ちぇしゃネコ症候群(ナワトレ)

「!」
完全なる暗闇に降りたと思った瞬きの間に、足の下の階段が消え失せる。そして遠くにぽつりと見える、光。
泉に写っていた鳥籠だ。
ナワーブがそれに気づいた時には、もう足が勝手に地を蹴っていた。
走って走って、小さかった鳥籠が段々と大きくなる。近づけば鳥籠の中の赤い椅子も、そこに蹲る白い猫又の姿もはっきりと見えるようになる。
「っトレイシー‼︎」
動かないトレイシーに向かってナワーブが叫ぶ。生気なく縮こまっていたトレイシーが、体を起こす。緑の瞳がナワーブを捉えると、仮面のようだった白い顔にパッと表情が戻る。
「トレイシー!」
トレイシーは慌てて椅子から飛び降りると、格子に走り寄る。ずっと蹲っていたせいか、かくんと膝が折れる。それでも銀色の格子を掴んで、ナワーブへと手を伸ばす。
「ナワーブ⁈嘘、ど、どうしてここに⁈」
「『女王様』に頼んだんだ。最後にお前に会って話くらいさせろってな」
伸ばされた手を掴み、ナワーブは鳥籠の前に膝をついた。
トレイシーが連れ去られてから一時間も経っていない筈なのに、その姿はすっかりとやつれている。
赤い頭巾と黒い民族衣装の彼女に慣れてしまったせいかもしれない。白一色の簡素なワンピースを着せられた姿は、トレイシーをより小さくか細く見せた。
ただ一つ、胸元にあるピンクの薔薇だけが瑞々しい姿を保っている。
トレイシーはナワーブに握られた手にもう片方の手も重ね、格子に頭を押しつけた。
「ごめん。ごめんなさい、ナワーブ。私のせいで、私のせいで帰れなくなっちゃった。みんなに言われてたの。引き止めたらダメだって。お城の前で別れなさいって。ちゃんと、言うこと聞けばよかった……!」
「悩んでたお前を強引に引っ張ってったのは俺だろ」
「ううん。それに甘えたの。ずっと私がいないとダメだって言い訳してた。そんなことなかったのに。ナワーブは全部自分でどうにか出来てたのに……!」
ぽたぽたと涙が鳥籠の床にシミを作っていく。ナワーブはそれを見て小さく笑う。
「お前、そんなに泣くとまた池になっちまうぞ」
「あれは体が大きかったからだもん……」
「ったく」
ナワーブはわざと荒い動作でトレイシーの頭を撫でる。頭巾のない髪の毛はぼさぼさになってしまったが、トレイシーの涙は止まった。
そろそろとトレイシーが顔を上げると、ナワーブは穏やかな表情を向ける。
「いつもお前がいて助かったのは本当だ。それだけは覚えとけ、忘れんな」
「……うん」
「それと、お前よくも言い逃げしたな」
「………………ん?」
「誤魔化すな」
もう二度とナワーブと会うことは出来ないと思ったから「大好き」と告げたのに、それを今蒸し返されるのは非常に気まずい。
トレイシーは猫の時と同じ惚ける動作で首を傾げてみたが、人型だと通じないらしい。ナワーブは半目でこちらを睨んでいる。
目を逸らそうとするトレイシーの頬を両手で挟んで顔を固定する。
「逃げるな、聞け。余計な気を回して抉れまくったから、もうお前には全部話す。どうせ出られねえで忘れられねえなら百年、ずっと考えてろ」
「え、百年って……」
「俺はな、残るつもりだった。お前が鏡を割らなくても、帰る気は無かったんだ。だから、その事を気に病む必要はない」
「そんな、嘘!だってナワーブずっと帰りたがってたのに!」
「お前を連れて行けねえなら、俺がここにいればいいって気付いたんだ、直前にな。向こうに未練なんてないことに気付いて、それで帰る気が失せちまった」
ナワーブは動揺して瞳が揺れるトレイシーをじっと見つめる。
この事を伝えるべきかどうか、ナワーブも悩んだ。トレイシーは余計なことをしたと落ち込むかもしれないと思ったのだ。
けれど、トレイシーが永久牢獄から出られないことは変わらない。それなら心だけでも救いになるといい。だから本心を伝える。
どうせ自分は忘れてしまうという、そんな建前はいい。トレイシーにだけ記憶がある事を気にする必要もない。
百何十年も人間は生きられない。トレイシーが牢獄から出てきた頃には「彼女を覚えていないナワーブ」は存在しないのだ。
トレイシーは、今の自分しか記憶には残らない。だったら全てを伝えよう。こいつを愛した自分を覚えていてもらおう。
「お前の側にいたかった。俺の意志で。嘘じゃねえ」
「そんな……そんな事……っ!」
「ああ。今更だよな。悪い。俺が本音を先に伝えてれば、こんなことにはならなかったのに。お前をこんなところに放り込んじまった」
「ち、違うよ!これは、私が悪いの!アントニオにも言われてたのに!鏡と目を合わせるなって……!」
「あいつが?城を嫌ってる癖に随分と詳しいな」
ふは、と笑いながらナワーブはポケットから青い羽根を取り出す。不死鳥の尾羽はトレイシーも分かっている様で、目を丸くして驚いている。
「ナワーブ、それ……!なんで⁈」
「これな。お前が涙で殺しかけたアオサギ助けたら落ちてきたんだ。何に使うのかはついさっきまで知らなかったんだがな」
羽根の芯を摘んで、くるりと回してみせる。トレイシーは一度目を伏せて、ゆっくりとナワーブを見上げる。
それは、全てを悟った顔だった。
「…………さっき、最後って言ってたのは」
「ああ」
「帰れるんだね。良かった」
「俺はあんまり良くはないが」
「ここにいても、ナワーブは不安定だからどこかに飛ばされちゃうかもしれない。だったら、戻った方がいい」
「そんなことどうでもいいけどな。ただ、俺が帰るとお前の永久罰が百年に短縮されるらしい」
「え?」
トレイシーがぽかんとした表情になる。減刑される方法は知らなかったのか。ただただ単純にナワーブの安否を気にしていただけのようだ。どこまでお人よしなのか。
ナワーブは羽根を握り締め、顔を歪める。
「これで願いを叶えられると聞いて、一番最初にお前をここから出すことを願おうと思った。だけどそれは出来ないんだってな」
「ここは『女王様』が作った世界で『女王様』が作ったものは『女王様』の権限を越えられない。だから、仕方がないんだよ。ありがとう、ナワーブ」
格子から腕を伸ばして、トレイシーは羽根を握りしめるナワーブの手を撫でた。
私のせいで帰れなくなったのに、真っ先に私をここから出すことを考えるなんて、どこまでこの人はお人よしなんだろう。
トレイシーは眩しいものを見る気持ちで、ナワーブの顔に触れる。黙って触ったら駄目だと言われていたけれど、最後だからかナワーブは何も言わなかった。
本当に、一緒にいればいる程好きになってしまう。
ナワーブが帰れないことだけが気掛かりだった。だから、彼が帰れると言うなら何も思い残すことはない。トレイシーの心からの本音だ。
トレイシーは胸に挿していた薔薇を摘み上げて、曇った表情のナワーブに見せる。
「あのね、ナワーブ。永久牢獄に入る罪人は何か一つだけ、牢屋に持ち込む事を許されるんだ」
「お前、それを選んだのか……?」
ナワーブの問いに、トレイシーはふにゃりと笑う。幸せそうな、あの笑顔だ。
「ここに持って来たものは永久に朽ちないんだって。だからこれにしたの。見てたら幸せな気持ちになるから。これもらった時にね、大事にしようって思ってたんだ。でも花はいつか枯れちゃうでしょう?だからずっと取っておける方法を考えなくちゃって。でももう、その必要はなくなったんだ。この薔薇はね、ずっとずっと枯れないんだ。ナワーブがくれた時のまま、変わらないんだ。…………たった百年の罰で、宝物が永遠になるならお釣りが来るくらいだよ」
両手で大事そうに薔薇を抱きしめるトレイシー。
なんてことない風を装っておるが、そんな訳がない。百年の孤独を、狂うことなく耐えなくてはならないのだ。たかが薔薇の一輪で釣り合うわけがない。
本来の猫の姿を捨て、果てのない苦行のよすがに自分が贈った花を選んだ猫又。
猫ってのは、もっと自由気ままで自分勝手で傲慢で。そういう生き物なんじゃないのか。どうしてこいつはこんなに健気で一途なのか。
一緒にいればいる程、離れ難く愛おしく思ってしまう。
「…………くそっ」
ナワーブは、手の中の尾羽を見下ろし、眉間に皺を寄せる。
――こいつを置いて、元の世界に戻る。本当にそれが最善なのだろうか?本当に他に手はないのだろうか?
言われるがままにここに来たが、何か考えられることはないだろうか。
ナワーブは自身が然程賢くないことは分かっている。それでも思考を停止して諦めるのは、違う。戦場で諦める事は死を意味した。だから最後まで足掻く。
願いを叶える羽根はここにある。偶然手に入れた、一度きりの奇跡を起こせる力だ。
減刑する方法はこれしかないと言われて従う気でいたが、そもそも減刑にこだわる必要はない。
ナワーブはじっくりと考える為に目を閉じる。
「……………………」
「ナワーブ?」
歯軋りしそうな顔で手の中の羽根を睨んでいたと思ったら、今度は苦いものを飲み込んだ様な顔でナワーブは目を瞑っている。
自分は大丈夫だから気にしないでと伝えたつもりだったのだが、ナワーブは納得できていないのかもしれない。
眉間に刻まれた皺は深い。
心配してくれるのは嬉しい。けれど、下手なことをして『女王様』の逆鱗に触れる様なことだけはしないでほしい。
ナワーブはここの住人を「イかれている」と言ったことがあったけど、トレイシーから言わせればナワーブこそ突飛な行動をしでかす存在だと思っている。
「なあ」
トレイシーが見納めとばかりにナワーブを眺めていると、男の瞼が開く。鉄色の瞳と視線が重なる。
「お前、猫の姿を失っちまったこと、後悔してるか?」
ナワーブの問いに、トレイシーは笑って首を横に振る。
後悔なんてするわけがない。だって気付いてしまったのだ。
猫の姿でナワーブに抱っこされて、膝に乗って、撫でられて。全部全部本当に大好きだ。
しかしそれも、人の姿でナワーブに抱きしめられたあの時に霞んでしまった。一度の抱擁の威力は大きかった。もう猫には戻りたくなくなるほどに。
そう思ってしまったら、変われなくなった。牢獄で全ての能力を失っても、トレイシーが人の姿から猫に戻る事はなかった。
だから、ナワーブの目を真っ直ぐに見つめたまま、トレイシーは答える。
「悔いはないよ。望んだ事だから」
「そうか、だったら遠慮はいらねえな」
遠慮とはなんだろうか。
トレイシーが疑問に思っている間に、不死鳥の尾羽が青く光り出す。ナワーブがその場に立ち上がり手を開けば、羽根はピンと立った状態で空中に浮き上がる。
ナワーブは輝く羽根を見て、にやりと口角を上げて笑う。
「へえ、さっきまで何を考えても無反応だったのに。叶えられる願いにはちゃんと反応するんだな」
「え、帰るんだよね?ナワーブ。叶えられる願いって何する気……?」
「さっき面白い話を聞いてな。その時は大して重要だとは思ってなかったんだが、よくよく考えてみたら使えるんじゃねえかと」
よくよく考えてというがなにか、突飛なことをしでかすような気がする。
トレイシーは立ち上がって格子から手を伸ばし、ナワーブの服を掴む。
牢屋を壊せとか、罪人を出せとかそういう願いは叶わない筈だが、ナワーブは何を思いついたのか。なにかおかしな事ではない事を祈りたい。
ナワーブは顎に手をやり、宙に浮いている羽根を見て目を細める。
「鏡もこいつも、同じことが出来ると俺は踏んでるんだ。だったら一つ試したいことがあってな」
「試すも何も羽根は一回しか使えないんだよ⁈」
掴んだ服をトレイシーが引いても、ナワーブは気にした様子もない。尾羽がゆっくりと青い炎に包まれていくの眺めている。
尾羽が完全に炎になり、その形は羽根から小鳥へと変わる。炎の小鳥がナワーブの頭上を旋回して、差し出された指に止まる。
「ナワーブってば!」
「なんだ、うるせえな。要らねえんだろ?だったら寄越せ」
「なんの話」
「俺に、お前の持ってるものを全て寄越せ」
ナワーブがそう言うと小鳥は甲高い声で鳴き、大きな炎に変化する。意思のある炎は、さらに激しく燃え上がり、翼を広げるようにしてナワーブとトレイシーを飲み込んだ。
「あっ!」
炎はトレイシーの視界も塞ぎ、ナワーブがどうなっているのかは見えない。触れても火の熱さは無かったが、皮膚の上を刃物で撫でられる様な不快感にトレイシーは総毛立つ。ぞわぞわとした感覚が全身に走り、堪らずトレイシーは自身の体を抱き締め目を瞑る。
――なに、これ⁈すごく気持ち悪い!
ぴりぴりと頭に腰に、猫の体毛を剥がされるような痛みも走る。そんな訳がないのは分かっているのに、そんな感覚が抜けない。
トレイシーには何が起きているのか全くわからない。炎で火傷をしている、という感じでもない。じわじわと何かに侵食されていく。
「ううっ!」
青い炎が心臓を貫く。体に穴が空いたわけではない。通り抜けただけだが、トレイシーの体にはそう感じる程の衝撃が走る。
堪らずトレイシーはその場にくずおれる。全力で走った後の様な疲労感がのし掛かり、指すら動かすことも出来ない。
「ぐう……っ!」
人が倒れる音に重なるように、ナワーブの呻き声が聞こえてくる。
彼の安否を確認するためにも、トレイシーはなんとか上半身を起こすことは出来た。けれど、辺りは先ほどよりも暗くなっており、トレイシーは薄暗い鳥籠の中しか見る事ができなかった。鳥籠の外の様子は真っ暗闇で分からない。
「……?」
トレイシーは不思議に思って、目を擦る。なにか、視界がおかしい気がする。なんでこんなに黒いのだろう?
それに、聞こえ方も変だ。そこにいる筈なのにナワーブの匂いもしない。
手足もいつもより重く、そして胸になにかを失ってしまった喪失感がある。
トレイシーは両の手のひらを見つめてみるも、違和感の正体は分からない。
――これはなんだ?何か、おかしい。
ふと視界の隅に、鮮やかな色が写る。トレイシーが顔を向ければ、大事なピンクの薔薇が落ちている。一際濃く鮮やかに見える花を不思議に思いながらも拾い上げようと手を伸ばす。
しかし薔薇はトレイシーより先に、格子の外から伸びた手に攫われてしまう。
「あ」
薔薇を追いかけ、トレイシーが上げた視線の先。花を持ち去ったのと同じ手が二本、格子を掴む。その深緑のジャケットの腕に見覚えはない。トレイシーが後退ると同時にぱきりと鳥籠が音を立てた。見れば、掴まれていた格子が真っ二つに折れている。
「‼︎」
トレイシーは思わぬ事態に口をあんぐりと開けてしまう。
永久牢獄が、壊された。罪人を閉じ込めておく為の絶対の檻が、飴細工のようにいとも簡単に破壊されてしまった。驚くなと言う方が無理だ。
足に力が入らないトレイシーが呆然と座り込んでいると、折れた格子の隙間から男が一人入り込んで来た。
狭い檻の中なので、トレイシーはそれ以上、後ろに下がることはできず、警戒したまま男を見上げる。
城に相応しい正装の軍服を身に纏った男は、じっとトレイシーを見下ろしている。深緑のジャケットに青地のペリースを左肩に担ぎ、白いボトムスを履いているところまでは異常はないのだが、黒いブーツの先は猫の脚になっている。ターコイズカラーの毛髪からは同色の猫の耳が生えており、アイスグリーンの瞳は爛爛と輝いている。腰からも髪と同色の縞模様の尾が生えており、ゆらゆらと体の後ろで揺れている。
――知らない猫がいる。
こんなビビッドカラーの猫、見たことがない。トレイシーが猫の姿だったら威嚇していたに違いない。
手足を縮めて、警戒の色も露わなトレイシーの目の前に青い猫は屈み込む。そうしてトレイシーの方向に手を伸ばし、額を弾く。
「痛っ!」
「なに面白ぇ顔してんだよ」
「!え⁉︎な、ナワーブ⁈」
慣れたやり取りに相手の正体に気づき、トレイシーは素っ頓狂な声で叫ぶ。青い猫――ナワーブはその慌て振りににやりと笑う。
よくよく見てみれば確かに顔はナワーブなのだが、髪の色、目の色と形が違うせいで別人の様なのだ。
「何その気が狂った格好!」
「お前、本当に思ったまま言うな……俺もこうなるとは思ってなかったわ」
「や、待って待って。格好も気になるけど、ナワーブ牢屋壊したよね⁈なにやってんの⁈」
トレイシーは真っ青になって頭を両手で抑える。ナワーブの後ろには明確に歪んだ格子がある。
永久の名を持つ、壊れる筈がないものが壊れている。牢破りなんて前代未聞だ。そしてトレイシーはその一部始終を見てしまった。犯人にどんな罰が科されることになるのか、見当もつかない。
――だから帰れって言ったのに!
どう言うつもりかは分からないが、ナワーブは不死鳥の尾羽をビビッドキャットになる事に使ってしまった。もうこれはお縄につく未来しかないのではないだろうか。
自分だけならまだしも、ナワーブまで犯罪者になってどうするのだ。
「なにって、あれは俺がやったわけじゃねえぞ。掴んだら勝手に壊れた」
「壊れる訳ないでしょ!」
「嘘じゃないんだがなあ」
顔面蒼白になっているトレイシーとは反対に、ナワーブは呑気に屈んだ膝に頬杖をついている。ゆったりと揺れている尻尾に苛立ち、もう一度問いただそうとトレイシーは口を開く。
「ストップ」
「むぐっ」
しかしトレイシーが声を出す前に、口をもふりとしたもので塞がれる。何かと思えば、ターコイズカラーの猫の手グローブだった。
「まあ聞け。お前、今なんかおかしいと思わないか。身軽になったとか、不便になったとか」
「どっちかというと体が重いし、なんか暗いけど。耳も変だし」
「耳。そうだ耳だ。お前、今はどこ抑えてんだ?」
「え……」
トレイシーは今、両手で頭に触れている。そうしてはっとする。そこにあるべきものがない。三角の耳が、跡形もなく消え失せている。それに、音が顔の横から聞こえている・・・・・・・・・・・・・事に気付いた。
「み、耳がない!なんで⁈」
「あるわ。顔の横に人間の耳が。尻尾もねえから猫又廃業だな」
「な、なんで⁈……ほ、ホントだ。尻尾、尻尾ない……!尻尾ないよぉ……」
「耳より尻尾なのかお前」
自身の腰に慣れ親しんだものが無い事に気付き、じわじわと涙を浮かべ出したトレイシーにナワーブは困った顔になる。
トレイシーにとっては、二本の尻尾は物心ついた時からの絶対のアイデンティティだったのだ。なくなってしまった事が余程ショックだったらしく、本格的に泣き出してしまった。
話どころではなくなってしまたトレイシーに、ナワーブは困り顔で宥めにかかる。
「悪い、尻尾は俺が貰った」
「なんでよぉ……!」
「分かった。一つづつ説明してやるから、ちょっと一回落ち着け」
「うう……」
ぐすぐすと鼻を鳴らすトレイシーに、ナワーブは苦笑いを浮かべる。いくら泣いても涙が枯れる事がないので、これは池になる筈だと思ったのだ。
ナワーブが宥める為に猫の手グローブをトレイシーに押し付ける。それはトレイシーには見覚えのないものだった。けれど何故かとても手に馴染んだので、両手でグローブを抱きしめた。
トレイシーが落ち着くのを待って、ナワーブは口を開く。
「さっき暗いって言ったな。それな、周りが暗くなったわけじゃねえんだ。お前の目が変わったんだ。お前は今、夜目が効く猫じゃなくて人間だからな。そんで、俺が『チェシャ猫』になった。俺が羽根に願って俺達は立場が入れ替わった」
「なんでそんなこと」
「なんでって、答えはもう出てるだろうが」
ナワーブが上を指差す。トレイシーがその指先を目線で追えば、鳥籠の天井が天辺から溶けるように消えているのが見えた。
トレイシーが目を丸くしている横で、ぱきりと格子にヒビが入る。崩壊していく牢獄に、目を白黒させているトレイシーに構わずナワーブは話を続ける。
「犯した罪が消せないんなら、罪が無かったことにすりゃいい」
「無かったことって……!だって、壊れちゃったものは直らないんだよ⁈」
「そこは発想の転換だろ。ここは独特なルールを個人個人で作ってやがるだろ。それは勝手なものだがルールと決めれば絶対のものになる。だがそれは裏を返せばルールに含まれない事なら罷り通る。お前らはイカれているのに約束は絶対守るしな。だからそれを利用した。きっと『女王様』とやらにも有効だろうと思ってな」
「そんな事言ったって、『女王様』のルールを覆すなんて無茶、叶う筈ないのに!」
「ああ。だからルール内で願い事をしただけだ。さっき、伯爵に死にたがってた前任者の役割と体をぶん取った話を聞いてな。だったら、本人が要らないものなら同意なしでも交換可能なんじゃねえかと」
「!もしかして、猫の姿が後悔がどうのって……!」
「確認はちゃんと取らねぇと、だろ?」
トレイシーは恋のために猫としての種もチェシャ猫の力もなげうった状態で収監されていた。これは「要らないもの」と判断していい筈だ。それでも念の為にとナワーブは言質を取った。
そして一か八か、もう一つナワーブは賭けていたものがあった。トレイシーは自在に向こうの世界とこちらの世界を行き来出来ていた。ということは彼女自身の「向こうへの帰り道」を閉ざしていない可能性がある。
トレイシーは向こうの出身だが、こちらで育ったので故郷といえばこちらの世界になる。だから「帰りたい」と思うことも未練もない。だから敢えて閉じる必要性もなかった筈。
「俺がこの世界の住人権をお前から奪えば、客人はお前になる。そうなればお前が壊したのは自分の帰り道って事になるんじゃねえかと思ったんだ」
「そんな、無茶苦茶な方法ある⁈」
「実際、上手くいっただろ。牢獄はご覧の有り様だ。お前の罪状は消えたってことだろ」
崩壊していく牢獄を見やり、ゆらりゆらりとナワーブの機嫌を表す様に縞模様の尻尾が揺れる。自分の作戦が上手くいった事にナワーブは満足しているようだ。
トレイシーはぴんと立った猫の耳を見て、なるほどと思う。これは隠そうとしても感情が筒抜けになる筈だ。
「上手くいかなかったらどうするつもりだったの」
「んあ?そこは、猫になったら隙間から牢獄の中入れそうだろ。それならそれでもいいかと」
「いいわけないでしょ!」
相変わらず荒唐無稽な作戦を立てるナワーブに、トレイシーは呆れ返る。貴重な願いを消費してまで無謀なことをしでかさないで欲しい。
ぷりぷりと怒るトレイシーに、ナワーブは「へえへえ」と面倒そうに耳を掻く。腹が立つほどに猫の仕草が板についている。
「済んだことはもういいだろ。俺は帰らない。お前も出獄。何が文句がある」
「……無い、けど!無茶しないでって言ってるの!」
「お前が言うな」
鳥籠の形をしていた牢獄が跡形もなく消え失せる。そうすれば何もない黒一色の世界に、赤い椅子と青い猫だけが残る。夜目が効かなくなったトレイシーには、他に何も見えない。
「大体おまえ……っ!」
何かを言いかけていたナワーブが言葉を詰まらせる。トレイシーを見つめたまま、目を大きく見開いて凍りつく。数秒間そのままだったが、ハッとした顔で慌てて視線を逸らす。
「?ナワーブどうし」
「動くな‼︎」
体が重いままのトレイシーは動く気に慣れず、座り込んだままでいる。だと言うのにナワーブは両手を突き出して静止を叫び、即座に暗がりに姿を消す。
トレイシーが凭れている赤い椅子には仄かな光が差し込んでいるので、その周りだけは人間の目でも何があるのかが視認出来る。が、一歩でも離れてしまえば何も見えない。
ナワーブはどこにいったのかと少し不安を覚えたが、直ぐに青い猫は戻ってきた。手に緑の布を抱えている。
ナワーブは足早にトレイシーに近づくと、頭上から抱えていた布を落とし背を向ける。トレイシーが落ちてきた布を広げれば、それは馴染みのあるものだった。
「あれ、これナワーブの服じゃ」
「着ろ!すぐに着ろ!今すぐに着ろ!」
「なんで?」
「お前、自覚ねえのか。全裸だろうが!」
「ん?……あー、なるほど」
トレイシーはナワーブに指摘されて、自分が何も身に纏っていないことに気づいた。牢獄が消えたことで囚人服だったワンピースも消え失せてしまったのか。
「なんで気づかねえ」とナワーブは言うが、トレイシーは服などわざわざ着た事がない・・・・・・・・・・・・・のだ。猫として生きてきたのだから無理を言わないでほしい。
――人間になると服が必要なのか、面倒だな。
トレイシーがもぞもぞと服を着ながらそう言うと、ナワーブが背を向けたまま頭を掻きむしる。
「ああ、お前が着てたあの妙な服はなんなんだ」
「うーん?着脱可能な毛皮?そんな感じかな。ナワーブが今着てるのもそうでしょ」
「まあ、確かに体の一部な感じはするか」
ナワーブは自身の体を不思議な思いで見下ろす。身につけている衣服は毛皮という表現がぴったりだと思う。脱ぎ着する事は出来るが、今まで纏っていた服とは全くの別物だ。
「っていうか、なんでナワーブそっち向いてるの?」
こちらに背中を向けて、落ち着かない様子で尻尾もぱたぱたしているナワーブにトレイシーは首を傾げる。どうしてずっと明後日の方向を向いているんだろう?
服を着込んだトレイシーが声を掛けるまで、ナワーブは頑なにこちらを振り返ることはなかった。青い猫はげっそりとした顔で耳と尻尾も垂れ下がっている。
「………………許可なく、異性の裸を見るのは良くねえことなんだ、人間は」
「?そうなんだ。覚えとくね」
トレイシーが素直に頷くので、ナワーブはこっそり安堵の息を吐く。
さっきまで尻尾がないと泣いていたのでいろいろ抵抗があるのかと思っていたが、案外切り替えが早い。トレイシーは人間として生きることを受け入れているようだ。
おいおい、人と猫の常識の違いも教えて行く必要があるだろう。
ナワーブがそんなことを考えていると、「あ!」とトレイシーが手を叩く。何か、いいことを思いついたと言わんばかりの輝かしい笑顔でナワーブを見上げる。
「じゃあ、許可出すからナワーブの前じゃ服着なくてもいい?」
「駄目に決まってんだろ、阿呆」


「おや、まあ」
泉から出てきたターコイズブルーの猫に、伯爵は一瞬だけ目を見開いた。しかしその後ろから人間の少女が出てきたのに気付き、すぐにくつくつと笑い出した。
ジョゼフは眼鏡越しに目を細め、新しいチェシャ猫を頭の先から爪先までじっくり観察している。
「なんだその気が狂った色は」
「さっきも言われたな、それ。好きでなったんじゃねえんだよ」
「では、なにがどうしてそうなったのかを聞きたいところですね」
ナワーブは面倒そうにしながらも、トレイシーにしたのと同じ説明を二人に聞かせる。話が終わると伯爵は声をあげて笑い出す。
「はー、まさか私の話からそんなヒントを得るとは!」
「うまく行くかは賭けだったがな。こいつ出す事に成功したのはいいんだが、なんで俺はこんなド派手なピエロになってるのかが分かんねえんだが」
ナワーブは自身の三角耳を摘んで顔を顰める。実用性の怪しい軍服に、じゃらじゃらとついた勲章は華美すぎる。
猫姿のトレイシーから、地毛そのままの茶色の猫になるだろうとナワーブは踏んでいたのだ。それが、まったく関連のない青緑の猫にされてしまった。鏡は見ていないが、尻尾から察するに頭髪もえらいことになって居るのだろう。猫姿になったら全身ビビッドカラー決定だ。
不満そうなナワーブに、それまで黙っていたトレイシーが言いにくそうに口を開く。
「ナワーブ、『女王様』お気に入りの青薔薇気に入らないとか悪趣味だとか言ってたから、多分それが原因。『女王様』は薔薇に物凄い拘りがあるんだ」
「ははあ。それで自然界にいない色の猫にされたと。面白いですねえ」
「俺は不愉快なんだが」
「可愛い意趣返しだろう。大方、その王子だか騎士だかのド派手な格好も悪役にされた『女王様』の皮肉だろうな」
ジョゼフは初めてナワーブに笑った顔を見せたが、それは嘲が大いに込められていた。『女王様』共々、この男もやっぱりナワーブが気に入らないらしい。
何かしただろうかとナワーブが思い悩んでいると、肩にかけたペリースを引かれる。今、この場でそんなことをするのは一人だけだ。
ナワーブが振り返ると、トレイシーが不安げな顔をしている。
「どうした」
「……私、人間になったでしょ」
「そうだな」
「もう姿も消せないし、瞬間移動もできないし、なんの力もない。ナワーブが好きな猫にもなれないでしょう」
話しながら、段々と目が潤み始めるトレイシーにナワーブは首を傾げる。
そんな事は、勝手に能力も役割も奪ってしまったナワーブが一番わかっている。一体こいつは何が言いたいのだろうか。
よくわからないが、言いたいことは全て吐き出させようとナワーブが黙っていると、トレイシーの瞳から涙が溢れた。
「力持ちでもないし、走るのもできないし、木にも登れない。だから私、本当に役立たずになっちゃったんだって気付いて。ナワーブ、私やっぱりあのまま」
「俺は犬派だ」
「へ?」
こちらの言葉を遮り、突然関係ない事を口にし出したナワーブにトレイシーは変な声が出る。そんなトレイシーを見下ろし、ナワーブは感情が読めない顔でゆっくりと瞬きをする。
「お前が最初に聞いたんだろ、犬派か猫派か。あん時ははぐらかしたが俺は犬の方が好きだ。だからお前が猫だろうが人間だろうがどうでもいい」
「え、でもだって、猫の時嬉しそうだったよ?」
戸惑いながらトレイシーがそう言えば、ナワーブは小馬鹿にしたように鼻を鳴らす。
「お前だから可愛がってたに決まってんだろ。他の猫に興味はねえ。それと、お前忘れてるようだが俺がこんなイカれたカラーリング猫になったのは誰のせいだ」
「う……わ、私がナワーブの帰り道を壊したせい、です」
「よし」
ナワーブはトレイシーが猫だった時と同じように、頭を撫でる。トレイシーはナワーブと近くなった顔に、不自然じゃない程度の角度で目を逸らす。
チェシャ猫になった影響で、ナワーブは目の形と口の大きさに少しだけ変化が起きている。それが慣れないトレイシーにはちょっとだけ怖いのだ。
しかしナワーブはトレイシーの顔を両手で正面に固定する。
「俺は猫初心者ってわけだ」
「そう、だね」
「猫が水嫌いなのも俺は知らなかった。猫の生態が分からないのに、野良として生きるのは可哀想だろ」
「う、うん」
「だったら、よく知ってる奴が俺の世話をするのがいいと思うんだが」
「うん……?」
「丁度、俺に責任を取る必要があって、何もできないとピーピー泣いてる暇そうな人間がここに居るなぁ?」
「んん?」
にやりと笑った顔が、非常に猫の凄味が増して怖い。
猫って可愛いものだと自覚して来たトレイシーだったが、例外があるのかもと青いチェシャ猫の顔を見て背筋に冷や汗が垂れる。そのまま舌なめずりされたら泣いてしまう自信がある。
及び腰のトレイシーとは裏腹に、ジョゼフは感心した顔で顎を撫でている。
「悪くない。チェシャ猫の飼い主、即席にしてはいい役割じゃないか?何もできない君でも元猫ならば世話の仕方も心得ているだろう。異界に飛ばされる心配も無い。許可は私が取ってやろう」
珍しくナワーブに同意したジョゼフが、部屋を出ていく。許可を誰に取るのかは分からないが、協力してくれるならばありがたい限りだとナワーブは思う。
「それでは住居が必要ですね。当面、我が屋敷の一室を貸し出しますよ。お代は青猫君のブラッシングでどうでしょう」
「構わねえ」
「では交渉成立で」
少し興奮気味で乗り気になっている伯爵は、準備を整えると言って足早に立ち去った。
あれよあれよと言う間に自分の身の振り方が決まっていく。トレイシーが呆気に取られてポカンとしていると、ナワーブがごろごろと喉を鳴らしながら、鼻先に自身の鼻を押し付ける。
「!な、なに⁈」
「お前もやってただろうが。なんだっけか?鼻ちゅーだったか」
トレイシーが両手で鼻を覆うと、ナワーブがぐり、と首を直角に傾げる。人間の時にはなかった仕草だ。
「なんかお前を見てるとやたら頭突きしたくなるんだが、それよりはましかなと。これは挨拶だってお前も言ってただろ」
「…………そうだけど」
頭突きも鼻ちゅーも猫には愛情表現だ。それをナワーブが自分にしたいというのはとても嬉しい。嬉しいのだがそれにしてもナワーブは猫の性に引きずられ過ぎでは無いだろうか。
そしてトレイシーも、今まで感じていなかった「触れられて恥ずかしい」という感情に少し戸惑っている。これが、人間になったということなのだろうか。
ナワーブを見上げると相変わらずゴロゴロと喉を鳴らし、尻尾をゆったりと揺らめかせている。
何故ナワーブへの想いに気付いている連中があんなに多かったのかと疑問だったのだが、これでは丸わかりだ。トレイシーは頬が熱くなるのを咳払いで誤魔化す。
「ナワーブ、私に飼われたいの」
「おう」
「うーん、どうしようかなあ」
「飼え」
「わわっ」
冗談めかして悩んでみせると、ナワーブはトレイシーにのしかかり、胴に腕を回すとそのまま締め上げ始めた。
抱き締めるのではなく、文字通りに締め上げている。
「飼え」
「ちょ、苦しい苦しい!分かった!わかったからー!飼う!飼い主になる!」
「よし」
骨が軋み出した頃にトレイシーが慌てて承諾すると、ナワーブは腕の力を緩めた。
元々、ナワーブが物理で物事を解決しようとするところがあるのは気付いていたけれど、締め殺そうとしてくるとは思っていなかった。
腕の中でぐったりとしているトレイシーに、ナワーブはご機嫌に頬擦りをしている。
「もー絶対私の世話いらないでしょ、この猛獣」
「あん?そんなこと言う奴にはこれ返してやらねえぞ」
そう言ってナワーブが取り出したのは、あのピンクの薔薇だった。牢獄でなくしてしまったと思っていたトレイシーの宝物だ。
ナワーブは薔薇を差し出して、にやりと笑いながら騎士のようなお辞儀をする。
「末長くよろしく、飼い主サマ」
トレイシーは笑って薔薇を受け取った。そして気取った口調でナワーブの真似をする。
「ええ、末長くよろしく、チェシャ猫さん」
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