親鳥じゃないですが

――それはある木曜日の昼に起きた。

硝子が割れる音が脳内に鳴り響く。
ノートンが目を開くと、そこは崩れた囲いの瓦礫と暗号解読機、そして一枚だけの壁の成れの果てがあった。壁の向こうには天井から二階の壁にかけて、大きな穴が空いてしまっている廃病院があった。
――あまり、嬉しくない場所に出現してしまったな。
ノートンがいるのは非常に不利な地形でハンターに狙われやすいポジションだ。周囲を警戒しながら、廃墟の囲いの外にある解読機に取り付き、作業を開始する。
『それで相手は誰だ?』
『……うーん』
『イライ?』
いつもはいの一番に無線でハンターの種類を告げるイライが沈黙しているので、焦れたナワーブが問いかける。しかしそれでもイライはなんとも言えない歯切れの悪い反応を返す。
『なんだろう……院内にいるのは分かるんだけど、ウィル三兄弟、ではないし』
『ええ、開始時にその音は聞こえませんでした』
メリーの言葉に、確かにそんな音は自分も聞いていなかったなとノートンは考える。ウィル三兄弟ならばゲーム開始時に絶対に車輪形態に変わる音がするはずだ。
『なんか分かりづらい衣装だったのか?』
『うん、ごめん。分からない。でも奇襲してくるタイプではないからそこは安心して』
「分かった」
そう返事を返しながらも、あの三兄弟と間違える衣装ってなんだろうとノートンは首を傾げた。いろいろと思い返してみたが、全く思いつかない。
これは誰がくるのかとノートンは警戒しながら解読作業を進めていく。だが、誰からもハンターの接近報告は来ないままだった。
このままだと何もないまま解読が一台終わってしまうな、とノートンが考えていると、軽い機械の起動音と赤い光が地面を走る。
それが何かを認識するより先に体が動く。地を転がり、ノートンがその光の範囲から逃れると同時に炸裂音が鳴り響く。
――相手はボンボンか!
一体どこから、とノートンが辺りを見回すと、病院の二階から飛び降りる、黄色い影が目に入った。
あんなところから狙われたのか、と感心すると同時にノートンは呆れてしまう。自分の姿が見えたとは思えないから、当てずっぽうで爆弾を投げたのだろう。しかしその狙いは正確なのだから厄介だ。
ボンボンが到達する前に距離を取らなくては。ノートンはその場から走り出す。心音はもう届く距離に入っている。少し出遅れてしまった様だ。
――だったら、一度気絶させて距離を取る。
行手を阻む爆弾を避け、磁石を投げようとノートンは振り返った。
そして視界に入った、この場にいる訳のない、いてはならない存在に目を見開いた。
「何やってんの、トレイシー⁉︎」



『異常事態発生!異常事態発生!ゲームを中断します』
無線から鳴り響く機械アナウンスに、それぞれ暗号解読をしていたメンバーは何事かと作業を中断する。
ノートンから、ハンター接近の信号を送られた直後の出来事だ。レーダーを確認すれば、やはり最初にノートンがいた辺りから報告が飛んでいる。
普段なら即座に届く、異常事態の内容報告もない。只事ではないと感じた面々がレーダーの示す位置に行くと、おかしな光景が広がっていた。
踊るアヒル衣装のボンボンと、その前で頭を抱えているノートン、そして。
「なんでここにトレイシーがいるんだい?」
「その理由を今聞いてたところだよ……」
イライの問いかけに、ノートンがうんざりとした顔でそう答える。
ボンボンのアヒルの尻尾を足掛かりに、丸い頭にしがみついている黄色いパーカー姿のトレイシーがにこにこと笑っている。
イライの天眼でウィル三兄弟に見えた理由は、このボンボンの上にあったトレイシーの頭のせいだろう。
「ん?なんでトレイシーがいんだよ」
「トレイシーさん、何故ここに?」
駆けつけたナワーブとメリーも当然その場にいる筈のない存在に驚き、同じ問いが出てしまう。
そんな面々の困惑した様子も気にせず、ボンボンはご機嫌にトレイシーを背中にくっつけたまま、くるくると回っている。
「ミンナ来タ!デモ、ゲーム中止残念ダネ」
「その原因絶対お前の背中にいる奴だろ……なんでこうなってんだ?」
ナワーブが呆れながらそう尋ねるも、ノートンが首を振って肩を竦める。
「俺もさっきからそれ聞いてるんだけど、ボンボンの説明が全然要領を得なくて困ってる」
「そりゃ、トレイシーに聞いた方が早いだろ」
「なら聞いてみなよ」
ノートンが眉を顰めてぶっきらぼうにそう言い放つ。何故そんなに不機嫌なんだと思いつつ、イライはボンボンと一緒になってはしゃいでいるトレイシーに話しかける。
「トレイシー、楽しんでる所悪いんだけども、この状況の説明をしてくれるかい?」
イライのその問いかけに、トレイシーはにっこりと笑って口を開いた。
しかし、その口から出た声は人間の声ではなく、「ぴーよ!」という雛鳥の甲高い鳴き声だった。それは到底、人が出せる声ではない。イライは「うん」と納得したように頷く。
「話、聞けないね。これ」
「そう。だから困ってたんだよ」
「ナイチンゲールさん、応答してください。ゲームで『異変』起きてます」
メリーは早々に無線のチャンネルを緊急用に切り替え、「異変」の報告をし始める。これは相手から反応があるまで続けなくてはならないのだが、今日は荘園の「定期更新」日なので管理者であるナイチンゲールは中々捕まらないだろう。

荘園の「更新」は規模の大小は様々だが必ずやってくる。大規模な内容の時は「更新」の間は全員が居住区の決まった位置から出れなくなる事もある。しかし、今回のような「定期更新」は大したことはないので多少の警戒は促されるが、普段通りの行動を許されている。
「更新」の間はナイチンゲールはそちらの調整に掛り切りになるので、不在になる。だからと言ってルール違反が起きれば、即座にペナルティが科されるので荘園の主の目は健在のようだ。
問題は、「更新」によって時折起きてしまう「異変」だ。
「異変」は細やかなジョークのようなものから深刻な異常事態まで様々な事例がある。
過去の記憶と現在の記憶の混濁、他人と入れ替わる、扉の先が異空間に繋がる、動物化、延々と同じ時間が繰り返されてしまう部屋など枚挙に遑がないのだ。
人や場所、時間や空間にも影響を及ぼす「異変」は放っておけば綻びが広がり、大惨事に繋がりかねないので、見つけ次第即座に報告するのが荘園の住人の義務となっている。

メリーが連絡を取ろうとしている間に、ナワーブはうきうきしている黄色い二人に話しかける。
「おーし、トレイシーの中身が鳥になってるのはわかった。で、お前はなんでそのトレイシー乗っけたままゲームに参加しちまったんだ」
「トレイシー、一緒ニ来タイッテピヨピヨシテタカラ!ボンボン、力持チダカラ大丈夫!」
「ぴるるっ!」
「……話が要領を得ないんだが」
「だから言ったじゃん」
額を抑えて唸るナワーブに、ノートンは憮然とした顔でそう告げる。そんな事、当然自分だって聞いている。
「ナワーブ、僕の記憶違いかもしれないんだけどさ」
「あ?どうした」
トレイシーをじっと観察していたイライが、その服装を指差す。
「トレイシーってこんな衣装持ってたっけ?」
「んん……」
言われてみれば、とナワーブはトレイシーの全身に目をやる。
コミカルな鳥の顔が描かれた黄色いニット帽、真っ黄色のブカブカのパーカー、体のあちこちに散りばめられた黄色いひよこの飾りに、同じく鳥の顔のついた長靴。
人の衣装に疎いナワーブでも、流石にこんなド派手な色で、ひよこをこれでもかと強調している服は、一度見たら忘れない。
しかし、初めて見るのに、この衣装に妙な親近感を覚える気もナワーブはしている。
「そういや、見た事ねぇな」
「俺もないかな」
「だよね。やっぱりそうだよね」
「なんか、ボンボンのアヒルとよく似てる気はする」
「いや、色だけだろ」
ノートンの感想にナワーブは首を振る。
アヒルの雛も黄色ではあるが、トレイシーのひよこは嘴の形からして別のものだろう。
しかし、イライは真剣な声音でぶつぶつと呟いている。
「でも、ひよこって刷り込みで別の生き物も親と思い込んで、後を追いかけるって聞いた事があるような……」
「人間だろ、トレイシーは」
「ぴーよ!」
「……多分」
「自信無くなってるじゃん」
ボンボンの頭に頬擦りしているトレイシーに、ナワーブも不安になってくる。ボンボンとトレイシーの仲は悪くないとは思うけれども、あんなに懐いていたかと言われると違うような気もしてきた。
「まあ、この際トレイシーが人間かひよこかはどっちでもいいんだけど、このままくっつかれてるとゲーム再開ってなった時に困らない?」
「それはそうだな。流石にトレイシーはゲームフィールドから追い出さないと……」
「ってさ。だからトレイシー、そろそろボンボンから降りて帰って欲しいんだけど」
ナワーブの同意も得たので、ノートンがそうトレイシーに語りかける。が、トレイシーは目を瞬かせるとぶんぶんと首を横に振る。
「ぴぴ!」
「嫌だって」
「訳さなくても見りゃわかるわ。つか、俺らの言ってる事は一応通じてるんだな……そこは安心した」
先程からトレイシーは鳥の声でぴよぴよと鳴くだけだったので、意思疎通もはかれていないのではとナワーブは思っていたのだ。
しかし、結局言う事を聞いてもらえないのではどうしようもない。ノートンはトレイシーを強制的にボンボンから引き剥がそうと、その胴体を掴んだ。
ところが――
「ぴ!」
「っ!」
「ぴいぃー!」
「ふんっ!」
「ぴよー!」
「うっ……!このっ……!」
ボンボンの頭にしがみついたトレイシーは、ノートンがどれだけ力を込めて引っ張っても、全くびくともしなかった。
何を遊んでいるんだと最初は呆れて静観していたナワーブも、ノートンが体重を後ろにかけ始めた辺りでおかしい事に気付く。
「お、おい?」
「なんかこの子、めちゃくちゃ力強いんだけど!」
「そんな事あるかい?」
「疑うなら手伝ってくれ!」
訝しげなイライに、ノートンは苛立った声で叫ぶ。言われるがまま、イライもトレイシーを引き剥がそうとするが、全く歯が立たなかった。
「うっ……!くっ……!」
「トレイシー、ボンボン離して……!」
「ぴぃぃ!」
「アワワワワ!」
「とっ、危ねぇ!」
男二人の力に耐えきれなかったのはトレイシーではなくボンボンの方だった。後ろに傾いだ黄色いアヒルを、ナワーブは慌てて翼を掴んで支えてやる。
「大丈夫かよ、おい」
「ナワーブ、アリガトウ!」
「それはいいが……って」
ナワーブの耳に、みしみしと金属の軋む音がする。驚いて顔を上げると、トレイシーが掴んでいる力が強すぎるせいか、ボンボンの頭からその不穏な音がしている事が分かる。
――どんだけの力で掴んでるんだよ⁉︎
これが機械のボンボンじゃなかったらとナワーブは背筋がゾッとする。そして急いでトレイシーを引っ張っている二人に声をかける。
「イライ、ノートン!手、離せ!ボンボンからやべえ音してる!」
「は?」
「なんかみしみし言ってるんだよ!頭が!」
「それはまずい」
言われた通りに二人が手を離す。そうすればトレイシーはボンボンの頭によじ登り、引き剥がされそうになった事を抗議する様に激しく鳴き始める。
「ぴよぴよぴよぴよぴよ!ぴぴぴぴ!ぴいいいいい!」
「何言ってるかわかんねぇがうるせえええ!!」
「イライ、通訳!」
「そんな能力無いから!」
「鳥の言う事分かるんじゃないの⁈」
「分かるわけないだろ!そもそも鳥語なの、これ!トレイシーだけど⁈」
「ぴよっ!ぴぴいいいい!」
「トレイシー、落チ着イテ!」
「あの、みなさん」
ぎゃいぎゃいと騒ぐ面々の背後から、メリーが冷静な声で告げる。
「ナイチンゲールさんと連絡が取れました」



ざざ、とノイズ音が鳴り、空から聞き慣れたナイチンゲールの声が流れ出す。
『皆様、対応が遅れて申し訳ありません。まずはゲームですが、「異変」が入り込んでしまったので中断ではなく無効とさせていただきます。他の異常の原因がないかを確認したのちにゲートを開きますので、速やかに荘園へとお戻りください』
「やっぱそうなるよなぁ……」
ナワーブはそうぼやきながら、ボンボンの方向を見やる。
丸いアヒルの頭に同化する様に黄色パーカー姿のトレイシーがしっかりと組みついている。絶対に離れないという意思を感じる。
ノートンはそんなトレイシーを指差しながら尋ねる。
「『異変』ってこれの事だよね。そもそもなんでゲームに入り込んでるの、この子。普通はまずゲームに弾かれる筈だろう?」
『本来ならばまだ荘園にあってはならないものが今回の「更新」で紛れ込んでしまったのです。存在が認識されていないので、荘園のシステムを素通りしてしまう様です。なので「異変」を処理するまでは全てのモードのゲームを閉鎖致します』
「あってはならないものってのは?」
ナイチンゲールの宣言にナワーブは首を捻る。トレイシーはもう何年もここにいるのだから、今更システムを素通りする訳がない。
トレイシーを振り返ったメリーが「もしかして」と呟く。
「トレイシーさんが着ている、その黄色の衣装の事では?私の記憶では見た覚えがないのですが、確か月末に新しく衣装が追加される予定がありましたよね」
「あー、あったねそんな話。ナワーブのクマとプリニウスさんのうさぎと同じシリーズのが来るって。って事はこのトレイシーの服、あのカメラ持った置物のひよこなんだね」
「だからなんか見覚えがあったのか……」
イライの言葉にナワーブは顔を顰めて唸る。クローゼットの奥に押し込んで、あったことすら記憶の彼方へと消したかったクマの着ぐるみ。そのシリーズが戻ってくるという知らせはナワーブも聞いていた。あれの仲間がこれなのか。
「存在しない衣服を着ているトレイシーさん自身も、荘園のシステムに認識されなくなった、という事でしょうか」
『正確にはトレイシー・レズニックは「異変」と完全に同化してしまっているので分離させなければならないのです。このゲームフィールド内を確認しましたが、他の異常は存在しません。このままフィールド外の調査を行いますので、少々お時間をいただきます。その後に一度彼女の身柄を引き取らせていただく必要があります』
「ダッテ、トレイシー。ナイチンゲールノトコ行コウ?」
「ぴよっ」
ボンボンの呼びかけにも、トレイシーはやだと言わんばかりにそっぽを向く。
「見ての通り、こいつ中身もひよこになってる上に、ボンボンにすげえ執着してて離れないんだが」
「あと、なんか尋常じゃなく怪力なんだけど」
『調べなくては分かりませんが、怪力はモデルになった存在の影響を受けている可能性があります。執着は雛鳥の刷り込み本能で親鳥と思い込んでいるか、もしくはその衣装に反応して仲間と思っているのではないかと予測します』
「ああ、そうか。そっちは確認してなかった」
「ボンボンさん、他の衣装に着替えてみてくれませんか?」
「分カッタ!」
メリーの言葉に元気に頷いたボンボンは、アヒルの衣装から普段の服に着替えて見せる。
ボンボンの黄色のアヒルの頭がシルクハットに変わった途端、トレイシーは地面に飛び降り病棟の廃墟へと歩いていってしまう。あれだけボンボンにしがみついていたのが嘘の様に、興味を失ってしまった様だ。
その姿を見て、ナワーブは額を撫でながら呆れた溜め息を吐く。
「……本当に仲間だと思ってたのか」
「鳥の衣装に反応してたんだ。親鳥と思ってた可能性も捨てきれないんじゃないの、あれ」
「そうかもな」
「おーい、トレイシー。あんまり遠くに行っちゃ駄目だよ!もう帰るんだから」
「ぴよ」
聞いているのかいないのか、トレイシーは一声鳴くとふらふらと中央の院内廃墟の出窓の割れ目に入っていってしまう。
「大丈夫かなぁ」
「まあ、ゲートは閉まってるし、この聖心病院のフィールド内なら勝手に出られないから平気じゃない?」
「それなら、いいんだけど」
心配げにしているイライを尻目に、ノートンは手頃な岩に腰掛けた。ナイチンゲールも静かなので、先ほど言っていた異常の確認をしているのだろう。今自分たちが出来る事は待機する事だけだ。
ぺたりと地面に座り込んだボンボンがキュルキュルと首を動かし、最後に首を一回転させてシルクハットを両手で掴む。
「ナンカ、首ガ変カモ?」
「ああ、お前一回バルクに見てもらった方がいいと思うぞ……さっきトレイシーが掴んでた所やべえ音してたからな」
至近距離で金属が軋む音を聞いていたナワーブはボンボンにそう忠告をする。あの調子でずっとトレイシーが掴んでいたのだから、他の場所にもなにか不具合が出ているかもしれない。
ボンボンもこくりと頷き「ソウスル」と答える。
「トレイシー、最初ハ顔ニクッツイテテ前ガ見エナカッタンダヨネ。オ願イシテ背中ニ移動シテモラッタ」
「それで中々、院内から出てこなかったんですね」
「よく演繹を中断しないで続けようと思ったな、お前……」
「ボンボンナラ、ヤレルモンネ!」
「はー……舐められたもんだぜ」
どん、と自信満々に胸を叩くような動作をするボンボンに、ナワーブは腕を組み、挑戦的な笑みを浮かべる。
ロケットチェアの拘束耐久時間を大幅に減らす新しい能力が来たからか、最近のボンボンはゲームへの参加意欲が高めなのだ。
しばらく雑談をしたり、うたた寝をしたりと各々で時間を潰していた五人だったが、やがてメリーが空を見上げて呟いた。
「なんだかナイチンゲールさん、時間がかかっていますね」
「荘園全体の確認だからね、簡単ではないのかも」
「でも、そろそろいい時間だし、トレイシー呼び戻した方がいいんじゃない?」
「それもそうだな。おい、トレイシー!」
ナワーブは出窓に近づくと、病院の廃墟の中に向かって呼びかける。しかし、しんとした院内からは何も返ってこない。首を傾げながらナワーブは内部に入ってみるものの、人の気配が感じられなかった。
「どこ行ったんだ?あいつ」
「先ほどまで出窓の付近にいましたよね?」
「ウン。ボンボンモ見テタ」
数分前までちょろちょろと窓の内側で動いているトレイシーの姿をメリーもボンボンも見ていたのだ。飽きて別の場所に行ってしまったのだろうか。
ノートンは面倒だなと思いながらも重い腰を上げる。「異変」になってしまったトレイシーを野放しにするわけには行かない。そんなに広くはないフィールドなので、全員で手分けして探せばすぐに見つかる筈だ。
女神像に向かおうとしたノートンは、微かに聞こえたある音に気付いて眉を顰めた。
「うん?」
「どうかしたかい、ノートン」
「……聞こえない?これ」
「なに?」
「しっ」
人差し指を立てるノートンの言う通り、口を閉じたイライの耳に微かな送風音が聞こえる。それはゲーム中ならばサバイバーにとっては救いとなる音だ。しかし今はしてはならない音だった。
ノートンとイライは黙って顔を見合わせると、囲いの廃墟の向こう側、少しだけ開けた空間に回り込んだ。
まさかそんな事はないと信じたかったが、イライとノートンの目に入って来たのは地面に空いた四角い穴、そして無理矢理こじ開けられ歪んでいる鉄の扉だった。
異常事態に気付くまでに、暗号解読を二台完了してしまっていたことが災いしてしまった。出現していたハッチをトレイシーが開いてしまったのだ。
ノートンは愕然とした顔で呟いた。
「どんだけ怪力になってるの、あの子……バールも無いのにハッチ開けたって事?やばすぎでしょ」
「お前らなに騒いで……って、なんでハッチが開いてるんだ?!」
「まずいんじゃない、これ?!トレイシー荘園に行っちゃってるよね?!これ『異変』が野放しになったって事じゃ……」
ナワーブは慌てて無線を取り出すと、叫んだ。
「ナイチンゲール!応答しろ、やばい!トレイシーが、『異変』が逃げた!」





鼻唄を歌いながら回廊を歩いていたジャックは、黒い羽根がふんだんにあしらわれた自身の襟元を正す。洒落者と自負しているジャックは、ゲームに参加する度に衣装を替える拘りがある。今着ているのは「霧のミサゴ」だ。全体的に色味は抑えめだが、羽根を使った大胆なデザインの黒の上着が印象的だ。
目を前に向けると、ゲームロビーの扉の前に佇んでいる男に気付きジャックは足を止めた。
「おや、そんなところで何をしているんですか?アントニオさん」
「ゲームの予定があったんだが、閉鎖中だそうだ」
そう答えるアントニオは不機嫌そうにゲームロビーに続く扉のノブを捻って見せる。がち、と言う音がするので扉に鍵がかかってしまっているようだ。
「閉鎖……なぜまたそんな事に?」
「詳しい事は判らんが、『異変』が原因のようだ。解決するまで全モードが閉鎖すると」
「それは困りましたねぇ……私、今とても協力狩りに行きたい気分だったのですが」
首を振りながら大仰な仕草でそう言うジャックに対し、アントニオは首を傾げた。
「協力狩り?ブラックジャックじゃないのか?」
「それも悪くは無いですが……何故そんな事を聞くのですか?」
「そんなのを連れて歩いていたらそう思うだろう」
「はい?」
自身の背後を顎をしゃくりあげて示すアントニオに、ジャックは訝しみながら後ろを振り返った。
すると、とことこと歩み寄ってくる黄色い生き物がいる。いつから着いて来ていたのだろう。ジャックが目を丸くしていると、相手はぱっと顔を輝かせた。普段とは大違いの、見た事もないその反応にたじろぎ、ジャックは思わず問いかけた。
「何故、貴女がハンターの居館にいるんです?トレイシー」
「なんだ?二人で衣服を合わせて来たわけじゃないのか」
アントニオの指摘に目を向ければ、トレイシーが身につけているのは黄色の小鳥、いやひよこのモチーフの衣装だった。ジャックも鳥がモチーフな衣装なので、言われてみれば揃えている様にも見えるかもしれない。
しかし、ジャックは首を振りそれを否定する。
「いいえ、これは全くの偶然ですね」
「そうなのか?私はてっきり……」
アントニオが話している最中に、近寄ってきたトレイシーが嬉しそうに口を開いた。
「ぴーよ!ぴるるっ」
人の声では決して出せない、高音の澄んだひよこの鳴き声が回廊に響く。今回の「異変」の正体に気付いた二人は、黙ってひよこになってしまった少女を見下ろした。
「原因が向こうから勝手に来たな。これを捕まえればいいのだろうか」
「それはいいですが、この程度の『異変』でゲームの閉鎖なんかしますかね?」
「それはわからんが……解決するならそれでいいだろう」
そう言ってアントニオがトレイシーのパーカーのフードを掴んだ。途端に「ぴいいいい!」と叫んだトレイシーは、身を捩ってその腕を振り払った。その勢いと力が強かったのでアントニオは思わずよろめいてしまう。
「おっと⁉︎」
「ぴ!」
驚いているアントニオを他所に、トレイシーは素早くジャックの背後に回り込み、その腰にしがみついた。
振り払われたアントニオと、トレイシーに取りつかれたジャックは思わず顔を見合わせた。
「……………………」
「……………………」
アントニオは吊り上がった口角を益々楽しげに歪め、面倒ごとに巻き込まれた事に気付いたジャックは天井を仰いだ。
ゲーム中もゲーム外も問わず、サバイバーを玩具認定しているジャックだ。普段ならばトレイシーも、ジャックに対し苦々しい顔で警戒心剥き出しの対応をする。
それが、後を追いかける、嬉しそうに近寄ってくる、しがみつくと全く真逆の反応だ。
他人が混乱し喚く姿を眺める事は大変に楽しいとジャックは思っている。しかし自身が騒動の渦中に巻き込まれるのはいただけない。「異変」は特に碌な事が起きないので無縁でいたいと毎度願っている。
だが、今回はそうはいかないらしい。どういう理由かは分からないが、その「異変」が起きている相手に懐かれてしまっている。厄介事が降りかかってしまった事は確定だろう。
アントニオはにやにやと人の悪い笑みを浮かべて、顎を摩っている。
「おやあ?私が知らない間に、随分と彼女と深い仲になっていた様だなあ、色男」
「振られてしまったアントニオさんはお気の毒ですが、私の魅力ゆえの事ですので」
「なるほどなるほど。悪い男に弱い女性が多いのも世の常ではある。毒牙にかかる被害者がまた増えてしまうな」
「邪推はよろしくないですね。まだ私達は至って清い関係ですし、そもそも私の好みからは少し外れるといいますか」
「もう少し成熟している方が好みという事か、それとも体型か」
「女性を前にその話題は御法度ですよ。紳士たる私はその様な事で女性を選り好みしたりしません」
「嘯くじゃないか。獲物は吟味するタイプだろう」
「なんのお話かさっぱりですね」
「ふむ?しかし、それにしても随分と積極的なアプローチを受けている様だが」
「ええ、見たことのない積極性に私も非常に驚いています」
「………………本当に積極的な様だが」
アントニオと会話を続けながら、トレイシーを剥がそうとしていたジャックだったが、片手にある刃の爪が邪魔で中々上手くいかない様だ。
ゲーム外でハンターがサバイバーを故意に傷つける事はルールで禁じられている。だから強引な手段には出られない。
トレイシーの手を掴んだジャックの右腕がぶるぶると震えている事に気付いたアントニオは、訝しげに首を傾ぐ。いくらルールがあろうと、片手であろうと、たかが小娘一人を剥がすのにここまで苦戦しているのは異常だ。
「おい、ジャック」
「っ……なんでしょう?」
「随分と余裕がないように見えるのだが」
「よくお分かりで。実際、無いんですよ……っ!この子の腕、鋼鉄の枷くらい頑丈な上に、じわじわ締め付けてきているもので……っ!」
大袈裟な、とアントニオも笑い飛ばしたいところだが、少女の細腕を外そうと力んでいるジャックとは裏腹に、トレイシーは涼しい顔でにこにこと微笑んでいる。
アントニオも先程腕を振り払われた時に、並の女よりも力が強いなとは感じていたのだ。
「……手を貸した方がいいか、それ」
「出来ましたら、今すぐにでもお願いしたいですっ……!私の内臓が無事なうちに」
「ああ、そういう拷問器具があった様な気がするな……」
「今その話します?」
「分かった分かった」
大分切羽詰まっている様子のジャックに、アントニオは仕方がないと片腕でトレイシーを抱え上げた。当然、突然持ち上げられたトレイシーはじたばたと暴れ出す。しかしその腕はジャックの胴体から離れない。
「ぴ!ぴよ!ぴーよ!」
「トレイシー、君がそのままだとゲームの閉鎖が解かれないんだ。続きは『異変』が解決した後にしてくれ」
「ぴいいいい!」
「ぐっ……!抱擁がより熱烈になったんですが?!」
「そのようだな」
ジャックが前のめりになってトレイシーの腕から逃れようとするのに対し、アントニオは抱えたトレイシーを引き剥がそうと後ろから引っ張っている状態だ。それでもトレイシーの腕の力は緩むことはなく、がっちりとジャックの腰を掴んだままだ。
最早、懐いているというよりも、ジャックの腰を折ろうとしているのではないかとすら思えてくる。日頃のトレイシーの恨みを考えればそれもあり得そうだ。
――この「異変」もしや、思った以上に厄介なのでは?
アントニオがその事実に気付き始めた頃、回廊を曲がってやってきたジョゼフと目が合った。ジョゼフはこちらの異様な光景に一瞬目を見開いていたが、直ぐに顔を顰めて呆れた声を出す。
「こんなところで何をしているんだ?お前達」
「見ての、通りとしかっ……」
「見て分からないから聞いている。お前は何を腰にくっつけているんだ」
妙な体勢で声を絞り出しているジャックに、ジョゼフは顳顬に手を当て首を振る。
手を貸しているアントニオも何をしているのかと言われると説明に困るのだ。ジョゼフの言う通り、見てわかる状況ではないだろうとアントニオも頷くしかない。「話せば長くなる」とだけ返す。
ジョゼフの姿を見れば、「月下の紳士」と言われる半狼人間の衣装を身につけている。ただの散歩でそんな格好をする筈はないので、ゲームの予定があったのだろうとアントニオは予測する。
「君もゲームから締め出されたのか?」
「そうだ。なかなか良い滑り出しだったのだが中断されてしまった。お陰でどうにも不完全燃焼で……なんでもシステムに認識されない『異変』の発生が原因だと聞いている。ゲームを開始したら六人居たとかで、捕獲しようとしたらハッチをこじ開けて逃げたとも聞いている」
「貴女そんなことしでかしてたんですか……!」
「ぴーよぴよ!」
ジャックが振り返って呟くと、トレイシーは元気にそうだと言わんばかりの返事をする。決して褒めた訳ではないのだが、その鳴き声はどこか誇らしげだ。
ジョゼフは突如聞こえた小鳥の声に、きょろきょろと辺りを見回す。
「……なんだ、今の鳥の声は」
「まあ驚かないで聞いてくれ。恐らくその『異変』であろう元凶がこれだ」
アントニオはそう言って目線を自身の手元に落とす。
ジョゼフも先程からアントニオが何かを抱えているのも、何かがジャックの腰にへばりついているのも分かっていた。
近づいてみれば、それは黄色い小鳥を模した衣服を纏った、機械人形の技師に見えた。ジョゼフは訝しむようにゆるりと首を傾げた。元凶?これが?
「トレイシーに見えるが」
「まあそうだな」
「ぴ……」
ジャックの腰にしがみついている状態で体を持たれているので、トレイシーは空中でうつ伏せの状態になっている。
だから周囲の状況が視認できていない。
しかし、なにやら別の存在が増えた事に気付き、顔を持ち上げる。その途端に目に入ったのは「天敵」の姿だった。トレイシーは驚いて大声で叫ぶ。
「ぴよっ!!!ぴいいいいいいい!!」
「!な、なんだ?!どうした?!」
トレイシーはそれまでしがみついていたジャックから手を離すと、体を捻り足を振り、とにかくめちゃくちゃに暴れ出す。その抵抗っぷりにアントニオの力が緩んだ隙に、トレイシーは抱えられていた腕から抜け出すと一目散に回廊を駆けて行ってしまう。
残された三人はただただ疑問符を頭に浮かべたまま、トレイシーが消えていった方向を見つめるしかできなかった。
「………………」
「………………」
「………………なんだったんだ、あれは」
「さあ、私にもさっぱり」
「トレイシー⁉︎」
呆然としていたハンター三名が叫び声に振り返ると、曲がり角から飛び出して来たノートンとイライがそこにいた。
「ああ!御三方!トレイシー見ませんでした⁉︎」
「ここら辺から声がしてたと思うんだけど」
「今し方向こうに走り去って行きましたが、多分走っても追いつかないかと」
「走ってる姿はひよこそのものだが、速度はダチョウ並みだったなぁ」
「足も速いの、あの子……」
感心しているアントニオの言葉にノートンは眉間に皺を寄せ、苛立たしげに髪を搔き毟った。
目撃情報を追いながらハンターの居館まで来たが、全く捕まらないのはそれが原因か。
「おい、何が起きているか説明しろ」
ノートン以上に眉間の皺が深いジョゼフが、高圧的にそう言い放つ。
調子の良いゲームはこれからと言うところで中断されるわ、顔を見た途端に叫ばれ逃げられるわでジョゼフの機嫌は今とても悪い。
それを見てとったイライは、恐る恐る尋ねる。
「えーと。その、もしやトレイシーになんかされました?」
「……何もないが?」
「ジャックに熱烈に抱きついていたかと思ったら、ジョゼフの顔を見て逃げていったんだ」
「…………」
憮然とした顔でイライの言葉を否定したのに、即座に事実をバラされてしまったジョゼフは、鋭い視線をアントニオに向けた。
アントニオはそれに対して戯けた態度で両手を上げて降伏のポーズをとる。
「そう睨まないでくれ。女性に振られたのは君だけではないんだ。私だって二回も腕を振り解かれているんだ」
「私は熱烈な抱擁で多少腰に負荷がかかった程度ですが、本日はゲームはやめておこうかと」
腰を抑えながらそう答えるジャックに、ノートンは「ああ」と声を上げる。
「あんた、鳥の衣装着てるから、トレイシーに懐かれたわけだ」
「と、言いますと?」
「トレイシー今、中身もひよこになってて仲間か親鳥を恋しがってるらしい」
「ボンボンも同様の被害に遭ってまして……黄色いアヒルの衣装着てたので仲間と思われた様で。今は頭の可動域の不調を訴えて、メンテナンス中です。そうしたら外装があちこち凹んでいた様で、何をしたらこうなるとバルクも驚いていて」
「ああ……彼は体当たりされても豪速球が当たっても吹き飛ばされても、そんな損傷してるのは見たことがないな」
「その、トレイシーさっき素手でハッチこじ開けてたので……」
アントニオの呟きに、イライは頬を掻きながらそう付け足した。
ジョゼフはそれに、はっとした様にイライに向き直る。
「まさか、先程アナウンスがあった聖心病院が完全封鎖というのは」
「はい……ハッチの扉の復旧とトレイシーが他に何か破壊してないかの点検が入るそうです。今の所、トレイシーが潜り込んだゲームフィールドはあそこだけなので」
「システムに引っかからないからサバイバーやハンターに紛れて、あの子ゲームに入り込んじゃう危険があるから、トレイシー捕獲するまでゲームは全モード閉鎖になった訳」
「他のフィールドまで破壊されたらゲームどころではありませんね、確かに」
「君の腰も破壊されるところだったな。骨が折れる前で良かった良かった」
「やめてください、想像したくもない」
ジャックは身震いしてそう呟いた。顔色を変えずに、にこにこと笑ったまま骨が軋むまで締め上げてきていたトレイシーの姿は中々ホラーチックだった。
「こんな調子で被害を振り撒く危険性があるので、また何かしでかす前にトレイシーを捕まえないといけないんです」
「ふむ。ゲームが出来ないのでは意味はないな……仕方がない。小娘捕獲に協力しよう。他の連中にも情報を共有する必要がある」
「お願いします。あと、ジョゼフはその衣装着替えてもらえると有難いんですが」
「何故だ?」
「さっきトレイシーに逃げられたって言ってたよね。ひよこだからオオカミとか猫を見ると食べられると思ってるかもしれない」
「そういうことか……」
ノートンの説明に、ジョゼフはようやく腑に落ちた表情になる。衣装に反応しただけで、顔を見て逃げられたわけでは無かったのか。
「捕まえると言っても、あの行動力だ。どうするんだ?」
「今のところ、あの子が興味示すのって鳥の衣装着てる相手だけなんだけど……」
「お二人はそういう衣装は?」
「……無いな」
「私も無い」
ジョゼフもアントニオも、そう言って首を振る。そうなると、全員の視線がジャックへと向かう。
この場で鳥の衣装を所持しているハンターは彼だけだ。
ジャックは腰を摩りながら身を起こす。
「…………私はこの姿のまま、デコイをしていろということですか」
「まさしく狩猟用のおとりだな」
ジョゼフの言葉に、ジャックは深くため息を吐いた。
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