今じゃないだろ

慣れた森の道が、遠く感じる。トレイシーは忌々しげに足元のブーツを見下ろす。普段は踵が低い靴で生活しているから、体重が集中する足の甲の先が痛い。
ヒールが高い靴は「機械人形師」や「心の鍵」で少しは慣れたけれど、柔らかい土の上は本当に歩きづらいのだ。
「ぺたんこの靴でいいのに……」
ぶつぶつと文句を言いながら、トレイシーはブーツを脱ぎにかかる。もう足が限界だったし、この後は着替える気満々だから、靴ぐらいは構わないだろう。
今日は新しい衣装が来ることはわかっていたので、彼をびっくりさせようと思っていたのだ。だから昼食の時間に必ず通る、エントランスホールで待ち構えていたのだ。なのに全く姿が見えないと思ったら、森で寝こけているときた。
「もう!今日に限って、食いしん坊のくせに!」
ぷりぷりと怒りながら、トレイシーはブーツを掴んで歩きだす。タイツの足裏に地面が柔らかく当たるのが気持ちいい。踵が高い靴を脱いだ後の、この感覚は嫌いじゃない。
裸足で森を歩くなんて本来なら危険だけど、ここの道は綺麗に平坦に整えられている。タイツは汚れるだろうけど、荘園の衣装は明日には勝手に綺麗になっているし、問題ない筈。
「せめて部屋で寝ててよね……!」
枝に引っかかるスカートを、空いてる手でまとめてたくしあげる。どう考えても、森を歩くのには向いていない格好だ。
ここまでして会いに行って、無反応だったらどうしてやろうか。ブーツの踵で踏むぐらいはしてやりたい。
朝から活動していたこともあって、疲れているトレイシーは物騒な考えになっている。ナワーブも、流石におやつの時間には現れるだろうと思って、足の怠さを我慢していたのだから無理もない。
普段より時間をかけて、トレイシーは「いつもの木」に辿り着いた。
巨木とまでは行かないが、それなりの太さがある木だ。根本が座るのに丁度いい形に窪んでおり、そこにすっぽりと収まったナワーブが、幹に背を預けてぐうすかと寝こけている。
「……うーん」
トレイシーはぐうぐうと寝続けているナワーブを前に、考える。ここまで来たのはいいけれど、どうやって起こそうか。
声をかけて普通に起こすことも考えたけれど、それだと自分だと最初からバレてしまう。それは面白くない。
なにかこう、驚かしてやりたいところだけど、こういううたた寝状態の時に驚かせると傭兵だった時の習性で、とんでもない反撃を受ける。それで前に腕を捻られたことがある。あの時は自分が悪かったのに、ナワーブがエミリーにこっぴどく叱られていた。
「んー……」
腕を組んで、目を閉じて唸る。
なにか、安全に正体がバレずに起こす方法。離れたところから何か投げるとか?石は流石にまずいから、木の実とかぶつけてみるのはどうだろう。どんぐりなら転がっていそうな気がする。
よし、とトレイシーが目を開くと、フードの下から覗いている目と視線が合った。
「…………」
「…………」
ぼーっとした顔のナワーブは多分まだ寝ぼけている。トレイシーは慌てて無表情を取り繕い、じっと相手を見返す。さて、どう言う反応をするだろう。
ちょっとワクワクしながらトレイシーが佇んでいると、ナワーブはぼーっとしたまま、片手を地面について腰を浮かす。立つ気かな?とのっそりとした動きをトレイシーが見ていると、素早く伸びてきた手に腕を掴まれ強引に引っ張られる。
「!!」
まさかそんな行動に出るとは思っていなかったので、踏ん張る間もなかった。ナワーブは元の位置に腰を下ろして、つんのめったトレイシーもそこに倒れ込むしかない。人の体とはいえ、筋肉質な体はクッションには硬すぎた。ナワーブの胸に顔面をぶつけて、トレイシーは思わず呻いてしまう。
体を起こそうとした時には、がっしりと二本の腕が体に巻き付いていて、動けなくなっていた。
「ちょっ」
「……ん」
文句を言おうとすると、頭を掴まれた。何かと思っていると、トレイシーの冠が外される。髪飾りも同じように引き抜いて、ナワーブはそれらを放り投げる。
そうして満足そうに「よし」と呟くと、トレイシーを抱え直し、再び寝る体勢に戻った。
一連の動作の意味がわからずにしばらくフリーズしていたトレイシーだったが、髪にかかるナワーブの吐息で気付いた。
ーー顔に当たるから邪魔だったってこと?!
「ちょっと!起きてよナワーブ!寝ないで!」
「うるせえ枕、静かにしろ」
「まだ寝る気?!」
「………………」
「本当に寝てるし」
トレイシーは体の位置を動かそうとして、しっかりと巻き付いている腕にそれを諦めた。
折角の新しい衣装なのに、汚れてしまう。綺麗な状態で見せたかったのに、寝ぼけて台無しにするとはどうしてくれる。
むうとトレイシーは頬を膨らませて、せめてもの抵抗でナワーブの顎に頭突きをする。そんなに威力はないけれど気持ちよく寝ているのが腹が立つ。
「あぐっ、なにしやがる……」
「こっちのセリフなんだけど」
「わかったわかった、後で遊んでやる……」
「もー!」
ダメだ、起きる気ない。よしよしと頭を撫でられて、トレイシーは子供扱いすんなと手を払い落とす。面白くない。本当に面白くない。
動く気がないなら、ここで自分も寝てしまおう。はっきり起きた時にナワーブがどうするかわからないけど、放置されることだけはない筈だ。
トレイシーは体を縮めてナワーブに体重を預ける。重くても自業自得だし、知ったことじゃない。
不貞寝のつもりだったトレイシーだったが、朝から動き回っていたので疲れていたらしい。日差しの暖かさもあり、すうっと睡魔に引き寄せられる。
ナワーブは体の力が抜けたトレイシーの頭に頬をすり寄せる。
「来るのが遅えよ……」
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