今じゃないだろ

イライ達と別れて、食堂を後にしたトレイシーは、一先ず一人になれる空間を探すことにする。自室はいつ誰がくるか分からないし、昨日のこともあるのでちょっと考え事に向かないのだ。
森は静かだけど件の人物が居そうだし、図書室の奥の倉庫なんかがいいかもしれない。埃っぽいところではあるけれど、今の気分にはなかなかぴったりの場所だと思う。
そうと決まればとトレイシーは目的地に向かう。図書室の扉を開けば、まだ朝日の匂いが残る時間帯だからか、中に人は誰も居なかった。
一瞬ここでいいかな、とトレイシーは考えたが、誰がいつくるか分からないのは自室と変わらない。やっぱり人の気配が無い方が考えに集中できる。予定通りに奥の倉庫を借りる事にする。
図書室はしんとしているが、遠くで人が活動している音が微かに聞こえる。それも倉庫に入ってしまえば感じられなくなる筈。
トレイシーは鍵の掛かっていない、軋む扉を押し開けた。
「あっ!?」
どん、と背中を押され、倉庫の中に蹈鞴を踏んでトレイシーは転がりこむ。誰の仕業かと振り返れば、扉に手をかけているナワーブの姿があった。
ひくりと喉の奥で音にならない悲鳴をトレイシーは飲み込む。まさか、こんなすぐに当人と対面するとは思っていなかった。
本棚にびたりと背中をつけて距離を取るトレイシーをじっと見据えて、ナワーブは後ろ手で倉庫の扉を閉じた。そうして唯一の出口である扉に凭れ掛かり、腕を組む。
倉庫にも空気を入れ替えるための窓はあるが、ここは2階だ。トレイシーに逃げ出す手段はない。
ナワーブは出てこないって言っていたのに、イライの嘘つき!トレイシーは冷や汗が噴き出すのを感じながら、イライへの文句を心の中で並べ立てる。
強い視線がこちらに向いているのを感じるけれど、トレイシーはとてもじゃないが顔を上げられない。思考を整理するために場所を探していたのに、そこで追い込まれる羽目に合うとは、まさか夢にも思うわけがない。
お互いに静止したまま数分、先に口を開いたのはナワーブだった。
「……それで?決まったのか?」
「な、にが」
「覚えてねえふりするのか、しねえのか」
「!」
トレイシーが目を見開いて、ナワーブに顔を向ける。不機嫌な筈の男は微笑んでおり、しかし目が不穏な色をしているのでなんとも不気味な雰囲気を纏っている。
「俺も耳はいい方なんでな」
とん、とフードの上から耳を指で叩くナワーブに、トレイシーはさあ、と青褪める。
今、『俺も』って言った。ということは、最低でもルキノが合流したところから話を聞いていたと言うことになる。
ーーってことは考えるまでもないじゃないか!
ブンブンと首を必死で横に振るトレイシーに、「どっちだ、それ」とナワーブの声は完全に面白がっている。
当然、トレイシーは昨夜の事を覚えてないだろうとナワーブは思っていたのだ。こっちはどんな思いで本音をぶちまけたと思っているのか。
さすがに2回目は無理と、一人木に登って凹んでいた訳だが、そこに窓から聞こえてきたのがさっきの会話だ。よくもペラペラと人の告白を話してくれたなともナワーブは思ったが、覚えているなら好都合。自分がやったこともしっかり覚えているなら空っとぼけることも出来ない。
トレイシーに考える間を与えるつもりはなかった。気配を消してずっと後ろをつけていたのは、隙を見て何処かに引きずり込むつもりだったからだ。トレイシーが自ら人気のない方へ、袋小路へと入って行く姿は好都合過ぎて、ナワーブは噴き出したいのを堪えていたくらいだ。
小さな体を更に縮こまらせているトレイシーは、哀れではあるけれど、昨日散々翻弄されたナワーブとしては、どうしてやろうかという気持ちの方が強い。
扉から身を起こして、ナワーブはトレイシーの右脇の棚に腕を掛けて、凭れ掛かる。トレイシーに半分覆い被さるような態勢だ。
益々縮こまる少女に、ナワーブはくくと笑う。いつも溌剌としてるトレイシーが、自分に対して小動物のようにふるふるしている姿は中々に楽しい。
「どっちにすんだ?」
「お……」
「ん?」
「覚えてないって、言ったら!……ど、どうするの……」
やけっぱちに叫んだトレイシーだが、語尾は小さくなっていく。ただただ押されている状況が悔しかったのだが、ナワーブの顔を見ると、昨日の事が思い出されて恥ずかしさが勝って、俯いてしまう。
それでも言ってやった!と思うとちょっと気分はいい。いつも何を言ってもこの男は「はいはい」って態度で遇らうんだから、少しは同じ気持ちになればいいんだ。
ところが何かアクションがあると思ったナワーブは、黙ったまま動かない。しんとまた静まり返った空間に、トレイシーは恐る恐る顔を上げる。そして、視線が合った途端に、ぐにゃりと歪んだ男の笑う目に「ひぇ」と声が出た。
「そうだなぁ…………めいいっぱい『子供扱い』してやろう、今から」
「……は」
「膝に乗せて、飯も俺が食わせるし、夜は添い寝してやろう。着替えも風呂も手伝ってやろうか」
「‼︎」
「子供なら仕方がない。そうだろう?」
「ひぃぃ……」
ふるふると首を振るトレイシー。ナワーブの面倒見の良さは身をもって知ってる。荘園に来た当初は未成年と思われていたから、それはもう過保護なくらいに甲斐甲斐しくお世話をされた。
あの時は純粋な善意だけど、嫌がらせ全開となると何をされるか分からない。
「い、いい!しなくていい!」
「覚えてないんだろう?」
「お、覚えてる!覚えてるから!言ってみただけ!」
「ほお。だったら『子供扱いしないで』いいんだよな?」
下を向いてても分かる、笑っている声だ。今日のナワーブはトレイシーに考える間もくれずに、畳み掛けてくる。
ナワーブがいない方に逃げを打とうとすれば、左肩をやんわりと掴まれる。力は入ってないけれど、逃す気はないぞと言われているようだ。
「お前が言ったんだぞ?覚えてるんだろ?」
「あうぅ……い、言った、けど」
「ん?」
「ナワーブ、いつもと、違う……」
ぎゅっと目を閉じて、トレイシーは呟く。困っていたら助けてくれる、ナワーブはそんな存在だ。なのに今一番トレイシーを困らせているのがその本人だ。しかも困ってるのを楽しんでいるような気すらする。
トレイシーの肩を掴んでいた手が、首を辿って頬に添えられる。そのまま上を向かされて、開いた目に入ってきたのはやっぱり愉しげな二つの鉄色。
「要望に答えてやってるんじゃねえか。遠慮しなくていいんだろ」
「……ぃて」
「聞こえねえ」
「遠慮、して!」
「いやだ」
「ううう……やっぱり怒ってるじゃん……」
全然頼みを聞いてくれないナワーブに、トレイシーは背中を本棚に擦りながら横へと逃げていく。が、逃げた分だけナワーブも動くので、最終的に角に追い込まれてしまう。
「怒ってねえだろ」
「怒ってないなら、なんでこんな意地悪するの!」
「意地悪?してるか?」
くつくつ笑うナワーブはトレイシーの目の前に立ってるだけで、確かに何もしていない。ただ、ここからトレイシーが逃げられる隙がないだけだ。
普段は沈んだ色合いの鉄の瞳が、きらきらと猫のように輝いている。ただし獲物を見る不穏さで、だ。トレイシーは狩られる前のネズミってこんな気分なのかなと思ってしまう。
「俺はただ話がしたいだけだぜ。二人だけでな」
「場所を、変えたいなーって……」
「俺の部屋ならいいが」
「う……」
ナワーブの部屋は、内鍵がかかる。トレイシーが「心の鍵」の万能キーで何度も侵入したせいだ。悪戯でナワーブに寝起きドッキリを仕掛けた為に、いろいろ男として同情したメンバーの意見により取り付けられたのだ。
無いとは思うけど、何かあった時に内鍵がかかっていたら外からは助けてもらえない。自分の行いがこんな形で災いになるとは。
「どうする?」
「こ……ここで、いいです……」
「よし」
「うう、話あるならさっき声かけてくれれば良かったじゃん……食堂いたんでしょ」
「いや?窓の外だぞ。俺がいたの」
「は⁈」
「お前の後ろずっとつけてたんだが、全く気づかなかったな」
トレイシーはそこではっとする。自分がうんうん唸って悩んでた時に、当の本人が後ろにいたということだ。怖すぎる。猫並みの隠密行動だ。
そして食堂にイライと共に向かった時点でトレイシーに逃げ場は無かったのか。もしくは窓のない席を選んでいれば。そしてこれなら素直に部屋に戻った方が良かったのかもしれない。追い込まれた今の状況では、どれもこれも手遅れだけど。
脱力してペタリと座り込むトレイシーを追って、ナワーブもその場にしゃがみ込む。
「ううう……ごめんなさい」
「何がだ?」
「みんなに喋っちゃったこと、怒ってるよね?」
「まあ、面白くはねえな」
「言いふらそうと思ったわけじゃなくて、その、相談に乗って欲しかっただけで……」
「トレイシー」
名前を呼ばれて、恐る恐る見上げた顔には愉快そうな笑みが浮かんでいる。ナワーブはとん、と自身の頬を指す。
昨夜、寝ぼけたトレイシーがキスをした位置だ。
「違うだろ。俺が聞きたいのはそれじゃねえ」
「うぎっ……」
「キスのお返しが欲しい、だったか?」
「い、言ってない!」
「じゃあ答えろ、いるのかいらないのか」
「え」
「今、ここで。答えろ。お前の口でな」
何を言われたのか、思考が停止したトレイシーにはしばらく理解できなかった。ぽかんと口を開けてナワーブを見上げるしかない。ナワーブはというと、頬杖をついてすっかり待ちの態勢だ。
お返し??キスの??私が……口で言えってことは、ナワーブに強請れって、こと……?え??キス、を??
じわじわと言われた意味を理解し始めると、トレイシーは音が鳴りそうな程顔を赤くして、膝を抱える。そんなこと、出来るわけがない。できないから覚えてないふりするかどうかを悩んでいたのに。
トレイシーはブンブンと首を振って膝に顔を埋める。
「む、無理……!」
「子供扱いするなっていったのはお前だろ」
「言ったけど!言ったけどぉ……!」
「だったら自分で言ったことは責任を取らねえとな」
真っ赤に染まったトレイシーの耳元で、ナワーブが言い聞かせるように囁く。もう一思いに止めを刺してくれってこういう気分なのかとトレイシーは思う。
今になって自分がどれだけ甘やかされていたのかを思い知る。子供扱いを、本当にされていたんだと感じる。本来のナワーブはこんな意地悪な性質だったのか。
それでも嫌だとかそういう感情はない。知らなかった一面を知れて嬉しいとすら思っている自分がいる。ダメだ、どうあっても自分はこの男が好きで仕方ない。
しかし自分からキスを強請れと言うのは、トレイシーにはハードルが高過ぎた。まずトレイシーは、恋愛を指南するような小説や芝居を見たことがない。そんな話を聞かせてくれる大人の女性も近くにいなかった。そもそも人を好きになったのが初めてなのだ。
本当に、どうやればいいのかがわからない。何か突破口はないかと悩む脳内で、ぐるぐると目まぐるしく記憶が回る。走馬灯ってこう言うのかなとトレイシーは他人事のように思う。


『いつも通りでいいんじゃない?』


ぴたりと記憶の回転が止まる。
これはデミの声。さっきの食堂での会話だ。そう、まさに今の状況になったらどうしたらいい?と問うた時のもの。
トレイシーは閉じていた目を開ける。あの時、デミはなんて言ってたっけ?


『一番簡単な解決方法なのは本当よ?』
『まだるっこしい説明は一切いらないな、確かに』



膝を抱えているトレイシーのつむじを眺めながら、ナワーブはふうと息を吐き出す。うんうん唸るトレイシーに悩め悩めと思う。俺も昨日はそのくらい困らされたんだから。
流石に泣き出すようならやめようと思っていたが、向きになって言い返してくるのだから、遠慮はいらないと判断する。大体、子供扱いするなといった直後にすやすや眠る奴があるか。赤子もびっくりな寝付きの良さだ、葛藤した時間を返せとナワーブは思っている。
だからこれは、ちょっとしたナワーブの意趣返しだ。トレイシーがどうするか、たっぷりと待つ心づもりでいる。
「………………」
そこから数分か数十分か、唸るのをやめたトレイシーがそろりと頭を起こした。と、言っても少し動かしただけなので、赤くなった頬が見える程度だ。
どうするのかナワーブが見ていると、ぽそりと何かトレイシーが呟いた。聞き辛い声量に、トレイシーの顔を覗き込む。
「……なんだ?」
「っ、あああもー!」
「おわっ⁈」
突然叫ぶと、トレイシーが思い切り頭突きを繰り出す。避けようとして後ろに尻餅をついたナワーブにのし掛かり、首に両腕を回ししがみつく。
「おま、突然なに」
「すき!」
「は?」
「だからっ、わ、わたしもだいすきあいしてる、から、うう……いじわる、しないで……」
「………………」
なんだろう、告白されたはずなのにこの間の抜けたような空気は。トレイシーの酷く棒読みで捲し立てるようなこのセリフ、どこかで聞いたなと押し倒されたままナワーブは空を見て考える。
あ、そうだ。バーボンが「飛びつけ」と言ってたやつだ。でもそのまま言うか、おい。
呆れはするものの、首に縋り付く、というよりも顔を隠そうとしがみつくトレイシーは熱でもあるのかと思うほどに体温が高い。羞恥で死にそうになってるのだろう。心臓の音も聞こえてきそうだ。
仕方がないとナワーブは金の頭を軽く撫でる。元より「キスして」なんてトレイシーが言えるとは思ってはいなかった。それでもこう来るとは。色気も何もあったものではない。
少し不満は残るがトレイシーは恋愛そのものが初めてだとも言っていたから、それに免じてここらで勘弁してやろう。
「だから、してねえって言ってんだろ」
「してるもん……意地悪だもん……」
ぐすりと鼻を啜る音がする。どうにか体を起こしたナワーブは、首にひっついたままのトレイシーを膝に抱え直す。背中を撫でて宥めながら、はっと嘲るように笑う。
――意地悪、ねぇ。あの程度でか。
もっと「意地悪」が出来る機会はいくらでもあったのに、耐えてやってたんだぞ俺は。
ナワーブはそう言ってやりたかったが、腕の中ですんすんと鼻を鳴らしているトレイシーの姿に毒気を抜かれてしまう。仕方がないのでいずれ身をもって知って貰う事にしよう。
「ナワーブ、それで」
「あん?」
「返事は」
「お前な……」
人の首に縋りついたまま顔も上げられないくせに、ちゃっかりと告白の返事を要求してくるトレイシー。しおらしげにしてると思ったのは、気のせいだったようだ。
「ちゃんと言質はとれって」
「誰に言われた」
「先生」
――ルキノか。
ナワーブは特大の溜息をつく。あいつといいバーボンといい、こいつに余計な知識を吹き込むな、本当に。イライはトレイシーの相談に乗ってはやっても、過剰なアドバイスはしなかった。
だが今、そのお節介のせいで変わらなかった距離に変化が起きているのも事実だ。トレイシーとの関係性が変わるなら、そのきっかけをくれた事には感謝すべきだろうか。
ナワーブがそんな事を考えていると、窺うようにそろりと顔を上げるトレイシー。赤くなった目と鼻にナワーブは思わず「くは」と笑ってしまった。昔、飼い主に悪戯がバレた仔犬がこんな顔になってたな。
トレイシーの乱れた前髪を払って、額から頬に手を滑らせる。自分よりも明るい、春の芽吹きを思わせる瞳はすっかりと涙で潤んでいる。そして、やっぱり綺麗だとナワーブは思う。
――ああ、色じゃなくて俺はこいつの目が好きなんだな。
「ナワーブ?」
トレイシーが見上げたナワーブは、頼りになる「傭兵」でも優しい「保護者」でもなく、とろりと溶けそうな柔らかい表情を浮かべている。今まで見た事の無い顔だ。
初めて見る表情をトレイシーがまじまじと見つめていると、ナワーブがゆっくりと口を開く。
「好きだ、俺も」
「!」
「お前が好きだ」
すり、とカサついた指先で頬を撫でられる。「これでいいか?」というナワーブの顔はいつも通りに戻ってしまっていたけれど、さっきの蕩けるような顔がトレイシーには衝撃過ぎて返事が出来ない。
「おい、聞いてるのか」
「ふぇ……」
「いちいち隠すな、面倒くせえ」
自分の胸元に顔を押し付けたトレイシーに、ナワーブは億劫そうな声を出す。しかしその口元は笑っており、誰がどう見ても初々しいトレイシーの反応を楽しんでいる。
トレイシーはもう自分が恥ずかしいのか嬉しいのか逃げ出したいのかわからなくなっている。ナワーブを今は直視出来ない事だけは確かだ。肩を掴んで引き離そうとするナワーブに負けじと、緑の上着を掴んで頭をぐりぐりと擦り付ける。
「痛ぇな。顔見せろ」
「や!無理!」
「お前さっきからそればっかだな」
「だって無理だもん!」
「今からそれでどうする気だ?とっとと慣れろ。恋人の顔が見れませんなんて言ってたら、いつまで経っても先に進まねえだろ」
「へあ⁉︎」
ナワーブがサラリと放った言葉に、トレイシーは馬乗り状態から飛び起きる。勢いが良すぎてそのまま後ろの本棚に背中をぶつけてしまう。
「こっ、こい、こ⁉︎」
「鶏か」
「恋人って⁉︎」
「お前が愛の告白して俺が返事したんだからそういうことだろうが。要求しといて何を今更」
「そ、そうなるの……⁈」
「じゃなきゃなんなんだよ。やっぱり子供扱いされたいのか?やるぞ?」
「こ、恋人が、いいです……!」
「よし」
「うう……」
満足そうに頷くナワーブに、トレイシーはなんだか丸め込まれたような気がしなくもない。しかし、恋人という言葉は甘く胸に響いた。それは純粋に嬉しい。
まだちょっと心の整理が追いついていないトレイシーを他所に、ナワーブはさっさと立ち上がると服についた埃を払う。その所作はいつも通りで、何の気兼ねもなさそうだ。
「ほら、立て。汚れるぞ」
「切り替えが早いよ……」
のろのろとした動きのトレイシーに痺れを切らしたのか、ナワーブは細い二の腕を掴んで無理矢理立たせる。甘さもなにもあったものではなかった。
本当に、今の今までこの男が恋について口にしていた
のは現実だったんだろうかとすら考える。
「ああ、そうだ。忘れてた」
「?」
何をとトレイシーが不思議に思った時には、ナワーブの顔は目の前にあった。そして柔らかい感触が頬、というより唇の端に落ちる。ちゅ、という音で何をされてるかを自覚して目を見開く。
ーーほっぺに、キスされた。ナワーブに。
ペしんと唇が触れていた箇所を抑えて呆然と目の前の男を見上げる。ナワーブはというと、すっかり普段の感情が読めない表情になっている。こんなことをしておいてなんで無なのか。
「な、に、して」
「口が良かったか?」
「そ!そうじゃなくて!今じゃないよね!」
「いるのかいらないのか答えろっつっただろ。お返し」
「っったけど!」
「大好き愛してるは『いる』ってことじゃないのか。……それとも、嫌だったか?」
「うっ……」
ちょっと悲しそうな顔するのは狡いのでは。
眉根を下げるナワーブに、トレイシーはブンブンと首を振る。嬉しくないわけはない。ただびっくりしただけで。
トレイシーの必死の否定に、ナワーブはくっと笑う。
「なら、いいな。今はこのくらいにしといてやる」
「い、今はっ、て」
「…………」
「あああ!いい!やっぱいい!分かった!」
ナワーブが無言で顔を上向かせようとするので、慌ててトレイシーは目の前の胸を押し返す。これ以上は限界だ。本当にもう、勘弁して欲しいとトレイシーは首を振る。
「きゅ、急には無理!まだ待って!」
「ああ、いいぞ。段階は踏まないとな」
「良かった……」
あっさりと身を離すナワーブに、トレイシーは心底安堵してほうと息を吐き出す。悔しいけど相手が大人で良かった。初っ端からぐいぐい来られると身がもたない。
ルキノが言っていた通り、追いかけるのはいいが向かってこられるのはやっぱり身が竦む。胸元を抑えればどくどくと早鐘を打つ鼓動を感じる。
ナワーブは、安心しきっているトレイシーの耳元に顔を寄せる。
「段階踏んでやるから、早く慣れろよ?」
「うひっ……!」
耳に触れる距離で、低い声で囁かれる。トレイシーは首を竦める。擽ったいような、ゾクゾクするような感覚に襲われ身を震わせた。苦手なのでやめて欲しい。
耳を抑えて、文句を言おうとナワーブを見上げれば、何故かまたあのキラキラした猫の目をしている。どこが恋人だ。獲物狙う目じゃん!
どこから食いついてやろうかと言っている目に、トレイシーは言葉を飲み込んだ。なんとなく、こっちが噛みつくとより一層ナワーブが「ご機嫌」になっていくことに気付いたのだ。巨大な猫でも相手にしてる気分になる。ここは静かにやり過ごすべきだ。
「ど」
「うん?」
「努力します……」
トレイシーは蚊の鳴くような声で、それだけ搾り出した。耳はしっかりとガードした状態で。
丸くなって防御を固めるアルマジロの様な姿に、ナワーブはふくっと口の中でだけ笑う。噴き出すのは何とか堪えた。何しても可愛いな、こいつ。
潤んだ目から「もうやめてもう限界」と訴えるトレイシーに、ナワーブも仕方がないと体を離す。あんまり追い詰め過ぎると怖がられてしまう。逃げられてしまっては意味がない。段階を踏むと言ったのは自分だ。
「それじゃ、これからよろしくな、恋人」
「お……」
「ん?」
「お手柔らかにお願い、ほんとに……」
「ふはっ!」
今度は耐えられず、噴き出してしまった。臆病と言いながらしっかりちゃっかり自分の主張は通す我の強さ、嫌いじゃない。
ナワーブはくつくつと笑いながらトレイシーの頭を撫でた。 そうしてまだ混乱中の彼女を置いて、倉庫を出て行った。1人で整理する時間も必要だろうと考えて。
残されたトレイシーは、ふらりと本棚に凭れ、ずるずるとそのまま座り込んだ。虚勢で耐えていたけれど、本当にもう限界だった。
「…………こいびと」
ぽそりと呟き、その言葉の意味を噛み締める。
恋人って言われた。あのナワーブに。恋愛とか、全然興味なさそうな顔した男に。
優しいけど、抱きついても纏わりついても素っ気なくあしらわれるから、自分には興味ないんじゃないか、そういう対象に見られてないんじゃないかとも思っていたのに。
じわじわと言葉の意味が浸透すると共に、頬が熱をもつ。恥ずかしさでじゃなく、嬉しいという感情で。
ただ、とっても嬉しい反面、ちょっと気になってることもある。
親切で勇敢で、優しくて格好いい筈の「傭兵」にキラキラした猫の目で獲物認定されてしまった事だ。なんかもう、あの目を見ると脳内で警報が鳴り出すのを感じている。
男は狼だって聞くけれど、ナワーブは猫だと思う。でもあの可愛いイエネコじゃない。こっちを狩る気満々のネコ科の猛獣だ。
恋人という響きは間違いなく甘いし嬉しいけれど、油断したらどんな目に合うか分からない。これからはスキンシップは控えめにしようとトレイシーは心に決める。








――心に決めたのだが。

翌朝。
「‼︎」
「おはよう」
目を開けて、見えた背中にトレイシーは飛び起きた。寝台に、さも当然といった態度でナワーブが腰掛けている。
ここはトレイシーの部屋で、自分は寝巻きのままだ。普段から鍵はかけていないけれど、ナワーブに寝起きドッキリされたのは初めての事だ。思わず壁に張り付いて叫ぶ。
「な、ななな、なんでいるの⁈!」
「段階踏んでやるって言っただろ」
「そ、そうだけど!」
「お前が今までしてきた事をひとつひとつ返してやろうと思ってな」
「それって、え」
「さて、お前が俺の寝床に潜り込んだ回数と、馬乗りになってた回数はどのくらいだったか」
「ふえ!」

「全部やり返してやるから、覚悟しろよ?」

にんまりと笑う男は上機嫌でごろごろと喉でも鳴らしそうだ。「やっぱり猫だ」とトレイシーは顔を覆う。
そしてその表情も好きだと思う自分は、到底逃げられるはずもない。







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