ちぇしゃネコ症候群(ナワトレ)

永遠に続くのではないかと思えた青薔薇の垣根にも、終わりが来た。蔓薔薇で造られた長いアーチトンネルを抜けると、目の前には川にも池にも見える巨大な噴水が現れた。中心部には人魚の様な女神と、その付き人達の彫像がある。
そしてその後ろにはずっと見えていた城が聳えている。おとぎ話に出てくるような美しい白い城ではなく、どちらかというと重く堅牢さを感じさせる城だ。どこか寂れた印象すらある。
あんなに周りは綺麗な薔薇に囲まれているのになとナワーブはそれが意外に感じられる。『女王様』よりも、偏屈な老王の住まいと言われた方が納得できそうだ。
玄関へと繋がる広い階段を上がると、重い金属の扉に辿り着いた。その扉は非常に大きいので、今のままではナワーブもトレイシーも扉を開けることは出来そうにない。
「ナワーブ、あのきのこある?」
「!今が使い所か」
ナワーブはイチハツの元で手に入れた白いきのこを取り出す。体を元の大きさに戻すためにと所持していたが、すっかりとその存在を忘れていた。
もう使うことは無いのできのこを半分に割いて、片方をトレイシーに渡すと残りを飲み込む。途端に軽い目眩が起き、目線が高くなるのをナワーブは感じた。
すっかりと元の大きさを取り戻したトレイシーとナワーブの目の前で、城内へ続く大きな扉が独りでに開いていく。誘う様に口を開いた城の内部へ、いよいよナワーブは足を踏み入れた。
玄関ホールには鎧や武器が飾られているだけで、人の気配はなかった。あまりに静かすぎて、ナワーブは首を傾げてしまう。城が広いから、何も音がしないのだろうか。
「お城の案内、必要?だったら誰か呼んで」
「いや、いい。なんとなくだが分かる」
イチハツは帰り道は「行けば自分で分かる」と言っていた。なんのことかとその時は思っていたが、その言葉は嘘ではなかったようだ。
懐かしい気配が標の様に城の奥へと伸びている。目には見えていないのに、誘われるように足が動く。玄関ホールを進み、扉を開ける。歓談用の間を横切り、大階段に足を乗せる。知らない城のはずなのに、進むほどに馴染み深さが自身の内側から湧き上がる。
それはこの城に覚えているものではなく、この先にあるものに対して浮かんでいる感情だ。呼ばれるがまま、誘われるがままにナワーブは足を進める。
慣れた足取りで進んでいくナワーブにトレイシーは声をかける。
「ナワーブ、こっちで本当に合ってるの……?」
「ああ、多分だが。こっちから呼ばれてる気がする」
ナワーブはトレイシーを振り向きもせず、そう返す。
城の前までは緊張した様子もあったのに、今のナワーブは城に昔から住んでいたかの様に自然に見える。急に遠い存在になってしまったようで、トレイシーの胸の内に不安が募る。
話しかければ答えてくれるし、その内容もおかしなものではないのに、ナワーブの態度はどこか素っ気なく、余所余所しく感じてトレイシーは悲しくなってしまう。
「っ、どうした?」
「え」
前を歩いていたナワーブが足を止め振り返る。どうかしたのかと問うつもりが、逆に尋ねられてしまった。
どうしたもなにもとナワーブの視線の先を追い、自身の手がナワーブの服をがっしり掴んでいる事にトレイシーは気付く。
「!」
慌てて両手を上げて服を離すが、ナワーブを引き留めた事実は消えない。帰る邪魔をしてはいけないとあれほどみんなに言われていたのに、何をしてるんだ自分は。
完全にこちらに体を向け、話を聞く態勢のナワーブにトレイシーはしどろもどろになる。
「あ、えっと……」
「うん?」
「……そ、その……」
服を掴んでしまった事への上手い言い訳が思いつかず、トレイシーは視線を泳がせることしかできない。
暫く待っても意味のない音を唸るだけのトレイシーに、ナワーブはふうと溜息を吐く。うだうだしてたから呆れられてしまったのかとトレイシーは項垂れる。
「ったくガキめ」
しょんぼりとした猫又の手に、ナワーブは自身の手を滑り込ませる。
つい、城の奥に誘われる気配に夢中になってしまったが、それだけで捨てられたような顔をする奴があるだろうか。置いていかれるとでも思ったのか。
ペタリと下がった耳と眉に、今にも泣きそうな顔をするトレイシーの額をナワーブは軽く弾く。
「痛っ!」
「お子様の迷子対策に手を繋いでやろう。だから泣くな」
「な、泣いてないし!」
額を抑えながらも、トレイシーの下がっていた金の耳がひょこりと持ち上がる。少しは元気が出たと思っていいのだろうか。
城に近づくにつれて、トレイシーはおかしな行動が増えていた。もっとここにいて欲しい、少しでも時間を引き伸ばしたい。そう思うから必要以上に足を止め、休憩を促す。
だけど道を塞いで、引き留めることはしない。口にもしない。ただただトレイシーは静かに寂しそうに項垂れる。
この猫又が辛くならないよう、最低限の接触だけで別れよう。そう、心を鬼にして決めていたナワーブだったが、駄目だった。
好いた相手のそんな姿が平気なのは、冷血漢くらいだろう。自分のせいで悲しませてしまうのは、違う。
「大体、迷っても私はチェシャ猫だからぴゅんって出られるし」
トレイシーはふんと胸を張って偉そうに目を細める。見下してるつもりなのだろうが、全くなっていない。
「お前、その能力頼りなところ多くねえか?その格好の時はいいが、せめて猫としての運動能力は鍛えろよ。木登りできないのは生存に関わるぞ」
「うっ……」
呻いた所を見ると、登れないのだろう。どうせそんなことだろうとは思っていたが。トレイシーの鈍臭さではねずみや鳥が捕まえられるとも思えない。
「お前、野生で生きていくのは無理そうだよな」
「さ、魚捕まえるのは得意だもん!」
「ほう?」
トレイシーの反論に、ナワーブは目を見開く。濡れるのが嫌いなくせに、どうやって捕まえるだろうか。機会があったら見たかったなと思う。

城の中は驚くほど静かで、進んでも進んでも生き物の気配を感じない。『女王様』に鉢合う可能性もナワーブは考えていたのだが、住人がいるのかも怪しいほど城内は生活感が無かった。
客間や聖堂、蔵書室に食堂、展示室に壮麗なホールに王の間。いくつもの部屋を通り抜け、豪華な装飾の階段を上がる。ナワーブだけが感じ取れる「帰り道」の標だけを頼りに、二人は城の中を突き進む。
最初は交わしていた会話も、徐々に減って行く。話すことがなくなったわけでも、疲労したわけでもない。ただ、自然にそうなっていた。
その空気は決して気まずいものではなく、沈黙が心地いい。少なくともナワーブはそう感じていた。繋いだ手を離さないトレイシーも、同じ気持ちなのかもしれない。
階段を上がり切ると、天井に圧迫感を覚える。見上げれば天井が平たい。下の階はドームになっていたり、弓形の曲面天井になっていたので急に天井が低くなった様に感じたのだろう。これは恐らく、ここが城の最上階だ。
「ここ、来るの初めてだ」
青い絨毯が敷かれた廊下を進みながら、トレイシーが呟いた。
窓がないせいか、天井が黒いせいか、灯りはあるのに陰陰としている。いくら標があろうとも、トレイシーがいなかったらナワーブも進むのを躊躇ったと思う。
「入ったらいけない所なのか?」
「そうじゃなくて、ナワーブみたいに帰る為の人しか入れないんじゃないかな?ここ、私の力使えないから」
「!それは、何かあったら危ないな。一旦戻って……」
「待って待って!」
ナワーブが引き返そうとするのを、トレイシーは慌てて引き留めた。
こんな長い廊下なのに、階段まで戻るつもりなのか。そんな事を気にしていたらいつまで経っても先に進めなくなってしまう。
「大袈裟だよ!」
「そうは言うがお前の運動神経だと不安しかねぇ」
「それはそうなんだけど、お城の中で危ない事なんて、そう起こらないから!」
「本当かぁ?」
疑わしげにしているナワーブにトレイシーは指を振る。
「考えても見てよ、『女王様』のお膝元でそんな事起きると思う?」
「…………まあ、そう言われれば、そうか」
この世界の住人は『女王様』と呼んでいるが、その存在は王というよりも神に等しい存在だということはナワーブも感じている。
他世界から来た自分は分からないが、トレイシーは『女王様』が自ら連れてきた存在なのだ。そのトレイシーが女王のテリトリーで害されるかどうかを気にするのは、余計な事だろう。
トレイシーはナワーブの腕を引き、廊下の先を指差す。薄らと見える廊下の果てには大きな扉が見えた。
「大丈夫だから、行こう」
「……そうだな」
あの扉の先に、ナワーブを呼んでいるものがある。帰るための何かがある筈だ。
そこが終着点なのは、トレイシーも分かっているのだろう。笑顔がどこかぎこちない。歩く速度が落ちたトレイシーに合わせて、ナワーブも歩幅を狭め速度を緩める。
それでも、進んでいる限りは目的地に着いてしまう。廊下の果て、黒い大扉を前に二人は無言で互いの顔を見つめる。
「それじゃあ、開けるぞ」
「うん」
大扉はナワーブが押すと、不快な音を立てながら開いていく。
扉の内部は白い壁とドーム型の天井で構成されており、廊下とは裏腹にとても明るい部屋になっていた。蔦を模した金の飾りが立派な柱が四方に並び、奥には祭壇と澄んだ水を湛えた半月の泉がある。窓は無いが、間近で見ると天井が七色に輝く硝子で出来ており、それが部屋全体を眩く輝かせているようだ。壁には白く燃える炎のランプが等間隔に並び、なんとも神秘的な空間を作り出していた。
ナワーブは部屋の中を見渡し、ふと覚えた既視感に首を傾げた。なんだっただろうかと考え、最初にこの世界に来たあの神殿に思い至る。
「なんか、お前と会った場所に似てるな」
「そういえば、そうかも」
ナワーブが部屋の中心に進むと、泉がごぼりと泡立ち、水面から大きな鏡が現れた。ナワーブの身の丈の倍はありそうな鏡は空中に高く浮かび上がると、ゆっくりと回転を始める。
ナワーブを呼んでいた懐かしい気配は、その鏡から感じ取れる。あれが元の世界に帰る為の『扉』なのだろう。
「あれが、帰り道?」
「ああ。そうだ」
「……そっか」
ナワーブの確信に満ちた声に、トレイシーは自身の胸元をぎゅっと掴む。もう、本当にお別れの時間になってしまったのだ。
そっと窺い見たナワーブは、空中の鏡を見つめている。あちらの世界に帰る事しか眼中にないのだろう。当然の事だ。
トレイシーは胸に募る寂しさを堪えて、まだナワーブと繋がったままの手に視線を落とす。
――この手が解かれたら、ちゃんとする。笑ってお別れをする。ちゃんと見送るとみんなと約束をしたから。
二人が泉の縁に到達すると、鏡が水面の高さにまで降りてきた。見たところ、大きい事と浮いている事以外は特になんの変哲もない鏡だ。
試してみたが泉の中は見えない壁に阻まれているので、入る事は出来なかった。これでは鏡に近づいて調べる事も出来ない。ナワーブは困った顔で顎を摩る。
「ここまで来たのはいいが、どうやって帰ればいいんだか」
「それは分からないんだ?」
「流石にな。そこまで親切ではないらしい」
なにかヒントの一つでも置いておいて欲しいところだが、泉の周りには手掛かりになりそうなものは何も無い。
ナワーブが回転を続ける鏡を睨んで、頭を掻きむしっていると、すぐ隣で「鏡、鏡」と呟く声がする。視線を向ければ、あの無色透明な表情でトレイシーが鏡を見つめている。
「………………アントニオ、そういうこと」
「なにか分かったのか?」
「…………」
黙ってトレイシーがナワーブを見上げる。表情が抜け落ちた顔は白さも相まって彫像の様だ。ナワーブはトレイシーのこの顔が好きではない。生きていない人形に見えて仕方ないのだ。
トレイシーは口を開き、はっきりとした口調で「鏡」と答える。
「ナワーブ、鏡を見て。帰ることだけ考えて、鏡の自分と目を合わせて」
「あ、ああ」
トレイシーのただならぬ様子に気圧され、ナワーブは言われた通りに鏡に顔を向け、回転を続けている鏡面の自分となんとか視線を合わせる。
――帰り道が知りたい。
そう思っていると、鏡の中の自分がこくりと頷いた。途端に鏡面が白く光り、回転が止まる。眩しさに閉じていた目をナワーブが開くと、鏡面には白い部屋ではなく、違う風景が写し出されていた。
鬱蒼と繁る木々、昼間でも暗い森。猫のトレイシーをそうと知らずに追いかけた、あの最初の場所だ。たった数時間前に見ただけの場所なのに、ナワーブは無性に懐かしく感じてしまう。
思わず一歩踏み出した足は、泉の中にぼちゃりと落ちる。先程まであった不可視の壁はいつの間にか消え失せている。泉の深さもナワーブの脹脛ふくらはぎ程度のものなので、鏡までは簡単に近づけそうだ。
ナワーブは泉の中に入ると、トレイシーを振り返る。
「通れる、みたいだな」
「うん。でも私はここまでみたい」
こん、とトレイシーが見えない壁を叩く。泉に入れるのはナワーブだけの様だ。
「どう?帰れそう?」
「ああ、鏡に向こうの森が写ってる。通り抜ければ戻れそうだ」
「そっか。良かった」
ふにゃりと笑うトレイシーに、ナワーブも小さく笑い返す。
泉の縁を挟んで、ナワーブとトレイシーは向かい合う。もう必要はないのに、手は繋いだままで。
「いろいろ世話になったな」
「どっちかというと迷惑かけただけだった気がするけど」
「それもそうか。でも、お前と過ごすのは悪くなかった」
「うん、私も楽しかった」
繋いだ手から力を抜いていく。名残惜しく離れていく体温を惜しむ。
「それじゃあ、ナワーブ」
「ああ」
「さよなら。お花、大事にするね」
いつも通りに。いつも通りに。
そう思ってはいたが、トレイシーの顔は本人が思っている程上手く笑顔を作れてはいなかった。
ぎこちなく口元は震えていたし、眉は歪んでいる。頑張って笑っているように見せかけていたがいくら取り繕っても、無駄だ。トレイシーは耳と尻尾に感情が出る。
ペタリと潰れた耳に、だらりと垂れ下がった尻尾。例えそんなものがなくても、赤くなった目元は誤魔化せない。笑おうとすればするほど、トレイシーの瞳は潤んでいく。
――ああ、駄目だ。
ナワーブは解けかけていた手に力を込める。トレイシーは不思議そうな顔で小首を傾げている。猫の時と同じ仕草に、ナワーブはぐっと唇を噛む。
もう二度と会うことはない。認識することはない。記憶にも残らない。それは分かっている。
――それでも駄目だ。この想いを隠したまま行くには、こいつの片思いで終わらせるには、愛おしすぎる。
ナワーブは泉の縁まで引き返し、華奢な体を引き寄せる。
「出来るなら、お前を連れて行きたいと思ってた」
「!」
「でも、駄目だ」
驚いた顔をするトレイシーの頬に触れて、首を振る。きっと「行きたい」と今の彼女なら答えるだろう。青臭いガキの時分なら、ナワーブも一時の感情に任せて連れて行ってしまった事だろう。
けれどナワーブは現実を知っている。甘い希望だけで成り立つような夢物語は存在しない。
トレイシーが向こうでどういう存在になってしまうかもわからない。記憶を互いに保持しているとも限らない。無責任に連れ帰って、何も残らなかったら?
トレイシーはあの世界で一匹では生きていけない。あの世界に切り裂かれるトレイシーは見たくない。自分のせいでそうなってしまうのが、ナワーブは何より恐ろしい。
「お前が苦しむところには連れて行けない。ここがお前にはお似合いだ」
「ナワ」
華奢な体を、両腕で抱き締める。これで本当に最後だ。トレイシーに言いたいこと、伝えたい事は山程あったがここを去り、忘れてしまう己にそれを口にする資格はない。
「……元気でな」
絞り出す様な声でそれだけ告げて、腕を解く。トレイシーの顔を見る事はせず、ナワーブは泉の奥、森を写した鏡に向かって足を進める。名前を呼ばれたが、振り返る事はしない。決意が鈍ってしまう。帰る気持ちが揺らいでしまうから。
泉の水のせいか、気持ちのせいか、足がとても重かった。


連れて行って。
そう言いかけた言葉は音になることは無かった。首を振るナワーブの表情は諦念に満ちていた。それが不可能な事は、トレイシーもよくわかっている。
「……元気でな」
ナワーブに抱きしめられている。その事実にトレイシーの体が震える。恐怖ではない、歓喜でだ。
猫の時に撫でられ抱かれ、触れられる事など慣れていたのに、腕の強さが感情が、全く違う。
だが、惜しむ間もなくトレイシーの体を抱き寄せた腕が離れていく。ナワーブは振り返らず、視線は絡まなかった。
「ナワーブ」
顔が見たかったのに。泉に入れないトレイシーは遠ざかる男の名を呼んだけれど、ナワーブの足が止まることはなかった。
「ナワーブ!」
今しかないのに。同じ想いを返してくれるナワーブはいなくなってしまう。だから、最後に一目顔を見たかっただけなのに。
足は一瞬止まるのに、ナワーブが振り返ることはなかった。
「…………なわーぶ」
声が震える。涙が溢れて視界が歪む。もう、あと少しで鏡にナワーブは到達する。あそこを潜れば、終わりだ。
せめて、向こうに戻る姿を最後まで見届けよう。トレイシーは涙を拭って鏡に目を向ける。
「……!」
――鏡面に、向こうの世界が写って見えているのはナワーブだけだ。トレイシーには変わらずただの鏡でしかなかった。
だからナワーブは、鏡が全て写していたのを知らなかった。
トレイシーが鏡越しに見たナワーブの顔は、苦しげに泣きそうに歪んでいた。自分と同じ。同じ気持ちでいてくれている。
それに気付いたトレイシーは居ても立っても居られなくなってしまう。見えない壁に手をついて、叫ぶ。
「行かないで、ナワーブ!」

――城にどうしても行くなら、鏡と目を合わせるな。絶対に――

アントニオに言われた約束を忘れて、トレイシーは鏡面の自分を真っ直ぐに見据えてしまう。
涙でぐしゃぐしゃだった視界の中で、こくりと頷く鏡の自分が見えた。
「え……?」
不思議なことが起きた。トレイシーは動いていないのに、鏡の中のトレイシーが勝手に動き出す。彼女はゆっくりとした動作で背を向けると、どこかへと歩いて行く。そうして戻ってきた時には壁にかけられていたものと同じランプを手にしていた。鏡のトレイシーは泉の縁に足をかけ、ランプを持った両手を大きく振りかぶる。
自分の影が何をしようとしているのか。それに気付いたトレイシーは叫び声を上げた。


「行かないで、ナワーブ!」
「っ……」
トレイシーの悲痛な声に、歩みが止まる。あの扉を潜るまではと耐えているのに、振り切ることができない。
鏡の金枠に手が届くところまで来ているのに、ナワーブには向こうに足を踏み出す気が起こらない。向こうを懐かしいと感じているのに、帰らなくてはと頭では思っているのに。
金枠を掴み、体を近づける。ここを通り抜ければいい。ただそれだけだ。そうすれば全てが夢になり、忘却の彼方に消える。
「…………よしっ」
覚悟を決めようと目を閉じる。そんなナワーブの脳裏に男の声が過る。

――あんた、こんな仕事は辞めるなら今のうちだぞ――

隻眼の同業者。思い出す度に苛立ちを覚えていた彼の言葉が、耳の奥で再生される。

――この仕事に向き過ぎなんだ、まだ若ぇだろうに――

――死ぬまでやめられなくなるぞ、俺のように――

――他の生き方を知らねえ。戦場にいないと生きている気がしねえ。武器が手放せねえ人間に、横たわって眠れねえ人間に平凡な生活は無理だ――

――武器を置いて寝れるうちに、選ぶんだな――

ナワーブは閉じていた目を開く。鏡の向こうの景色を見やり、目を細めた。
まったく、どこまでもお節介な先輩だ。人の記憶にまで出てくるのか。
鏡の向こうにあるのは懐かしい、慣れ親しんだ世界だ。ナワーブが生まれ育った場所で、今はいない家族との思い出もある。

だが・・それだけだ・・・・・

そう認識した途端、ナワーブを縛っていた「何か」が解けていくのを感じた。
なにがなんでも帰らなくては。そう思っていたはずなのに、いくら考えてもその理由が思い当たらないのだ。
待っている人間がいるわけでもない。
会いたい存在もいない。
家があるわけでもない。
やりたい事があるわけでもない。
傭兵を、続けたい訳でもない。
それなのに、あちらに帰る必要があるのだろうか・・・・・・・・・・・・・・・・
「………………」
ナワーブは、鏡の枠から手を離す。
もう帰る気は完全に失せていた。強迫観念のような帰りたいと言うあの思いはなんだったのだろう。ナワーブも首を傾げるしかなかった。
数歩下がり、鏡に写る森を眺める。すると。

「やめてええええええええええ!」

トレイシーの絶叫が響き渡る。それと同時に、大きな音を立てて鏡が砕け散った。ナワーブは飛び散る鏡の欠片から顔を庇おうと、腕を翳す。
「なんだ⁈」
目を見開くナワーブの前で、鏡の破片が溶ける様に消え、金色の枠も泉の中へと沈んでいく。
後には水中に立ち尽くすナワーブと、膝をついたトレイシーだけが残されていた。
――何が、起きたんだ?
呆然と辺りを見渡すが、ナワーブには何が何だかさっぱり分からなかった。
ただ、一つ確実なのは帰り道は失われてしまったということだ。惜しむこともないと思っていたはずなのに、どこかぽっかりとした喪失感が胸にある。
――案外、寂しいものなんだな。
ナワーブはそう思いながら、膝をついたまま動かないトレイシーの元へ向かう。何が起きたかより、今は様子がおかしいトレイシーの方が気掛かりだった。
泉から上がると、ナワーブは俯いたままのトレイシーの顔を覗き込む。
「おい、大丈夫か?」
「な、なわーぶ」
トレイシーの顔は真っ青になっていた。ナワーブの腕を掴んだ手も震えている。先程の叫び声といい、一体どうしたのだろう。
トレイシーははくはくと口を動かし、戦慄く声を絞り出す。
「わ、私、私、ナワーブの帰り道、壊しちゃった」
「……そうか」
「そ、そんなつもりじゃなくて、ただ、呼び止めたかっただけで……っ!ご、ごめんなさいっ……!」
「いい。気にするな」
安心させるように、トレイシーの頭を撫でる。どうせここに残ろうと思っていたところだ。なくなったところでナワーブは何も困りはしない。
しかし、ナワーブが言葉で行動で、どんなに宥めようとしてもトレイシーは青褪めたまま、ずっと震えている。
「困らせたかったわけじゃないの。本当に、見送るつもりだったの。それだけは信じて」
「分かった。分かったから。信じる」
「……良かった」
トレイシーが囁くように呟き、微かに笑う。やっと笑ったとナワーブが安堵した背後で、ごぼりと泉が音を立てた。
鏡が出てきた時と同じ音だったが、今度はぞくりと悪寒が背筋を走った。
「あとね、ナワーブ」
嫌な予感を覚えナワーブが泉の方向を向くと、先程まで澄んでいたはずの水が黒く染まっている。そこからずるずると伸びるのは青い蔓薔薇だ。水面から出てきた蔓薔薇達は、這い寄る生物を連想させる動きで泉の縁を越える。
その不気味な姿に目を奪われているナワーブの耳に、トレイシーは顔を寄せる。
「大好き」
「!」
ナワーブがトレイシーに目を向ける。トレイシーはゆっくりと瞬きをしてふわりと笑う。
そこからは一瞬だった。
蔓薔薇は一斉にトレイシーに襲いかかり、その体を締め上げて水中に引き摺り込む。ナワーブが止める間もなかった。
「トレイシー‼︎」
即座に泉にナワーブも飛び込んだが、蔓薔薇も黒い水もそこにはなく、澄んだ水が何事もなかったかのように揺蕩っているだけだった。トレイシーの姿は影も形もない。
ナワーブは濡れるのも構わず、泉の中に膝を付き呆然と呟く。
「何が、どうなってやがる」

「大罪を犯したので、彼女は罪を償わなくてはなりません」
「!」
返らないはずの問いに、答える声があった。ナワーブが立ち上がると、いつの間に現れたのか部屋の中央で女性が優雅なお辞儀をしている。
その相手は人か鳥か。それがナワーブには判断がつかなかった。
立ち姿はドレスの女性のものだが、鳥籠を模したスカートから覗く脚は鳥類のものだ。肩からはマントか本物か分からない翼があり、腕はあるがやはりその手は人とは違う。鶏冠と嘴を思わせる仮面は作りものなのだが、まるで体の一部であるかのようだ。
「……あんたは?」
「失礼しました。私はナイチンゲール。『女王様』に仕えるものです。まずは外からのお客様に謝罪を。我が国のものがご迷惑をおかけしました」
そう言って、ナイチンゲールは深々と頭を下げる。
だがナワーブはそんな事には構っていられない。トレイシーはどこに消えたのか。どうなってしまったのか。今知りたいのはそれだけだ。
ゆったりと動くナイチンゲールに、泉から出たナワーブは焦ったい思いで尋ねる。
「あいつは、トレイシーはどうなったんだ」
「チェシャ猫は壊してはならないものを壊しました。その罪は私では計り知れません。彼女は大罪人として永久牢獄に送られました。出ることは叶わないでしょう」
「永久……?出れねぇって、どういう事だ⁈」
「そのままの意味です」
簡潔に答えるナイチンゲールは、最低限の事しか答える気はないようだ。ナワーブは苛立ちを抑え、一度気持ちを落ち着ける。
この世界の住人と会話を成立させるには、ルールがある。彼らは聞いた事にしか答えない。それがどんなに突飛な事であろうと、理由を説明してくれることはない。
それも別で尋ねるしか無いのだ。
「永久牢獄って、なんだ。トレイシーは無事なのか」
「貴方の世界にある刑罰はここにはありません。ここでは何よりも『退屈』が恐れられます。永久牢獄とは、その退屈を強いられる場所なのです。飢えも渇きもなく、眠ることもなく、痛みも死ぬこともなく、狂うこともなく永遠に止まった時を過ごします。無事といえば、無事でしょう」
「っ……!」
ナイチンゲールが淡々と話す内容に、ナワーブは絶句するしかない。それは到底、想像できない程の苦行だ。生きてはいても、無事と呼べるわけがない。
トレイシーの悲鳴と共に割れた鏡。直接見てはいないが、あれはやはりトレイシーがやった事だったのか。あの鏡はそれ程までに重要なものだったのか。
ナワーブが鏡の消えた泉に目をやるのを、ナイチンゲールが「いいえ」と否定する。
「鏡の破損は瑣末な事です。チェシャ猫が壊したものは、二度と取り返しがつかないものなのです」
「取り返しがつかない?そんなもの」
「分からないのですか?本当に?」
「………………」
ナイチンゲールの口調は問いかけるものだったが、「わかっているだろう」と言わんばかりだ。ナワーブはすぐに答えることはできなかったが、俯き拳を握り締める。
――私、ナワーブの帰り道、壊しちゃった――
トレイシーは思い詰めた顔でそう言っていた。
取り返しがつかない、失われたもの。胸に去来した寂寥感。鏡とともに壊されたものは。
トレイシーが青褪めていたのは、こうなる事が分かっていたからか。
「俺を、帰れなくした事が、あいつの罪なのか」
「ここでは『自由』を尊びます。ですので、他者の道を閉ざすことはいかなる場合も『女王様』が禁じているのです。チェシャ猫は貴方が選べる、たった一つの道を閉ざしました。だからこそ同じ重さで償わねばなりません」
「それが、永久牢獄だってのか?はっ、どこが同じだ!」
吐き捨てるように怒鳴るナワーブに、ナイチンゲールは動じる事なく平坦な口調で「同じです」と答える。
「貴方は帰り道を失いました。永久に元の世界に帰ることはできません。ですから彼女も永久を差し出さねばなりません」
「俺は!あいつが鏡を割る前から残るつもりだった!道を開けようが閉ざそうが関係ねえ!俺が決めていたことだ!」
「貴方の言い分は『女王様』にお伝えしましょう。ですが、きっと彼女の罪の重さは変わりません」
「何故、変わらないんだ?」
「覚悟も感情も、合意か否かも、故意か事故かも問題ではないのです。チェシャ猫が他者の道を閉ざした、その事実は変わりません。貴方が壊したのでなければ意味をなさないのです」
彼女は始終淡々とした口調を崩さなかった。言葉が終わると一礼し、ぱっと姿が消えてしまう。恐らくは『女王様』に報告に行ったのだろう。
部屋に一人残されたナワーブは左腕にある肘当てに触れる。猫の歯型がついたそれを撫で、額に押し付ける。
――俺のせいだ。
戻るべきではなかった。伝えるべきではなかった。あのまま鏡へ向かっていれば。
いや、残ると決めた時点で自身の手で鏡を叩き割ってしまえば良かったのか。
あの時こうしていれば、ああしていればと後悔の念だけが押し寄せてくる。そんな過ぎた事など考えても仕方がないと思うのに、止まらない。
苦しませたくないからと選んだ答えが、終わらない苦行にトレイシーを叩き落とした。
どうにか救ってやりたいが、ナワーブにはどこにその牢獄があるのかも分からない。できる事なら牢破りでもなんでもしてやるのに。
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