは黙るしかなかった。この世界の常識を理解することは難しそうだ。
カップを抱えて黙ってしまったナワーブに、今度はマイクが身を乗り出す。
「ナワーブ、この世界には何しに来たの?元の世界に帰ろうとしてるってことは何か目的があってきたんだよね」
「目的があるというより、仕方なくというのが正解だな。替わりのない装備を盗まれて、その泥棒を追いかけていたらここに辿り着いちまったんだ」
「それは、悪い奴がいたんだね。人を困らせるのは良くない事だろうに。それで、その泥棒は捕まえたの?」
「いや、これからだ。トレイシーが戻るまでに済めばいいんだが」
「…………?」
マイクは目の前でカップを見つめている男に、首を傾げる。これから犯人を捕まえるのなら、こんな呑気にしていていいのだろうか。
話し相手になってくれと頼んだのは自分だが、こうしている間にトレイシーのグルーミングが完了してしまう。彼女が戻って来る前にというのなら、こんなところでのんびりしている場合ではないのでは。
「ナワーブ、それならこんなところで時間潰してたらダメなんじゃ」
「今取り込み中なんだろう?だったら終わるまで待つしかないだろう」
「??トレイシーが戻って来る前に犯人捕まえたいんじゃなかったっけ?」
「ああ。流石に、トレイシーの前で同じ猫をとっちめるのは気が引ける。鈍臭そうな奴だったし、盗んだものさえ返して貰えば許してもいいと思ってる。歯型がついてたら拳骨くらいは喰らわせるが」
「え、その泥棒って猫なの?」
「ああ」
「んんんん?ちょっと待って。混乱して来た。一回伯爵呼ぼうか、いやでもなぁ」
「伯爵?伯爵ってここにいるのか?」
頭を抑えて立ち上がったマイクだったが、ナワーブも「伯爵」という単語に眉根を寄せた。伯爵は、今トレイシーが証印をもらいに行っている相手ではなかったか。
ナワーブの言葉にマイクは呆れた表情になる。
「いるに決まってるじゃんか!ここは伯爵邸のグルーマーサロンなんだし」
「その、伯爵ってのは元吸血鬼の、人間の女を捌くのが趣味とかいうサディストの伯爵で合ってるか?」
「そのサディストで合ってる」
「そんな奴が動物の美容院を?」
「今の道楽なんだって」
「なら、トレイシーはここに来てるってことか?」
「そう。証印貰うのと引き換えに、グルーミング受けに来てる」
「あいつがグルーミング?」
「伯爵がずっと切望してたからねー。いつも嫌がって逃げててさ。ほら、すんごい声で鳴いてるでしょ」
「あれが?…………待て。俺が混乱してきた」
「ナワーブ、トレイシー迎えに来たんじゃないの?」
「いや、俺は泥棒猫の情報を探しに来たんだが」
「え、だってさっきトレイシーのこと聞いて来たじゃん。金色のずんぐりした尾の長い猫って」
「それは泥棒猫の事で、あいつとは違う。毛が長いやつだ」
「トレイシーもだよ」
「?あいつはふさふさしてないだろ」
「してるよ!猫だと脚が埋まっちゃうくらいもさもさだよ」
「でも尻尾は一本だったぞ」
「バランス取れないからって四つ脚の時は一本だよ」
「……他に猫は」
「だからいないって」
「……………………と、言う事は」
眉間に皺を寄せ、互いの顔を無言で見つめ合う。マイクは顳顬こめかみに手を添え、「オーケー」と努めて冷静な声を出す。
「一旦、話を整理しよう」
「ああ」
「まず、ナワーブは何を盗まれたって?」
「肘当てだ。片方を咥えて逃げられてな。……これなんだが」
ナワーブが腰から下げていた肘当ての片割れを取り出すと、マイクは漕いでいた椅子ごと後ろにひっくり返った。
それは、トレイシーが大事に大事に抱え込み、体を擦り付けていたあの革製品だった。
「おい⁈」
ごんと鈍い音を立て、突然後ろに倒れたマイクにナワーブは慌てて立ち上がる。マイクは後頭部を摩りながら、「平気」と元の位置に座り直す。
「大丈夫か?」
「うん。整理する前に答えが出るとは思わなくてね。トレイシーだわ、ナワーブが探してた泥棒猫」
「……やっぱりそうなるよなぁ」
マイクとの問答で、そうとしか思えない流れを感じてはいたが認めたくはなかった。
泥棒をした猫張本人が、ナワーブのすぐ近くにいたのだ。イチハツが言っていた「探していれば見つかるが諦めれば見つからない」という言葉は比喩でもなんでもなく、そのままの意味だったのだ。知らなければそのまま、元の世界に戻っていたはずだ。
俯いて額を抑えるナワーブに、マイクは慌てて付け加える。
「あ、でも!誤解しないでナワーブ。トレイシーは人のもの盗むとか、そう言うことする悪いやつじゃないんだ。その肘当ても『拾った』って言っててさ!多分置いてあるの見て勝手に持ってちゃったとかそういう……や、決してそれがいい行為っていうんじゃないけど!それを庇う気はないんだけど、でも悪意があってやったわけじゃないと思うんだ!だからその、おちょくる気は無かったと思う。これは本当」
「いい。言われなくてもそれくらいは分かる。横に寝転んでる俺にも気付かなかったわけだろう、あいつ」
必死にトレイシーの弁護をしようとするマイクに、ナワーブは苦笑してそう返す。トレイシーのお人好し加減は、例え短時間の付き合いでもナワーブにも分かっている。
恐らく、ナワーブが放り出した荷物から転がった肘当てをトレイシーは落ちているものと認識して持って行ってしまったのだろう。トレイシーは近くに寝転がっていたナワーブどころか、後ろを追いかけてくる人間の気配にも全く気が付いていなかった。猫として致命的すぎる鈍感さだ。
――そうだよなあ、あんな鈍臭い猫が二匹もいる訳ないよな。
ナワーブは片方しかない肘当てを腕に装着する。片方しかないことに違和感があったので付けずにいたのだが、最初から身につけていればこの擦れ違いも起きなかった筈だ。
思い返してみれば、トレイシーには何を探していたかを自分は全く伝えていない。お互いになんとも間抜けな行動を繰り返していたと言うことか。
片方しかない肘当てを撫でて、ナワーブはふと呟く。
「しかし、あいつこんなもん持ってってどうする気だったんだ?」
「枕にするって言ってた、ような?」
「は!こんなん抱えて寝た日にゃ悪夢しか見ねえよ」
マイクの言葉にナワーブは自嘲の笑いを浮かべ、そう吐き捨てる。
この肘当ては大事な『相棒』ではあるけれど、土埃と硝煙が舞う戦場で大量の血も脂も浴びている防具だ。ナイフの錆になった者達や、志半ばで散った者達の怨嗟が染み付いている事だろう。
しかしマイクは唇の端を歪ませる、なんともいやらしいニヤニヤ笑いでナワーブを見やる。
「いやあ?トレイシーはいい匂いがするー好きーってそりゃもう気に入ってすりすりしてたよ?この匂いが落ち着くんだーってずーっと大事そうに抱えてたし」
「はあ?」
ナワーブは自身の腕を見下ろし、首を傾げる。いい匂いなぞ使い込まれた革からするわけがない。あいつ、猫の癖に鼻大丈夫か?
にやにや笑いを浮かべているマイクを無視してナワーブがコーヒーを啜っていると、チリリという音が台所に鳴り響いた。壁にいくつも取り付けられたベルのうちの一つだ。恐らくは呼び鈴なのだろう。
マイクは急いで壁に走り寄ると、ベルの下にあるラッパの形の金属部位の蓋を開いた。送話器と受話器の役割を果たす、伝声管なのだろう。そこから低い男の声が聞こえてくる。
『カカオ、手が足りないので来てもらえますか』
「え、そんな大事になってるの?」
『トレイシーが水を見た途端、暴れ始めまして』
「今までも十分暴れてたんじゃ」
『釣り上げられた魚の方が淑やかです』
「あちゃー。分かった、すぐ行く」
マイクが伝声管で話している間も、向こうから凄まじい獣の鳴き声が聞こえて来ている。あれがトレイシーの声なのがナワーブには信じられない。地獄の使者だと言われても信じそうだ。
「何か手を貸すか?」
伝声管を閉じて、エプロンを外しているマイクにナワーブは声をかける。向こうが唯ならぬ様子なのは伝わって来ていた。
擦れ違いが重なったとはいえ、今この騒ぎはナワーブの為に起きているのだ。だったら猫を抑えるくらいの手伝いはするべきではないか。そう思っての申し出だった。
ところが、マイクは暫く悩んだ後で気まずそうな顔で視線を逸らすと、「いや、やめとこうか」と答えた。
「?手が足りないんじゃないのか?」
「猫でも、女の子なんだよ、ナワーブ……流石に惚れた相手に晒せる姿じゃない……」
「?」
ぼそりとマイクが呟いた言葉は、ナワーブまでは届かなかった。
グルーミング嫌いの動物の威嚇顔はそれはもう恐ろしいのだ。悪魔の手下だってもっと愛嬌があるのではないかと思うくらいに。向こうは死に物狂いで暴れているのでこちらも負傷覚悟で挑んでいる。
グルーマーの助手としても、素人にそんな姿は見せられない。完成した可愛らしい姿だけ覚えていってほしい。
「流石にプロの仕事に巻き込めないよ。シャンプーの手伝いしてくるだけだからさ。ナワーブはコーヒーでも飲んで待っててよ」
「そうか?」
プロの仕事と言われて仕舞えば、ナワーブも引き下がるしかない。「すぐ戻る」と言ってマイクが台所を出ていくと、途端に手持ち無沙汰になってしまう。
コーヒーはおかわり自由と言われたが、先ほどの抽出の過程を見ているのでどうにも手を出す気にはなれなかった。
ただ、気になったのでコーヒーミルは手にとって確認してみる。胡椒がなぜコーヒーに変わったのか、なにかタネがあるのではないかとナワーブは疑っていたのだ。ミルの土台の引き出しをひっくり返してみるが、やはり胡椒の香りがするだけだ。マイクが使っていた胡椒の実も手にとってみるが、やはりただの胡椒だ。一粒だけ失敬して歯で噛み砕いてみたが、ナワーブもよく知る味と香りだった。
マイクが使っていたドリップポットとお湯、ネルフィルターになにか秘密があるのではと確認していると、また呼び鈴が鳴り響く。
「!」
ナワーブが視線を向けると、先ほどと同じベルが鳴っている。マイクが台所から出ていってだいぶ時間は過ぎている。暫く待ってみても呼び鈴が鳴り止む気配がないので、ナワーブは仕方なく伝声管の蓋を開く。
「マイクならいねえぞ」
『いえ、君に用がありまして、人間』
先程と同じ、低い男の声。穏やかで耳障りも悪くはない筈なのに、どこか滴る血を思わせる声音にナワーブは目を細める。
「そう言うあんたは伯爵さんか?」
『そうですよ。貴方待ってる間、暇でしょう。ちょっと頼まれてくれませんか』
「別に構わないが」
丁寧な口調だが、拒否を受け付ける気はない尊大さが伺える。あの女大公と似たやり取りをした気がする。
だが事実、現状でやる事はないので余程のことでない限り、ナワーブも断る理由はない。
『私の愛犬の散歩に代わりに行ってもらえませんか。玄関にいるはずですので。なに、ただ歩いて帰ってくればいいだけです』
「分かった」
『では、お願いします。私の愛犬の名はスワインですので』
何をさせられるかと思えば、本当にただのお手伝い程度のお願いだった。少し拍子抜けしたが、まあいいかとナワーブは伝声管の蓋を閉じた。伯爵が含み笑う様に犬の名前を告げた事は少しだけ引っかかったが。
言われた通りに、ナワーブが玄関に向かうとそこには大きな茶色の犬がいた。お座りの体勢で、黒い目をじっとナワーブに向けている。微動だにしないので、大人しい性格なのかもしれない。黒い首輪からはどこにも繋がっていない引き紐が垂れ下がっている。
引き紐の持ち手を掴んでナワーブが扉を開けば、犬は静かに戸口を潜り抜けた。そしてナワーブが足を止めるとピタリと犬も足を止める。物分かりもいいようだ。
散歩と言われたが、門が閉まっているのだから庭を歩けばいいのか。ナワーブがそう考えていると、重い音を立てて黒い門が開いていく。
「…………どこかで見てんのか?」
あまりにタイミングが良過ぎる。ナワーブはまだ顔を見ていない伯爵に、薄気味悪さを覚えてしまう。
犬がすたすたとそちらに向かって歩き出したので、ナワーブも門へと向かう。お決まりの散歩のコースがあるなら、犬に任せよう。ただ行って帰ってくるだけで済むといいんだが。
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