ちぇしゃネコ症候群(ナワトレ)

綺麗に整備された煉瓦の道は、不自然に草原の真ん中を突っ切り、森の中をうねり、川を渡る石の橋にも続き、果ては寝ているワニの背中の上も横断している。なんともへんてこな道だったが、ナワーブは「そういうものなんだろう」と気にする事なく辿っていく。
夢だと思えば余程の危険がなければ気にならない。流石にワニの背を踏む気は起きなかったので、迂回はしたが。
そうして進んでいくと、煉瓦の道はどんどんと広くなっていき、やがてレンガ畳に変わる。眼前には大きな邸宅があり、ライオンを模した噴水がでんと構えている。
いつの間にやら私有地に入っていたらしい。どこからそうだったのかはナワーブには判断ができない。こんな大きな邸宅に門も門番もいないとは思っていなかったのだ。
今すぐここから出るべきかとナワーブは踵を返すが、その背に蹄の音が近付いてくる。一足遅かったかとナワーブは舌打ちをする。
ここで逃げ出せば、後ろ暗い事があると取られてしまう。事情を説明するしかないかと、億劫な思いでナワーブは振り返る。
「あら、貴方。一体こんなところで何をしているの?」
「…………散歩、かな」
蹄の音を響かせながら、白い馬が優雅な足取りで近づいてくる。馬上の主はそれはそれは高貴さを感じさせる佇まいで、ナワーブを見下ろしている。
「私の許可なく散歩など、許されることではなくてよ。でも今日は特別に許してあげるわ。お天気が良いからね」
「はあ。どうも」
――天気が悪かったら打首とかになるんだろうか。
ナワーブは疑問に思ったが口に出すことはしなかった。
馬上の主――白い猫は鞍の上の豪華なクッションに横たわり、優美に尾を揺らしている。長く真っ白な毛並みは真珠の様な光沢を放ち、王様の猫と言われてもおかしくはない。首につやつやとしたワインカラーのリボンをつけており、大事にされていることが分かる。
確かに自分が言った条件には合っているとナワーブは空を仰ぐ。しかし、探しているのは金色のずんぐりむっくりしたちんちくりんで、この猫ではない。
がっかりしているナワーブの事などお構いなしに、白猫はナワーブの全身を見やり、馬上で立ち上がる。
「さあオリオン、許してあげる代わりに、お屋敷から私の手袋と扇子を取って来なさい。今すぐに!」
「……は?」
「早くなさい!約束の時間に遅れてしまうわ!」
如何にも命令しなれた口調の猫に急かされ、ナワーブは訳がわからないまま邸宅へと向かう。のそのそ歩けば走れと叫ばれてしまう。なんともヒステリックなお猫様だ。
そもそも手袋と扇子を猫がどうやって使うというのだろう?猫専用の製品でもあるのだろうか。我ながら馬鹿馬鹿しいことを考えていると思いながら、ナワーブは玄関の扉を押し開いた。
これだけでかい屋敷なのだから、誰かしら人がいると思ったのだが、ナワーブの期待とは裏腹にエントランスホールはしんと静まり返っている。人がいたならこの面倒な用事を押し付け、とっとと退散しようと考えていたのに。
仕方なくナワーブはエントランスホールを抜け、二階に続く階段を上がる。偉い奴の部屋は、大抵は上の階にあるものだ。あの猫は恐らくこの屋敷の主人か、それに準ずる存在なのだと思う。ならば、探し物は二階にあるはず。
適当に歩き回り、ナワーブは白と金の豪奢な扉に当たりをつけ、そこを開いた。白と赤を基調とした、美しい内装に圧倒されつつ、ナワーブはそろそろと室内に入る。花柄のカーテンに可愛らしい猫足のソファー、薔薇色の寝台。この部屋の主は女性に違いない。異性の部屋というのはどうにも居心地が悪いので長居はしたくない。
ナワーブが入り口から視線を巡らせれば、目当ての物が窓際の鏡台に並べてあるのが見えた。ナワーブは足早に豪華な鏡台に近付き、レースの手袋と赤い扇子を手に取った。
後はこれを、あのお猫様に渡すだけだ。ナワーブが少し安堵したところに、ばたばたと複数の足音が聞こえてきた。
やっぱり人がいたのかと思いつつ、何やら嫌な予感を覚えたナワーブは、カーテンの裏に身を隠した。ナワーブの予想通り、足音が扉の前で止まる。何か揉めるような話し声の後で、勢いよく扉が開かれる。
雪崩れ込んできたのは揃いの服の使用人達だった。ナワーブは息を潜めて、じっと彼らの動向を窺う。使用人達は部屋の内部を確認し始め、そのうちの一人が「ああ!」と叫ぶ。
「大変だ‼︎やっぱり無いぞ!」
「女大公様のお気に入りの手袋と扇子がない!」
「なんだと‼︎」
騒ぐ使用人達をかき分けて、兎の耳が生えた男が現れる。兎耳の男は中世の貴族のような出立をしており、金縁の眼鏡をかけている。彼は他の使用人達から「フレディ様」と呼ばれており、立場は上の者のようだ。
フレディは鏡台に近寄るとその周囲を調べ、額を叩く。
「なんてことだ……遅かったか!」
「フレディ様、今ならまだオリオンを騙る偽物も屋敷の中にいるのでは?」
「!そうだ、手分けして探せ!出入り口は全て鍵をかけてしまえ!泥棒を逃すわけにはいかないぞ!」
来た時と同じように、バタバタと使用人達が一斉に部屋から出ていく。彼らの気配が完全に消えたのを確認し、ナワーブはカーテンから外に出る。隙だらけでありがたい限りだが、誰か一人でも見張りで部屋に残すことは考えはなかったのだろうか。
これは、非常に困ったことになった。ナワーブは顔を顰める。命令されて来たのに、なぜか泥棒扱いになってしまった。
「……騙った覚えはねえんだが」
お猫様に呼ばれた時に、オリオンて誰だよとは思ったのだ。しかし恐らく人違いだろうと気にしていなかった。それがこんな大事になるとは。あちらが勝手に間違えただけで、自分から名乗った覚えはないのだが。
困ったと思いつつ、ナワーブは騒ぎの中心である手袋と扇子を元に戻そうと鏡台に近付く。ところが、扇子も手袋もピタリとナワーブの服に張り付き、剥がれなくなっていた。どんなに力を入れても、ナイフで切り取ろうとしても、服を引き裂こうとしても無駄だった。
服の一部のようになってしまったそれらに、ナワーブはいよいよ困り果てた。
「おいおい……!」
「ナワーブ!」
「どわ⁈」
頭上から降ってきた声と重みに、ナワーブはべしゃりとその場に倒れ込んだ。受け身を取る余裕など無かったので、思いきり内蔵を圧迫される。
「ぐう……」
「ごめん。座標間違えた」
ナワーブの背中に着地したトレイシーが頬を掻く。予定ではナワーブの目の前に出て、飛びつく気だったのだ。近くに出ようとした結果、真上になってしまった。
「いやー失敗失敗」
「お前な……!いや、んなことはいい。取り敢えずお前が無事で何よりなんだが、非常にまずいことになってる」
「まずいことって?わー、綺麗な部屋ー!初めて入った!」
「はしゃぐなはしゃぐな。今それどころじゃねえんだよ」
トレイシーは寝台に飛び乗り、ぴょんぴょんと跳ねている。騒がれたくないナワーブは、そんな猫又の首ねっこを掴んで引き摺り下ろす。
「お前は、本当に話を聞け。今俺は泥棒扱いになって困ってる」
「なんで?」
「馬に乗ったお猫様に、忘れ物とって来いって言われたんだがどうにも人違いだったらしい。不法侵入で泥棒扱いだ」
「なにも取ってないなら泥棒じゃなくない?」
「問題はそれだ。これ見ろ」
ナワーブが上着を捲ると、その内側に接着剤でくっつけたかのように張り付いた扇子と手袋がある。トレイシーも試しに引っ張ってみたが、外れそうにない。
「これは……困ったね」
「返してとんずらしようにもな」
「そういう問題じゃないかも」
「どういうことだ?」
「ナワーブが会ったのは女大公だったんだよ。あの人が言うことはこの大公邸の敷地では絶対なの。ナワーブにこれを取って来いって言ったなら、ナワーブが届けないと扇子も手袋も外れないし、そもそもナワーブここから出れないと思う」
「…………俺が思ってたより事態が深刻になって来たな」
ナワーブが痛み始めた頭を抱えていると、またもや足音が聞こえてくる。ナワーブはトレイシーを片手で抱え、素早く寝台の下に潜り込んだ。「うぎゃ」と騒ぐトレイシーの口を抑えるのも忘れない。
部屋に入って来たのは女中だった。彼女は部屋をうろうろと歩き回り、何やらぶつぶつと呟いている。耳を澄ますと「困った困った」と言っているのが聞こえた。
「マッチをどこにやったのかしら。困ったわ、どこかしら」
「貴女ここで何をしているの!」
「マッチを探しているのよ、フレディ様がご所望なの」
「それなら厨房にあるでしょ!早く出ますよ!」
後から来た女中が、最初の女中の腕を引っぱる。声を潜めている様子から、本来なら入ってはいけない身分なのかもしれない。
「それが、無いのよ!だから探しているの!」
「暖炉は見たの?それにしてもどうしてマッチなんかが必要なのよ」
「オリオンを騙った泥棒を燻りだすのですって!屋敷を燃やしたら出てくる筈だって」
「あら、そうなの?それなら早く探さなくっちゃ!」
女中二人がパタパタと去っていくのを確認し、ナワーブは寝台の下から這い出る。
今、とてつもなく不穏な会話をしていなかっただろうか。このでかい屋敷を燃やすとかなんとか聞こえた気がするが。
トレイシーは寝台から上半身だけ出すと、肘をついて寝転がる。
「オリオンってこないだ逃げ出した使用人じゃん。ナワーブその人に間違われたの?」
「ああ。似てるのか?」
「ぜーんぜん。フード被ってたことくらいしか同じじゃない。あと匂いも似てるかな。猫って近眼だからそれで間違えたのかも」
「あいつら、屋敷燃やそうとしてるらしいが大公様は怒んねえのか?」
「そりゃ怒るよ。白兎さん、頭いいけどそれより短気過ぎるんだよねえ、話聞かないし。だから女大公が御屋敷にいる間は、みんな姿を見せちゃいけない決まりなの。機嫌を損ねるから」
「へえ……」
ナワーブがここに来た時に誰も姿を見せなかったのは、まだ猫大公が屋敷を出たばかりだったからだ。主人と召使の連携が取れていないのはそのせいか。
屋敷の主人の命令で行動しているのに、泥棒扱いされた上に焼き討ちされるのは堪らない。このままだと火災もナワーブのせいにされそうだ。
「どうにか、その大公様にこの事情を説明してもらうってのは……」
「無理じゃないかなあ。したいことしかしないから、人のお願いを聞くタイプじゃないし」
「ってことは、あいつらに見つからないようにこの屋敷から出て、あのお猫様に直接会うしかねえのか、解決方法」
「うん」
こくりと頷くトレイシーに、ナワーブはううむと唸る。ここにいるのはどこか抜けている使用人達だが、人数は多い。全員の目を掻い潜って脱出するのはなかなか骨が折れそうだ。
そして出入口を抑えた状態で火を付けられれば、絶対に逃げられない。お縄につく未来が確定する。
「それなら、私に任せて!」
トレイシーは自信満々で胸を叩くと、その場から姿を消してしまう。どこに行ったのかはわからないが、ナワーブは一先ず彼女を信用することにする。
兎に角今はこの「現場」からは出た方が良さそうだ。二階の奥にあるので逃げるには適さないし、窓も嵌め殺しで開くことができない。
ナワーブはそろそろと扉の外の気配を窺い、誰もいないことを確認して廊下に出る。そして音を立てずに走って走って、階段脇の部屋に滑り込んだ。
その部屋は広くもなく華美でもないが、品良く整えられていた。中央に立派な執務机があり、部屋の大きさとは不釣り合いな暖炉が構えられている。見たところ、執事室のようだった。誰かいたら沈黙させる必要があったが、幸いにも無人だったのでナワーブはほう、と息を吐き出す。
念の為にとナワーブが窓に近付いて慎重にカーテンを閉じていると、トレイシーが戻ってきた。付け袖で隠れていたが、トレイシーが机の上で腕を開くとマッチの山が出来た。
「どうしたんだ、それ?」
「屋敷にあるマッチとかライターとか、全部持ってきた!絶対安全とはならないけど、一時凌ぎにはなるでしょ」
「ああ、でかした」
ナワーブは得意げにしているトレイシーの頭を撫でた。ついやってしまった行動だったが、もっと撫でてとばかりに猫の耳がへにょりと横に倒れたので、気に入ったようだ。ぐりぐりと人の手に頭を押し付ける猫又に、人懐っこい奴だなとナワーブは思う。
「ところでこれ、どうする?」
マッチの山を指して、トレイシーが問う。ナワーブもそれを少し悩んでいた。
主人の部屋にまでマッチを探しに来ていた連中だ。ここに置いておいてもいずれは見つかってしまうだろう。
「そうだな。持ち歩くわけにも行かねえし、下手に隠して見つかっても困るし」
「一層のこと、水に沈めて使えなくしちゃう?」
「気の毒だがそれしかないか……」
これだけ大きな屋敷で火が使えないのは非常に困るだろう。だが、屋敷を燃やそうなどとイカれた発想をする奴がいるのだ、こちらも手緩いことは言ってられない。
それに、マッチなら乾かせばまた使える可能性はある。その頃には自分達も脱出できているだろう。
「表に噴水があった筈だ、そこに」
「それは困るな」
「!」
突然した男の声に、ナワーブは入口を振り返る。誰か、気づかないうちに入って来たのかと警戒したのだが、扉は閉じたままだった。
「こっちだ、こっち」
声は暖炉から聞こえて来ている。まさかと思いながら二人が暖炉に近づくと、「よっこいせ」と男が降りてくる。
男は、白シャツに黒いパンツと格好は至って普通だったが、首や腕の皮膚がところどころ緑の鱗に変わっていた。どう見ても屋敷の使用人ではなさそうだった。
暖炉から出てくるとはサンタクロースかとナワーブは思ったが、口には出さなかった。トレイシーは嫌な顔で男から距離を取る。
「どこから出て来てんの⁈そんで何しに来たの!ルキノ!」
「ご挨拶だな。君が私のアルコールランプ用のマッチまで持って行ってしまうから、困っているのに」
「そこにあるから持ってって。早く帰って」
トレイシーはナワーブの後ろに回り込んで、全身の毛を逆立て、ふーふーと男を威嚇している。ルキノと呼ばれた鱗男は全く気にした様子はなく、山から一箱マッチを取り出し、それを持って暖炉へと戻って行く。
そのままナワーブは黙って見送る気だったのだが、ルキノは「ああ!」と声を上げると、つかつかとナワーブの目の前に戻ってくる。
「なんだ、オリオンかと思ったら別人じゃないか。しかも人間だ!」
「だめだめだめ!だめったらだめ!」
トレイシーはナワーブの前に出ると、両手でルキノの体を押し返す。猫又の二本の尻尾は、レッサーパンダの尾のように太くなっている。
さっきまで細かったのにどうなっているのか。触ってみたい気持ちにナワーブはなっていたが、どうにもそんな事を言い出せる空気ではない。何故だかトレイシーはあのルキノという男が気に入らないようだ。
小柄なトレイシーに押されたところで転ぶこともないが、流石にずっと妨害されるのでルキノも面白くない。
眉を顰めて、通せんぼをしてるトレイシーを見下ろす。
「さっきから私の邪魔をするが何が不満なんだ、チェシャ猫」
「人間だから実験したいとか言い出す気でしょ!だめだよ!」
「勝手に狂人扱いしないでくれないか。人間の話を聞きたいだけだ。聞いたあとで協力してくれると嬉しいが」
「強制的に巻き込むのは協力とは言わない!」
「トレイシー、あんまりでかい声で騒ぐとまずい」
「あ、ごめん」
ルキノを相手するのに夢中なトレイシーに、ナワーブは注意する。廊下にいつ人が来るかわからないのだ。あまり興奮していると声で見つかってしまう。
トレイシーがぱたりと両手で口を塞ぐと、ルキノが「おお」と感心した顔になる。
「人の言う事聞けるんだな……君」
「む⁈」
「静かにさせたんだから余計な事を言うな」
ルキノの発言に、また声を上げようとするトレイシーの口をナワーブは後ろから抑えた。びしびしと尻尾で抗議されるが、話が進まないので無視する。
トレイシーが警戒しているので安心は出来ないが、なんとなくこのルキノという男はこの世界の中では話が出来そうだとナワーブは思ったのだ。
――ただ、暖炉から出てくるような奴がまともかどうかは分からないが。
ナワーブの物言いたげな視線に気付いたのか、ルキノは笑いながら暖炉を手の甲で叩く。
「私の研究室は屋根裏にあるんだ。何か取りに行くにはまともに室内を動くより煙突から入ったほうが近くてな。ショートカットで活用させてもらってる」
「暖炉使う時は入れないだろう、それ」
「その時はその時だ。今は暖炉どころか、この屋敷でキャンプファイヤーをしようとしている連中がいるしな」
ルキノが窓の外を指すので、ナワーブはカーテンの影から窓下を覗いてみる。すると、屋敷中の使用人が集まって、藁やら薪やらを積み上げているのが見えた。何やら瓶を運び出しているのも見える。恐らくあの中身は油だろう。
――本気で火をつける気なのか。
ナワーブはいよいよまずい事になったと冷や汗をかく。火種は隠したとはいえ、火をつける手段などいくらでもあるはずだ。早くここから出なくてはならない。
しかし、どこから出ればいいのか。階下はあの様子では包囲されているだろう。窓も何故か開ける場所が見当たらない。
「ナワーブ」
「さっきの兎男を人質にでも出来れば突破出来るか?」
「やめておけ、裁判で一瞬で有罪にされて終わりだぞ」
ルキノがしゅっと首の前で手を引いて見せる。首が飛ぶ?そんな高い地位の奴なのか、あの兎。
そうなると、強行突破しかないのかもしれない。ナワーブは自身の装備を置いてきてしまった事を後悔する。今は愛用のナイフ程度しか武器になるものは所持していない。それでも二、三人どうにか出来れば動揺を誘えるはず。
ナワーブがそんな物騒な事を考えていると、こんこんとルキノが机を叩いた。顔を上げると、にんまりと笑う爬虫類の目と視線が合う。
「手を貸そうか、人間くん」
「ちょっと!」
トレイシーは前に出ようとして、ルキノの腕に押し返されてしまう。
「チェシャ猫、君は関係ない。君は勝手にここから出ていける力があるだろう。でも彼はそうはいかない。困っているのは彼なんだ」
「う……」
それを言われてしまうとトレイシーは黙るしかない。チェシャ猫はいつでも姿を消せるし、どこにでも現れられる。けれどそれは、自分一人にしか適用できない。人を連れた状態では不可能な芸当だ。
「手を貸す代わりに、俺に何をしろって?」
下を向いてしまったトレイシーは気になったが、ナワーブは一先ずルキノに向き直る。先程の会話といい、トレイシーの態度といい、だだの善意で動くような男には見えないのだ。
ルキノはどこからか、瓶を取り出した。それは緑色の液体が詰まっており、不気味な光を放っている。
「君は話が早いな。そう、実験に協力して欲しいんだ。
と言っても危険なものではないから安心して欲しい。ただ、持続時間が知りたいと思っているんだ」
「その怪しい色の薬のか?」
「見た目は大目に見てほしい。これでもチェシャ猫に不評だから味はよくしたんだ。だがその味の確認をさせすぎて、屋敷の連中は耐性ができてしまってな」
「耐性ゼロの俺で確かめたいと」
「そういうことだ」
ナワーブはなるほどと緑の瓶を見つめる。トレイシーは自身が実験台にされたから、あれだけ警戒していたのか。
なんとも気味の悪い色の液体は、手に取る気も起きない。嫌な顔を隠しもせずに、ナワーブは瓶の栓を突く。
「これ、なんの効果があるんだ?」
「透明になるんだ。完全にな。といっても壁をすり抜けられるわけじゃない。扉は私が開こう。屋敷から出るのに姿が見えなければいいだろう?」
「まあ、確かに」
ナワーブは嫌々ながら瓶を手に取った。現状を打破出来る手は、これくらいしかないのは事実だ。仕方がないと瓶の栓を抜こうとして、それを小さな手に阻まれた。
「待って」
「どうした、トレイシー」
「本当にマシな味かどうか確認する。効果も見た方が安心でしょう。一口くらい減っても平気だよね?」
前半はナワーブに、後半はルキノに向かっての発言だった。トレイシーの言葉に、ルキノは肩を竦めて頷く。
栓を抜いて、トレイシーは瓶の中身をこくりと飲み込んだ。ふるりと彼女が身を震わせると、猫又の姿がすうと薄らいだ。いつもの消え方とは違い、空気に溶けるように消えてしまった姿に不安を覚え、ナワーブはトレイシーがいた辺りに手を伸ばす。
「いるか?」
「うん。ここにいるよ」
ぺたりと触れたのはトレイシーの頬だった。そのまま両手でぶにぶにと顔を挟んでいると叩き落とされた。完全に見えないが、触感があるというのは事実のようだ。
「味はどうだった?」
「前よりはマシではある。けど、やっぱ色が酷い。見た目もどうにかしてよ」
「注文が多いな」
ルキノの質問に答えている間に、トレイシーの姿が戻ってくる。透明でいたのは、体感では三十秒あるかないかくらいだった。一口であれならば、瓶を全て飲めば七、八分は効果が続くかもしれない。
それでも念の為、薬の持続時間がわからないのでエントランスホールまで移動をしておく。もしも透明化が切れてもいいように、屋敷から出るぎりぎりで薬を飲んだ方がいいと判断したのだ。
くん、と服を引かれて振り返るとトレイシーがペタリと耳と尻尾を下げてこちらを見上げている。
「…………」
「どうした?」
「ううん。私、先に外で待ってるね」
「?ああ」
ぱっと姿を消したトレイシーは、何故かしょげている様に見えた。その様子が気になったが、今は脱出が先だ。
ナワーブは扉の前に立つと、一気に瓶の中身を煽った。どろりとした舌触りは少しぞわりとしたが、味はクッキーのようでそこまで悪くはなかった。しかしやはり見た目から来るインパクトが勝ってしまう。
冷水を頭から被ったような感覚のあと、すうと手足の色が薄れる。みるみるうちにナワーブの姿は完全に消えてしまった。
「いけるか?」
「ああ」
見えないとわかりつつ、ナワーブは頷く。ルキノは扉を開け放つとそこに凭れ掛かった。
「騒がしいと思って来てみれば、何をしているんだ?」
「ああ!ルキノ様!良かった、今お声をかけようかと思っていたんです!」
「お屋敷を燃やすことにしたので」
「燃やす?それはまた楽しそうだな」
ルキノが扉を押さえてる隙に、ナワーブは素早く戸口を潜り抜けた。使用人達の間を走り抜け、充分距離が離れたところで薬の瓶を噴水の中に放り込む。ぼちゃんという音はこちらの姿が見えないルキノへの合図代わりだ。
ルキノはちらりとそれを見て、使用人達に気づかれないように手を上げて見せる。
ナワーブはそれを確認すると、足音をさせないように走り出す。後のことはあの男に任せておけば良さそうだ。
薬の効力が切れ、すっかりと屋敷が遠くなった頃。さてあのお猫様はどこにいるだろうとナワーブが思っていると、正面から見たことのある白馬が常歩でやってくる。ところが、乗っているのは猫ではなくワインレッドのドレスを纏った銀髪の女性だった。
彼女は美しい顔に不満げな色を乗せて、ナワーブを睨む。
「遅いわ、オリオン。待ちくたびれてしまったわ」
「……それは悪かったが、俺はオリオンじゃねえ」
「あら!そうなの?だったら侵入者かしら?」
口では「侵入者」と言いながらも、女性はどこか楽しそうだ。目に宿る光も、獲物を嬲る猫の様だ。こいつ、俺が別人と分かってて間違えたふりしてたなとナワーブは眉間に皺を寄せる。屋敷の混乱をどこかで楽しんで見ていたに違いない。
女性の頭上にはトレイシーのような三角の耳があり、腰のあたりからも見たことのある形状の尾が、真珠の光沢を放ちながらふんわりと揺れている。ナワーブはこの高慢な態度と口調は間違いなくあのお猫様だなと一人納得する。
上着に手を入れれば、あれだけ強力に張り付いていた手袋と扇子があっさりと外れる。ナワーブはそれを屋敷の主、女大公に差し出す。
「お使いはしてきた。これだろ、閣下」
「うふふ、ありがとう」
女大公はレースの手袋を早速手に嵌めて、赤い扇子を広げて見せる。どちらも豪華過ぎて実用性を感じられなかったのに、彼女が身につければ体の一部かのようにぴったりだ。
ナワーブは腕を組んで、片眉を跳ね上げる。
「これで不法侵入の件はチャラにしてくれるとありがたいんだがな」
「まあ。私はそんなに心は狭くなくってよ。御礼をするべきね、受け取って」
女大公が扇子を振ると、白い光の球がころりと落ちた。咄嗟にナワーブが手を伸ばすと、その光は掌の中で消えてしまう。両手を開いてもどこにも何もない。
4/14ページ
スキ