ちぇしゃネコ症候群(ナワトレ)

ナワーブが固まったのは一瞬で、すぐに尻尾を追いかけて走り出した。
「待て!」
「え⁈ちょっと、ナワーブ‼︎」
慌てたのはトレイシーだ。待てというからナワーブが動くまで待っていたのに、突然何の説明もなしに走り出すのだ。待てはこっちのセリフだった。仕方がないのでナワーブの後を追うしかない。
ナワーブがアーチに到達すると、金の尻尾は通路の角を曲がったところだった。ナワーブはその影が消える前にと自慢の駿足で追いかけたが、角を曲がった途端にその尻尾は影も形も消えてなくなってしまった。
そこは細長いホールになっており、扉が両脇にたくさん並んでいた。ナワーブは尾のすぐ後ろを追いかけたはずだ。近くの扉に飛び込む間があったとは思えない。犬でもそんなに早くは走れないし、扉が開閉する音も聞こえなかった。
――あの一瞬で消えた?嘘だろ?
呆然と立ち尽くすナワーブの後ろから、よたよたとトレイシーが走り込んでくる。ぜえぜえと苦しげな呼吸で蹲ってしまう。
「も、もう……!なん、なの……っ!待てって、言ったの、自分じゃ……!」
「あ、ああ。悪い」
息も絶え絶えな様子のトレイシーに、ナワーブは謝りつつも「こいつ、猫の筈では?」と疑問に思う。元いた場所からここまで、それほど離れた距離ではないのだがどうしてこんなに辛そうなんだろうか。
しばらく荒い呼吸をしていたトレイシーだったが、深く息を吸い込んで、吐き出すと漸く体を起こした。
「はあ。なにか追いかけてたの?ナワーブ」
「ああ。さっき待てっていったのは取り戻したいものがあってな……」
ナワーブはトレイシーに返事をしながらホールの扉に手をかける。ガチャ、と鍵がかかった音がしたが、念の為に猫がいないかと鍵穴から中を覗き込む。ところが室内は暗く、何も見えない。仕方なく次の扉、次の扉と試してみるが、結果は同じだった。
反対側の扉はトレイシーが確認してくれたのだが、やはり全て鍵がかかっていたようだ。人より優れているという猫の耳でも確認してもらったが、自分達以外の存在は確認出来なかった。
「困ったな……」
細長いホールに、扉と自分たちが入ってきたアーチ以外の出入り口はない。袋小路の筈なのに、忽然と消えてしまった金色の尻尾。折角手掛かりを見つけたはずだったのに、とナワーブはずるずると座り込んだ。
「ん?」
カーテンがかかった壁に寄りかかると、腰の辺りに何か突起物が当たった。ナワーブがカーテンを捲り上げると、そこには犬や猫が通れる程度の小さな扉があった。
腰に当たっていたのはそのノブだったようだ。
ナワーブが見つけた扉にトレイシーも興味津々で近づいてくる。
「わー、こんなとこにも扉があったんだ!」
「…………」
ナワーブが無言で扉を押すと、鍵どころかノブも捻らずにそこが開いた。本当に猫や犬用の出入り口だったのかもしれない。
――なるほど、ここから出ていったのか。
カーテンの影からここを抜けられたら、ナワーブが追いつけなかったのも不思議ではない。
ナワーブが四つん這いになって扉の向こうを確認すると、澄んだ川と草原が広がっている。そしてちらちらと揺れる黄色い影も確認出来た。――間違いない、ヤツはこの先にいる。
しかし問題は、この扉が到底人間が通れる大きさではないといことだ。ナワーブは愚か、トレイシーでも通り抜けられるとは思えない。
小さな扉の両隣の部屋が開いてくれたら、そこの窓から外に出れたかもしれない。しかし扉は相変わらず固く閉ざされている。
「どうにか向こうに行ければ……」
「ナワーブ、あっちに行きたいの?」
「ああ。窃盗犯が向こうにいるようだ。ここが通れれば一番良かったんだがな」
体を起こし、我ながら阿呆な発言だと自嘲していると、トレイシーがにっこりと笑う。
「出来るよ」
「は?」
「通りたいんでしょ?ここ。だったら後ろを見て」
「後ろ……」
トレイシーの言う通りにナワーブが後ろを振り返る。そうすればいつの間に置かれたのか、ガラスのハイテーブルがそこにあった。なにもかもが透き通ったテーブルの上に、黒い小瓶がぽつんと置いてある。そしてその瓶のくびに「ワタシヲオノミ」と書いてあるのだ。
ナワーブはそれを見て、開口一番に言い切った。
「誰が飲むか!」
「えええ!なんでよ!」
「こんな如何にも怪しい色の薬が飲めるか!そもそも無色透明でも飲まねえよ、ガキじゃあるまいし」
「怪しくないってば!美味しいよ!」
「味の問題じゃねえんだよ」
夢であろうと、毒かもしれいものを口になどする気は起きない。ナワーブはテーブルから後退り、動こうとしない。
どんなに宥めても説明しても頑なに瓶を手にしようとしないナワーブに、トレイシーは仕方がないと小瓶を手に取った。
「もー、分かった」
「おい?」
「本当は一人分だからと思ったんだけど、ナワーブは用心深いんだね。見てて、これは危ないものじゃないんだよ」
トレイシーは言うや否や、瓶の中身を飲み込んだ。こくんと喉が鳴ると、ナワーブの目の前でしゅるしゅるとトレイシーの姿が縮んでいき、あっという間に人形くらいの背丈になった。少しまだ扉よりは大きいが、屈めば抜けられそうなサイズだ。
トレイシーは得意げにくるりと回って見せると、ナワーブに向かって両手を差し出した。
「ほら!ね!大丈夫なんだよ!」
「こりゃ、驚いた」
「大丈夫でしょ?ほら飲んで飲んで!一気に!」
「はあ。毒味までされたんじゃ信じるしかねえな」
ナワーブは覚悟を決め、小瓶を手に取る。口をつければ、ほんのりとした甘みと懐かしさが舌を通り過ぎていく。しかし、瓶の中身を呷ったまでは良かったのだが、トレイシーと違ってナワーブの変化はすぐには始まらなかった。
「っぐ……!」
「あ!だめナワーブ!」
激しい立ち眩みに襲われたナワーブは、ガラスのテーブルに手をついてしまう。トレイシーがあわてて止めたが間に合わなかった。
足ではなく、体重が掛かっていた手の方にナワーブは縮んでいってしまい、最終的にガラスのテーブルの上に五分の一サイズのナワーブが取り残されてしまった。
ナワーブはテーブルの縁から遥か下に見える地面を見下ろして、頬を掻いた。とてもでないが、飛び降りられる高さではない。
「あー、しまった」
「あああああ!ど、どうしよう‼︎」
自分以上に取り乱しているトレイシーに、ナワーブはむしろ冷静になる。そんな、この世の終わりみたいな反応されてもな。
どうにか降りられないだろうか。よっこいせとナワーブがテーブルの縁に腰掛けるのを見て、トレイシーは青い顔を強張らせる。
「ちょ、ちょっと。何する気?」
「ん?飛び降りる」
「なんで⁈」
「夢になるならここで怪我しても変わらなくね?」
「怪我で済むと思うわけ⁈」
トレイシーが叫ぶのも無理はなかった。ガラスのテーブルは今の自分達には建物の三階分はあるのだ。そんなところから飛び降りようとするなんて、夢でも普通は躊躇するところじゃないのか。
大体、『後々夢になる』と言ったはずだが、あの男は話を聞いていたのだろうか。今は夢じゃないのだ。『元の世界に帰った後、この世界のことを夢と認識する』という意味なのが伝わっていない。
「待って待ってナワーブ!痛くても起きなかったら辛いよ!ね⁈取り戻すものあるんでしょ!動けないと大変だよ!」
「…………それは、まあそうか」
少し考えたナワーブは、トレイシーの言い分に納得したらしい。テーブルの縁から立ち上がると腕を組んで何かを考え込む。
「でもそうしたらどうする?俺はここから降りられればそれでいいんだが」
「うーん……あ!なんとかなるかも!」
トレイシーはテーブルの三本脚の下に潜り込むと、そこからガラスの箱を引っ張り出した。箱の中には「ワタシヲオタベ」と書かれたカップケーキが入っている。
トレイシーはそのカップケーキを手に取ると、ぱっと姿を消して、テーブルから離れた位置に姿を現す。そこでケーキに齧り付くと、トレイシーの体がぐんと伸びた。
ナワーブはなるほどと思った。なぜわざわざテーブルから離れたのかと思ったが、ナワーブが乗ったテーブルをひっくり返さないための配慮だったのか。
トレイシーは三口でケーキを平らげると、ぐんぐんとその背は大きくなり、最終的に頭がホールの天井に届く程になっていた。
――大きくなりすぎたかも?
二口でやめておくべきだったかもとトレイシーはちょっぴり思ったが、目的は果たせそうなのでよしとした。
トレイシーは慎重にテーブルの上からナワーブを床に下ろすと、ほうと息を吐き出した。これでナワーブが危険なことをするのを止められた。
「助かった」
「ううん。これでナワーブ、泥棒さん追えるでしょ?」
「そうだが……お前はどうすんだ?」
「え?」
ナワーブは大きくなったトレイシーを見て、頬を掻く。天井まで届いているトレイシーは窮屈そうだ。しかし見たところ小瓶もケーキももう見当たらない。今のまま通れる出入り口があるとは思えなかった。
「助けてもらったのは有難いんだが、お前これからどうするんだ?小さくならないと出られないだろ?」
トレイシーが姿を消したり現れたりしているのは見ているが、その大きさでも出来るんだろうか?それとも、こんなことは織込み済みだったのか。
ナワーブが口にしたのは、ただただ単純な疑問だった。だが、ぼちゃんと降ってきた水の塊に驚き、ナワーブは頭上を見上げた。水の正体は、トレイシーの目から溢れる涙だった。
「ううー……うー……」
「トレイシー?」
「どうしよう、ナワーブ……!ちっちゃくなれないよ!」
「お、落ち着け、それなら他に」
「うわーん!これじゃ出れないよー!どうしよー‼︎」
「おい⁈うわっ!」
ぼちゃん、ぼちゃんと落ちた涙が、みるみると床に溜まっていく。あっという間に池のようになってしまった室内は、新しい涙のせいか波がざぶざぶと起こり、ナワーブはなす術もなく流されるしかない。
「トレイシー!」
「うわああああああん‼︎」
いよいよ大声で泣き始めてしまったトレイシーに、ナワーブの声は届かない。開いていた小さな扉から、ナワーブは外へと押し流されていく。
「おい!トレ、トレイシー!」
ナワーブが全力で叫ぶも虚しく、トレイシーの姿は波の彼方に見えなくなってしまった。
「くそ……!」
泳いで戻ろうにも、ホールの外へと流れ出る水流には逆らえない。トレイシーが泣き止むのを待つしかないのかもしれない。
さっき会ったばかり相手のことなどどうでもいい筈だが、元の世界に戻る方法をまだ聞いていないのだ。それにトレイシーがああなったのは自分のせいでもある。
流石にそのまま放っておくのは寝覚が悪い。あんなにわんわん泣いてる姿を見せられたら、可哀想だという思いも起きる。
しかし戻ることができないので、仕方なくナワーブは上がれる岸辺を探すことにする。いつまでも泳いでいてはいつかは力尽きる。まずは自分の身の安全を考えなくては。
「お?おお?なにかと思ったら人間じゃね?」
「!」
ナワーブの後ろから追いついてきたのは牛だった。茶色の体毛の、立派な角が生えた牡牛だ。赤い鬣のような毛が猛々しく見えるのに、のんびりとした口調の牡牛はナワーブに並んで泳ぎ始めた。
「おいおい人間さんよ、疲れてんじゃねぇか?俺の背中に捕まってもいいぜ」
「……助かる」
ナワーブは牡牛の背に捕まった。牡牛の言う通り、着衣での水泳は体力の消耗が激しい。正直なところ、結構な疲労感を覚えていたのでここは甘えさせてもらう。
「おう、困ったときはお互い様って言うだろ」
「あんたが困ることはなさそうだけどな」
「はっはっは!違いねえ!」
牡牛は豪快に笑った後、呑気に歌を歌いながら泳ぎ始めた。大して上手くもない歌だったが、不思議と不快さはなかった。本来ならナワーブはこんな陽気なやつとは合わないのだが、相手が牛だからなのか全く気にならなかった。
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