ちぇしゃネコ症候群(ナワトレ)

荷物と装備を放り出して、ナワーブは地面に寝転がった。不用心な行動だが、こんな鬱蒼とした森に来る人間もいないだろう。常に気を張るのも疲れるのだ。
長期の雇われ仕事を終え、報酬を受け取ってきたばかりのナワーブの懐は暖かい筈なのに、彼の眉間には深い皺が刻まれていた。
他の傭兵達の中には家族の元へ帰る者や、更なる稼ぎのために次の依頼へ向かう者もいたが、ナワーブは家族もいない根無草の身だ。今の報酬だけで二ヶ月は何もせずとも暮らしていける。
本来なら今日の宿を探すべきところだが、今はそんな気も起きない。幸いにして野宿には慣れているので、そこは問題ない。ただ、今は誰にも会わずに一人になりたい気分だった。
重なり合う木々の隙間から、ナワーブはかろうじて見える空の色をぼうと眺める。そうしていると、別れ際の同業者の言葉が頭の中で再生される。
十以上は年嵩のその同業者は、偶々ナワーブと同じ隊にいただけで碌に会話もなかったと思う。如何にも熟練者といった風情で、顔にも体にも無数に傷痕がついていた。だが他の猛者のように過去の自慢話を披露する事もなく、寡黙に過ごしていた。
そんな男が突然ナワーブに話しかけてきたので、本当に驚いたのだ。
――あんた、こんな仕事は辞めるなら今のうちだぞ――
――あ?――
体格が良い方ではないナワーブは、度々揶揄いの的になる。こいつもその手合いかとナワーブは相手を睨み上げた。
しかし相手は真面目な顔で眉を顰める。
――この仕事に向き過ぎなんだ、まだ若ぇだろうに――
――?向いてるなら辞める必要もねえだろ――
――だから言っている。死ぬまでやめられなくなるぞ、俺のように――
――辞めたいなら辞めればいいだろ――
――出来ねえよ――
ずっと無表情だった男が、疲れた顔で笑う。何もかもを諦めたような顔だった。
――他の生き方を知らねえ。戦場にいないと生きている気がしねえ。武器が手放せねえ人間に、横たわって眠れねえ人間に平凡な生活は無理だ――
そう言われてナワーブは気付いた。その男が横になっている姿は愚か、目を閉じている姿も見たことはなかったからだ。
しかし、だからこそナワーブは怪訝な顔になる。この男は仲間を邪険にするような人間ではなかったが、素晴らしく親切というわけでもなかったはずだ。
――……なんでそんな事を俺に言うんだ?――
ナワーブが気になったことをそのままぶつけてみれば、相手は自分の首を撫でて笑い声を上げる。こんな豪快に笑う姿は初めて見たので、周囲にいた連中も驚いた顔になる。
――はー、俺だって思ってなかった。自分がこんなお節介をほざくようになるとは。年寄りになったって事だな――
――は?――
――俺も若え時に同じことを言われたんだ、老兵にな。何言ってんだって思ったもんだが、今となっちゃその通りだった訳だ――
片方だけ残った目で、その男はナワーブを見やった。僅かに見える憧憬を隠しもせずに告げる。
――武器を置いて寝れるうちに、選ぶんだな――

「……ちっ」
あの男との会話を反芻したせいで、冷めかけていたむかむかとした気持ちが戻ってきてしまった。ナワーブは仰向けのまま、舌打ちをして目を閉じる。
職を変えるなら今のうちなんて会話は、散々聞いてきた。そう言って傭兵業をやめたのに、結局戦場に戻ってきた人間も見ている。彼らには平和な生活の方が耐えられなかったのだ。
ならば最初からやめなければいい。ナワーブはそう思っている。思っているのだが、言われた言葉に揺れている自分がいる事にも気づいている。その事実が腹立たしい。
「………………」
閉じていた目を開ける。こんなくさくさした気持ちで寝れるわけがない。何かに当たりたい気分で堪らないが、そんなことをすればより惨めさが増しそうだ。
「はあ……」
ナワーブは体を起こす。空の色から見るに、まだ陽は高い時間だ。暗く視界が悪くなる前に、焚き火に必要な枝を集めるべきだ。何か作業をしていればこんな気分も紛れるはず。
先程放り出した愛用の肘当てを手繰り寄せ、ナワーブは違和感に視線を落とす。手の中には片方の肘当てしかない。それほど遠くに投げたつもりはないのだが、何処かに当たって飛んでいってしまったのだろうか?
立ち上がって視線を巡らせたナワーブは、森に不釣り合いなものを見つけた。草の間を、金色のぴんと立った細長いものが進んでいく。目をよく凝らし、ナワーブはそれがふさふさとした尻尾であることに気付いた。それもこんなところにいるとは思えない、家猫の尻尾だ。
――なんでこんなところに?
ナワーブは不思議に思い、その尻尾を視線で追う。草の切れ目でその猫が藍のリボンと鈴をつけているのが見える。野良猫でないことに驚きつつ、ナワーブはその猫が咥えているものに目を見開いた。
「‼︎」
金色の猫が咥えていたのはナワーブの肘当てだ。咄嗟に声を上げそうになったのを、なんとかナワーブは堪えた。猫を脅かせば、走って逃げてしまうかもしれない。こんなことろであんな小さな猫に逃げられたら見失ってしまう。
ナワーブは猫の後を尾けることにする。野良ではないなら家がある筈。逃げられたとしても最悪住処の方向さえわかればそれでいい。飼い主を探して肘当てを回収できる筈。
とことこと歩いて行く猫と距離を空けて、忍足でナワーブは後を追いかける。金色の猫はまるでスキップをするようなご機嫌な足取りだ。全くこちらに気付く様子はない。
――あいつ、多分野良なら生きていけないだろうな。
野生の動物なら、そろそろこちらの気配に気付いてもおかしくないと思う。この森にだって獣はいる筈なのだが、あの猫はご機嫌な足取りのままだ。相当な箱入り猫なのかもしれない。
これなら簡単に捕まえられるのではないかとナワーブは考える。それなら、わざわざ住処まで追う必要もない。
「ん?」
ところが、その考えを実行する前に先を歩いていた猫が倒木の穴に飛び込んでしまった。元は立派な大木だったであろうその倒木は、中がトンネルになっている様だ。けれど他の入り口は見つからない。追うならナワーブもこの穴に入るしかない。
勘弁してくれとナワーブは思うが、あの肘当てに代わりはない。なんとしても取り戻さなくてはならない。仕方なく、ナワーブは四つん這いになって穴に入り込み――そして落下した。
「うお⁈」
すぐそこにあると思った地面はなく、ナワーブは頭から真っ逆さまに暗闇の奈落の底へと落ちていく。
――やべえ、死ぬ‼︎
ナワーブがそう思うとコルクが抜けるような音が響き、視界がぱっと明るくなった。それと同時に落下する速度が急激に緩んだ。自身が空中を舞う葉にでもなったかのようだった。
突然明るくなった視界に、ナワーブは目が眩んで腕で瞼を覆う。目を閉じたまま空中で体勢をくるりと回し、頭が下の状態から脱する。ゆっくりと落ちているので死の恐怖も消えた。
目が奈落の明るさに慣れると、異様な光景が見える。ナワーブは思わず「うわあ」という間抜けな声を上げる。
この穴の壁面は本棚だったり薬棚だったり、剥製だったり銀食器だったりがコレクションのように並んでいた。
あまりにちぐはぐで無差別なその収集物に、どんな好事家がやらかしたんだとナワーブは呆れる。ただただ落ちるしかない身としては、眺めるだけでも暇つぶしにはなるけれど。
あまりに現実離れしたこの状況に、ナワーブは空中で胡座をかく。夢にしてはリアルすぎるが、なんでこんな事になっているんだろうか。俺は猫を追っていただけなのに。
夢でも現実でもいいけれど、底がないのだけは勘弁してくれよと思いながらナワーブが下を見ると、終点らしい枯葉の山が見えてきた。終わりがあることに安堵しつつ、ナワーブはその山に着地する。
落下速度が緩んでいるとはいえ、そこそこの衝撃はあった。枯葉がクッションになったお陰でどこも痛めなかったことに感謝しつつ、ナワーブは周囲を見渡す。
なにかの神殿なのか、白い通路と柱が長々と続いている。両脇には庭園が広がっており、白い幹に薄紫の葉の樹が植った林に続いている。非常に美しいが、浮世離れしたそれらが不気味に感じたナワーブは、到底庭に出る気にはなれなかった。
足早に通路を抜けようとして視線を感じ、ナワーブは辺りを見回す。そうして、赤い頭巾の子供が柱の影からこちらを窺っているのを見つけた。目と目が合うと、子供はぱっと嬉しそうな顔で走り寄ってくる。
「こんにちは!」
「…………」
武器を構えられるように警戒していたナワーブだったが、物騒な空気など全く感じていないらしい相手は無邪気に挨拶をしてくる。天真さしか感じない、きらきらとした緑の目にナワーブは警戒を解いた。あまりに無防備過ぎて、身構えているのが馬鹿馬鹿しくなってしまったのだ。
子供と思っていた相手は、近くで見れば小柄な女性だった。まだ少女と呼んでもおかしくない年齢かも知れないが、体は成熟した人間のものだ。
彼女はナワーブが見たことのない、変わった黒衣を身につけている。緑の帯を腹側でリボン結びにしているのだが、何かの民族衣装だろうか。炎の紋が入った黒のつけ袖は長く、袖の裾が床に付いてしまっている。うっかり踏んで転びそうだなとナワーブは思う。
何よりナワーブが気になったのは彼女の格好ではなく、彼女の後ろで揺れている二本の尾と頭巾の中身だ。頭巾は何故か頭の形ではなく、妙な尖りが二つある。そして奇妙な位置に空いた穴から、もふもふとした動物の耳が覗いている。飾りと疑うまでもなく、それはぴるぴると動いていた。
――あれは、猫……か?
ナワーブがまじまじと女性を観察していると、彼女の姿が視界から掻き消えた。そして一瞬の間にナワーブのすぐ目の前に現れた。武器に手を伸ばす余裕も無かった。驚いているナワーブの懐に飛び込んで、彼女はペタペタとナワーブの顔や服に触れ始める。
「ねえ、あなた人間?服着てるから人間だよね?猿じゃないよね?見たことないから分かんないんだよね。ねえ、どうして穴から落ちてきたの?間違えちゃったの?ドジなの?ねえねえ、人間のオスはヒゲがあるって聞いたけどないね?メスなの?でもメスって柔らかいんでしょ?あなた硬そうだよね。あ、でも小さいからやっぱメス?ねえ、お名前は?ねえねえ、喋れないの?喋れないならやっぱ猿なの?ねー」
「っ……喋る間を寄越せ‼︎」
無遠慮に触れてくる両手を振り払い、ナワーブが怒鳴る。誰が猿だ、誰が。ドジだなんだとも言っていたか。初対面の相手に失礼すぎる、この女!
暴言の数々に怒り心頭のナワーブを他所に、女性はふにゃんと笑うと元気よく口を開いた。
「私、トレイシー!」
「話を聞け!」
「あなたのお名前は?」
「…………………………ナワーブ」
ダメだ、こいつは希望を通さないと会話にならない。そう気付いたナワーブは渋々名乗ることにした。あまり怪しい人間に名乗りたくはなかったのだが、そういう警戒が通じる相手ではなさそうだ。
ナワーブが名乗ったことで、トレイシーはにこにこと嬉しそうにしている。とてつもなく失礼な上に変な格好をしているが、トレイシーがなかなか可愛らしい容姿をしていることにナワーブは気付く。
――だからと言って無礼な発言を許す気はないが。
「おい、猫女」
「違うよ、ネコマタだよ」
「あ?」
「尻尾が二本あるのは猫又って言うんだよ、ナワーブ知らないの?」
「尻尾が二本ある生き物を初めて見たんだよ、こっちは」
「そんなわけないよ!九本の人もいるのに!ナワーブは物を知らないんだね」
「おい」
「私のことは猫又か、チェシャ猫でもいいよ。でもナワーブは気に入ったからトレイシーって呼んで!」
「俺は気に入らねえんだが」
「ふうん?ナワーブは、犬派なの?」
「そうじゃねえ」
「じゃあ猫派?」
「だからそうじゃねえって、ああもう話を聞け!」
ナワーブが叫ぶと、トレイシーはキョトンとした顔で首を傾げた。全く手応えを感じない会話にナワーブは髪を掻き毟った。なんとなく、トレイシーの表情から彼女は悪意なく失礼なことを言っているのだと言うことは分かった。これはまともに話をしようとする事自体不毛なのかもしれない。
ナワーブは息を吐き出すと、苛立たしい思いを抑えてトレイシーに向き直る。
「分かった。まず、あんたの質問に答えてやる。俺が答えたら、次はあんたが俺の質問に答えろ。いいな」
「ほんと?なんでも答えてくれる?」
「あんまりおかしな内容はやめろ」
「なあに?そういうルール?」
「もうその認識でもいい……ただ!さっきみたいにガンガン質問してくるな。そうだな、三つくらいにしろ」
「三つね!いいよ!」
ナワーブの提案に、トレイシーは目を輝かせた。乗り気になってくれたようで良かった。他に生き物の気配を感じないこの場所で、ナワーブが話を聞けそうなのはこのトレイシーくらいなのだ。いつまで経っても会話にならないのは困る。
トレイシーはわくわくを隠しきれない様子で、ナワーブの周りをぐるぐると歩いている。さっきはあんなに質問責めにしていたのに、いざ答えるとなったらじっくり考えたくなったようだ。
「うーんうーん……」
「どうした、早くしろ」
「三つしか答えてくれないから考えてるの!」
「俺の質問のあとならいくらでも答えてやる」
「それじゃだめ!ゲームにならないでしょ!三つしか質問したらダメなの!」
「……ゲームのつもりじゃねえんだが。まあいい、早く決めてくれ」
謎の拘りを持ち出してきたトレイシーに、ナワーブはうんざりした顔になる。こいつは絶対に言い出したら聞かないタイプだ。こういう奴はいくら正論をぶつけようが絶対に通じない。気が済むまで付き合うしかない。
それに、勝手に三つだけと決めてくれるなら先ほどのような質問攻撃もなくなるだろう。ナワーブは明るい、おしゃべりな人間が苦手なのだ。そういう連中からは距離を取りたいと常日頃から思っている。
「うーん。やっぱりこれにしよう。ナワーブは人間?猿?」
「服着てたら人間なんじゃねえのかよ」
「さーかすの猿は服着てるって言ってたもん!ナワーブ、さーかすかもしれないじゃん!」
「お前、サーカスが何か分かってねえな。人間だよ。二度と猿呼びすんなよ、次は許さねえ」
「?人間なのになんで猿って呼ぶの?」
「お前が……っ、いや、いい。もういい。次の質問はなんだ」
「あのね、ナワーブはオス?メス?私はメスだよ!」
「人間はオスメスじゃねえんだよ。男か女かだ」
「そうだった!私は女だよ」
「俺は男だ」
「!ヒゲないしちっさいのに⁈」
「小さくねえわ。お前よりでかいわ」
「ええ!お耳入れたら私の方が大きくない?」
「お前の耳がウサギでも届いてねえよ」
ひょこんと主張するトレイシーの猫の耳は、ナワーブの目線より低い位置にある。そしてやっぱりその耳、体の一部なんだなとナワーブは思う。
トレイシーは姿を消して、ナワーブが避けられない至近距離に現れると、ぺたぺたと顔を確認し始める。
「おい」
「だって、ヒゲないよ?ナワーブ」
「剃ってるからだ、それは」
「そ、剃る……⁈」
トレイシーは信じられないと言う顔でナワーブから距離を取る。
「ヒゲを⁈剃るの⁈」
「伸ばすやつもいるにはいるが、俺の同業は大抵は剃るな。衛生面で問題が起きるからな」
「そんなことしたら危ないよ!歩けなくなっちゃうよ!」
「?ならねえよ」
「猫はなるんだよ!」
「そうなのか?飼ってる犬のヒゲ切ってるやつとかいたけどな」
「ひい!」
トレイシーは叫んだ後で、ぱっと姿を消してしまう。今度はどこにも現れることはなく、しんと静まり返った空間にはナワーブ一人になってしまった。
慌てたのはナワーブだ。聞きたいこともある上に、ここの出口も分からない。そんな状態でトレイシーに消えられてしまっては困ってしまう。
ナワーブはどこにいるとも知れない猫又に呼びかける。
「おい⁈トレイシー⁈戻ってこい!」
『やだやだ怖い!人間怖い!』
空間に反響するトレイシーの声。姿は見えないが、いるにはいるらしい。そのことにナワーブは胸を撫で下ろした。しかし、何故かすっかり怖がってしまったトレイシーは姿を消したままだ。
『ヒゲを切るなんて鬼!悪魔!ヒゲは大事なんだよ!狩りとか暗いとことかヒゲが無いとダメなんだから!』
「……そうなのか?」
ナワーブは首を傾げた。ナワーブが知ってる飼い犬は、ヒゲを切られても元気に走り回ってた覚えがある。綺麗に整えると言って飼い主は遠慮なく切っていたが、全く堪えた様子はなかった。ずっとヒゲについてきゃんきゃんと騒いでいるトレイシーを見るに、犬と猫ではヒゲの重要さは違うのかも知れない。
兎にも角にも、このまま機嫌を損ね続ければトレイシーがどこかに行ってしまうかもしれない。ナワーブは一先ず彼女の機嫌が治るように、調子を合わせることにした。
「ヒゲが大事なのはよく分かった。俺は猫も犬もヒゲを切ろうとは思わねえよ」
『…………本当?』
「嘘なんかつくか。だから戻ってこいって。まだ最後の質問もしてないだろ」
『そうだった!』
ナワーブの呼びかけに応えて、空中にすう、と猫の尻尾が二本現れた。ゆらゆらと揺れるそれがぼとりと落ちると、白いタイルに座り込んだトレイシーが姿を現した。まるで手品でも見せられているようだとナワーブは思う。
トレイシーはぴょこんと立ち上がって、ナワーブの周りを再びぐるぐると回り出す。
「最後の質問はね、ナワーブはドジなの?」
「なんで三つしかない質問でそれを選んだ。ドジじゃねえ」
「でも穴から落ちてきたよ!落っこちたんでしょ!」
「……ドジじゃねえわ」
ナワーブが落ちたのはあの泥棒猫のせいだ。まさか木の虚が奈落の穴になっているとは、普通は思わない。それでドジ認定をされて堪るものか。
「落っこちたのにドジじゃないことがあるの?」
「あるんだよ。人間にはある。猫は知らねぇが」
「ふうん。人間って変なの」
トレイシーはあまり納得してない様子だったが、ナワーブはそれを憮然とした顔で黙殺する。
これで約束の質問には三つ答えた。次はこちらが訊ねる番だ。トレイシーもゆらりゆらりと二本の尾をくねらせて、ナワーブの質問を待ってる。
ただ質問に答えるだけなのに、彼女はこれがゲームと思っている。一体何が楽しいのか、ナワーブにはさっぱり分からない。期待されているところ悪いが、ナワーブは遊んでいるつもりはないのだ。
「ここがどこか、元いた場所に戻れるのか、その手段は何か。これが俺の質問だな」
「えー。一個づつじゃないの?」
「まどろっこしい。いいから答えろ。そういうルールなんだろ?」
「ちぇー、つまんないの」
トレイシーはいじけたように、床のタイルを足先で叩く。けれど、きちんと質問に答える気はあるらしい。
「ここはね、人間には『後々に夢になる世界』だよ。ナワーブ、ここで変なこと起きても、変なもの見ても『なんで?』とか『信じない』っていう気が起きないと思うの。それはどこかで『夢だな』って思ってるからなんだって」
「……言われてみれば、確かにそうだ」
穴が奈落と気づいた時、確かに死を覚悟した。だがその直後に落ちる速度が緩んでもなにも不思議には思わなかった。こんな猫の耳を生やした女が現れても、すんなりと受け入れている。普段なら幽霊や魔物の類を一切信じてはいない筈なのに。
ナワーブが自分の説明に頷いたことで、トレイシーは得意になった。長い尻尾がくねくねとと揺れる。
「ナワーブが帰る手段はあると思うよ。でも私は分かんない」
「!夢なら自然に起きればいいんじゃねえのか」
「うーん、その説明難しいな。後々に夢になるんであって、今は夢じゃないんだよ。目が覚めるかもしれないけど覚めないかもしれないし、帰りたいならちゃんとした方法がいいかも」
「よくわからねえが、お前がそう言うならそうなんだろう。帰る方法があるなら確実な方が助かる」
「だったら、おじいちゃんに聞くのが一番だと思う!物知りだもん」
トレイシーはナワーブの手を掴むと、ぐいぐいと引っ張る。
「来て!案内してあげる!」
「あー……ちょっと待て、有難いんだが待て、トレイシー」
ナワーブがやんわりとトレイシーの手を解く。帰る方法は知りたいのだが、その前にやらなくてはならないことがあるのだ。
ナワーブは泥棒猫を追いかけてここに来たのだ。なんとしても見つけて肘当てを取り戻す必要がある。あの猫が野良ではないなら、この世界に飼い主がいるのかもしれない。
後で夢になる世界ならば、ここで帰ってしまえば二度と愛用品は戻ってこないはず。あの肘当ては思い入れのあるものなのだ。無くしたくはない。
きょとんとした顔のトレイシーにナワーブは視線を向ける。この猫又も猫ではあるだろうが、自分が追っているのは短毛ではなく長毛種の猫だ。大体あいつは尻尾が一本だった。
そう、丁度あんな感じのふさふさとした――
「‼︎」
トレイシーの後ろにあるアーチを、金色の尻尾が通り過ぎた。ナワーブが思い浮かべていた通りの、ふさふさとした尻尾が優美にたなびく。
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