ちぇしゃネコ症候群(ナワトレ)

ルキノは興味深そうに「給仕者」を眺める。多少はぎこちないものの、茶葉を蒸らして紅茶を淹れる姿は様になっている。食器を音をさせずに扱えるのは素晴らしいのではないだろうか。
良い香りのする紅茶が提供され、ルキノは感心してカップを揺らす。
「これは、お仕着せを着せれば大公邸で直ぐにでも雇ってもらえそうじゃないか?」
「それは褒めすぎだよ。でも、そうだったら嬉しいな」
ルキノの賛辞に嬉しそうに頬を染め、トレイシーは手元のリモコンから顔を上げた。給仕をしていた銀色の人形がピタリと動きを止める。
「繊細な動きはできるようになって来たんだけど、まだ力加減が難しくて料理とかはちょっと。でも掃除は出来るよ」
「充分だろう」
「うんうん。屋敷広いからすんごい助かるよー」
「えへへ」
マイクとルキノに褒められたので、トレイシーは笑って労う様に人形の肩を叩く。

人間になってまずトレイシーが驚いたのが、集中力の持続と睡眠時間だった。猫の時は一日の半分以上を寝て過ごしていたのに、人間は夜だけ眠ればずっとずっと起きていられる。下手をすれば夜だって我慢すれば起きていられる。
そして、すぐに他所に気が取られてしまっていた猫の時とは違い、人間は長い時間集中して一つのことができる。
トレイシーはチェシャ猫の時から機械を分解して遊ぶのが好きだった。ただ、分解したら飽きてしまうので今まではただの遊びでしかなかった。
それが、人間になってからは飽きることがなくなった。分解するなら組み立てることもできるし、仕組みを調べることも出来る。時計やからくり玩具、蓄音機にオルゴールにラジオ。伯爵邸のあらゆるものの仕組みを知り、手を加え、そして他所からも修理屋として依頼が来る様になる。
そうして当たり前のように機械と触れているうちに、今度は自分でも何かを作りたくなる。でも、どうせ作るならここにないものがいい。
「それで、機械人形を作ろうという発想になるのがなんとも」
「最終的に自分で動けるようになると完璧なんだけどな、ボンボンみたいに」
トレイシーの言葉にマイクは苦笑を浮かべる。
ボンボンは作者不明の機械人形で、動力も意識も機械技術によるものか、魔法や奇跡の類なのかはいまだに分かっていない。調べようとすると本人が全力で逃げてしまうのだ。
トレイシーには魔法の才能は無いので、作るなら機械技術のみで挑まなくてはならない。しかし彼女の技術進歩ならば、高い目標設定くらいが丁度いいのかもしれない。
テーブルに並べた図面を修正している少女は真剣な顔をしている。これでは「チェシャ猫の飼い主」ではなく「機械技師」を役割にした方が良かったのではないだろうか。
トレイシーはチェシャ猫の時分は風変わりだが女性らしい衣服を身につけていたのに、今や作業着に緑のズタボロの上着という出で立ちだ。機械油などですぐ汚れてしまうので、当人はこれが楽で気に入っているようだ。
「うん、よし!」
満足いくものが出来たのか、トレイシーは図面を丸めると席を立つ。早速工房代わりの自室に籠る気のようだ。
「あ、トレイシー!おやつどうすんの!」
「後で貰うー」
マイクの言葉に適当に返事をしながら、トレイシーはそそくさと扉に向かっていく。なんだかとても焦っているようにマイクとルキノには見えた。
トレイシーが扉を開けると、そこにはトレイシーの半身を越える、大型犬と見紛うサイズの大きな猫、メインクーンがお座り状態で待っていた。
「げ」
「よう」
のっそりと立ち上がったターコイズブルーの猫は、尻尾をぶんぶんと振っている。非常に機嫌が悪そうだ。
一歩一歩歩いてくる猫に気圧され、トレイシーはじりじりと後退していく。
ライオンと会ってしまった旅人のような構図だとルキノは思う。
「どーこに行く気だお前は」
「えっと、お部屋に、戻ろうかなーって」
「ほお、部屋に戻るのか。何をしに?その手に持ってるのはなんだ?お前今日はなにをする約束だった?」
「……………………ちゃ、ちゃんと、夜起きてた分の昼寝をするっていう……」
「覚えてるようだなあ?」
のしのしと歩く猫が首をぐり、と真横に傾げる。猫がやれば愛らしい筈のその仕草は、爛爛と輝く目のせいで恐怖対象にしかならない。
「や、でも!ちょっとは寝たから大丈夫かなって!」
「んなゴーグルで隠せると思うな、隈すげえんだよお前」
猫の指摘にトレイシーはぎくりと肩を揺らす。なんで今日はずっとゴーグルをつけているんだろうとマイクも思っていたのだが、そういう理由だったのか。
猫がぐるんと尻尾を回すと、トレイシーがつけていたゴーグルが外れ、床に落ちる。その下には酷い隈と青白い顔がある。
猫は問答無用とトレイシーの上着の裾を咥え、リビング中央の絨毯へと引っ張っていく。そしてごろんと横になると前脚で絨毯を叩いた。
「寝ろ」
「え」
「え、じゃねえんだよ。とっとと寝ろ」
「ここで寝るの⁈」
トレイシーが一人分入りそうな窪みを作って、猫は丸くなる。枕になるという意思表示のつもりらしい。
他にも人がいるのにとトレイシーは思ったが、猫に譲る気はなさそうだった。仕方なく、猫の窪みに体を預けて横になる。
「うう……」
「唸ってねえで目を閉じろ」
「そんな事したって眠れるわけ………………………」
渋々目を閉じたトレイシーだったが、数秒で寝息を立て始めた。気絶するように眠りについた少女に、ルキノはテーブルに頬杖をつく。
「あっさり寝たな」
「そりゃあな。二日連続で完徹してればそうなるだろ」
「は……?今日は知ってたけど昨日も寝てないの?」
マイクはひくりと顔を引き攣らせる。トレイシーが次々と発明品を作るのはマイクもみんなも助かっているのだが、自身の健康管理がなっていないのはいただけない。
ルキノは床に落ちていたトレイシーのゴーグルを拾い上げ、それを絨毯の方へと放り投げた。
「それで、私を呼び出した理由はお嬢さんの睡眠についてかな?チェシャ猫くん」
「ああ」
弧を描いて飛んできたゴーグルを受け止めたのは人の手だった。ターコイズブルーのメインクーンの姿はそこになく、同色の髪色をしたナワーブが顰めっ面で胡座を掻いている。トレイシーはナワーブの膝に頭を乗せて、すやすやと寝入っている。
「あんた妙な薬作ってたろ。こいつが眠れるように出来ないか?」
「誤解されているようだが、私は生物学が本職なんだ。薬は副産物というか趣味というか……それに、睡眠障害ならば仕方がないかもしれないが、彼女の場合は自身が眠りたがらないのが理由だろう?体が正常なのに薬に頼るのは良くないんじゃないか?」
「それもそうか……」
ルキノの言葉に、それも尤もだとナワーブは同意を示す。いい手かと思ったのだが。
ナワーブは猫になってもさほど睡眠時間に変化はなかった。夜に寝て日中は起きる。昼に寝ることもあるが、ほぼ生活リズムは人間の頃と変わらない。
しかし、元猫のトレイシーはそうはいかなかった。そもそも夜に寝るという習慣が猫にはないのだ。一日の半分以上を飛び飛びな時間に寝て過ごしていたので、いつまでも起きていられることに喜び、倒れるまで活動を続けてしまう。
寝るのをナワーブが見張っていれば大人しく寝はするのだが、ナワーブが寝入った後でトレイシーはこっそりと起き出しては機械いじりをしているのだ。これではどうにも出来ない。
ナワーブは人の気も知らずに寝入っているトレイシーに目をやり、溜息を吐く。
「ったく、こいつはどうしてそんなに起きていたがるんだ」
「ずーっと寝てる時間が長かったからじゃないかなあ。トレイシー最近まで一日の殆どを寝て過ごしてたからさ。いっぱい活動できるのが嬉しくてしかたないんだよ」
「それで寝たくなくてぐずるのか。ガキか……」
「違いない」
起こさない程度の力でトレイシーの額を弾く。うにゃうにゃとしているトレイシーにくく、とナワーブが笑う。
しかし続いてルキノが口にした言葉に、思わず真顔になってしまう。
「本物の猫又は十五年生きた猫が変化するらしいが、彼女はまだ十五ヶ月にもなっていないからなあ」
「……………………………は?」
「あとちょっとで一年にはなるけどね。トレイシーが成猫になったらお祝いしないとって話してたんだけど、この場合はどうなるんだろ?」
「うーん、人間でも誕生日を祝うというからいいんじゃないか?」
「やっぱそっか!じゃあアントニオ呼んでさ」
「ちょ、ちょっと待て!」
楽しげに盛り上がってるマイクとルキノに、ナワーブは慌てて叫ぶ。
今、なんて言った?一年?成猫?
膝のトレイシーを見下ろすが、顔は幼くともそのシルエットは女性のものだ。
「どうしたのさ、ナワーブ」
「こいつ、一歳にもなってないのか?」
「え?知らなかった?多分今は……十ヶ月くらいかな。産まれてすぐのとこ『女王様』に連れてこられたから、確かだと思うよ」
「ってことは、こいつは仔猫だったって事、か?」
「安心しろ、チェシャ猫。猫の性成熟は六ヶ月頃から始まる場合もある。つまり立派なレディだ。我々は君を決して幼女趣味などとは思っていない」
慰めのつもりなのかそうルキノは説明するが、ナワーブは返事をする余裕もない。
まさか仔猫だとは思わなかったので、年齢を気にしたことはなかった。どこか幼い印象があったのは間違いではなかったのだ。
そういえば、他の連中はナワーブが人間であることにすぐ気付いたのに、トレイシーは猿がどうのと言っていた。あれは彼女だけ人間を見たことがなかった故のものだったのか。
ワインを羨ましそうに見ていたのも、禁じられていると言っていたのも、もしかするとそういう理由か。
ナワーブは額を抑えて唸るように呟く。
「……………………本当にガキなのは聞いてねえ」
「いやいやいや、ほら、ナワーブは猫だし!それにここじゃ年とか関係ないし!気にしたら負けだよ!」
マイクは慌ててそうフォローするが、人間としての感性がまだ強いナワーブはそう簡単には割り切れない。
俯いているナワーブにルキノは不思議そうな顔で首を傾げた。
「しかし、見る限りそのお嬢さんは成人している姿をしているじゃないか。人間になったのなら、猫の年齢を気にする必要はないんじゃないか?」
「ナイス、ルキノ!そう、そうだよナワーブ!それに大体、ナワーブまだ手え出してないじゃん、トレイシーに。尚更気にすることないよ」
「え、これだけ一緒にいてまだ手を出していないのか」
「ぐっ……」
二人の発言にナワーブは呻き声を上げる。マイクとしてはナワーブのフォローをしているつもりだったのだが、違う方向に止めを刺してしまっている。そしてルキノもそれに追い討ちをかける。
「なかなかに鈍感そうだとは思っていたが、両想いになったというのにその奥手さ、折角猫になったのだから多少は獣の性に任せてもいいと思うんだが……いや、人の恋愛に口出しをするのは野暮だな。君の歩幅というものもあるだろう。どんなに狭い歩幅でも前進するということに意味がある。そう思わないか?」
「うるせえ、思ってても心に仕舞っとけ。今はそんなことよりもこいつの睡眠確保だ!」
あ、逃げたとマイクもルキノも思ったが、これ以上言うとメインクーン様の爪研ぎにされかねない。
ナワーブの膝を枕にすよすよと寝ているトレイシーは寝顔は穏やかだが、やはり目の下の隈が痛々しい。今はいいかもしれないが、彼女はこの国の住人ではなく病に罹る脆弱な人間なのだ。何かあってからでは遅い。
「薬に頼れないとなると、夜はベッドに括り付けておくのがいいか?」
「それ、より一層眠らなくなりそうだよ。下手な事して抵抗する装置トレイシーに作られたら僕らじゃ手に負えなくなるかも」
「それもそうか」
他にいい手はないものかと思い悩む二人に対し、ルキノがぽつりと呟いた。
「一つ、思ったんだが、その問題は我々がどうにかするよりも確実な手があるのでは?」
「確実な手?」
ルキノが指を立ててくるりと宙で回し、にやと笑う。
「ああ。ここは保護者様に頼るべきだ」



城に呼び出されたトレイシーは、久しぶりに通された執務室で、これまた久々に会う顔に目を瞬かせた。
執務机に着いた男は女王の主席顧問という地位にふさわしい重厚で高級な藍色のロングコートを着ているが、ずっとここに篭っているせいか、益々青白く痩せ細っているようだ。ただでさえ背がひょろ長く見えるのに、ぴんと頭上に立つ黒い耳のせいでより一層細さが際立つ。
彼は仕事の手は止めずに、トレイシーを一瞥すると口を開いた。
「さて、今日はなぜ君はここに呼び出されたか、分かっているか?」
「ううん、全然」
ふるふるとトレイシーは横に首を振る。男は書面から顔を上げ、ただでさえ冷たく見えるシーグリーンの眼を細め、トレイシーを睨み据える。
威圧感のある男にそんな目を向けられれば、身が縮む想いをするだろう。しかし哺乳期から見ていた顔だ、トレイシーには全く通じない。
きょとんとした顔で首を傾げているトレイシーに、主席顧問は顳顬こめかみを抑えた。
「…………君のパートナーから、訴えが来ている。君がまともな睡眠を取らずに健康を阻害してばかりいると」
「それは大袈裟だよ。倒れそうになる前には寝てる!」
「倒れるような睡眠サイクルということだろう」
トレイシーの言い訳をバッサリと切り捨て、彼は書面にサインを書いて次の書類に手を伸ばす。相変わらずとても忙しそうだ。
それにしてもナワーブが、まさかお城にまで訴えを出すとは思っていなかった。これは多分、他に入れ知恵をした人物がいるはず。一体誰の仕業だろうかとトレイシーが考えていると、かんと音がする。
顔を上げると主席顧問が杖で床を叩いている。話に集中しろという事だろう。
「手を尽くしても改善する気配が見られないそうだな。『女王様』にも監督不行届と私がお怒りを受けてしまった」
「なんでアルヴァが?」
「君が成年になるまでは私の預かりだからに決まってるだろう」
「ええ……私もう猫じゃなくなったのに、まだそれ有効なの?」
「だったらそもそも問題を起こすな」
眉を顰めて告げるアルヴァの眉間には深い皺が寄っている。
不注意で人間を迷い込ませるわ、国宝を割るわ、牢獄に放り込まれるわ、猫から人間に変わっているわ、たった一日でどれだけの騒ぎを起こしたと思っているのか、この小娘は。
なんの力もなくなったのだからこれでトラブルは起きないだろうと思っていたのに、この訴えだ。人間がいかに脆弱な存在かを自覚してほしい。人間はここの住人とは違い、何かあれば死ぬのだ。
「君の技術が評判なのは否定しない。しかし子供扱いが不満だというなら自己管理くらいしてくれないか。私の手を煩わせるな」
机に組んだ手に顎を乗せ、アルヴァが溜息をつく。
しかし、トレイシーは従うどころか仁王立ちでアルヴァに指を突きつける。
「自己管理自己管理っていうけど、そんな青白い不健康代表みたいな顔の人に言われたくない。どうせご飯も睡眠もアルヴァだって取ってないくせに!」
「…………………………私は倒れたりしない」
「説得力!」
トレイシーの指摘にアルヴァは数秒停止したが、表情に変化はなかった。少し、視線は明後日を向いてはいたが。
ふん、と腕を組んでトレイシーは勝ち誇った顔になる。鉄仮面の主席顧問を動揺させられたので気分がいい。
折角人間になって出来ることが増えたのに、邪魔をしないでほしい。なんでみんな人の自由時間を減らそうとするのだろう。睡眠睡眠と言うけど、寝たい時に寝るから放っておいてほしい。眠く無いから寝ないのだ。
そんな事を考えているトレイシーの背後で、扉が開いた音がする。他にも客がいたのかと振り返り、トレイシーは眼を見開いた。
「‼︎」
「ああ、来たか」
アルヴァが迎え入れた相手は、非常に大きなジャイアントパンダだった。四足歩行でのそのそと部屋に入って来た獣に、トレイシーは飛び上がる。尻尾があったらたぬきのように膨らんでいた事だろう。
トレイシーは生まれてこの方、パンダを見たことがない。白と黒の未知の熊の様な生物は恐怖の対象だ。猫の時からの臆病な性分で、その場に固まってしまう。
パンダはというとトレイシーの脇を通り過ぎ、執務机に前脚を乗せる。じっと自分を見ているパンダに、アルヴァは口元だけ歪ませて笑うと首を横に振った。
「先生、私ではない。今日診ていただきたいのは彼女の方だ」
アルヴァがそう告げると、パンダはくるりと向きを変えてトレイシーの元へとやってくる。「ひっ」とトレイシーが恐怖に引き攣った声を出したが、パンダはお構いなしでトレイシーの周囲をぐるりと回る。
固まっているトレイシーの前でパンダは二本足で立ち上がり、じっと顔を覗き込む。そうして小首を傾げる姿は少し可愛いかった。
トレイシーも、この白黒の熊が自分に危害を加える気が無いことにようやく気付き、強張った体の力を抜いた。
アルヴァとも顔見知りのようだし、危険な存在では無いのだろう。
「ア、アルヴァ。この熊さんは」
「熊ではない、パンダだ」
「えーっとパンダさんは一体……」
「君が屁理屈を捏ねて逃げ出すことは『女王様』も私も織り込み済みだ。だから特別な客人を呼んでおいた。判断は先生にしていただく。それで、どうだろう?」
パンダはペタリとその場に座ると、ごそごそと体の何処かから小型の黒板とチョークを取り出した。そして大きな罰印を書くと執務机越しにもよく見えるように掲げた。
それを見たアルヴァは椅子の背に凭れ掛かり、天井を仰いだ。そうしてトレイシーに皮肉気な笑みを向けた。
「残念ながら、君はドクターストップがかかった。私より不健康と証明されたな?」
「え⁈このパンダさんお医者さんなの⁈」
トレイシーは驚いて隣に座っている白黒の巨体に目を向ける。パンダはというと、これまたどこから取り出したのか、大きな筍の皮をぺりぺりと向いている。弁当を持参していたようだ。なかなかマイペースな医者だ。
しかし納得がいかないトレイシーは執務机を両手で叩く。
「医者って、顔見ただけじゃん!何がわかるのさ」
「……君は今すぐ鏡を見るべきだと思うのだが」
アルヴァは頬杖をついて、トレイシーの顔を見やる。
元々白かった顔は土気色になり、血色の良かった薔薇色の頬は面影もない。目の下には濃くなりすぎた隈があり、生き生きと輝いていた緑の瞳も今はどこか虚ろだ。
検査をする必要などない程に、トレイシーは不健康な見た目をしている。
まだ、噛み付く気満々のトレイシーに言うだけ無駄と判断したアルヴァは、椅子から立ち上がると杖を床に打ちつけた。
「さて、ドクターストップがかかったところで君が大人しく言うことを聞く訳がないのは、その顔色が証明している。だから『女王様』は国宝の鏡を割った件も兼ねて、君には『おしおき』をするべきだと判断された」
「う……」
鏡の件を出されると、トレイシーは何も言えない。あんなことをしたのに罪状をなかった事にしてくれた『女王様』に文句など言えるはずもなかった。
たじろぐトレイシーをアルヴァは冷たい目線で見下ろす。
「君への罰を何にするべきかを考えたのだが、ここはやはり睡眠不足の原因になった行動、精密作業を辞めさせるのが良いと判断した」
「ええ!ちょ、それは困る‼︎」
トレイシーは慌てて抗議をする。自分の研究を止められるのも嫌だが、依頼を受けて製作している装置や修理もあるのだ。
アルヴァはトレイシーの訴えに一瞬考える仕草になり、やがて一人頷くと杖を掲げ持った。長い杖の先が光り輝き始める。
「相分かった。それならこうしよう」


「っと……」
地面に移動したつもりが少し失敗していたらしい。ナワーブは出現地点が空中だったことに焦りながらも宙返りして地面に着地する。
慣れた場所にチェシャ猫の能力で空間移動することはできるのだが、城の様な普段は行かない場所となるとなかなか上手く行かない。今も執務室に直接飛んだつもりだったのだが、実際は階層の違うサロンへ行き着いている。これなら正式な呼出だったのだから正面から入っても良かったなと思う。
トレイシーはひょいひょいと初めての場所にも現れてたのでコツを尋ねた事があったのだが、「座標で考えると手っ取り早いから、まず国の地図で軸を想定して」と言い出した時点で「やっぱいい」と断った。
精密機器の技師として活動し始めて気づいたが、トレイシーは幼い言動に反して明晰な頭脳の持ち主だったらしい。
ある程度チェシャ猫の能力に慣れてきた今でも、トレイシーが使っていた数歩先に連続で瞬間移動を繰り返す技はナワーブには真似ることはできなかった。あれも座標が云々の応用で出来るのだとか。自分では一生かかっても出来そうにない。
素直に感心したので「お前、実はすごいことやってたんだな」としみじみと伝えたところ、半目になったトレイシーに「壁を垂直に駆け上がって水面走り抜けて音速で移動する奴に言われても嫌味にしか聞こえない」と言われてしまった。褒めたのになにが不満だったのか。
ナワーブは豪奢な王のサロンを出て、回廊を足早に進みながら耳と鼻を動かす。城内の地図はうろ覚えなのだが、トレイシーの匂いと気配を辿れば目的地には着くはずだ。
あちらこちらと迷いながら、どうにかこうにかナワーブは執務室にたどり着いたのだが、なにやら中が騒がしい。開いている扉から中を窺うと、まずこちらに背を向けているジャイアントパンダが目に入った。
何故ここにパンダが?と思ったが、その向こうでは主席顧問とトレイシーがなにやらぎゃいぎゃいと騒いでいる。
勝手に入っていいものかをナワーブが迷っていると、パンダがこちらを振り返った。齧りかけの筍を抱えじっとこちらを見ているパンダは「入れば?」と言っているようだ。ナワーブは遠慮なく中にお邪魔させてもらう。
やはり、何故ここにパンダがいるのかが気になる。ナワーブがもそもそと筍を齧っているパンダを無言で見やると羨ましがられたと思ったのか、「いる?」とパンダに筍を差し出された。
「いや、いいよ。あんたの飯だろ?」
ナワーブが笑って首を振ると、パンダは筍とナワーブを交互に見やり、控えめに「本当にいいの?」と首を傾げている。でかい図体をしているのに小動物のような動作をする奴だなと思いながら、ナワーブは頷いて見せる。
それに安心したのか、再び筍を齧り始めたパンダの脇を通り過ぎ、執務机で騒いでいる二人、正確には一匹の元へとナワーブは向かう。
「戻せー!戻せよう!」
「うるさい。罰だと言っただろう。生活習慣が直るまで解除はしない」
「折角人間ににゃったのにー!にゃにすんのさー!」
主席顧問の頭に、耳が四つ生えている。そう見えたのは目の錯覚で、正確には彼の頭に乗り上がり、しがみついて喚いている猫が一匹いるのだ。その金色の猫にナワーブは思わず噴き出してしまった。
その音でナワーブの存在に気付いたアルヴァは、うんざりとした顔で頭上の猫を摘み上げた。
「遅い。早くこの猫又もどきを回収してくれ。仕事にならない」
「ああ、悪い」
アルヴァに摘み上げられた猫は、馴染みの首輪はないものの尻尾が二本のずんぐり体型がナワーブには懐かしい。短い脚を動かして抵抗の意を示していたが、無駄な行動だった。
マンチカン姿に戻されたトレイシーが、ナワーブの腕から抜け出そうと必死で暴れている。
「やだやだやだー!戻してよー!人間に戻してよー!」
「だから、きちんと眠れば戻るといっているだろう。また無茶をすれば逆戻りだが」
「ふーんそうなったのか」
ナワーブはにやにやと笑ってトレイシーを目の前に抱えあげた。
「俺が親切に言って聞かせてやってるうちに、大人しく言うことを聞いとけばこんなことにはならなかったんだぞ?」
「大体、鏡を割った罰も含まれていると言っただろう。しばらくそれで反省しろ」
「うにぃ……」
アルヴァの言葉に先程迄の威勢はどこへやら、トレイシーは耳ごとしおしおと項垂れてしまった。鏡の件は本当に自分が悪かったとトレイシーは思っているので、突かれると弱い。
大人しくなったトレイシーを抱えて、ナワーブは執務室を後にした。
しかし城を出ようとして眼前に広がる青薔薇の庭園に、ナワーブは顔を顰めた。
「………………ちっ」
――物凄く通りたくない。
青薔薇を憎々しげに睨みつけ、ナワーブは城外の森へと空間転移する。人一人を連れてはけないが、猫一匹くらいならいけると判断したのだ。
森に着くと、地面に飛び降りたトレイシーはナワーブを見上げ、その足にすり寄った。険しい顔になってしまった「飼い猫」に困ったような顔になる。
「ニャワーブ、青い薔薇本当に嫌いだねえ」
「……ああ」
ナワーブが城に行く時も転移を使ったのは、あの青薔薇の庭園を通りたくなかったからだった。元々好いていなかった花だったが、トレイシーを目の前で連れ去られたせいでいよいよ憎悪の対象となってしまった。泉から生えてきた蔓薔薇に生理的な嫌悪を抱いたのもある。
一人の時も苛立たしいが、トレイシーが青い薔薇に囲まれていると、また連れ去られてしまうのではないかととてつもない不安に襲われてしまう。
可能なら全て引っこ抜いて燃やし尽くしたい。ナワーブは割と本気でそう思っている。許可が出るなら今すぐにでもそうしたい。
しかし慰めようと何度も何度も足元に体をすり寄せている猫に、刺々しかったナワーブの気分も解れていく。膝を折り、金色の猫の首の後ろを掻いてやれば、気持ちよさそうに目を閉じている。この柔らかい毛並みに触れるのも久しぶりだ。額、頬、顎下と撫でてやればトレイシーはうっとりした顔になる。
「うにゃ〜……そこそこ……!ニャワーブにゃで方上手くにゃってる〜!」
「そりゃ、俺も猫だからな。どこがいいかくらいは分かる。おら」
「にゃうぅー……!」
頬の横を両手で摘んでマッサージしてやれば、トレイシーはいよいよ堪らんと倒れ込む。腹を晒して参りましたポーズのトレイシーにナワーブは苦笑するしかない。これではどちらが飼い主なのだか分からない。
さっきまであんなに人に戻せ戻せと騒いでいたくせに、トレイシーはすっかりと中身まで猫に逆戻りしている。本当に適応能力が高い奴だなとナワーブは思う。あの時は違う選択をしたが、これなら向こうの世界に連れて行ってもトレイシーは逞しく生き延びれたのかもしれない。そんなもしもを考えながら、トレイシーのずんぐり短足ボディを撫で回す。
一頻り撫でられ満足したトレイシーは、後ろ脚で立ち上がると前脚で空を引っ掻く動作をする。
「ニャワーブ、膝!膝貸して!」
「へえへえ」
乾いた土の上にナワーブが胡座を掻いて座る。トレイシーはその足の上にえっちらおっちらと乗り上がる。足の間の窪みに丸くなったトレイシーは、猫に変わったことで早速眠気がやってきたらしい。大きく欠伸をすると目を閉じた。
「お前、ここで寝るのか」
「んー……」
ナワーブの呼びかけにも生返事だ。きちんと寝て欲しいと願って『女王様』に訴えた事だが、猫になった途端にこんなとこで力尽きるとは思っていなかった。本当に困った飼い主だ。
ナワーブは金色の毛並みが穏やかに上下するのを眺めて、小さく笑う。
「屋敷まで我慢できないのか?」
「むり……」
「すぐ着くぞ」
「やだ……」
「抱っこしてってやるぞ」
「やあ……」
トレイシーはむずがるようにうつ伏せに丸まると、ナワーブのブーツにぎゅっとしがみついた。これではナワーブは立つことが出来なくなった。そうしてそのポーズのまま、トレイシーは本格的に寝に入ってしまう。
そんなに耐えられなくなるまで起きているなと思ったが、仕方がないとナワーブは諦めトレイシーの背を撫でる。
「………………ふぁ」
すよすよと気持ち良さそうに寝ているトレイシーを見ているうちに、ナワーブの口からも欠伸が漏れた。
人間の頃と同等に起きていられるとはいえ、ナワーブも猫だ。寝れるものなら寝たいのが本音だ。それに自身の膝で気持ち良さげに寝てる同族がいれば、自分も釣られて眠くなるものだ。
ナワーブは少し悩んだが、猫の眠気には抗えなかった。トレイシーが起きないように慎重に猫の姿に変わると、胡座の時と同じように金色の猫を囲い込み丸くなる。
「にぅ……」
「!」
途中、トレイシーが動いたのでナワーブはぴたりと動きを止めた。起こしたかと危惧したが、トレイシーはナワーブの前脚を抱き締めて、満足そうな顔ですよすよと寝息を立て始める。それは、お気に入りの肘当てを抱えている時と同じ仕草だった。
ナワーブは堪らず、舌でマンチカンの頭と顔を舐める。可愛い、愛おしい。そんな感情で胸がいっぱいになる。
少し力を込め過ぎたせいで、寝ぼけた猫パンチが数度飛んできたが、知ったことではない。猫はしたいことをするものだ。
もぞもぞと無意識に逃れようと動き始めたトレイシーの上にナワーブは顎を乗せた。
散々枕の代わりをしてやったのだから、トレイシーも大人しく枕になるべきだ。そう思いながら目を閉じた。


「んん……?」
トレイシーはなんだか息苦しいと思いながら目を開いた。
嗅ぎ慣れた夜の外気に一瞬戸惑ったが、アルヴァに猫の呪いをかけられたことと、森の中で寝に入ってしまったことを思い出す。目の前に自分の腕があるので、本当に眠ったら人間に戻れたようだ。
森に来た時点では陽が高かったのに、空には月が輝いている。トレイシーはチェシャ猫の頃は住処を持たない野良猫生活をしていたので夜はこの光景が普通だった。今は人間だからなのか、なんだか不思議な心地だ。
トレイシーは起きあがろうとして、何かが体の上にのし掛かっていることに気付いた。視線を落とせばトレイシーのお腹の上に、だらんと体を伸ばしたメインクーンが仰向けのへそ天状態で寝入っている。
そのあまりに無防備な寝姿に、トレイシーは頬を掻くしかない。
――腹を見せるのは野生がどうのと私に説教してたのは誰なのさ。
初対面の頃の刺々しさをすっかりなくしたナワーブに、トレイシーは呆れてしまう。いくら飼い猫になったからって、屋外でそれは油断しすぎではないだろうか。
「よっ、と!」
トレイシーは両足を上げて、振り下ろす勢いを利用し上半身を起こした。腹に乗っていたナワーブはトレイシーの膝へと転がり落ちた。ところがこれだけ動いているのに、ナワーブはぐうぐうと寝たまま何も反応がない。余程深い眠りに落ちているのだろうか。
「もー、ナワーブこそちゃんと寝てなかったんじゃないの?」
トレイシーは返事は返らないことは承知でそう呟いた。膝に乗っているターコイズブルーの猫を撫でながら、ふと覚えた既視感に首を傾げる。
こんなことが以前にもあった様な気がするのだ。しかし、一体何処でだろうか?トレイシーはよくよく思い返してみることにする。
森の中、森の中、森…………
「あ!」
トレイシーは声を上げて手を叩く。
――思い出した。
ナワーブの肘当てを抱いている時に見た夢だ。その夢にこの状況がとてもよく似ているのだ。
ナワーブと初めて会ったあの森で、ナワーブの膝の上で優しく撫でられて眠る夢。絶対に叶うことのない、悲しい幸せ過ぎる夢だった。覚めたくない程の悪夢でもあった。
――それは、夢じゃなくて現実の出来事だろ。
顰めっ面でそう答えたナワーブを覚えてる。事情を知らなかったから出た言葉だっただろうに、まさかその通りになるとは誰も思っていなかった筈だ。
実際は寝てるのも猫なのもナワーブで、膝枕してるのも撫でてるのも私だから立場が逆転しているんだけど。合っているのは森の中という事だけだ。
トレイシーはそれがおかしくて、くすくすと笑う。
「なに、一人で笑ってんだ」
手の中の感触が変わる。柔らかな猫の毛を撫でていた筈なのに、毛質が固くなったように感じ、トレイシーは膝に視線を落とす。そこにはへそ天をしていた巨猫の姿はなく、にやにやと笑っている人型のナワーブの姿があった。トレイシーの手はその頭髪と耳に触れている。
「教えろよ」
「ん?ナワーブの言う通り、正夢になったなって」
「なんの話だ?」
「幸せだなあって思ってたの」
「そうかよ」
寝起きのナワーブには、トレイシーの言っていることの意味はさっぱりと分からなかった。
しかしそれでも構わなかった。トレイシーが何を言っているのか分からないのはこの世界に来た時からだったし、幸せだと言うのならそれに越したことはない。
彼がチェシャ猫になったのもこの世界に止まったのも、全てこの少女の為だ。トレイシーは『女王様』のチェシャ猫だったけど、ナワーブはトレイシーの為だけのチェシャ猫だ。
ナワーブは起き上がるとトレイシーの鼻に自身の鼻を擦り付ける。猫同士の挨拶は、すっかりと二人のスキンシップへと変わっていた。
「お前、猫も悪くないがやっぱこっちの方がいいな」
「そうなの?ナワーブ猫のほうがデレデレだからあっちが好きなのかと思ってた」
「人間のお前は顔が赤くなるから分かりやすい」
「‼︎」
ナワーブの言葉にトレイシーは慌てて緑の上着のフードを被る。今更隠しても無駄なのにとナワーブは上機嫌で目を細める。
鼻キスはトレイシーが最初にし始めた事だが、人間になった途端に猫の時には無かった「異性への羞恥心」を覚えるようになってしまった。平気な振りをしようとしてもどうしても恥ずかしくなってしまう。そしてその反応が非常に初々しくて愛らしい。
「可愛いなあ、お前」
「ううううううう!」
何もかも逆転したトレイシーとナワーブは、今や反応も真逆になっていた。ナワーブはそれが楽しくて仕方ない。
楽しいと思う事自体、この世界に来た事で思い出した感情だ。
蹲るトレイシーを抱き込んで、ナワーブはぐるぐると喉を鳴らしたのだった。




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