ナワトレ小説
質のいい酒のお陰か、ナワーブはとても愉快な気分だった。
扉の影からひょこりと出てきた金の頭を見ても、くくくと笑いが漏れて、楽しくなってしまう。
「おや、トレイシーじゃないか」
「なんか賑やかだなーって」
ホセに手招きされ、とことこと室内に入ってきたトレイシーは寝るつもりだったのか、ノースリーブに短パンという出立ちだ。
トレイシーは厨房に用があったのだが、談話室から聞こえる声に室内を覗いてみれば、男三人で酒盛り中だったわけだ。
ずっとくつくつと笑い転げているナワーブに首を傾げながら、トレイシーはホセの向かいに腰を下ろした。
「なんか、珍しいメンバーだね」
「ああ、そうかもしれない。だが主催者を聞いたらもっと意外と思う筈だ」
「え?ホセじゃないの?」
「違う違う。アンドルーさ」
「えー!」
トレイシーが驚いて声を上げれば、テーブルの端にいたアンドルーは煩げに顔を顰める。
「うるさい」
「ごめん、いやでも、アンドルーが人を誘うなんて明日は槍でも降りそう」
「誘ったわけじゃない……これを消費する人間を探してただけだ」
アンドルーが指差す先には、一抱えはある酒瓶達が並んでいる。ワインの赤に白に、ブランデー、ウイスキー等々。
アンドルーが集めたのだろうか?不思議そうに瓶を眺めているトレイシーの前に、たんとアンドルーがグラスを置く。どうやらお前も飲めと言う事らしい。
仕方なくトレイシーが酌を受けると、ナワーブが笑いながら説明をしてくれる。
「今日のゲームでバーボンがやらかしたとかでな。お詫びだとチームの連中に酒を押し付けて行ったらしい」
「彼女も律儀な性格だな、気にしなくていいと思うんだが」
「僕もそう言ったんだが、断る間もなかった」
アンドルーはため息をつきながら、コルク栓を元に戻す。
同チームだったカートはああ見えて酒豪だし、ノートンはいそいそと取り分の酒瓶を部屋に持ち帰っていた。もしかすると売る気かもしれない。
アンドルーはというと、飲めなくもないが、酒はそこまで好きでもない。そして人と飲み明かすようなこともしない。その為、どうするかと、一人ここで悩んでいたらしい。
そこに「ロキシーか、懐かしいな」と国の酒に反応したナワーブと「このブランデーは寝酒にいいぞ」と勧めてきたホセを捕まえて、消費を手伝わせることにした、と言う訳なのだ。
二人とも既に最初の酒瓶は空けてしまって、それぞれジンと赤ワインのボトルを手にしている。どちらも中身は半分以下だ。
今、トレイシーが注がれたウイスキーはアンドルーが飲んでいるものだが、まだ数杯分しか中身は減っていない。ナワーブとホセの酒の消費が早すぎる。そりゃ顔も赤くなる筈だ。
ホセは見たことのない酒瓶を手に取ると、そのラベルを見て目を細める。
「いろんな国の酒があるな」
「作り方を聞くと試したくなるらしい。ロキシーもオレが教えた」
「なるほど、流石だな」
ちびちびとグラスに口をつけながら、トレイシーは隣のナワーブを見上げる。口調はしっかりしているが、頬は赤いしなにより目つきがとろんとしている。
――これはかなり酔っ払ってるなあ。
ナワーブは決して酒に弱くはないとは思うけど、流石にジンを直で飲むのはやり過ぎだとトレイシーは思う。しかもこれ、二本目の筈。
「うーん……」
「?どうした?」
トレイシーはアンドルーの問いに答えず、ウイスキーを一気に呷ると空になったグラスを突きつけた。普段はジュースを好む少女の行動に驚きつつ、アンドルーは新しいウイスキーを追加してやる。
トレイシーは無言でそれも呷ると、またグラスを差し出す。アンドルーが呆気に取られながら、また酒を注げばそれも飲み干してしまう。
ホセはその飲みっぷりに「おお」と声を上げる。
「なんだ、トレイシーもいける口だったのか!」
「そんな一気に飲んで大丈夫か?」
ナワーブは持っていたジンの瓶を置き、トレイシーからグラスを取り上げようとする。しかしトレイシーはその手から逃げると、最後の一杯をくいと呷ってしまう。
空になったウイスキーの瓶を頭上に掲げ、アンドルーはぽかんと口をあけている。
「瞬殺か」
「結構な量が残っていたと思うが……大丈夫かい?トレイシー」
不調を心配するホセに、トレイシーはケロリとした顔を向ける。白い顔は白いままだし、目もいつも通りで変わらない。おや?とホセは思う。
――もしや、この子ザルなのか?
トレイシーは目を丸くしてこちらを見ているホセとアンドルーを他所に、ナワーブの前にある瓶を指差す。
「ナワーブ、それ欲しい」
「っ!ダメだ」
慌ててトレイシーから瓶を遠ざけ、ナワーブはコルク栓を視線で探す。顔色が変わっていないとはいえ、あの調子で酒を消費すれば体にどんな影響があるかわからない。自分が飲んでいたのはジンだ。爽やかな飲み口だが、アルコールの度数は高い。
脇に転がっていたコルクで栓をすると、ナワーブは酒瓶を頭上に持ち上げた。トレイシーは諦めずに瓶を取ろうと手を伸ばす。膝に乗り上げて来るトレイシーを、ナワーブは空いてる腕で遮る。
「こら、やめろ!飲み過ぎだ!」
「ナワーブだって二本目でしょ!」
「いや、それ三本目だ」
「その前にラム空けてる」
二人の指摘に、トレイシーはきっと目つきを鋭くする。酒精の強いのばかり飲んでいるじゃないか!
トレイシーは、いつもより深く酔って見えるナワーブから酒を取り上げたかった。そこで思いついたのが「自分が飲んでしまえばいい」と言う作戦だった。
トレイシーは酒に強い人種で、酒気の分解が早い体質だ。だから酔う楽しさは理解出来ない。喉が焼けるような感覚も、苦い液体を好き好んで飲む意味も分からない。
美味しい酒や甘い酒は気になるので手を出すが、それも味見程度で充分だと思っている。
しかしそれが誤解を産み、周囲に「トレイシーは酒に弱い」と思われていることを知らなかった。
今も、ナワーブがトレイシーの体調を考えて酒を遠ざけているのを分かっていない。「自分の酒を守っているだけ」と思っているので、躍起になって酒を奪おうとしている。
「お前、水飲め一回!」
「やだ、それがいい!」
「ダメだっつってんだろ!ガキには早い!」
「子供扱いするな!」
抵抗するナワーブの体に乗り上げるトレイシー、それを腰を抱え込んで阻止するナワーブ。互いが互いのことを考えての真剣な攻防なのだが、それを側から見ているアンドルーとホセは無言で顔を見合わせる。
――どうするのが正解だろうか。
――僕に聞くな。
視線だけで交わされる会話に、ホセは額を抑えた。
側から見ると、薄着のトレイシーがナワーブに跨り恋人のように戯れあってるようにしか見えないのだ。自分達は何を見せられてるんだろう。
もうこのままこっそり退室するべきかな、とも考えていたが、矛先は突然変わるものだ。
「おい、ホセ、クレス!こいつどうにかしろ!」
「……はあ」
「ご指名だ」
深く息を吐き出すアンドルーの肩を、ホセは苦笑して叩いた。
そしてナワーブの手からジンの酒瓶をホセが奪い、アンドルーがトレイシーの首根っこを掴んでナワーブの上から引き摺り下ろす。
「ぐえ!」
「あんたは一旦こっちだ」
アンドルーはじたばた暴れるトレイシーをナワーブの対面に座らせる。猫の子のような扱いに、ホセは悪いと思いながらも笑ってしまう。
テーブルを挟んだトレイシーとナワーブの間に、ジンの瓶を置き、ホセはわざとらしく咳払いをする。
「さて、じゃあここは公平に、この酒を賭けて勝負といこうか」
「なんでそうなる」
凶悪な目を向けるナワーブを手で制し、トレイシーにホセは向き直る。
「トレイシー、君が勝ったらこの酒瓶は君のもの、ナワーブが勝ったらこの酒瓶は彼のものとして私が今日は保管しよう。どうかな?」
「それでいいよ」
ホセのウインクに、トレイシーはこくんと頷く。別に酒が飲みたかった訳ではない。ホセはこちらの意図に気付いてくれていたらしい。
「はあ……オレもそれでいい」
どちらにしろ、今トレイシーが飲むのは止められる。それならいいかとナワーブも同意を示す。
「ところで勝負と言っても、なにをするんだ?」
「うん……ここにトランプかコインがあれば良かったんだが」
ナワーブの疑問に、ホセも顎を撫でて天井を見やる。言い出してはみたものの、特に何か考えていた訳ではない。咄嗟に二人の揉め事を抑えようと思っただけなのだ。
そんなホセにアンドルーが「なら」と声を上げる。
「腕相撲でいいんじゃないか?」
「……君とナワーブでか?」
「なんで僕なんだ。レズニックとサベダーでに決まっているだろう」
何を言っているんだという顔をするアンドルーに、ナワーブとホセも同じ表情を浮かべる。ナワーブとトレイシーでは勝負になるわけがない。
ところが。
「いいよ、やろう!」
トレイシーは元気いっぱいにそう答えてテーブルに肘をつく。その細っこい腕にホセは「いやいや」と首を振る。ナワーブも確かに筋骨隆々という訳ではないが、それでも腕の太さがどう見ても違う。
「意外にやれるんじゃないのか?レズニックの人形は相当な重量だが、あれを持ち込んでるわけだろ?」
「うん」
アンドルーの発言に、そういえばそれを見かねて手伝ったことがあったなとホセも思い至る。しかしそれでも、運搬する力と腕相撲で使う筋力は別ものだろう。
止めるべきかと思っていると、ナワーブが視界の端で左の手首を摩るような動作を見せる。――なるほどとホセは小さく頷く。
「よし、それじゃあ左腕でやるのはどうかな?利き腕でない方が、勝負が分からないと思うのだが」
「うん、それで!」
「お前がいいならオレもいい」
ナワーブがやる気なさげにそう答え、テーブルに肘をついた。見るからに不本意そうな顔の相手に、トレイシーは目を輝かせる。
ナワーブは左手が器用ではないと以前、話していたことがある。もしかすると、酒も入っているしあのナワーブに勝てるのでは?勝敗なんてどっちでもいい筈だけど、勝てるなら勝っておきたい。
そわそわしているトレイシーを一瞥し、ナワーブは気づかれないようにふんと鼻を鳴らす。
組み合わされた手に掌を翳し、ホセが二人の顔を見る。
「それじゃ、いいかい?よーい、始め!」
ホセの掛け声と共に、左腕に力を込めるトレイシーだったが、ナワーブはそのまま変わらない顔をしている。腕に一応の力は入っているものの、すんなりとナワーブはトレイシーに倒されていく。
わざと負けようとしてるのかと思えば、手の甲がテーブルにつく寸前でナワーブの腕がピタリと動かなくなる。
「うぐぐぐ……」
「っふ」
懸命に押し込もうとするトレイシーだったが、上から降ってきた声に視線を上げれば口角を吊り上げたナワーブが、逆の手で頬杖をついている。余裕綽々な態度に腹が立つ。
だが、あと少し押し込めば自分の勝ちだ。トレイシーは全ての力を振り絞って、ナワーブの手をテーブルに押し付けようと奮闘する。
「ううう……!」
ところが、押し込むどころか、ゆっくりゆっくりとナワーブの腕が起き上がっていく。トレイシーがどんなに頑張っても、腕は沈まない。どんどん二人の手は最初の位置に戻っていってしまう。
そして、振り出しに戻った所でナワーブの腕はぴくりとも動かなくなった。トレイシーが息も切れ切れにナワーブを睨み上げても、涼しい顔は変わらない。
「どうした?頑張れ頑張れ」
「う……」
「うん?」
「うがあああああ!」
組んでいた手を振り払うと、トレイシーは吠えながらナワーブに飛びかかった。テーブルを乗り越えたトレイシーの動きは素早く、捕まえようとしたアンドルーの手も空を切る。
「お、おい!」
「馬鹿にしてええ!許さない!」
しかし、ナワーブの動きはもっと早かった。掴みかかるトレイシーを立ち上がって避けると、ソファーに突っ込んだ体を肩に担ぎ上げた。
「試合放棄でお前の負けだな」
「まだやれるもん!降ろせえええ!」
「お前が勝手に負けたんだろうが。ホセ」
「あ?ああ……そうだな。ナワーブの勝ちということで」
ホセは戸惑いながらも勝敗を宣言する。だが頭の中は疑問符で埋め尽くされている。
――負けてやるつもりで左を指定したんじゃないのか?
ホセのどういうことだという顔に、ナワーブは視線を泳がせ頬を掻く。
「こいつの得意げな顔見てたら、いじめたくなったというか」
「大人になれ」
「すまん」
トレイシーが危惧していた通り、確かにこの男は酔っ払っているようだ。普段ならトレイシーの気が済むように適度に相手をしてやる筈。
ナワーブのせいでトレイシーは大人しくなるどころか、両手で背中を叩いて暴れている。
「降ろしてってば!」
「うるせえ、ガキは寝る時間だ」
「子供扱いするなー!まだ眠くない!」
「ガキは大抵そう言ってすぐ寝る」
「寝ないってば!このっ、酔っ払いの癖に!」
「酔ってねえよ」
「酔っ払いは大抵そう言うんだよ!」
ナワーブは人一人を抱えたまま、澱みない足取りで扉へと向かう。きゃんきゃんと吠えて踠くトレイシーに構わず、部屋を出る前にアンドルーとホセを振り返る。
「こいつ寝かせてくる。悪いがあとは二人で楽しんでくれ」
「あ、ああ」
「あと、これ貰ってくぞ」
そういうナワーブの手には、ちゃっかりとジンの瓶が握られていた。いつの間にやら回収していたらしい。
ぱたりと閉じた扉の向こうから、まだ騒いでいるトレイシーの声が聞こえてきていたが、それもやがて遠ざかっていく。
ホセとアンドルーは顔を見合わせると、深い深いため息をついた。なんだかものすごく疲れてしまった。
「付き合ってないのに痴話喧嘩しないでくれ……」
「くっつくか玉砕するかどっちかにしろ……」
END
扉の影からひょこりと出てきた金の頭を見ても、くくくと笑いが漏れて、楽しくなってしまう。
「おや、トレイシーじゃないか」
「なんか賑やかだなーって」
ホセに手招きされ、とことこと室内に入ってきたトレイシーは寝るつもりだったのか、ノースリーブに短パンという出立ちだ。
トレイシーは厨房に用があったのだが、談話室から聞こえる声に室内を覗いてみれば、男三人で酒盛り中だったわけだ。
ずっとくつくつと笑い転げているナワーブに首を傾げながら、トレイシーはホセの向かいに腰を下ろした。
「なんか、珍しいメンバーだね」
「ああ、そうかもしれない。だが主催者を聞いたらもっと意外と思う筈だ」
「え?ホセじゃないの?」
「違う違う。アンドルーさ」
「えー!」
トレイシーが驚いて声を上げれば、テーブルの端にいたアンドルーは煩げに顔を顰める。
「うるさい」
「ごめん、いやでも、アンドルーが人を誘うなんて明日は槍でも降りそう」
「誘ったわけじゃない……これを消費する人間を探してただけだ」
アンドルーが指差す先には、一抱えはある酒瓶達が並んでいる。ワインの赤に白に、ブランデー、ウイスキー等々。
アンドルーが集めたのだろうか?不思議そうに瓶を眺めているトレイシーの前に、たんとアンドルーがグラスを置く。どうやらお前も飲めと言う事らしい。
仕方なくトレイシーが酌を受けると、ナワーブが笑いながら説明をしてくれる。
「今日のゲームでバーボンがやらかしたとかでな。お詫びだとチームの連中に酒を押し付けて行ったらしい」
「彼女も律儀な性格だな、気にしなくていいと思うんだが」
「僕もそう言ったんだが、断る間もなかった」
アンドルーはため息をつきながら、コルク栓を元に戻す。
同チームだったカートはああ見えて酒豪だし、ノートンはいそいそと取り分の酒瓶を部屋に持ち帰っていた。もしかすると売る気かもしれない。
アンドルーはというと、飲めなくもないが、酒はそこまで好きでもない。そして人と飲み明かすようなこともしない。その為、どうするかと、一人ここで悩んでいたらしい。
そこに「ロキシーか、懐かしいな」と国の酒に反応したナワーブと「このブランデーは寝酒にいいぞ」と勧めてきたホセを捕まえて、消費を手伝わせることにした、と言う訳なのだ。
二人とも既に最初の酒瓶は空けてしまって、それぞれジンと赤ワインのボトルを手にしている。どちらも中身は半分以下だ。
今、トレイシーが注がれたウイスキーはアンドルーが飲んでいるものだが、まだ数杯分しか中身は減っていない。ナワーブとホセの酒の消費が早すぎる。そりゃ顔も赤くなる筈だ。
ホセは見たことのない酒瓶を手に取ると、そのラベルを見て目を細める。
「いろんな国の酒があるな」
「作り方を聞くと試したくなるらしい。ロキシーもオレが教えた」
「なるほど、流石だな」
ちびちびとグラスに口をつけながら、トレイシーは隣のナワーブを見上げる。口調はしっかりしているが、頬は赤いしなにより目つきがとろんとしている。
――これはかなり酔っ払ってるなあ。
ナワーブは決して酒に弱くはないとは思うけど、流石にジンを直で飲むのはやり過ぎだとトレイシーは思う。しかもこれ、二本目の筈。
「うーん……」
「?どうした?」
トレイシーはアンドルーの問いに答えず、ウイスキーを一気に呷ると空になったグラスを突きつけた。普段はジュースを好む少女の行動に驚きつつ、アンドルーは新しいウイスキーを追加してやる。
トレイシーは無言でそれも呷ると、またグラスを差し出す。アンドルーが呆気に取られながら、また酒を注げばそれも飲み干してしまう。
ホセはその飲みっぷりに「おお」と声を上げる。
「なんだ、トレイシーもいける口だったのか!」
「そんな一気に飲んで大丈夫か?」
ナワーブは持っていたジンの瓶を置き、トレイシーからグラスを取り上げようとする。しかしトレイシーはその手から逃げると、最後の一杯をくいと呷ってしまう。
空になったウイスキーの瓶を頭上に掲げ、アンドルーはぽかんと口をあけている。
「瞬殺か」
「結構な量が残っていたと思うが……大丈夫かい?トレイシー」
不調を心配するホセに、トレイシーはケロリとした顔を向ける。白い顔は白いままだし、目もいつも通りで変わらない。おや?とホセは思う。
――もしや、この子ザルなのか?
トレイシーは目を丸くしてこちらを見ているホセとアンドルーを他所に、ナワーブの前にある瓶を指差す。
「ナワーブ、それ欲しい」
「っ!ダメだ」
慌ててトレイシーから瓶を遠ざけ、ナワーブはコルク栓を視線で探す。顔色が変わっていないとはいえ、あの調子で酒を消費すれば体にどんな影響があるかわからない。自分が飲んでいたのはジンだ。爽やかな飲み口だが、アルコールの度数は高い。
脇に転がっていたコルクで栓をすると、ナワーブは酒瓶を頭上に持ち上げた。トレイシーは諦めずに瓶を取ろうと手を伸ばす。膝に乗り上げて来るトレイシーを、ナワーブは空いてる腕で遮る。
「こら、やめろ!飲み過ぎだ!」
「ナワーブだって二本目でしょ!」
「いや、それ三本目だ」
「その前にラム空けてる」
二人の指摘に、トレイシーはきっと目つきを鋭くする。酒精の強いのばかり飲んでいるじゃないか!
トレイシーは、いつもより深く酔って見えるナワーブから酒を取り上げたかった。そこで思いついたのが「自分が飲んでしまえばいい」と言う作戦だった。
トレイシーは酒に強い人種で、酒気の分解が早い体質だ。だから酔う楽しさは理解出来ない。喉が焼けるような感覚も、苦い液体を好き好んで飲む意味も分からない。
美味しい酒や甘い酒は気になるので手を出すが、それも味見程度で充分だと思っている。
しかしそれが誤解を産み、周囲に「トレイシーは酒に弱い」と思われていることを知らなかった。
今も、ナワーブがトレイシーの体調を考えて酒を遠ざけているのを分かっていない。「自分の酒を守っているだけ」と思っているので、躍起になって酒を奪おうとしている。
「お前、水飲め一回!」
「やだ、それがいい!」
「ダメだっつってんだろ!ガキには早い!」
「子供扱いするな!」
抵抗するナワーブの体に乗り上げるトレイシー、それを腰を抱え込んで阻止するナワーブ。互いが互いのことを考えての真剣な攻防なのだが、それを側から見ているアンドルーとホセは無言で顔を見合わせる。
――どうするのが正解だろうか。
――僕に聞くな。
視線だけで交わされる会話に、ホセは額を抑えた。
側から見ると、薄着のトレイシーがナワーブに跨り恋人のように戯れあってるようにしか見えないのだ。自分達は何を見せられてるんだろう。
もうこのままこっそり退室するべきかな、とも考えていたが、矛先は突然変わるものだ。
「おい、ホセ、クレス!こいつどうにかしろ!」
「……はあ」
「ご指名だ」
深く息を吐き出すアンドルーの肩を、ホセは苦笑して叩いた。
そしてナワーブの手からジンの酒瓶をホセが奪い、アンドルーがトレイシーの首根っこを掴んでナワーブの上から引き摺り下ろす。
「ぐえ!」
「あんたは一旦こっちだ」
アンドルーはじたばた暴れるトレイシーをナワーブの対面に座らせる。猫の子のような扱いに、ホセは悪いと思いながらも笑ってしまう。
テーブルを挟んだトレイシーとナワーブの間に、ジンの瓶を置き、ホセはわざとらしく咳払いをする。
「さて、じゃあここは公平に、この酒を賭けて勝負といこうか」
「なんでそうなる」
凶悪な目を向けるナワーブを手で制し、トレイシーにホセは向き直る。
「トレイシー、君が勝ったらこの酒瓶は君のもの、ナワーブが勝ったらこの酒瓶は彼のものとして私が今日は保管しよう。どうかな?」
「それでいいよ」
ホセのウインクに、トレイシーはこくんと頷く。別に酒が飲みたかった訳ではない。ホセはこちらの意図に気付いてくれていたらしい。
「はあ……オレもそれでいい」
どちらにしろ、今トレイシーが飲むのは止められる。それならいいかとナワーブも同意を示す。
「ところで勝負と言っても、なにをするんだ?」
「うん……ここにトランプかコインがあれば良かったんだが」
ナワーブの疑問に、ホセも顎を撫でて天井を見やる。言い出してはみたものの、特に何か考えていた訳ではない。咄嗟に二人の揉め事を抑えようと思っただけなのだ。
そんなホセにアンドルーが「なら」と声を上げる。
「腕相撲でいいんじゃないか?」
「……君とナワーブでか?」
「なんで僕なんだ。レズニックとサベダーでに決まっているだろう」
何を言っているんだという顔をするアンドルーに、ナワーブとホセも同じ表情を浮かべる。ナワーブとトレイシーでは勝負になるわけがない。
ところが。
「いいよ、やろう!」
トレイシーは元気いっぱいにそう答えてテーブルに肘をつく。その細っこい腕にホセは「いやいや」と首を振る。ナワーブも確かに筋骨隆々という訳ではないが、それでも腕の太さがどう見ても違う。
「意外にやれるんじゃないのか?レズニックの人形は相当な重量だが、あれを持ち込んでるわけだろ?」
「うん」
アンドルーの発言に、そういえばそれを見かねて手伝ったことがあったなとホセも思い至る。しかしそれでも、運搬する力と腕相撲で使う筋力は別ものだろう。
止めるべきかと思っていると、ナワーブが視界の端で左の手首を摩るような動作を見せる。――なるほどとホセは小さく頷く。
「よし、それじゃあ左腕でやるのはどうかな?利き腕でない方が、勝負が分からないと思うのだが」
「うん、それで!」
「お前がいいならオレもいい」
ナワーブがやる気なさげにそう答え、テーブルに肘をついた。見るからに不本意そうな顔の相手に、トレイシーは目を輝かせる。
ナワーブは左手が器用ではないと以前、話していたことがある。もしかすると、酒も入っているしあのナワーブに勝てるのでは?勝敗なんてどっちでもいい筈だけど、勝てるなら勝っておきたい。
そわそわしているトレイシーを一瞥し、ナワーブは気づかれないようにふんと鼻を鳴らす。
組み合わされた手に掌を翳し、ホセが二人の顔を見る。
「それじゃ、いいかい?よーい、始め!」
ホセの掛け声と共に、左腕に力を込めるトレイシーだったが、ナワーブはそのまま変わらない顔をしている。腕に一応の力は入っているものの、すんなりとナワーブはトレイシーに倒されていく。
わざと負けようとしてるのかと思えば、手の甲がテーブルにつく寸前でナワーブの腕がピタリと動かなくなる。
「うぐぐぐ……」
「っふ」
懸命に押し込もうとするトレイシーだったが、上から降ってきた声に視線を上げれば口角を吊り上げたナワーブが、逆の手で頬杖をついている。余裕綽々な態度に腹が立つ。
だが、あと少し押し込めば自分の勝ちだ。トレイシーは全ての力を振り絞って、ナワーブの手をテーブルに押し付けようと奮闘する。
「ううう……!」
ところが、押し込むどころか、ゆっくりゆっくりとナワーブの腕が起き上がっていく。トレイシーがどんなに頑張っても、腕は沈まない。どんどん二人の手は最初の位置に戻っていってしまう。
そして、振り出しに戻った所でナワーブの腕はぴくりとも動かなくなった。トレイシーが息も切れ切れにナワーブを睨み上げても、涼しい顔は変わらない。
「どうした?頑張れ頑張れ」
「う……」
「うん?」
「うがあああああ!」
組んでいた手を振り払うと、トレイシーは吠えながらナワーブに飛びかかった。テーブルを乗り越えたトレイシーの動きは素早く、捕まえようとしたアンドルーの手も空を切る。
「お、おい!」
「馬鹿にしてええ!許さない!」
しかし、ナワーブの動きはもっと早かった。掴みかかるトレイシーを立ち上がって避けると、ソファーに突っ込んだ体を肩に担ぎ上げた。
「試合放棄でお前の負けだな」
「まだやれるもん!降ろせえええ!」
「お前が勝手に負けたんだろうが。ホセ」
「あ?ああ……そうだな。ナワーブの勝ちということで」
ホセは戸惑いながらも勝敗を宣言する。だが頭の中は疑問符で埋め尽くされている。
――負けてやるつもりで左を指定したんじゃないのか?
ホセのどういうことだという顔に、ナワーブは視線を泳がせ頬を掻く。
「こいつの得意げな顔見てたら、いじめたくなったというか」
「大人になれ」
「すまん」
トレイシーが危惧していた通り、確かにこの男は酔っ払っているようだ。普段ならトレイシーの気が済むように適度に相手をしてやる筈。
ナワーブのせいでトレイシーは大人しくなるどころか、両手で背中を叩いて暴れている。
「降ろしてってば!」
「うるせえ、ガキは寝る時間だ」
「子供扱いするなー!まだ眠くない!」
「ガキは大抵そう言ってすぐ寝る」
「寝ないってば!このっ、酔っ払いの癖に!」
「酔ってねえよ」
「酔っ払いは大抵そう言うんだよ!」
ナワーブは人一人を抱えたまま、澱みない足取りで扉へと向かう。きゃんきゃんと吠えて踠くトレイシーに構わず、部屋を出る前にアンドルーとホセを振り返る。
「こいつ寝かせてくる。悪いがあとは二人で楽しんでくれ」
「あ、ああ」
「あと、これ貰ってくぞ」
そういうナワーブの手には、ちゃっかりとジンの瓶が握られていた。いつの間にやら回収していたらしい。
ぱたりと閉じた扉の向こうから、まだ騒いでいるトレイシーの声が聞こえてきていたが、それもやがて遠ざかっていく。
ホセとアンドルーは顔を見合わせると、深い深いため息をついた。なんだかものすごく疲れてしまった。
「付き合ってないのに痴話喧嘩しないでくれ……」
「くっつくか玉砕するかどっちかにしろ……」
END
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