ちぇしゃネコ症候群(ナワトレ)
「ああ、嫌な予感程よく当たる……」
どれくらいそうしていたか。声のした方にナワーブが顔を向けると、イチハツが部屋の入り口に佇んでいる。眼鏡越しでも彼の機嫌が悪い事は窺い知れた。
「あんた、どうしてここに」
イチハツは白い髪を靡かせ、ナワーブの横を擦り抜けて泉へと向かう。泉の中を彼が覗き込むと、水中から金の枠だけが浮上する。鏡の部位は完全に消え去り、元の姿を知らなければ空の額縁にしか見えなかっただろう。
「これは、どうにも出来ないな」
イチハツはそう呟きながら、ナワーブを振り返る。そして目を見開かせた。
「証印が一つしかないようだが、君はどうやってここまで来たんだ?」
「……もう一つはあいつが、トレイシーが持っていた」
ナワーブが答えると、イチハツは苛立たしげに髪を掻き上げる。
「引き止めるなという忠告は無駄になったわけか。それにしても余計なことをしてくれたものだ」
「そう言わないで貰えますか。これでも責任は感じているんです」
「!」
頭上から降ってくる声に、ナワーブが後ろを振り仰げば伯爵がそこに立っていた。いつからいたのだろう。まったく気配を感じなかった。
伯爵は驚いているナワーブを見下ろし、肩をすくめる。
「貴方、どうにも鈍そうだったので、少しくらい二人でいる時間を伸ばしたところで結ばれることはないだろうと思っていたのですが……いやはや」
「それで猫又もどきに証印を渡したと。城に入れなければこんなことにはならなかっただろうに」
イチハツは悪びれない伯爵に舌打ちをする。そうして眼鏡のブリッジを抑え呻いた。
ナワーブはイチハツの言動から、自分が嫌われていることは察していたが、今はそれでも聞かねばならない事がある。
「イチハツ。永久牢獄ってのは、どこにあるんだ?」
「それは私にも分からない。罪人しか辿り着けない場所だからな」
「そうか……」
イチハツの言葉にナワーブは眉間に皺を寄せる。
場所さえわかればトレイシーを脱獄させられるか試す気だったが、それも不可能そうだ。罪人しか辿り着かないということは、どうやら物理的にこの城の内部に牢獄があるわけではなさそうだ。
それならば、別の方法で牢獄に忍び込むことは出来ないだろうか。
ナワーブは水面に浮かぶ金枠を見つめる。鏡はないが、あれも大事なものであることは感じ取れる。あの枠を破壊すれば罪人になるのではないだろうか?
「やめておけ」
ナワーブの不穏な視線に気付いたイチハツが止めに入る。
「あれは願いを一つだけ叶える鏡だった。だがもう意味をなさない。あの枠に価値はない。だが、思い入れがあるものはいる。それを破壊するつもりか?どうにも血の気が多い男だな。血生臭いのは一人で充分だ」
「それはもしや、私のことでしょうか」
「自覚があるなら何よりだ。人間、そんな事をしなくてもあの娘がどうしてるか確認することは出来る」
「!本当か⁈」
「泉を見るといい。写してやろう」
イチハツに言われた通り、ナワーブは泉の縁から水面を覗き込む。水面が何もないのに揺れて、波紋が広がっていく。そしてゆらゆらと何処か別の場所を写し出した。
そこは延々と広がる暗闇。黒が占める空間に、一つだけポツンと浮かぶ鳥籠がある。闇の中でそれ自体が光を発する鳥籠だ。嫌でも目を引く。
またもや水面に波紋が広がり、今度は鳥籠の中に視点が切り替わる。籠の中には赤い大きな椅子があるだけで、他には何も無かった。その上で蹲る、白い簡素な服の人物は項垂れていてぴくりとも動かない。頭上にある金の耳と肘掛けから垂れた二本の尻尾で、それがトレイシーであることは判別できた。
「猫じゃ、ない?」
伯爵が驚いた様に小さく呟く。しかしナワーブはそれより、微かに動いたトレイシーの手元に目を奪われた。彼女は項垂れていたのではなく、手の中にあるピンクの薔薇を一心に見つめているのだ。
すぐに波紋が広がり、ただの泉に戻る。何もなくなった水面から、ナワーブは目を離せないでいた。
「あれが、永久牢獄なのか?あんなところに死ぬまで」
「死なないのです」
ナワーブの言葉を遮り、伯爵が訂正する。仮面を抑え首を振る伯爵を、ナワーブは絶望的な思いで見上げる。
「ここでは我々の知る死は存在しない。消滅することも自身で死に似た最期を選ぶこともありますが、収監されたものは永久にあそこにいることになります」
「そんな、ことが」
ナワーブは愕然とし、水面を見つめることしか出来ない。
「牢獄では全ての能力を封じられます。当然、変化も出来ない筈です。……まさか、種を捨てるほど本気だったとは。子猫の初恋と甘く見てはいけなかった」
「恋愛は幼く障害がある程、燃え上がり灰になるものだとシェイクスピアも喜劇にしているだろう」
「確かにロミオとジュリエットは大変滑稽な名作ですが」
伯爵がそう言いながら空中でなにかを手招く。すると水面に浮かんでいた鏡の金枠が泉の縁へと近づいてくる。伯爵は枠の内側を指先でなぞり、難しい顔で顎を撫でている。
「完全に割られていますね。何も残っていない」
「減刑は難しそうか……」
イチハツの発言に、ナワーブは顔を上げる。今、減刑と言ったのだろうか。
「減刑されたら、どうなる。他の罰則に代わるのか?」
「ナイチンゲールも言っていただろう。『退屈』が一番の罰であると。だから牢獄にいることに変わりない。だが、永久ではなくなる筈だ」
「百年に短縮、と言ったところでしょうか」
「百年……」
まだ若いナワーブにとっては、百年は途方もなく長い年数に思えた。それでも、永久と比べたら遥かにましではないだろうか。
何もない空間で、孤独に蹲るトレイシーを思い出して、苦しくなる。あそこから一秒でも早く出してやりたい。
伯爵は腕を組んでじっと枠を睨み据える。
「鏡の破片でも残っていれば、無理矢理にでも道を開いて貴方を放り込むんですが……」
「それが減刑対象になるのか?」
「トレイシーの罪は貴方の道を永久に閉ざしたことです。閉ざした事実は変わりませんが、貴方が向こうの世界に戻れば永久の罰は軽くなります」
「駄目だ、欠片が全く残っていない」
泉の内部を調べていたイチハツが首を振る。鏡の欠片を探していた様だ。
ナワーブはその欠片が全て、目の前で溶けてしまった事を思い出す。
「割っただけでこんな事になるだろうか?」
「トレイシーが俺に行くなと叫んで、鏡が破れたんだ。あんたがさっき言ってた願いに関係あるか?」
ナワーブがそう尋ねると、イチハツがふらりと揺らいだ。目頭を抑えているところを見るに、眩暈でも起こしたのだろう。そうして柱に手をつくと、額を覆って動かなくなった。
「………………」
「大丈夫か?」
「ジョゼフさん、お年なんですからあまり無茶は」
「こう言う時だけ人を老人扱いするな。あの小娘、選りに選って自分の減刑方法まで消したのか……!」
ナワーブはイチハツ――ジョゼフが何故頭を抱えているのかが分からず、伯爵を見上げる。こちらはと言えば、妙に感心した顔で仮面の顎を撫で摩っている。
「トレイシー、なんとも情熱的な。幼くても女は女ですね」
「一人で納得するな、どういうことだ?」
「鏡は当人がその時に強く思っていることを叶えます。貴方が鏡で向こうへの道を開いたのはその時に帰りたいと思っていたからです。今ならばあの牢獄へと道が繋がるでしょう。『行かないで』と彼女は言った。それはきっと呼び止めただけのことだったのかもしれません。しかし鏡は正確な願いを聞き届けた。鏡の破片が僅かも残っていないのは、貴方が帰ることを望まない彼女の願いが反映されているからです。一欠片も残さず、完全に道を封じる。それが実行されてしまっているんです」
「………………他に減刑になる手段ってねえのか」
「無い、でしょうね」
ナワーブは「そうか」と答えながら、フードを深く被った。そんな場合ではないのに、顔に熱が集まる。胸も熱い。青薔薇に連れ去られる前に、「大好き」と告げた声を今更ながらに思い出し、ますます顔が熱くなる。
――言い逃げしやがって、あいつめ。
堪らなく愛おしいと思う。だから、何があってもあそこから出してやりたい。あんな暗く寂しい牢獄で蹲っているのはあいつには似合わない。草っぱらで駆け回っているのがお似合いだ。
「……人間、その光っているものはなんだ?」
「あ?」
「腰に、いや服に何か入れているのか?光っているだろう」
ナワーブには分からないのだが、ジョゼフには何かが見えているらしい。ジョゼフに指摘された箇所、服のポケットに手を入れると仄かに暖かい。
そういえばいろいろな事があって忘れていたが、ナワーブはそこに「いいことがあるから大事にしろ」と言われ、しまっていたものがあったのだ。
軽く、細長いそれをナワーブが掴んで取り出すと、伯爵が身を退け反らせた。如何にも落ち着いていて人を食ったような態度を崩さなかった伯爵の、らしくない反応だった。
ナワーブはアオサギから貰った不死鳥の尾羽をジョゼフに見えるように掲げる。確かに、尾羽は青く光を放っていた。
「な、何故それを貴方が⁈」
「死にかけてたのを助けた礼だとかなんとか。まあその原因もトレイシーの泣きべそ池のせいなんだが」
「君の周りの事象は全てが猫又娘のせいだな……しかし、それがあるなら話は早い。使い方は聞いているか?」
「いいや。あんたが鏡の説明を端折ったように、ここの連中は取り扱い説明はしねえからな」
くるりくるりと羽根を回しながら、ナワーブは片眉を跳ね上げた。
ジョゼフは証印を渡した伯爵を責めていたが、トレイシーがいなければ鏡の使い方も分からなかったのだ。それもこれも、肘当ての在処も城の詳細も肝心な内容を一切話していなかったこの男のせいでもある。
「それで、これがなんなんだ?」
「不死鳥の尾羽も鏡と同様に願いを叶えられる力があるんですよ。ですから百年に一度しか現れないのです」
「そんなすごいものだったのか……」
ナワーブはぎょっとして羽根を両手で持ち直す。イライ達の言い方ではお守り程度の軽さだったが、それはとんでもないお宝ではないだろうか。
ナワーブはそこでふと気付く。願いが叶うならば、トレイシーを今すぐ牢獄から出してやる事も可能なのでは無いだろうか。
しかし、浮き立つナワーブにジョゼフは曇った表情を浮かべた。
「残念だが、その羽根にもあの鏡にも、『女王様』の権限を越えることは出来ない。陛下の決定を覆す願いは叶えられない」
「出来ることは精々、貴方が向こうの世界に帰る道になることだけでしょう。そうすればトレイシーも減刑される」
「……そうすれば、俺はあいつを忘れるんだろう?」
「その通りだ。けれど、確実に猫又もどきは減刑される。永久の罰からは逃れられる」
ナワーブは左腕の、トレイシーの歯形がついた肘当てを撫でる。
残りたいと、あいつといたいと願ったのに、本当の願いは一つも叶わない。トレイシーを救うためには、ナワーブはここを去るしかない。
永久の牢獄か、永久の忘却か。どうあってもトレイシーとは一緒にはいられないのか。
「どちらにしろ、自分で扉を閉じていない君ではこの世界に居場所はない。役割がないからな、穴から簡単に他の世界に飛ばされてしまうリスクがある」
「役割……?伯爵とか、あんたのイチハツって名前の事か?」
ナワーブが問えば、ジョゼフが頷く。
「私は自分で扉を閉じた時にこの役割を与えられた。ここで生まれたものは生まれた時から所持しているはずだ」
「ああ、私は少し違いますよ。私は元々二重人格だったのですが、意識だけ主人格にここに捨てられてしまいまして。仕方がないので鏡に頼んで死に損ないのこの吸血鬼の体に入れていただきました」
「それは奪ったというんだ。まあ、死にたがっていたから向こうも本望だろうが。とにかく、『女王様』は君を世界に受け入れていない。どちらにしろここに止まる事はできないだろう」
「……分かった。これはあいつの為に、向こうに戻るために使おう。それでいいか?」
「ああ」
ナワーブは青い羽根を握り、ぐっと唇を噛み締めた。
神様なんてものはいつでも意地が悪い。それはどこの世界に行っても変わらないらしい。一つ為になったが、どうせ忘れてしまうなら意味はないなと自嘲する。
ナワーブは部屋の天井を見上げる。どこにいるかは分からないが、『女王様』とやらがこのやりとりを見ているような気がする。だからそこに語りかける。
「あいつと、トレイシーと話したい。最後になるんだろ。俺はあんたの監督不行き届きでここに落とされたんだ。一つくらい頼みを聞いてくれても罰は当たらねえんじゃねえのか」
太々しい態度で腕を組み、ナワーブは七色の天井を睨む。
するとごぼりと泉から音が鳴る。鏡や蔓薔薇が出た時と同じ音だ。泉に近づくと、ごぼごぼと湧き立つ水の下に降る階段が出現していた。階段の先は水中の為に暗く、何処へ繋がっているのかも分からない。
水面を見つめているナワーブに、伯爵は不思議そうな顔になる。
「何か、見えるのですか?」
「階段が……水の下に」
「階段?私には見えないな」
ジョゼフも訝しげな顔で水面を覗き込んでいる。伯爵も似たような反応をしているので、この階段はナワーブにしか見えていないのだろう。
――頼みを聞いてくれたってことでいいんだろうか?
ナワーブは一瞬考えたが、違ったら違ったで構わないと思い直し、泉に入った。そうして階段を降り、水中に足を進めていく。とぷんと水面下に頭が入ったが、泉の外の音が遮断されただけで呼吸はすることができた。
暗闇へと繋がる階段を、ナワーブは足を緩める事なく降っていく。
どれくらいそうしていたか。声のした方にナワーブが顔を向けると、イチハツが部屋の入り口に佇んでいる。眼鏡越しでも彼の機嫌が悪い事は窺い知れた。
「あんた、どうしてここに」
イチハツは白い髪を靡かせ、ナワーブの横を擦り抜けて泉へと向かう。泉の中を彼が覗き込むと、水中から金の枠だけが浮上する。鏡の部位は完全に消え去り、元の姿を知らなければ空の額縁にしか見えなかっただろう。
「これは、どうにも出来ないな」
イチハツはそう呟きながら、ナワーブを振り返る。そして目を見開かせた。
「証印が一つしかないようだが、君はどうやってここまで来たんだ?」
「……もう一つはあいつが、トレイシーが持っていた」
ナワーブが答えると、イチハツは苛立たしげに髪を掻き上げる。
「引き止めるなという忠告は無駄になったわけか。それにしても余計なことをしてくれたものだ」
「そう言わないで貰えますか。これでも責任は感じているんです」
「!」
頭上から降ってくる声に、ナワーブが後ろを振り仰げば伯爵がそこに立っていた。いつからいたのだろう。まったく気配を感じなかった。
伯爵は驚いているナワーブを見下ろし、肩をすくめる。
「貴方、どうにも鈍そうだったので、少しくらい二人でいる時間を伸ばしたところで結ばれることはないだろうと思っていたのですが……いやはや」
「それで猫又もどきに証印を渡したと。城に入れなければこんなことにはならなかっただろうに」
イチハツは悪びれない伯爵に舌打ちをする。そうして眼鏡のブリッジを抑え呻いた。
ナワーブはイチハツの言動から、自分が嫌われていることは察していたが、今はそれでも聞かねばならない事がある。
「イチハツ。永久牢獄ってのは、どこにあるんだ?」
「それは私にも分からない。罪人しか辿り着けない場所だからな」
「そうか……」
イチハツの言葉にナワーブは眉間に皺を寄せる。
場所さえわかればトレイシーを脱獄させられるか試す気だったが、それも不可能そうだ。罪人しか辿り着かないということは、どうやら物理的にこの城の内部に牢獄があるわけではなさそうだ。
それならば、別の方法で牢獄に忍び込むことは出来ないだろうか。
ナワーブは水面に浮かぶ金枠を見つめる。鏡はないが、あれも大事なものであることは感じ取れる。あの枠を破壊すれば罪人になるのではないだろうか?
「やめておけ」
ナワーブの不穏な視線に気付いたイチハツが止めに入る。
「あれは願いを一つだけ叶える鏡だった。だがもう意味をなさない。あの枠に価値はない。だが、思い入れがあるものはいる。それを破壊するつもりか?どうにも血の気が多い男だな。血生臭いのは一人で充分だ」
「それはもしや、私のことでしょうか」
「自覚があるなら何よりだ。人間、そんな事をしなくてもあの娘がどうしてるか確認することは出来る」
「!本当か⁈」
「泉を見るといい。写してやろう」
イチハツに言われた通り、ナワーブは泉の縁から水面を覗き込む。水面が何もないのに揺れて、波紋が広がっていく。そしてゆらゆらと何処か別の場所を写し出した。
そこは延々と広がる暗闇。黒が占める空間に、一つだけポツンと浮かぶ鳥籠がある。闇の中でそれ自体が光を発する鳥籠だ。嫌でも目を引く。
またもや水面に波紋が広がり、今度は鳥籠の中に視点が切り替わる。籠の中には赤い大きな椅子があるだけで、他には何も無かった。その上で蹲る、白い簡素な服の人物は項垂れていてぴくりとも動かない。頭上にある金の耳と肘掛けから垂れた二本の尻尾で、それがトレイシーであることは判別できた。
「猫じゃ、ない?」
伯爵が驚いた様に小さく呟く。しかしナワーブはそれより、微かに動いたトレイシーの手元に目を奪われた。彼女は項垂れていたのではなく、手の中にあるピンクの薔薇を一心に見つめているのだ。
すぐに波紋が広がり、ただの泉に戻る。何もなくなった水面から、ナワーブは目を離せないでいた。
「あれが、永久牢獄なのか?あんなところに死ぬまで」
「死なないのです」
ナワーブの言葉を遮り、伯爵が訂正する。仮面を抑え首を振る伯爵を、ナワーブは絶望的な思いで見上げる。
「ここでは我々の知る死は存在しない。消滅することも自身で死に似た最期を選ぶこともありますが、収監されたものは永久にあそこにいることになります」
「そんな、ことが」
ナワーブは愕然とし、水面を見つめることしか出来ない。
「牢獄では全ての能力を封じられます。当然、変化も出来ない筈です。……まさか、種を捨てるほど本気だったとは。子猫の初恋と甘く見てはいけなかった」
「恋愛は幼く障害がある程、燃え上がり灰になるものだとシェイクスピアも喜劇にしているだろう」
「確かにロミオとジュリエットは大変滑稽な名作ですが」
伯爵がそう言いながら空中でなにかを手招く。すると水面に浮かんでいた鏡の金枠が泉の縁へと近づいてくる。伯爵は枠の内側を指先でなぞり、難しい顔で顎を撫でている。
「完全に割られていますね。何も残っていない」
「減刑は難しそうか……」
イチハツの発言に、ナワーブは顔を上げる。今、減刑と言ったのだろうか。
「減刑されたら、どうなる。他の罰則に代わるのか?」
「ナイチンゲールも言っていただろう。『退屈』が一番の罰であると。だから牢獄にいることに変わりない。だが、永久ではなくなる筈だ」
「百年に短縮、と言ったところでしょうか」
「百年……」
まだ若いナワーブにとっては、百年は途方もなく長い年数に思えた。それでも、永久と比べたら遥かにましではないだろうか。
何もない空間で、孤独に蹲るトレイシーを思い出して、苦しくなる。あそこから一秒でも早く出してやりたい。
伯爵は腕を組んでじっと枠を睨み据える。
「鏡の破片でも残っていれば、無理矢理にでも道を開いて貴方を放り込むんですが……」
「それが減刑対象になるのか?」
「トレイシーの罪は貴方の道を永久に閉ざしたことです。閉ざした事実は変わりませんが、貴方が向こうの世界に戻れば永久の罰は軽くなります」
「駄目だ、欠片が全く残っていない」
泉の内部を調べていたイチハツが首を振る。鏡の欠片を探していた様だ。
ナワーブはその欠片が全て、目の前で溶けてしまった事を思い出す。
「割っただけでこんな事になるだろうか?」
「トレイシーが俺に行くなと叫んで、鏡が破れたんだ。あんたがさっき言ってた願いに関係あるか?」
ナワーブがそう尋ねると、イチハツがふらりと揺らいだ。目頭を抑えているところを見るに、眩暈でも起こしたのだろう。そうして柱に手をつくと、額を覆って動かなくなった。
「………………」
「大丈夫か?」
「ジョゼフさん、お年なんですからあまり無茶は」
「こう言う時だけ人を老人扱いするな。あの小娘、選りに選って自分の減刑方法まで消したのか……!」
ナワーブはイチハツ――ジョゼフが何故頭を抱えているのかが分からず、伯爵を見上げる。こちらはと言えば、妙に感心した顔で仮面の顎を撫で摩っている。
「トレイシー、なんとも情熱的な。幼くても女は女ですね」
「一人で納得するな、どういうことだ?」
「鏡は当人がその時に強く思っていることを叶えます。貴方が鏡で向こうへの道を開いたのはその時に帰りたいと思っていたからです。今ならばあの牢獄へと道が繋がるでしょう。『行かないで』と彼女は言った。それはきっと呼び止めただけのことだったのかもしれません。しかし鏡は正確な願いを聞き届けた。鏡の破片が僅かも残っていないのは、貴方が帰ることを望まない彼女の願いが反映されているからです。一欠片も残さず、完全に道を封じる。それが実行されてしまっているんです」
「………………他に減刑になる手段ってねえのか」
「無い、でしょうね」
ナワーブは「そうか」と答えながら、フードを深く被った。そんな場合ではないのに、顔に熱が集まる。胸も熱い。青薔薇に連れ去られる前に、「大好き」と告げた声を今更ながらに思い出し、ますます顔が熱くなる。
――言い逃げしやがって、あいつめ。
堪らなく愛おしいと思う。だから、何があってもあそこから出してやりたい。あんな暗く寂しい牢獄で蹲っているのはあいつには似合わない。草っぱらで駆け回っているのがお似合いだ。
「……人間、その光っているものはなんだ?」
「あ?」
「腰に、いや服に何か入れているのか?光っているだろう」
ナワーブには分からないのだが、ジョゼフには何かが見えているらしい。ジョゼフに指摘された箇所、服のポケットに手を入れると仄かに暖かい。
そういえばいろいろな事があって忘れていたが、ナワーブはそこに「いいことがあるから大事にしろ」と言われ、しまっていたものがあったのだ。
軽く、細長いそれをナワーブが掴んで取り出すと、伯爵が身を退け反らせた。如何にも落ち着いていて人を食ったような態度を崩さなかった伯爵の、らしくない反応だった。
ナワーブはアオサギから貰った不死鳥の尾羽をジョゼフに見えるように掲げる。確かに、尾羽は青く光を放っていた。
「な、何故それを貴方が⁈」
「死にかけてたのを助けた礼だとかなんとか。まあその原因もトレイシーの泣きべそ池のせいなんだが」
「君の周りの事象は全てが猫又娘のせいだな……しかし、それがあるなら話は早い。使い方は聞いているか?」
「いいや。あんたが鏡の説明を端折ったように、ここの連中は取り扱い説明はしねえからな」
くるりくるりと羽根を回しながら、ナワーブは片眉を跳ね上げた。
ジョゼフは証印を渡した伯爵を責めていたが、トレイシーがいなければ鏡の使い方も分からなかったのだ。それもこれも、肘当ての在処も城の詳細も肝心な内容を一切話していなかったこの男のせいでもある。
「それで、これがなんなんだ?」
「不死鳥の尾羽も鏡と同様に願いを叶えられる力があるんですよ。ですから百年に一度しか現れないのです」
「そんなすごいものだったのか……」
ナワーブはぎょっとして羽根を両手で持ち直す。イライ達の言い方ではお守り程度の軽さだったが、それはとんでもないお宝ではないだろうか。
ナワーブはそこでふと気付く。願いが叶うならば、トレイシーを今すぐ牢獄から出してやる事も可能なのでは無いだろうか。
しかし、浮き立つナワーブにジョゼフは曇った表情を浮かべた。
「残念だが、その羽根にもあの鏡にも、『女王様』の権限を越えることは出来ない。陛下の決定を覆す願いは叶えられない」
「出来ることは精々、貴方が向こうの世界に帰る道になることだけでしょう。そうすればトレイシーも減刑される」
「……そうすれば、俺はあいつを忘れるんだろう?」
「その通りだ。けれど、確実に猫又もどきは減刑される。永久の罰からは逃れられる」
ナワーブは左腕の、トレイシーの歯形がついた肘当てを撫でる。
残りたいと、あいつといたいと願ったのに、本当の願いは一つも叶わない。トレイシーを救うためには、ナワーブはここを去るしかない。
永久の牢獄か、永久の忘却か。どうあってもトレイシーとは一緒にはいられないのか。
「どちらにしろ、自分で扉を閉じていない君ではこの世界に居場所はない。役割がないからな、穴から簡単に他の世界に飛ばされてしまうリスクがある」
「役割……?伯爵とか、あんたのイチハツって名前の事か?」
ナワーブが問えば、ジョゼフが頷く。
「私は自分で扉を閉じた時にこの役割を与えられた。ここで生まれたものは生まれた時から所持しているはずだ」
「ああ、私は少し違いますよ。私は元々二重人格だったのですが、意識だけ主人格にここに捨てられてしまいまして。仕方がないので鏡に頼んで死に損ないのこの吸血鬼の体に入れていただきました」
「それは奪ったというんだ。まあ、死にたがっていたから向こうも本望だろうが。とにかく、『女王様』は君を世界に受け入れていない。どちらにしろここに止まる事はできないだろう」
「……分かった。これはあいつの為に、向こうに戻るために使おう。それでいいか?」
「ああ」
ナワーブは青い羽根を握り、ぐっと唇を噛み締めた。
神様なんてものはいつでも意地が悪い。それはどこの世界に行っても変わらないらしい。一つ為になったが、どうせ忘れてしまうなら意味はないなと自嘲する。
ナワーブは部屋の天井を見上げる。どこにいるかは分からないが、『女王様』とやらがこのやりとりを見ているような気がする。だからそこに語りかける。
「あいつと、トレイシーと話したい。最後になるんだろ。俺はあんたの監督不行き届きでここに落とされたんだ。一つくらい頼みを聞いてくれても罰は当たらねえんじゃねえのか」
太々しい態度で腕を組み、ナワーブは七色の天井を睨む。
するとごぼりと泉から音が鳴る。鏡や蔓薔薇が出た時と同じ音だ。泉に近づくと、ごぼごぼと湧き立つ水の下に降る階段が出現していた。階段の先は水中の為に暗く、何処へ繋がっているのかも分からない。
水面を見つめているナワーブに、伯爵は不思議そうな顔になる。
「何か、見えるのですか?」
「階段が……水の下に」
「階段?私には見えないな」
ジョゼフも訝しげな顔で水面を覗き込んでいる。伯爵も似たような反応をしているので、この階段はナワーブにしか見えていないのだろう。
――頼みを聞いてくれたってことでいいんだろうか?
ナワーブは一瞬考えたが、違ったら違ったで構わないと思い直し、泉に入った。そうして階段を降り、水中に足を進めていく。とぷんと水面下に頭が入ったが、泉の外の音が遮断されただけで呼吸はすることができた。
暗闇へと繋がる階段を、ナワーブは足を緩める事なく降っていく。