ちぇしゃネコ症候群(ナワトレ)

ナワーブが首を傾げている間に、彼女は意味深な笑い声を残して去って行ってしまった。もう面倒事に巻き込まれるのはたくさんだったので、それ自体はありがたかった。
――揶揄われたんだろうか?まあ、侵入者として捕まるよりは断然マシだが。
頭を掻きながらナワーブがレンガ畳を歩いていると、途中で煉瓦が途切れ、花畑に変わる。一面に赤い花が並び、その中にぽつんと背中を丸めたトレイシーが屈み込んでいるのが見えた。赤い花の中に赤い頭巾があるので、花の一部のようになっている。しかしやっぱりその耳はペタリと倒れている。
「トレイシー」
「!」
名前を呼ぶと、ぴよっと耳が立つ。振り返りはしないが、音を聞こうとひょこひょこと動いてる耳にナワーブは声を殺して笑う。
――面白えな。
ナワーブはトレイシーのそわそわした仕草には気づかないふりで近付き、その隣に腰を下ろす。
「戻ったんだな」
「……なにが?」
「尻尾。お前さっきこんな太くなってたぞ」
ナワーブが両手で輪っかを作ると、トレイシーは「大袈裟だな」とその手を叩いた。
「確かに驚いた時とか怒ってる時とか太くなるけど、そこまでならないよ」
「めちゃめちゃ威嚇してただろ、あいつに。なんかされたのか?」
「あのマッドサイエンティスト、あの手この手でへんな薬飲ませようとするんだよ。でもまだそれはいい方で、ちょっと前まで実験サンプルにって尻尾狙われてたんだよね。私もだけど、イライも」
「?イライはなんでだ?」
「尻尾が九本あるからだよ!」
「俺が見た時は一本だけだったが」
「普段は邪魔だから隠してるんだよ。座る時とか背もたれが遠くなるって」
「あー……確かに」
あのもさもさとした狐の尻尾が沢山あるのを想像して、ナワーブは納得する。寝るのにも邪魔そうだ。寝返りが打てない気がする。
「一本くらいはいいだろうって鋏持ってくるから、顔見るとこう、つい」
「え?それは切っていいのか?」
「いいわけないよ!何本あってもみんな大事な尻尾だよ!」
トレイシーは自分の尻尾を手繰り寄せて叫ぶ。
当然と言えば当然か。尻尾がはえてくるというトカゲでさえ、切れたら二度と同じ尻尾は生えてこず、骨も元には戻らないという。それは大事に決まっているか。
「実験サンプルってなにしてんだ、あのルキノって奴」
「なんだっけな。永久になくならないまたたびの木の研究とかなんとか……ルキノはもっと生物系の違う研究やってるんだけど、大公に雇われてるのはそれが理由だったと思う」
「へえ」
相槌を打ちながら、ナワーブは視線をトレイシーの頭上へと向ける。やはり、ぺたりと猫の耳は垂れている。声も覇気がなく、少し落ち込んでいるように感じる。
ルキノが現れた後から、ずっとこの調子だ。それまでは元気に飛び跳ねていたのに。一体どうしてしまったのか。
ずっと地面を引っ掻いているトレイシーの顔を覗き込んで、ナワーブは問いかける。
「なあ。お前、なんか落ち込んでないか」
「え?」
「自覚ねえのか。さっきから耳が潰れてねえぞ」
「!」
今更ながら、耳を隠すように手で覆うトレイシーに、ナワーブは「遅えよ」と額を指で弾く。「痛ぁ!」と額を抑えるトレイシーの頭巾を引っ張ると、金色の頭が現れる。
頭の上の耳は、髪と同じ流れでぺたんこになっている。遠くから見たら耳か髪か、わからないかもしれない。
「な、なにすんの!」
「……俺のせいか?それ」
「え?なんでよ」
「お前、俺庇ってくれてたんだろ?あいつから。それ邪魔したから落ち込んでんのかと思ったんだが」
思い返してみれば、トレイシーはルキノがナワーブに気付く前に部屋から追い出そうとしていたし、「 人間」に興味を示した後も近づかないように牽制してくれていた。実験台にされないようにと気を遣ってくれていたのに、それを無下にしたのはナワーブだ。
素っ気ない態度を取っていたと自分でも思うのに、トレイシーは怪しい薬の毒味まで買って出てくれた。最初の小瓶の時もそうだったが、どうしてそこまで良くしてくれるのかがナワーブにはわからない。
「俺のせいなら、悪かった」
「ち、違うよ!ナワーブのせいじゃない!ただ……なんか、私の力って役に立たないなあって……ナワーブごと消えられたらさっきもなんとかなったのに。ルキノなんかの薬の方が活躍するんだもん……」
膝を抱えて蹲ってしまったトレイシーにナワーブは、そういうことかと納得する。ナワーブがトレイシーよりルキノを頼りにしたことに拗ねていたのか。
ぱたぱたと揺れる尻尾にナワーブは苦笑を浮かべつつ、金色の猫の頭をくしゃくしゃと撫でる。
――猫ってのはこんな健気な生き物なのか、それともこいつが特別にいじらしいだけなのか。
「そんなこと気にしてたのか、ばあか」
「!馬鹿とはなにさ!」
「馬鹿は馬鹿だろ。お前が家中のマッチ持ってきたのはその能力あっての事だし、そもそもあの鱗男呼び出したのもお前の行動あってのことだろ。そんだけ便利に使ってて、役に立たないとは馬鹿以外になにがある」
「…………役に立った?私」
「当たり前だ。来てくれて助かった。ありがとう」
トレイシーの下がっていた耳が、ぴんと立つ。顔は俯いていて見えなかったが、なんとも分かりやすい反応だった。
こいつ、本当に可愛いなとナワーブは和んだ目を向ける。猫は自由奔放で気まぐれで、そういう生き物だと思っていた。だが一途で健気な猫というのもいるのかもしれない。
「…………そうだ、猫」
うっかり忘れてたが、ここにはあの泥棒猫の情報を求めて来たはずだった。
ナワーブは立ち上がって屋敷があった方を振り返る。あの女大公は厄介なのでもう会いたくはないが、屋敷にいる誰かに話を聞こうと思っていたのだ。
だが、あの騒動のあとではとても引き返せない。せめてルキノに話を聞いておけば良かった。
「はあ……しまったな」
「ナワーブ?どうしたの?」
「いや、しくじったと思ってな。探し物の手がかりが消えちまった」
「ああ、泥棒さん?だったら、丁度いいかも」
「なにがだ?」
「ほら、案内するって言ったでしょ。帰り方を知ってるおじいちゃんとこ。おじいちゃんは物知りだから、もしかすると泥棒さんのことも知ってるかも」
トレイシーの提案に、ナワーブは腕を組む。帰ること自体は急ぐ理由はないので後回しにしていたが、肘当ての手掛かりが消えた今、それも悪くない話かもしれない。
情報が得られればそれはそれで助かるし、なかったとしても先に帰る方法を知っていた方が後々楽だ。
それに、とナワーブは思う。今いる赤い花の群生はナワーブの腰の辺りの高さだが、本来ならもっと小さいものの筈。「ワタシヲオノミ」の瓶の影響で小さくなっている背丈も、どうにかしたいところだ。
「その爺さんのところに案内してくれるか」
「うん!任せて!」
勢いよく立ち上がったトレイシーが、「こっち」と駆けていく。すっかり元気を取り戻したようだ。トレイシーがしょげているとこちらの調子も狂ってしまう。良かったとナワーブは思いつつ、小走りでその背を追いかけた。
赤い花の群生から淡い花の群生へ。そこから身の丈の二倍はある芥子の花畑を抜けて、一面の薄の下を進み、奇妙なきのこが生えている場所に出る。きのこは黄色や青、ピンクだったり縞模様だったりと絶対に口に入れたくはないカラーリングをしている。そのどれもがナワーブ達の背丈と似たり寄ったりな高さで傘を広げている。
ナワーブが好奇心から触ってみると、ふかふかとした感触と弾力だ。こんな時でなければ寝転びたくなるような、なかなかの触り心地をしている。
「あ、いた!」
トレイシーが指差す先には平たい傘のきのこが数本、生えている。他のものとは違い、淡い藤色が落ち着いた色合いに感じる。その中でも一際大きなきのこの上に、人の背をこえる巨大な水煙管が確認出来た。
水煙管は陶器で出来ており、白磁に青紫のイチハツの花が描かれている。あれだけの大きさのものはナワーブも見たことがない。きのこなんて不安定なものの上にあっていいのだろうか。倒れないかと気になってしまう。
「おーい、イチハツのおじいちゃーん!」
トレイシーが大声で呼ぶと、水煙管の影から億劫そうに人が出てきた。その人物はこちらに視線を向け、眼鏡を掛け直した。あまり目は良くないらしい。
手を振りながら走り寄っていくトレイシーに続き、ナワーブもゆっくりと「おじいちゃん」に近づいてく。ナワーブは相手の姿が確認出来るようになると、片眉を跳ね上げた。
――あれのどこが「爺さん」だって?
白髪に眼鏡、質はいいが色味の落ち着いた革のコート。遠くから見た時はなにも疑問に思わなかったが、近くで見ればイチハツと呼ばれた人物は青年だった。もしかするとナワーブよりも若いかもしれない。
しかし、観察しようと合わさった視線からは老年から来る威厳を感じられる。ネモフィラの目は色褪せているものの、光は老獪さを隠しもせず、力強い。
イチハツは煙管のマウスピースを口から外すと、白い煙を吐き出し髪を掻き上げる。煙から僅かに花の香りがするが、なんの花かまではナワーブには分からなかった。
「なにを連れてきたのかと思えば、人間だったのか」
「うん。ナワーブっていうんだ」
「……どうも」
トレイシーがきのこに手をかけると、イチハツは追い払う様に手を振る。上がってくるなという事だろう。どうやら機嫌は良くないらしい。それでも構わず、トレイシーはきのこの傘に肘をついて、イチハツに話しかける。
「穴から落ちてきたんだけど、元の世界に帰るにはどうしたらいいかなって。あと、ナワーブ探してるものがあるんだけど、それも分かるかな?」
「………………」
イチハツはナワーブを一瞥し、次にトレイシーに目をやる。なにも言わずに煙管を咥え、ゆっくりと空に向かって煙を吐き出した。そしてその煙が消えるのを見送る。
「私は便利な情報屋じゃないぞ、猫又もどき」
「分からない?」
「いいや。人間の探し物は探していれば見つかる。諦めれば見つからない。……いつ気づくかは見ものだが」
「?」
イチハツはじっとトレイシーを見下ろし、最後の言葉だけ声量を落として呟いた。なんと言ったのかトレイシーもナワーブも気になったが、イチハツはお構いなしに「人間」とナワーブを呼ぶ。
「なんだ?」
「君の帰り道は城にある。行けば自分で分かる筈だ。入るには貴族の証印が二ついるが……一つは持っているな」
「は?」
ナワーブは思わず自分の体を見下ろす。そんなものを持っていただろうか?
「もう一つの貴族はその猫又もどきが知っている」
「…………」
イチハツの言葉に、トレイシーは黙って苦い顔になる。ペタリと下がる耳に、貴族ということはあの女大公みたいなやつが他にもいるのかとナワーブも渋い顔になる。もう面倒ごとには巻き込まれたくないのだが、まだまだ関わる必要があるらしい。
「さあ、質問には答えた。用がないならもう行ってくれ」
「待ってくれ。あと一つ教えて欲しいことがある。身体の大きさを元に戻す方法が知りたい」
さっさと二人を追い払おうとするイチハツに、ナワーブ
は急いで質問をする。帰る方法がわかったのはありがたいが、このサイズのまま帰るわけにはいかない。うっかりすれば動く小人として見せ物小屋行きになってしまう。
イチハツは少し考えて、煙管を二人の背後に向ける。彼が指す先には白いきのこが生えていた。
「あれで元に戻れる。ただし今戻るとこの世界では大きすぎて不便になるだろう。戻るタイミングは考えろ」
「ああ。助かる」
ナワーブは追い払われる前にとその場を後にする。なんとなく、イチハツの不機嫌の理由が自分にあるような気がしたのだ。歓迎されていない場に長居する必要はない。
足早に去るナワーブをトレイシーも追おうとしたのだが、襟首を引かれて「うぐ」と呻く。首を抑えて振り返れば、イチハツが襟首を摘んでいる。
「なにー、ジョゼフ。まだ何かあるの」
「……なるだけ早く、あの人間を帰してやれ。引き止めるな」
「?うん」
トレイシーは、何故わざわざそんなことを言うのだろうと思いつつ、素直に頷く。心配しているなら、あんな冷たい態度を取らなきゃいいのに。首を傾げながら、ナワーブの後を追いかける。
イチハツはそんな猫又の背中を見やり、眉を顰めた。
「手遅れでないといいが」



「これか」
白いきのこを見下ろし、ナワーブは腕を組む。こんもりとした山型のきのこは高さはナワーブの胸くらいだが、横にとても大きい。
元の大きさに戻れるきのこを教えてもらったのはいいが、どのくらいを口にすればいいのかを聞くのを忘れていた。うっかり大量に摂取して大きくなりすぎても困る。トレイシーの様に扉から出られなくなってしまうかもしれない。
試しに力を入れて掴んでみれば、ほろりと傘の一部が取れた。一掴み分のきのこを見つめ、ナワーブは悩む。これくらいあれば、いいのだろうか。
「毒はないよ?食べようか?」
いつの間に来たのか、きのこの上にトレイシーが寝転がっている。突然現れるのにはもうナワーブも慣れていたので、驚くことはなかった。
「いや、必要ない。お前が大きくなる方が大事だ、池にされちまう」
「もうしないよ!」
びたんと不機嫌に揺れる二本の尻尾。よく動くそれを見ていると、イチハツが言っていた「猫又もどき」という言葉をナワーブは思い出す。「猫又」は分からないが、「もどきフェイク」はあまりいい意味では使われない言葉だ。
「なんでお前、猫又もどきなんて呼ばれてるんだ?」
「なんでって、それは私が猫又もどきだから」
トレイシーはなんて事ない顔で答えると、寝転がったまま伸びをする。呑気な態度を見る限り、卑下しているわけでも皮肉っているわけでもないようだ。
「本物の猫又ってね、長生きした猫がなる化生なんだって。ナワーブの方の、どっかの国の伝説にいるんだよ。
私はね、ただ生まれた時から尻尾が二つあるだけなの。でもそれが面白いからって『女王様』がこっちに連れてきてくれて、チェシャ猫にしてくれたんだって。全部おじいちゃんから聞いた話だけど」
「それじゃ、お前元々はこっち側の猫なのか?」
「多分?私は覚えてないけど」
こてんと首を傾げるトレイシーは、本当に聞いた話をそのまま口に出しているだけなのだろう。完全に他人事のような口振りだ。
その『女王様』の思惑は分からないが、この世界に来られたのはトレイシーにとっては運が良い事なのではないだろうか。
猫社会のことなどナワーブには分からないが、人間も生き物も他と違うものを嫌い、畏怖するものだ。尾が二本ある猫が受け入れられたかどうかは、分からない。
「猫又もどきって長いし、言いにくいし。それに本物もなにも私以外尻尾が二本の猫なんてここにはいないし。だから猫又ってことになってる」
「ほお……だったら、お前が長生きしたら尾は四本になるのかもな」
「!それは、考えたことなかったや」
トレイシーはくすくすとおかしそうに笑った。
本物の猫又になったら、そうなるのかもしれない。もし増えたら尻尾の消し方を覚えなくては。トレイシーとしては尻尾は二本あれば充分だ。
トレイシーは一頻り笑った後、きのこの上に胡座をかく。
「そういえばナワーブ、証印を持ってるって言われてたけど」
「ああ。けど、俺は知らねぇんだが」
手を広げて首を振るナワーブに、トレイシーは四つん這いになって近づき、ふんふんと匂いを嗅ぐ。胸元、首、肩、脇、腰と移動して行き、ナワーブの左手を掴む。
「あった。ここにあるよ。これ、大公の証印だ」
「!だったら、あれか……?」
ナワーブは、女大公が落とした光の球を思い出す。手の中で消えた、あの光が証印だったのか。すっかり揶揄われたものだとばかり思っていた。
自身の左手を陽に透かして見るが、ナワーブには全くなにも分からない。ここにその、証印とやらがあるのか。
「俺が帰るには、証印がもう一つ必要っつってたか」
「うーん……」
「トレイシー?」
「んー……」
「おい」
「んん」
生返事をするトレイシーに視線を向けると、眉間に皺を寄せ、額に拳を押し当て何かを悩んでいる。トレイシーがとても難しい顔をしているので、ナワーブは不安になってしまう。
一つ目は成り行きで手に入ったが、もしかするともう一つは手に入れること自体が困難なのか。それとも、その証印を持つ貴族があの女大公よりも厄介な存在なのだろうか。
ナワーブは、ずっとうんうんと唸っているトレイシーの肩を掴んだ。
「トレイシー!」
「ん⁈な、なに?」
「さっきから話も聞かずに、なにを悩んでやがる」
「あー……あのさ。もう一個の証印くれるの伯爵なんだけど、ちょっとね」
「なんだ?犬なのか?」
「違うよ。動物ではない。元吸血鬼で人間のメスのお肉捌くのが好きだけど」
「大問題じゃねえか」
「え?大丈夫だよ?私猫だし、ナワーブもオスだし。拘りがあるからなんでもいいわけじゃないんだって」
「…………へえ」
――そんな不安しかない安全保証があるのか。
ナワーブは、それならまだ大公邸の方がマシだったなと額を抑える。正直その殺人衝動のある伯爵には会いたくも関わりたくもない。他に貴族はいないのだろうか。
見るからに嫌そうな顔をしているナワーブにトレイシーは慌てて首を振る。
「ち、違うよ!本当に大丈夫だから!問題はそこじゃなくて」
「なんだよ?」
「その、手っ取り早く証印貰える方法あるんだけど、それがちょっと……あんま気が進まないというか」
「?歯切れが悪いな。お前らしくもない」
思い立ったら即行動、そんなイメージがあるトレイシーなのに。余程嫌なことがあるのか、二本の尻尾もばったばったと揺れている。
しかしトレイシーは両手で自分の頬を叩くと、「よし」と呟きながら立ち上がった。
「私らしくないってのは、確かにそう。こういうのは勢いが大事だよね」
「?そうだな」
「うん、じゃあ行ってくる!」
「は?いや、行くって」
「後でね!ナワーブ!」
「おい!」
トレイシーはその場でぴょいと跳ねると、姿を消してしまった。ナワーブが止める声も聞いていない。取り残されたナワーブが呼びかけても返事はない。今度は本当にどこかに消えてしまったらしい。
「行き先くらい、言って行け!」
ナワーブはイライラと髪を掻き毟って、空中に怒鳴る。無駄と分かっていても言わずにはいられない。後でというが、ここでぼーっと待っていろとでも言うつもりなのか。ナワーブにもやりたい事があるのだ。
イチハツの発言を信じるなら、肘当ては探すのをやめてしまえばもう戻らない。トレイシーが証印を片付けてくれるというのなら、その時間をナワーブはあの猫を探すことに充てたい。
ナワーブはこの場に残るか移動するかで少し悩んだが、結局移動することにした。トレイシーは的確にナワーブの元に姿を現していた事がある。チェシャ猫の力でどうやってか、ナワーブの居場所を把握していたようだった。だったら、好きに動いても追いついて来るだろう。
大体、行き先もなにも言わずに消えたあの猫又が悪いのだ。
「ん?」
何も考えずに適当に歩き出したナワーブだったが、前方に矢印の標識があるのに気付いた。右や左に上やら下やら斜めやら、変な方向に矢印が向いていたが、標であることには変わりない。走り寄ってそこに書かれた文字を確認する。
『燕の巣』、『熊の洞窟』、『落とし穴』に『大公邸』『崖に注意』に『この上行きどまり』など半分以上は意味の分からないのものだったが、一つ気になるものが目に入った。
『グルーミングお引き受けします。毛のある方ならどなたも大歓迎』
そう書かれた看板には、犬とブラシ、そしてハサミの絵が描かれている。
ナワーブは「グルーミング」という単語には馴染みはない。だが、それが動物の美容師のようなものだと言うことは絵から察する事ができた。
「……丁度いいな」
顎を摩りながら、ナワーブは独りごちた。少し、タイミングが出来過ぎだとは思ったが、これも夢だからと自分を納得させる。
例えあの猫がいなかったとしても、何かしらの情報は手に入るかもしれない。行くだけ行ってみよう。
ナワーブは看板が指す方向を確認して、そちらに足を向けた。なにもなければ戻ってくればいい。そう考えて。

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