ちぇしゃネコ症候群(ナワトレ)

風変わりな茶会を辞して、ナワーブとトレイシーは城に向かうために麦畑を抜け、森へと入った。森の中に城があるわけはないだろうとナワーブは思ったが、帽子屋曰くこのどこかに城への近道があるのだそうだ。
ナワーブは頭に掛かる枝を押しやりながら、ぼやく。
「近道が『どこか』じゃ困るんだがな……」
「見れば分かるって言ってたし、そんな複雑なところにある訳じゃないと思うよ」
チェシャ猫の能力で木の上に移動して、辺りを確認しているトレイシーがそう答える。
ナワーブはこっそりと木の上のトレイシーを見上げる。彼女の態度も口調も変わりはないが、その耳は両方とも横に半分倒れたままになっている。茶会の席からずっとだ。
――俺が席外している間になんかあったな。
ナワーブはそんなトレイシーの異変に気づいてはいるのだが、どう切り出したものかと悩んでいる。というのも、恐らく本人は完全に取り繕っているつもりなのだ。それはつまり、指摘されたくない事なのだろう。
親しい友人というものにも縁がなかったので、こういう時にどうすべきなのかがナワーブには全く分からない。そっとしておくのがいいものなのか、それとも積極的に話しかけた方がいいのだろうか。猫としてか人としてか、どっちの対応をするべきなんだろう。
答えが出ない事を考えながら、ナワーブが掻き分けた茂みを抜けると、目の前に森にあるにはおかしなものが現れた。白い大きなキャンバスの額縁が空間に浮いている。どう言う技法で固定されているのかは分からないが、不自然過ぎる。
「トレイシー!」
「え?なになに?」
「見てくれ。これじゃないか」
近付いてきたトレイシーに額縁を示せば、彼女は一瞬曇った表情になる。しかしすぐに笑顔になると、ぱんと手を叩いた。
「うん、これで間違いないよ!」
「……トレイシー」
「なに?」
「やっぱ気になる。お前なんかあっただろ」
「……ど、どうして?」
「耳」
ナワーブが指摘するので、トレイシーは頭に手をやる。そこで自分の耳が横に垂れていた事実に気付く。必死にいつも通りいつも通りと思っていたのに、肝心の一番目につくところが取り繕えていないかった。
ノートンとアントニオに言い訳を並べ立ててはいたものの、考えれば考える程、彼らの言うとおりに証印をナワーブに渡すべきなのではという思いが強くなってきている。
そうしなくてはいけない。別れ難くなる前に。肘当ても返して、城の前でナワーブを見送るべきだ。
頭では理解しているのだけれど、それでもまだ一緒にいたい気持ちが勝つ。長くいればそれだけ逆効果になることは分かっているのに。
頭巾を深く深く被って、トレイシーは項垂れる。ナワーブはそんなトレイシーにしょんぼりした短足猫の姿が被って見えて、ふふと笑ってしまう。そうして仕方がない奴めとトレイシーの頭を撫でる。
「ったく。まだ持ってていいぞ」
「え?」
「肘当て、そんなに気に入ったのか。やるわけにはいかないが、帰る時までは貸してやる」
ナワーブに撫でられながら、トレイシーはパチパチと目を瞬かせる。どうやらナワーブは肘当てを返したくなくて自分が落ち込んでると思っているようだ。
それも間違いではないのだけれどと、頭巾の下からトレイシーはナワーブを盗み見る。
「…………」
穏やかな顔で、優しい目を向けてくれている。最初は不機嫌そうな顔しか見せてくれなかったのに。ナワーブのその表情が胸を焦がす。両手をぎゅっと胸の前で握りしめてトレイシーは無理に笑ってみせる。
「ほんと?枕にしていい?」
「まだ寝るのかお前。別に急ぐ理由もねぇし、構わないがな。こんなの枕にして悪夢にならないのか、まったく……」
首を振るナワーブに、トレイシーはふにゃりと笑う。
「いい夢だったよ。覚めたくないくらい」
「へえ、猫も夢を見るのか。どんなだ?」
「ナワーブの膝で寝てる夢」
トレイシーがそう答えると、ナワーブはきょとんとした顔になる。そしてゆっくりと頭を傾げると、片眉を跳ね上げて困惑した表情を浮かべた。
「…………それは、夢じゃなくて現実の出来事だろ」
「うふふ、そうかも」
トレイシーは眩しそうに目を細めて、ナワーブを見上げた。
――夢で、トレイシーは森で眠っていた。
体を撫でられて、目を開けるとナワーブがいる。ああ、そうか。自分はナワーブの膝で寝てしまったんだと思いながら、またうとうとと目を閉じる。ナワーブはそんなトレイシーを、仕方がないなという顔で撫で続けている。
その優しい手でいつまでも撫でていてほしい。
けれど自分はその森を知っている。トレイシーが肘当てを拾ったあの場所だ。そう認識した途端、「ああ」とトレイシーは声が漏れた。
――これは、夢だ。絶対に叶わない夢。
だって自分はもう二度とこの森で彼に認識される事はない・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・のだから。
「見つけたのはいいんだが、これがどう近道になるんだか」
ナワーブは絵の前で顎に手を当てて呟く。扉や抜け穴なら兎も角、真っ白な絵なんてどう使えばいいのだろう。額縁に何か仕掛けがあるのかと裏側も調べてみたが、木製の額に特に変わったところはない。
もしかするとキャンバスに仕掛けがあるのだろうか。ナワーブは確認するために白い面を撫でてみた。
すると、その手が白く光始め、じわりとキャンバスに色がついた。ナワーブが触れた所から、水が染みていくように絵が広がる。青い薔薇園、大理石の彫像、繊細な模様のフェンスと美しくも荘厳なガーデンゲート。
ナワーブは光る自身の左手を見つめる。成程これが証印なのか。言われてはいたが自分では全くわからなかったのでやっと実感が持てた。トレイシーに視線を向ければ、同じように右手が赤く光っていた。
緑の目と視線がかち合う。互いに誰に言われるでもなく、どうすればいいのかは分かっていた。無言でナワーブが差し出した左手を、トレイシーが右手で握り返す。
白と赤の光が強くなり、視界を焼く。ナワーブは眩しさに目を閉じるが、繋いだ手を離すことはしなかった。

「っ……?」
瞼越しに感じていた眩しさが弱まる。ふわりと吹いた風に乗るのは森特有の土の香りではなく、花の香りだ。ナワーブがそろりと目を開ければ、キャンバスにあった絵画そのままの景色がそこにはあった。
「ここは」
「お城だよ。この薔薇園の先にあるんだ」
トレイシーが指差す先に、本でしか見たことがない西洋の城があった。今からあそこに向かうのかとナワーブは信じられない気持ちになってきた。
複雑な模様のガーデンゲートは城門も兼ねているらしい。とても高いので乗り越えるのは不可能だろう。ノブも錠前もないゲートは硬く閉ざされており、ナワーブが押しても動く様子はなかった。ところがトレイシーが一緒になってゲートに触れれば、するすると金属の扉が開いていく。証印に反応しているようだ。門番も誰もいない事を不用心と感じていたが、この便利なセキュリティならば納得だ。
軋む音もせずに全開になった門を見上げ、ナワーブはそこを潜っていく。許可はあるとはいえ、『女王様』の領域に入るとなると少し緊張してしまう。
「?」
ナワーブは数歩歩いたところで、今までぴたりとくっついてきていた気配が無い事に気付く。訝しく思い振り返れば、トレイシーはまだ薔薇園の入り口にいた。
胸の前で両手を組んで、落ち着きなく視線を彷徨わせている。ナワーブにはそれが不安から来る仕草に見えた。
「どうした?トレイシー」
「…………っ、ナワーブ、その」
「うん?」
首を傾げてこちらを見ているナワーブと、その背後に広がる青い薔薇の庭園。
青い薔薇の花言葉が「不可能」だと教えてくれたのは誰だっただろう。トレイシーはすぐにそれを思い出すことはできなかった。思い出したのは別のことだ。
引き止めるなとイチハツは言った。
哀れだと伯爵は言った。
ここで見送るべきだとウロボロスは言った。
全て、私のための助言だった。みんなの言う通りだ。
初めて見た人間に興味があった。困っていたから手を貸した。最初はただそれだけだったのに、どうしてこうなってしまったのだろう。
――どうして好きになってしまったのだろう。
ナワーブと一緒にいたいけれど先を思う程に、時間が経つ程に苦しい。辛い。
だって、好きなところが増えていく。
心配してくれた。気にかけてくれていた。落ち込んでいると気付いてくれた。撫でてくれる。優しい。膝があったかい。好き。
だけど別れが近づいている。本当ならここで、城の前で最後のはずだった。伯爵のおかげで少しだけ刻限が伸びた。けれど、それも僅かな時間だ。
トレイシーは右手を翳す。その先にはナワーブがいる。
この証印を、渡してしまうなら今だ。そうすれば城の中にもナワーブは行けるはず。そして肘当ても返して、ここで彼と別れよう。
名残惜しくはあるけれど、そうすれば辛くてもいつかは忘れられるだろう。今は無理でもきっとそうなるはずだ。だってみんながそう言っているのだから。
そう自分に言い聞かせているのに、言い聞かせているつもりなのに、トレイシーの体は動かない。頭で考えてることと気持ちが重なっていない事に、トレイシーは気付いていないのだ。
「何やってんだ、行くぞ」
「あ……」
動かないトレイシーに痺れを切らしたナワーブが、中途半端に伸ばされたトレイシーの手を掴む。ぶっきらぼうな口調だが、腕を引く力には気遣いが感じられた。
そうやってずんずんと歩き出したナワーブに手を引かれ、青薔薇の庭園にトレイシーは足を踏み入れる。ナワーブはトレイシーを一瞥し、前に向き直る。
「不安か?」
「え?」
「俺は不安だ。城なんて生涯入ることはねえと思ってたしな」
「……ナワーブも緊張するの?」
「お前、俺をなんだと思ってるんだ。当たり前だろ。だからお前も居て良かった」
「!」
ナワーブの言葉に、トレイシーは目を見開く。そんなことを言われるとは思っていなかったからだ。だってナワーブは何もわからないこの世界で、大公邸にも伯爵邸にも一人で乗り込んでいた。だから怖いものなんてないのかと思っていた。
ナワーブはトレイシーの方に視線をやり、彼女がぽかんと口を開けているのを見て、少しむっとした顔になる。
「なんだよ、その反応は。マイクに証印が無い奴は城に入れないって聞いた時はちょっと焦ったんだぞ」
「それ、もしそうなってたらどうする気だったの?」
「そん時は…………………………猫になったお前を襟巻きにして入ったかな」
「ぷっ!」
眉間に皺寄せてまで思いついたナワーブの『名案』に、トレイシーは思わず吹き出してしまった。そんなのすぐにバレてしまうだろうけど、面白がった面々は見ないふりをして入れてくれそうだ。
くすくすと笑うトレイシーに、ナワーブは馬鹿な発言をしたと思ったのだろう。フードを深く被ると顔を逸らしてしまった。
「もしもの話なんざしても意味ねえ」
「えー。ちゃんと襟巻き頑張るよ?」
「よく考えたらお前、脚が短えから首に回らない」
「短くないよ!」
「短えんだよ」
反射的に叫ぶトレイシーに、ナワーブはぴしゃりと言い返す。
三月うさぎはトレイシーがマンチカンという突然変異の猫種であることをナワーブに教えてくれた。同種でも足の長さはまちまちなのだが、トレイシーは明らかに短い部類なのだと。
トレイシーはナワーブの背中をぽかぽかと拳で叩きながら叫ぶ。
「これから伸びるんだよ!」
「いや、お前もう」
「だってマリーもアルヴァも大きいもん!」
「は?マリー?アル……誰だ?」
「会ったでしょ、ナワーブ。マリーは女大公だよ」
あの女大公、マリーって名前だったのか。如何にもそれらしい名前だ。
ナワーブはあの白いお猫様の姿を思い出す。高貴な姿のお猫様はナワーブが記憶しているあちらの猫達よりも大きかったように思う。
そしてなにより絶対に猫種が違う。トレイシーはずんぐりむっくりだが、あちらはしゅっとした体つきで脚も間違いなく長かった。
「それは種類」
「たくさん食べたら大きくなるって言ってたもん!ノートンが!」
「あいつが言うなら真実味があるな……」
ねずみの姿だけでなく人型も大きかった男を思い出して、ナワーブは頷いた。ナワーブもなかなか食べる方ではあるが、ねずみ姿で容積の四倍は喰らっていたノートンが言うのならそうなのかもしれない。
だがしかし、トレイシーはサイズは大きくなる可能性があっても種類の問題で脚は伸びないだろう。
「……なに」
「いや、夢を見るのは自由だよな」
ナワーブの哀れみの眼差しに気づいたトレイシーが、ぎろりと鋭い目を向ける。
猫種だからどうしようもない事なのに、トレイシーは脚が短いことを非常に気にしているらしい。決してナワーブは事実を言っているだけで貶しているつもりはないのだが、異様に食いついてくる。
「これから伸びるとして、お前マンチカンなんだろ?脚が……そうなのは仕方がない事なんじゃないのか?」
気になったので言葉を濁してナワーブがそう尋ねると、トレイシーは口をへの字にする。
「運動音痴ってみんな言う……でも脚が短いから届かないだけだもん」
「…………」
その返答に、ナワーブはそろりと視線を外して頬を掻いた。
実は、メリーにナワーブは聞いていたのだ。トレイシーの鈍臭さはその猫種と関係があるのか、と。
それに対する彼女の答えはこうだった。
『マンチカンはその愛らしい姿を好まれるだけで猫としての性能は他の種類と変わりありません。ジャンプ力はやや弱いかもしれませんが。トレイシーさんの場合は、当人の運動神経が切断されているだけかと』
柔和な口調でそう言い切る三月うさぎに、この女容赦ないなと思ったものだ。
ちょっと悲しくなってきたナワーブは「いつか伸びるといいな」とトレイシーに返してやるに留めたのだった。


庭園の中を歩き出してどのくらい経っただろうか。
見渡す限りの青薔薇の木は綺麗に剪定され、内部を歩く者の両側で高い壁となっている。最初は美しいと思えていたのだが、ナワーブは今やそれらに圧迫感を感じていた。景色が変わったように感じられないのだ。いくつも角を曲がったし、大理石の像やベンチ、アーチなどもあったがただの薔薇の壁を歩いている時間の方が遥かに長い。
「なあ。これ、同じところを回ってはいないよな?」
ナワーブが感じた不安をそのまま口にすれば、トレイシーはきょとんとした顔になる。
「進んでるよ?植ってる薔薇の種類が違うでしょ。種類で区画が違うからだよ」
「種類……?変わってた、か?」
「うん。匂いが全然違うもん」
トレイシーに言われ、鼻を利かせてみるもナワーブにはその違いがさっぱりわからない。そういえば猫の嗅覚は人より鋭いのだったか。それにしてもこんな咽せ返るような薔薇の香りでは麻痺しそうなものだが。
「迷路みたいだけど、一本道だから安心して。でも証印がないと迷子になっちゃうかもだけど」
「そりゃあ、見張りが誰もいなくても平気なわけだ」
ナワーブは薔薇の通路の後ろと前を見て肩を竦める。これではどちらから進んできたのかもナワーブにはわからない。心底トレイシーが居てくれて助かったと思う。
「青い薔薇なんざ初めて見たが、こんなに種類があるものなのか?正直青すぎて目が痛いんだが」
「ううん。本当はこの色の薔薇は存在しないんだって。これは『女王様』の魔法で白いのを青くしているだけ」
「へえ」
道理でとナワーブは目頭を抑える。先程から居心地が悪いのは造られた風景だからか。青い花はナワーブでもいくらかは知っている。ここの薔薇はそのどの色とも違う。鮮やか過ぎる青は違和感が強く、どうにも落ち着かないのだ。
そわそわとしているナワーブに、トレイシーはくすりと笑う。大輪の薔薇を傷つけないように両手でそっと包み、香りを嗅ぐ。
「ナワーブは薔薇好きじゃない?」
「好きか嫌いかで判断したことはねえな……」
「私は、好きだよ。特にここの薔薇は落ち着くから」
「落ち着く、か?」
よく言えば幻想的だが、現実感が無いとも言える。ここはお前の居場所ではないと言われているような気すらするので、ナワーブはあまり気分がよくはなかった。
そんなナワーブに気づいているのかいないのか、トレイシーは手にした薔薇を愛しむように撫でる。
「青い薔薇は存在しないフェイクって花言葉もあるんだって。猫又もどきフェイクの私とお揃いでしょう」
「…………」
「他にも不可能とか。あんまりいい花言葉じゃないよねえ。こんなに綺麗なのに」
「…………気に入らねえ」
「え?」
トレイシーがナワーブを見上げると、ナワーブは不愉快そうに眉を顰めて薔薇を睨んでいる。その顔が思いの外怖かったので、トレイシーは体を仰け反らせた。
「白なら白でいいだろ。わざわざ色を変えるなんざ悪趣味だ」
「好きな色に、したかったんじゃない?」
「だったら青い花なんかいくらでもあるだろ」
「ば、薔薇が好きだったんだよ……」
「どっちも植えりゃいいだろ」
好きでも嫌いでもないと言っていた筈なのに、今やナワーブは敵を見るような目で青薔薇を見ている。一体どうしてしまったのか。何故こんなに機嫌が悪いのだろう。
「ナワーブ、青嫌い……?」
「いや。どっちでもねぇな」
「薔薇は?」
「だからどっちでもねぇ」
「えーっと。じゃあ、青薔薇」
「気にいらねぇ」
間髪入れずに返ってきた答えに、トレイシーは目を瞬かせた。ナワーブは渋面のままトレイシーの手を掴み、薔薇から引き離す。
「俺の知ってる猫又はお前だけだ。だからもどきフェイクじゃねぇ。存在しないなんて言うな」
「………………」
トレイシーの緑の目が、ナワーブの顔に向けられる。くるくるとよく変わる筈の表情は、今は無色透明で何を考えているのかナワーブにはわからない。大理石の彫像の様に、表情をなくしたトレイシーの顔から目が離せない。
人形のような白い顔と見つめ合っていたのは数秒だったのか、数分だったのか。トレイシーがぱちぱちと瞬き、いつものふにゃりとした表情に戻る。
「ずっと歩いてて疲れたよね。休憩しようよ」
トレイシーが指差す先に、神殿のような柱のアーチが聳えている。アーチの向こうはガゼボと噴水があるちょっとした広場になっており、休憩場所としてはもってこいの場所だった。
しかし青い蔓薔薇が絡みついたガゼボにはどうにも入る気になれなかったナワーブは、噴水の脇のベンチに腰を下ろす。
青薔薇の壁に飽き飽きとしていたナワーブは噴水を見てほうと息を吐き出す。
「こんな場所があったんだな……」
「ねーねーニャワーブ、膝貸してー」
いつの間にやらトレイシーは猫に変化している。ナワーブの足元で、後ろ脚で立ち上がって前脚で空を掻いている。
その愛くるしい仕草にナワーブは仕方がないという態度で両手を開く。
「ったくお前最初から昼寝が目的か。来い」
「えへへー」
トレイシーはナワーブの膝に飛び乗ると、ぐるぐると周りいい寝位置を探す。いい位置を見つけて、トレイシーは肘当てをいそいそと取り出すと頭を乗せて丸くなる。
当然のように枕として使われている自分の愛用品に、ナワーブは苦笑するしかない。
「本当に返す気あるんだろうな」
「うんー……」
早くも眠たげな声になっているトレイシー。伯爵邸でも一時間以上は寝ていた筈だ。猫はよく眠るというのを聞いたことはあるが、どれだけ寝る気なのだろう。
「これが最後だから、起きたら返すよ……」
「……そうか」
金色の毛並みを撫でながら、ナワーブはこの猫との別れが近づいていることに気付いた。帰るためにこの城に来たのだから当たり前なのだが、何故かずっといられるような気持ちになっていた。
こいつが甘えてくるのももう最後なのか。そう言われると寂しく思えてしまう。
「…………あのね、ニャワーブ」
「なんだ?」
名残惜しく思いながら猫を撫でていると、もう寝入ったものと思っていたトレイシーが話しかけてくる。
「ここに来た時に、言ったでしょ?『後々に夢ににゃる世界』って……」
「ああ。聞いたな」
「ニャワーブはね、帰ったら、ここの事は忘れるんだよ。夢だから。ちょっとは覚えてるかもしれにゃいけれど、だけどそれは『夢』にゃの。『夢』は現実では認識できにゃい」
トレイシーは眠る体勢のまま、ナワーブの手に頭を擦り寄せる。
「もう二度と、ニャワーブはこの世界を、私を認識できにゃいよ。だから『存在しにゃい』の」
「………………」
「ね?そっくり、でしょ……?」
囁くように告げて、トレイシーはすうすうと寝息を立て始めた。ナワーブは猫を撫でるのも忘れて、ぼんやりと呼吸で上下する金の毛並みを見つめる。
猫がいる膝は暖かい。薔薇の香りは豊かで、青い薔薇は網膜に鮮烈に焼きつく。流れる噴水の音も、鳥の声もしいる。先程口にしたパンケーキや紅茶、ワインの味も覚えている。
ナワーブももう気付いている。これは夢ではない。現実だ。
――だが、全て夢になる。今感じてるものが何もかも幻に、いや記憶にも残らないかもしれない。
二度と会えない可能性は、考えていた。運が良ければまた会えるかもしれないという希望はあった。――だが忘れてしまうとは、思っていなかった。
認識出来ないということは、この猫が目の前に現れたとしても、自分は二度と気付けないのか。こいつが甘えてくる事も、膝に乗る事ももう無いのか。
ナワーブは手の中のふわふわとした猫毛を撫でる。
さらさらとした手触りの金髪も、その下にある輝く緑の瞳も。名前を呼ぶと嬉しそうに耳を立てて振り返る顔も、無遠慮に触れてくる手も、明るく名を呼んでくれる声も、全て忘れてしまうのか。
突然突きつけられた夢の終わりは、穏やかな目覚めからは程遠い。こんな時に思い出すのは、二本の尻尾との事ばかりだ。
「…………連れて、行きてぇな」
ナワーブはぽそりと呟いた。トレイシーにも、誰にも聞かせられない独り言だ。絶対やらないし、出来ないと分かっている。それでも名残惜しく思ってしまう、ナワーブの本音だ。トレイシーが肘当てを返したがらないように、ナワーブだってこの猫又を離し難いと思っているのだ。
彼女の意思を無視する気などないし、きっとこのお人好しは困ってしまうから口にはしない。猫の耳と尻尾がある人間も、尻尾が二本ある猫も、向こうではきっと迫害されてしまう。ずっと守ってやるなんて甘ったるい幻想で、トレイシーを荊棘だらけの世界には連れて行けない。
「お前は、ここがお似合いだもんな」
ナワーブが小さく囁くと、それに応えるようにぴるぴると猫の耳が動いた。
「……?」
暫く噴水の流れる音だけが聞こえていた空間に、奇妙な音がし始める。最初は微かな音だったのでナワーブも気のせいかと思っていたのだが、機械の装填音のような、駆動装置のような音が一定のリズムで近づいて来ている。
時折り音が止むのだが、数分経つとまた機械音がし始める。ぐるぐるとこの辺りを行ったり来たりしているが、特に嫌な感じはしないのでナワーブは放置することにする。この庭に危険なものが入り込めるとも思えない。気にするだけ無駄だろう。
そうしているうちに、ナワーブにも眠気が覆い被さってくる。猫の体温と暖かな日差し、噴水の音も機械音も、心地よい子守唄になって来てしまったのだ。重くなった瞼に逆らう気は起きず、そのまま目を閉じようとしたその時。
背後で体の芯を揺らす爆破音と、爆風が起きた。
「⁉︎」
一瞬で眠気も吹き飛んだナワーブは、トレイシーを抱えて即座に噴水の影に身を隠す。
今まで背にしていた薔薇の生垣には大きな穴が空いており、地面には無惨にも散らされてしまった青い薔薇が落ちている。
その穴をよじ登って現れたのは卵の様な、ペンギンの様な形をした機械の人形だった。丸っこいボディはどこか愛嬌を感じさせる。
――でもさっきの爆破、絶対こいつだよな。
見た目には誤魔化されないぞと、ナワーブは警戒したまま向こうの様子を窺う。
この間、トレイシーはすよすよとナワーブの腕の中で寝たままだ。こいつ絶対、屋内飼いじゃねぇと生きていけねぇわとナワーブは呆れてしまう。この騒ぎで起きないのは猫としてだけでなく人としても危機感が足りないのではないだろうか。
機械のペンギンが歩くと先程から聞こえて来た機械音が鳴る。あの音の正体もこいつだったのかと、ナワーブはこっそりペンギンの観察を始める。
機械ペンギンはシルクハットを一丁前に被り、体にはジャケットとトランプのペイントが施されている。ハットにもボタンにもダイヤマークが散りばめられており、紳士を模しているようだ。彼(?)が手に持った柄の長い鋏はナワーブにも見覚えがある。庭木などを整えるためのものだろう。
ペンギンはキョロキョロと首にあたる部位を動かし、駆動音をさせながら薔薇の木をあちこち行ったり来たりをしている。偶にぺたりと座ってしょんぼりしたかと思うと、立ち上がって踊るような動作をし始める。あれは、自身を鼓舞しているつもりなのだろうか?
「…………」
一人でくるくるしているペンギンを見ていると、警戒する気も失せて行く。ナワーブは噴水の影から出ると、機械人形に近付いてみることにした。
「おい、あんた」
「フビャアッ⁉︎」
ナワーブが呼び掛けると、ペンギンは悲鳴を上げびょんと飛び上がった。そんな反応が返ってくるとは思っていなかったナワーブも驚いて後退る。
ペンギンはぐるんと首を回し、背後にいるナワーブを見ると遅れて体を回す。丸い目をきゅるきゅると音を立てて動かしているので、怪しまれているのかもしれない。
「驚かせて悪い。怪しい者じゃねえんだ。城に用があって来たんだが……」
「オ城ノ外ノオ客サマ?」
「ああ、そうなるのか」
「オ客サマ、青イ薔薇見ニ来タ?」
「いや、違う用事だ。ここは通らせて貰いたいだけだ」
「ジャア、ボンボンノ事、言イツケナイ?」
「?言いつけるって、何の話だ?」
こちらを窺うような、おずおずとした態度のペンギン――ボンボンは、小さな声で答える。
「ボンボン、ココノオ花ノオ世話シテル」
「庭師って事か」
剪定用の鋏を持っていたのはそれでかとナワーブは納得する。しかし、薔薇の木を爆破する必要あったのだろうかと穴の空いた薔薇の生垣を見やる。
ボンボンに訊ねれば、ご機嫌に小躍りをして胸を張る。
「遠回リニナルカラ、ショートカットシタ!ボンボン賢イ!」
庭師が庭を荒らしてどうすんだ。ナワーブはそう思ったが、わさわさと薔薇が枝を揺らし穴を塞いでいくのを見て、俺の常識はここじゃ通じないんだなと黙っていることにした。
「それで、あんたは何をやらかしたんだ」
「ボンボン、『女王様』ノオ花ノ色間違エチャッタ」
「間違えた?」
ナワーブはぐるりと辺りに生えた薔薇の木を見回す。ここの薔薇は魔法で青に色を変えているという話だった。それなら元の色など関係ないのではないだろうか。現に、どれもこれも同じ色に見える。
「どれが間違えたやつなんだ?」
「ドコニ植エタカ忘レチャッタ」
「おい」
「多分ココラ辺ノハズ!」
慌ててそう答えるボンボンに、ナワーブは額を抑える。とんだぽんこつ機械じゃないか、こいつ。
取り敢えず、危険がないことは分かった。ナワーブはボンボンの作業の邪魔にならないガゼボの椅子に座ると、トレイシーを膝に降ろした。
全く起きる気配もなく、すよすよと気持ち良さげに眠り続けている猫に、ナワーブは苦笑を漏らす。こいつは俺を信用しすぎじゃないだろうか。このまま持って帰ってやろうか、本当に。
機械音をさせながら、せっせと色違いの薔薇を探すボンボンをナワーブはガゼボから見下ろす。話し相手もおらず、退屈だったので丁度いい暇つぶしだ。
機械仕掛けの庭師の駆動音は、一定のリズムなのでやはり眠気を誘う。それに抗うように欠伸を噛み殺し、見る景色を変えようとナワーブは体の向きを変える。
「……ん?」
全て同じ色の、変わり映えのしない青い薔薇達。そう思っていたのにナワーブの視線の先にある花は何処かおかしい。光の加減かと思ったのだが、それにしては暗すぎる。目の醒めるような青の中に、数本だけ紺色の薔薇が混ざっているのだ。
ベンチにいた時にはガゼボの影に隠れて見えていなかったのだろう。ナワーブはボンボンに呼びかけ、濃い花の場所を指差す。
「なあ、あそこの薔薇はあれでいいのか?色がおかしいが……」
「!アッタァ!間違エチャッタ薔薇ノオ花!」
ボンボンは嬉しそうに薔薇に走り寄ると、くるくると踊り始める。そして両手で木を掴むと、容赦なく引き抜いてしまう。
「ヨイショオオオオオ!」
「おお……」
蕪の収穫でも見ているようだ。思わず声が漏れた。
どう処理するのだろうかとは思ってはいたのだが、そんな雄々しい撤去方法を取るとはナワーブも想像していなかった。こんな庭園を管理しているならもっとこう、上品な手法があるのではないだろうか。
ボンボンの豪快な行動にナワーブが呆気に取られていると、引き抜いたばかりの薔薇に変化が起きる。紺色だとばかり思っていた花の色が、薄らいでいく。瞬きの間に毒々しかった紺色は淡いピンクの薔薇に変わる。
ボンボンはかいてもいない汗を拭うような動作で、息をつく。
「フー、『女王様』ニ見ツカル前デ良カッタ良カッタ」
「白いヤツじゃないと同じ色にならないのか」
「ソウダヨ!挿シ木間違エチャウト大変!」
「へえ……」
ナワーブは青い薔薇と、地面に転がるピンクの薔薇の木を交互に見やる。先入観のせいかもしれないが、不自然な青よりもこのピンクの薔薇の方がナワーブは好ましく感じる。
ボンボンは地面の穴や、他の薔薇の木の手入れを済ませると地面に投げ捨てていたピンクの薔薇を肩に担ぎ上げる。
ナワーブはふと気になってボンボンに声をかけた。
「その薔薇はどうするんだ?」
「青クナラナイカラ捨テルヨ」
「そうか……なんか、勿体無いな。綺麗なのに」
濃い色の時には気付かなかったが、淡い色の花達はまだ咲き始めたばかりで、きっとこれから大輪の見事な薔薇になったのだろう。
そう思うと、花の色に気づいてしまったのが少し申し訳ない。あのままなら綺麗な花を咲かせられただろうに。
ボンボンはナワーブをじっと見つめ、丸い目をきゅるきゅると動かす。そうして薔薇の木を下ろすと、小さな鋏を取り出す。
「探シモノ見ツケテクレタカラ、一本アゲル。ドレガイイ?」
「いいのか?『女王様』の薔薇なんじゃないのか」
「捨テルダケダカラ、大丈夫!」
――欲しいって意味ではなかったんだがな……
ナワーブは頬を掻きながら、花を選ぶ素振りでガゼボから身を乗り出す。そんな善意に満ちた目で見られたら、断るのも野暮だろう。
蕾から開きかけたばかりの薔薇を指して、ナワーブは花を切って貰う。ボンボンは丁寧に棘を落としてから薔薇の花をナワーブに差し出した。
「ドウゾ!」
「ああ、ありがとう」
「ジャ、ボンボン帰ル!オ客サマ、コノコト内緒ニシテネ」
「分かってる」
今度こそ薔薇の木を担ぎ、ボンボンはそそくさと噴水の広場から逃げて行く。あんな派手な登場をしておいて、こそこそしてるつもりなのか。
くつくつと笑いながら、ナワーブは手の中の薔薇をくるりと回す。
――まあ、賄賂を貰っちまったしな。黙っといてやろう。
さて、この薔薇をどうしたものかとナワーブは考える。嫌いではないとは言ったが、流石に花の処理は困ってしまう。貰ったものを捨てる訳にはいかないし、だからと言って服に飾る趣味もない。色が違えばまだマシかもしれないが、流石にピンクは抵抗がある。
「うーん……」
ナワーブが薔薇を頭上に掲げ、ふとガゼボの天井を見れば絡みついた青い蔓薔薇が目に入る。
花びらが幾重にも重なる絢爛な青薔薇と比べれば、手にしたピンクの薔薇は一回りは小さく、花びらも控えめに見えた。そういえば香りも違う。
じっくりと観察すれば、薔薇の種類が違うというのはナワーブでも理解できた。そもそもあちらは蔓で、手にしている薔薇は木に生えていたから当然か。
大輪の花と、咲きかけの花。それを眺めているナワーブの脳裏に、トレイシーの言葉が過ぎる。

――私とお揃いでしょう――
――ね?そっくり、でしょ……?――

「どこがだ。全然違ぇだろ」
ナワーブは薔薇を掲げたまま、鼻を鳴らして笑う。あんな豪華で冷たい印象の花が、トレイシーのような小娘に似ている訳がない。
そうして膝ですよすよと寝ている金色の猫に目をやる。青よりも、こいつには明るい色のが合うだろう。
トレイシーが首に巻いている藍色のリボンに、ナワーブはピンクの薔薇を差し込む。小柄な猫には少し大きいかもしれないが、なかなか良いアクセントになっていると思う。可愛らしく出来た飾り付けに満足したナワーブは、にやりと笑ってトレイシーの頭を撫でる。
「お前にゃこっちのがお似合いだろ」


「ナワーブ、ナワーブ」
「……ん?」
肩を揺すられる感覚でナワーブは目を覚ました。猫の体温と日差しの心地よさに負けて、いつの間にか眠ってしまっていたらしい。
目を開けると人型に戻ったトレイシーがいる。空を見上げても太陽の位置は大して動いていない。寝入ってから然程の時間は経っていないようだ。
「んん……!」
「ねえ、ねえってば、ナワーブ」
「なんだよ」
「これっ、やったのナワーブ?」
ナワーブが大きく伸びをしていると、トレイシーが待ちきれない様子で自身の胸元を指差す。彼女の首元を飾る藍色のリボンに、ピンクの薔薇が刺さっている。猫の時は大き過ぎるかと思っていたが、人型になった今は丁度いいサイズだ。
「これどうしたの?青以外の薔薇なんてあった?」
「あー……探し物手伝った礼にっつって、貰った」
ボンボンの事を言うのは約束を違えてしまうので、ナワーブは簡潔にそれだけを告げた。何か聞かれるかと思ったが、トレイシーは不思議そうにピンクの花を手に取り見つめている。
「ナワーブが貰ったんでしょ。なのになんで私に?」
「甘い色はお前のが似合うだろ。それに俺には薔薇は合わねえよ」
「そうなの?私はいいと思うけどな」
「世辞はいい。それよりいい加減肘当て返せよ」
「あ、うん」
ぶっきらぼうにそう言うナワーブに、トレイシーは薔薇を首元に戻しながらお世辞のつもりはなかったんだけどなと思う。ピンクはちょっと違うかもしれないけど、赤や白の薔薇は凛とした彼には似合う筈。ナワーブは好きじゃないみたいだけど、青い薔薇も精悍な雰囲気にとてもよく合う。
――まあ、喋って動くとちょっとイメージ違うけど。ドジっぽいし。
トレイシーはそんな失礼なことを考えながら、ごそごそと肘当てを帯の下から取り出した。そして大袈裟な動作で座面に正座して頭を下げながらナワーブに差し出す。
「お返しします」
「よし」
ナワーブはトレイシーの態とらしい神妙な態度に笑いを噛み殺して、鷹揚に頷いて見せる。
肘当てを左腕に装着し、息をつく。ようやく収まるべきところに収まった。革の部位に猫の歯型が残っているが、元々真っ新な訳でもないので気にならなくなるだろう。
それにしてもやけにあっさりと肘当てを返してくれたなとナワーブは思う。あれだけにゃーにゃー渋っていたので、最後もなんだかんだごねるのではないかと心配だったのだが。
トレイシーに視線を向ければ、彼女は自身の胸元を見下ろし薔薇の花に触れている。ピンクの薔薇が気になって仕方がないらしい。
ナワーブはそれを見て、ある可能性に気付く。そういえば似合うからと勝手に押し付けたが、トレイシーもピンクは好みではなかったかもしれない。
「悪い」
「え?」
「気に入らなかったよな。青が好きなら」
「え、やっ」
「丸っこいしお前に似合うからって勝手に差しちまったが、その色が嫌いなら」
「あ、ち、違う!違うよ!」
ナワーブが伸ばした手に、トレイシーは慌てて薔薇を両手で隠し距離を取る。その取られまいとする姿に、気に入らなかった訳ではないのかとナワーブは安堵する。
「ピンクは好き!好きになった!」
「なんだ。ずっと見てるから、何かあるのかと」
「そうじゃなくて、お花貰うの初めてだったから。あと、その…………」
「ん?」
もじもじとするトレイシーが小さな声で何か言っているが、距離があるのでナワーブには聞こえない。
「どうした」
「……お花、似合うって言われたの、初めて…………」
「っ!そ、そうか」
思わず声がひっくり返ってしまった。トレイシーの初々しい反応を見て、ナワーブは漸く自分がした行動が外部からどう受け取られるかに気付いた。
寝てる女性に花を捧げて、目覚めた所に似合うよと歯の浮くような台詞を吐く気障男。それとなんら変わりないことを自分はしてしまったのでは。ナワーブはそれに唖然として口を覆う。
そんな意図は全くなかったのだ。ただ自分の様な無頼漢よりも、愛らしい花は愛らしいものに相応しいのではと思っただけだ。それだけなのだ。
ナワーブが一人で心情の百面相をしている間に、トレイシーはピンクの薔薇の茎に大事そうに触れる。
これはナワーブがくれたから、トレイシーのものだ。みんなが言うみたいに、誰にも返さなくていい。ずっと持ってていいものだ。だから嬉しい。
まだこの花は咲き始めたばかりだから、水に挿したら長持ちするかもしれない。花が開いて、散る時は花びらを一つ一つ拾って集めよう。枯れるまでずっと大事にしよう。そうしたら萎れてくちゃくちゃになっても、欠片は残るかもしれない。あとはメリーに聞いたら、なにかいい保存方法を知っているかも。
この薔薇からはナワーブの匂いはしないけど、肘当ての方が欲しいけど、それでもこれは大事な思い出になる。トレイシーの宝物だ。
「ナワーブ」
「あ?」
「お花、ありがとう」
隣に座るトレイシーは、うっすらと色づいた頬が手の中の薔薇と同じ色に染まっている。
――薔薇色の頬ってのは、こういうことを言うのか。
ナワーブはぽかんとした顔でそんな事を考える。
「……花、嬉しいのか?」
「うん」
トレイシーは大事に大事に胸から花を取り外すと、両手で抱きしめる。そうして心底幸せそうな、満面の笑みを浮かべる。
「ナワーブから貰ったから、嬉しい」
そう答えたトレイシーの表情は、今まで見た中でも一際眩く見えた。純真な少女の笑顔に、正面から見た瞳の煌めきに、ナワーブは「ああ」と胸の内で呟く。
今、気付いた。
気付いてしまった。
――トレイシーは俺を好いている。
ナワーブは自身がトレイシーに気に入られているのは分かっていたし、懐かれているとも思っていた。
最初は「人間」への興味に輝いていた瞳に、今は「ナワーブ」への恋情がはっきりと見て取れる。
そして困ったことに、トレイシーの瞳に反射した自身も同じ色を抱いている。ナワーブはその事に気付いてしまった。
いつから。いや、そんなことを問うても意味はない。
別れが近づき、忘却することを宣言されてしまったこの時に、自覚してしまった想い。
終わる事が決まっているなら、自身の片思いならせめて良かったのにと思う。ナワーブはどうせ忘れる側だ。
――だがトレイシーは?記憶も残ってしまう、この子はどうなるのだろう。
「…………そうか」
ナワーブは不自然にならない様に、目を閉じる。そしてゆっくりとトレイシーから顔を逸らした。
「まあ、肘当ての代わりにとっとけよ」
「うん!」
にこにこと微笑むチェシャ猫は、ナワーブの変化に気付いた様子はない。
それでいい。最後まで気づかないでいてほしい。同じ想いを返してしまえば、トレイシーの傷が深くなる。
伯爵がトレイシーを哀れみ、証印を分けたのは想い人を見送る時間を延ばす、彼なりの優しさだったのか。ただ誤算だったのはナワーブも同じ想いを抱いてしまっていたことだ。
ナワーブはフードを目深に被ると、ガゼボのベンチから立ち上がる。
「もう行くの?」
「ここの景色も見飽きたしな。とっとと進むぞ」
「あ、うん」
先に立って歩き出したナワーブを、トレイシーは慌てて追いかけた。
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