今じゃないだろ

「……しまった」
ナワーブはエントランスの扉の前で、自分の判断ミスに気付いた。両手が塞がっていて、扉を開けられないのだ。
トレイシーを案じて突っ走ってしまったが、こんなことなら慌てずに、イライかウィリアムについてきて貰うんだった。
どうしたものかと途方に暮れていると、がちゃりと内側から扉が開かれた。
「ありゃ、誰かと思えば」
開いた隙間から顔を出したのはデミだった。ナワーブの顔を見て、ちらりと抱えたトレイシーに視線を移し、入るのを促すように大きく扉を開く。ナワーブは短く礼を言って扉を潜った。
「助かった」
「なんか人がいる気がしたんだよねぇ。商売柄、そういうのは分かるんだ。……ところで、あんたが抱えてるお嬢さんはどこの誰だい?」
ちらちらと興味津々にトレイシーを気にしているデミに、ナワーブは驚いて目を瞬かせる。
――本当に分からないのか。ウィリアムが言ってたのは冗談じゃなくて、本当の事だったのか。
「これ、トレイシーだぜ」
「え、嘘!?」
デミはナワーブに抱かれたトレイシーを至近距離で確認する。
だが目を細めてみても見開いてみても、化粧のせいかやっぱり全然分からない。ちょっと失礼と目の飾りを外して、やっと言われてみればそうかもと思ったくらいだ。
「全っ然分かんない。女の子は本当に印象変わるねぇ」
「感心してるとこ悪いんだが、ついでにこいつの部屋開けてくれねぇか?手がこれで開けられなくて」
「あー、うん。いいよ」
にかっと笑うデミが頷く。元々テンションは高めの女性ではあるが、今日は何故だかとても機嫌がいいように見えた。
うきうきした足取りのデミに続き、ナワーブはトレイシーを抱え直す。しかし本当に起きないな、こいつ。気持ちよさそうにぐっすりと寝入っている。
狸寝入りじゃないよな、と腕の中の少女を見つめていると、視線を感じる。顔を上げると、横目でこちらを見ているデミと目が合う。彼女はにんまりと笑って、前に向き直る。
「?なんだよ。なんか言いたいことでもあるのか」
「ええ?いやぁねぇ。そうだよねぇ、あんたがそんな大事そうに抱っこする子なんて、一人しかいないよねぇと思って」
「大事……普通だろ」
「ふっふっふー!」
ナワーブがぶっきらぼうに返しても、デミの機嫌は更に上がる一方だ。何がそんなに楽しいのか、ナワーブにはさっぱり分からないが。
「うーん、今日はちょっといいお酒を開けちゃおうかな。いい肴も出来たし他に人も呼んで……うんうん、そうしよう」
「??なにか言ったか?聞こえないんだが」
「いいのいいの、こっちの話」
「そうか?」
一人でぶつぶつと呟いているデミに、ナワーブは首を傾げる。なんだか今日は彼女の独り言が多い気がする。普段はそんな感じはしないんだが。
デミが、楽しい楽しい酒盛りの事をあれこれ考えているうちに、トレイシーの部屋の前につく。鍵がかかっているかと思ったが、ドアノブに手をかければすんなりと扉が開いた。
あまりに不用心じゃないかとデミは思ったが、部屋の中を見て呆気に取られる。
各々の部屋に備え付けたれた寝台やクローゼットこそ見覚えがあったが、壁一面に大きな引き出しが無数についた棚が並べられ、窓のある壁には共通の机ではなく、広い作業台が置かれている。当然その上には工具や整理された道具が並べられていて、作業中なのか見覚えのある人形の手足が置かれていた。
床にも箱が乱雑にいくつも置かれており、巻かれた紙やら、機械パーツ、何に使うのか不明の金属の鉄板やらゴツい機材などが入っている。
寝台にもたれるように座らせられた機械人形が3体、作りかけなのか胸の部分が開いている状態でおり、完成品らしいエプロンを着けたものとフードを被った人形の2体は、クローゼットの脇に直立で立っている。
散らかっている、汚れているという印象はなくきちんと整理されているとは思うが、とても女の子の部屋とは思えない内装だ。
デミは背後を振り返り、部屋の中を指さす。
「……ここは人が生活する部屋じゃないんじゃない?」
「知らなかったか?結構有名だと思うんだが」
ナワーブが意外そうにそう尋ねる。
トレイシーと言えばなんでも器用に直すので、時計やアクセサリー、人によっては義手や義足なんかの修理を頼んでいる。他にそういうのが得意そうなバルクやルカもいるが、頼みやすいのかトレイシーに声がかかることが多い。
工房も兼ねた私室なので、依頼の為に訪ねる連中もいるし、女性同士ならば「女子会」と言われる謎の定期会合もあるはずだ。だから当然、女性陣はみんなこの状況を知っていると思っていたのだが。
デミは首を振って、自身の額を叩く。
「なんでトレイシーだけ女子会会場持ち回りから外されてたのか分かったわ。これは集まれないね」
「まあ、こん中で寝れるやつなんて限られてるだろうな。バルサーすら「無理」って言ってたらしいし」
「あの変人でも無理なの?よっぽどじゃない」
「まあ、俺は気にならないが」
「…………ほーん」
箱と人形を退けてくれたデミのお陰で、ようやく寝台にトレイシーを寝かせることができた。外で寝ていた服だが、そもそも床でも平気で寝落ちるトレイシーのことなので気にしないだろう。
小柄とはいえ人間一人を抱えていたので、ようやく重荷から解放されたとナワーブは腰を叩きながら体を起こす。するとによによしているデミが視界に入り、今度はなんだと軽く睨む。
「気にならないなんて熱いじゃないの。アンタ、なんか冷めてるから心配だったんだけど、杞憂だったなぁと思って」
「寝る場所に拘りなんてねえって意味だが」
「もう!今更照れなさんな!」
頬に手を当てて手をひらひらさせる姿は故郷のおばちゃんを思い出す。彼女は大分若いはずだがとナワーブはフードの頭を掻く。
戦場では場所を問わずに休息を取る必要があった。泥の中でも、仲間の死体に囲まれた状態であってもだ。それに比べたらこのくらいはなんでもない、という意味で言ったんだがな。
なんだか幸せな思い違いをしているようだが、否定するのも億劫に感じる。というか何を言っても照れ隠しと思われる気がする。
ナワーブもここで学んだことがある。色恋に盛り上がった女性は止められない。野暮なことは言わない方がいいということだ。
「さて、邪魔者はそろそろ退散しようか」
「いらん気を回すなよ。俺も帰るに決まって、っ!」
部屋を出るデミにそう答えようとしてナワーブは動きを止める。くん、と上着を引っぱられたのだ。そちらに視線を向ければうっすら開いた青い目がある。
トレイシーははっきりと覚醒はしていないながら、不機嫌な顔でしっかりとナワーブの上着を掴んでいる。
「お前起きて」
「……ない」
「は?」
「靴、ない……」
起きてすぐに、ぱふんと布団を叩くトレイシー。寝台の上だから当然なのだが、まだ寝ぼけているらしい。
そもそもなんで彼女が靴を履いてなかったのかを、ナワーブは知らない。髪飾りは自分がやったことだと思う。だが靴は違う。運んでいる時に気付いたが、トレイシーの足は土で汚れていた。あそこまで裸足で歩いてきた様だった。
「靴……」
「お前運ぶ時に置いてきたんだ。後で持ってきてやる」
何故だかしつこく靴の所在を気にしているトレイシーにそう言うと、彼女はむすりとした顔でナワーブを見上げる。
「なわーぶ、ふむ……」
「なんでだよ」
「なんもいってくれない」
「あ?」
「せっかく、あたらしいのに……」
急にしゅんと落ち込んだ様子でパタリと突っ伏すトレイシーに、ナワーブは疑問符で頭がいっぱいになる。別に冷たくしたつもりはない、なるべく自分としてはやんわりと対応したつもりなのだが、何故落ち込んだのかが分からない。
何を間違えた?と内心焦っているとつくつく脇を突かれる。振り返るとデミがすぐ後ろに来ており、ひそりと囁く。
「服!」
「え?」
「服だよ、早く褒めて!新しいのなんて服しかないでしょ!」
「あ、ああそうか…」
そういえばイライにさっき変化に気付けとかうんたらかんたら言われてたな、と今更ながらに思い出したナワーブは、トレイシーに向き直る。
「い、いいと思うぞ」
「………んんんんんぅー!」
無難にそう言ってみたところ、突っ伏したままのトレイシーがサイレンの様に唸り出した。どうやら非常にご不満だったようだ。
背後のデミも「そうじゃないだろ」とばかりに脹脛を蹴り付ける。
「犬褒めてるんじゃ無いんだよ!」
「いや、悪かったって!」
「感想を言うんだよ!感想を!」
ひそひそとデミに怒られて、ナワーブは咳払いをしてトレイシーの頭に手を置き緩やかに撫でてやる。
「んんんんん」
「怒るな怒るな。ちゃんと見てやれなくて悪かった。雰囲気がいつもと違うが、その、可愛いぜ」
「…………」
褒めた途端にぴたりと唸るのをやめたトレイシーに、笑ってしまう。けれどまだご機嫌斜めな様子で、顔は突っ伏したまま上がらない。どうやらもう一声必要なようだ。
どうしようかともう一度イライのアドバイスを思い返す。女性は愛を確かめたい生き物、とか変化に気付いたら言え、だとか。髪型でも匂いでも、気付いたなら褒めろと言っていた。
「…………」
ーーどんなことでも気付いたら。
ナワーブは先程見たトレイシーの瞳を思い出す。彼女のことなら忘れない。空色の瞳だったことは今までもあったけれど、あんなに深い色の青は初めて見た。
正直ナワーブは、歯が痒くなる様なことは言いたくはない。言いたくはないが、ノートンやイライに散々脅された後なので、言わねばならない気がする。後ろからの圧もあるので尚更だ。
覚悟を決めて腰を屈め、ナワーブはトレイシーにだけ聞かせるように口を開く。
「その目、瑠璃みたいだ。綺麗だと思う」
「………………………………け」
「うん?」
「め、だけ?」
自分の手の影から伺うように、トレイシーが顔を少しだけ上げる。訴えるような目が、夕日の反射できらきらと反射する。
ナワーブが綺麗だなと見入っていると、ガスガスと脹脛に追撃が来た。
「いてぇよ!」
「なにぼーっとしてんだいこの唐変木が!女性にかける言葉が先だろ!早くしな!」
好きで邪魔してんじゃないんだよ、私は!とデミも怒り心頭だ。いい雰囲気になってきたから邪魔者は立ち去ろうと、何度もそろりそろりと出口に向かっていたのに、ナワーブがあと少しのところでやらかすので、さっきから指摘のために往復しているのだ。
トレイシーがナワーブへの好意を隠さず全開なのはいつものことだ。だけど、こんなに目に見えて甘えてるとこなんか見たことがない。多分、いや絶対にデミの存在に気付いていない。気づいていない上に寝ぼけているからこうなっているんだろう。
これは好機なのではとデミは思っている。まどろっこしいこの二人の関係にイライラしているのは、ノートンだけでは無いのだ。
楽しい酒盛りのためにも、いい結果にしてくれとデミは思う。じゃないと肴にできないじゃないか。
「なわーぶ」
ひそひそと二人がやりとりしている間に、焦れたのかトレイシーが名前を呼ぶ。自身の頭に置かれていたナワーブの右手を掴んで落とす。
「おい?」
「こどもじゃないもん……」
子供じゃないと言いながら、払い落としたナワーブの手を両手で抱え込む。手を引き抜こうとするナワーブにいやいやと首を振る。返事をしなかったことに完全にトレイシーは拗ねてしまった様だ。
少し力を入れれば手は解放されるだろうが、その対応が悪手なことは、人に言われなくてもナワーブにも分かる。だが、果たしてどう返すのが正解なのか、それは分からない
ぐるぐると思い悩んでいる男に、デミは仕方ないと小さく息を吐く。恋する乙女に向き合おうとしている姿勢は、不器用だけども評価してやろう。
デミは軽めにナワーブの脹脛を蹴り、ひそりと助言を吹き込んでやる。これで察せないなら見込みはない。目を丸くしている男の背中を叩いて、今度こそ部屋を出る。これ以上は野暮になる。邪魔者は退散だ。
ぱたんと閉じた扉の音を背に、ナワーブは目の前の寝ぼけ姫に向き直る。トレイシーは人の手を抱えたまま、うとうとしている。
――まったく。猫か、お前は。
飼ったことはないが、話には聞いている。気ままに奔放に振る舞う。こちらの都合に構わずに擦り寄り、そして逃げていく。目が離せない、一度迎えれば手放せない存在なのだと。
人の気も知らずに、じゃれついたかと思えば他所に向かい、近くにいても機械いじりに夢中になってしまうこいつにそっくりだ。
ふっと笑い、ナワーブがトレイシーに左手を伸ばす。取られると思ったのか、トレイシーは抱えたナワーブの右手にぎゅっと力を込めて、くるりと丸くなった。
「おい。」
「や」
「お前なぁ……そういう可愛いことは起きてる時にやれよ……」
同意が無いと手が出せねぇんだっつの。ナワーブは片手で顔を覆い、嘆く。ヘタレヘタレと好き勝手言ってくれる。こっちはどれだけの理性をかき集めて耐えていると思っているんだ。
一度、寝ぼけてトレイシーに怪我をさせてしまったことがある。当人は気にしてないと言うが、あの時の青ざめた表情が忘れられない。だから少しの事でも怯えさせたくはないのだ。
しかしトレイシーには、ナワーブの葛藤など知る由もない。ただただ抱えた手を取られない様にと、ぎゅうぎゅうに抱きしめる。
「こどもじゃない……」
「とれ、」
「こどもあつかい、しないで」
濡れた青い目に大人びた化粧。切なげに見上げる顔にどきりとする。仕草は酷く幼いのに、色香を感じずにはいられない。

『その子の格好、本当に「可愛い」かい?よく考えなよ「お兄ちゃん」』

去り際にデミが言った言葉が、鐘の様に脳内に響く。嫌味のような兄呼びも、自分の中で刺さっていた棘を剥き出しにされたような気分だ。
トレイシーが自分に好意的なのはナワーブも感じている。だがそれは恋愛ではなく、兄を慕う様な気持ちなのではないかと不安に思っていたのも確かだ。そんなことはないとわかっているが、完全には拭い去れない疑念だった。
まだ子供だから、幼いからと散々理由をつけてきた。だがその言い訳もトレイシー本人には筒抜けだったのかと思う。
ナワーブは自分の顔が熱くなるのを感じた。こんなに明確に指摘されるとは思ってなかった。顔を覆いたい気分だったが、片手はトレイシーが捕らえて離してくれない。逃げ道はなかった。
「……綺麗だと思ったよ。最初に見た時に」
観念したナワーブは、前髪を乱雑に掻き上げて、白状する。
本当はトレイシーが着替える前からエントランスにいたこと、出てきた姿に見惚れていたこと、そして仲良くルカとルキノと会話している姿に嫉妬が抑えられなくなり、逃げ出したことを。
ナワーブがそう告白するのを、トレイシーは潤んだ目のままじっと聞いている。眠そうな瞳は今にも閉じそうだったが、ナワーブの右手をしっかりと掴んだ力は緩まない。
ナワーブが話終えると、トレイシーは体を起こして屈んでいたナワーブのフードを掴む。
「なわーぶ、私、こどもじゃない?」
「……だから、そう言ってんだ、っ」
くん、とフードの襟元を引かれて、前のめりになっていたナワーブが体勢を崩す。慌てて寝台に手をついたナワーブの頬に、ちゅっと可愛い音を立ててトレイシーがキスをする。
「!!!!」
「うふふー」
トレイシーは満足そうに笑うと、パタリと倒れてくうくうと寝息を立て始めた。残されたナワーブは頬、というよりも唇の隣あたりを抑えて固まるしかない。
予想外のトレイシーの行動に、ナワーブは思考も止まってしまった。動けないでいるナワーブが取り残された空間に、時計の針が時を刻む音だけが鳴り響いている。
数分後に正気を取り戻したナワーブはがくりとその場に膝をついた。
「……………………………………お前、本当に、猫かよ!!」
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