オールキャラ短編小説
終了の声に、ナワーブは締まっていたタイを緩め、「Mr.リーズニング」の鹿撃ち帽を脱いだ。今し方、最後の写真撮影が終わったのだが、なんだか全てがあっさりし過ぎて拍子抜けだ。
モノクルを外してポケットに仕舞いながら、ついつい文句が口から溢れてしまう。
「これ、俺いる必要あったのか?」
「おやあ、ご機嫌斜めですね、『主人公』」
「夜来香」の仮面越しでもにやにやしているのが分かるジャックは仏頂面のナワーブとは真逆に機嫌が良い。こちらもワンシーンしか出番はなかったはずだが、酷く楽しげだ。ナワーブは鬱陶しげにジャックを追い払うように手を振る。
「『壁向いて立ってろ』って言われる主人公がどこいんだよ、人間じゃなくて人形でいいだろ、面倒くせえな」
「完全に背景と同化してましたねえ」
年に数回、荘園の主に「主人公役」として駆り出される探偵劇。それに付き合わされるのはいい加減にナワーブも慣れた。
今年は一度だけ丸々と出番が無かったのでラッキーだと思っていたのに、こんな年の暮れにまさかほんのちょっとの出番の為に撮影に付き合わされるとは思っていなかった。
面倒臭いは面倒くさいが、しかしまあ長い台詞を覚えさせられるよりはマシなのだが。
ナワーブはジャックを見上げ、不可解そうに片眉を跳ね上げた。
「お前はなんか機嫌いいな」
「今回はただ立ってるだけで良かったので楽です」
「ああ……」
どこか遠い所を見ているジャックに、以前の撮影を思い出してナワーブは納得する。ジャックは前回、范無咎と激しく戦うシーンがあったのだ。
探偵劇に最初から出ている自分もそんな激しい動きを求められたことはないので「大変だな」と他人事のように眺めていたものだ。
ジャックは長い爪を鳴らし、くつくつと笑う。
「それに、やはり女性がメインですと場が華やぎますし」
「そういうもんか」
ジャックの言い分にナワーブは首を捻ったが、よくよく考えてみれば男だらけのむさ苦しい場よりは確かに良い気はする。
それにしてもあのガリガリだった「小僧」が華とまで言われるようになるとはなあとしみじみしてしまう。
最後の写真撮影をしているアニーを残し、ナワーブが向かう先は今回のメインの撮影現場だ。全ての出番は終了しているので着替えに戻ってもいいのだが、なんとなく足が向いてしまう。どうせ先に出番を終わらせたエマやイライもそこにいるだろう。ジャックも予定が無いのか勝手に後ろをついてくる。
「そういや、他の連中は?」
「ガラテアさんとグレイスさんなら、折角おめかししたのだからと協力狩りに。ジョゼフさんは、あそこですね」
ジャックが指差す先に、柱にもたれる黒衣の青年の姿があった。
普段なら、早々に着替えてしまうジョゼフが珍しく「D.M」の姿のまま撮影現場に残っている。珍しいことがあるものだ。
何かあるのかと気になったナワーブがジョゼフの方へと体を向ける。それと同時にきんきんとした怒鳴り声が響いた。
「ああああ!もおおおおお!!」
「!」
怒鳴り声の主は今回の撮影の『メイン』だ。まだ撮影は終了していないはずなのに、酷く怒っている様だ。
――なんだ?
「帰れってば!」
苛立たしげに足を踏み鳴らし、トレイシーは見物客達をきっと睨む。
「もう!もう!なんでいんの!もうみんな出番終わったでしょ!」
「ああ、終わったとも」
「終わったから見てるの」
「終わったからね」
「終わって暇だし」
「だったら帰れー!!!」
横一列に並んで座っている四人に対し、トレイシーはそう怒鳴った。
探偵劇の新章はトレイシー扮する「鍵芯」がメインになる。
彼女は少しばかり特殊な立ち位置の人物らしく、撮影シーンも他の人間と一緒にいる場面が数少ない。なので先に他の登場人物達の出番を優先して撮影していたのだ。
それぞれのシーンの撮影を終え、残りはトレイシーのソロシーンのみとなっている。
トレイシーとしても他の人間がいない状態の方が緊張もしないし安心できると思っていたのに、出番を終えたはずの面々が目の前に揃っているのだ。
今から短いダンスシーンを撮るのに、雁首揃えて待たれていてはとても恥ずかしくて恥ずかしくて踊れたものではない。トレイシーは顔を真っ赤にして怒る。
「そこにいられると集中できない!!」
「邪魔はしていないよ?僕らは静かにしているし」
「そうだとも。集中できないのは君の問題だろう」
「見られてるのが嫌なの!」
「それなら早く終わらせればいいんじゃない」
地団駄を踏んでいるトレイシーに対し、イソップは平坦な声でそう告げる。
「騒いでる間にもどんどん時間が過ぎてくだけだと思うけど」
イソップとしては撮影風景には興味はないが、この探偵劇は普段会えない「ガット」の猫達と会えるのが嬉しい。肩や膝の上に乗ってごろごろと喉を鳴らしている猫達を撫でながら、この時間が長引くなら長引くで別に構わないと思っている。
自分がメインだった時はこうはいかないが、今回は大した出番もなかったので、この恩恵に預かれるのは感謝している。
トレイシーは猫に囲まれてほっこりしているイソップに拳を握る。
「だったら見えないとこ行って欲しいんだけど」
「僕は見てないから気にしないで」
「うう!もう、じゃあイソップはいいけど!あんたらはなんなの!」
「私はトレイシーちゃんの撮影終わるの待ってるの」
「えー、僕一瞬の撮影のために『ホワイト』にも着替えてるんだよ、もう着替えなきゃ駄目かい?」
ナワーブと同じ探偵服の襟を摘んで苦笑するイライに、トレイシーはうぐ、と唸る。
確かに、イライは少ない出番の中で、更に一瞬の撮影の為に全身着替えをしてもらっている。だからそこを突かれると、反論しづらい。
「……イライもまあいいとして、ルカは帰れ」
「私も着替えてるのに」
「あんたは精々上着変えただけでしょ!エマも待たなくていいし!」
「トレイシーちゃん、とーっても可愛いなの〜」
「あー!それが嫌だって言ってんの!」
頬に手を当てて、可愛くて仕方がないという顔でニコニコしている「トゥルース」姿のエマにトレイシーは髪を掻き毟る。
探偵劇の新章は、実際にメインの元に衣装が届くより遥か前に撮影が実行される。だからイライの時もイソップの時も、探偵劇の関係者以外は詳細を知らされていなかったのだ。
今回もナイチンゲールから発表があるまで、ここにいないもの達はこの撮影の事は気付いていない。緘口令も当然荘園のルールにある。
探偵劇にいるものでも、呼ばれていなければ今回のことは知らされていない。だから今年選ばれた范無咎や謝必安、フィオナもトレイシーが新章に選ばれたことは知らないのだ。
露出の高い『鍵芯』を見れば、うっきうきで絶対に揶揄ってくるフィオナがいないのは良かった。
良かったのだが、エマのこのお姉ちゃんぶった反応もトレイシーには非常に鬱陶しい。撮影中もずっと可愛い可愛いと言われるのもイライラする原因だ。
ぷんぷんに怒っているトレイシーに、エマは困ったように首を傾げる。
「どうしてそんなに怒っているの?可愛いのは本当なの!」
「そんな連呼しなくていい、むず痒い」
「そんなに意固地にならなくても。先輩は実際に面白い、ではなく可愛いと思うけれど」
「本音が漏れてるんだよ、後輩」
薄ら笑いで飄々としている「霊犀調査員」をトレイシーは睨みつける。こいつ今、何と抜かしたか。
トレイシーが尖った指先を顔面に突きつけるとルカは両手を上げる。
「おいおい、危ないじゃないか」
「面白いって言った?今」
「おっと、うっかり」
態とらしく口を塞ぐルカに、トレイシーは冷たく目を細めた。揶揄う気満々のルカに、フィオナよりこいつの方が質が悪そうだとトレイシーは舌打ちをしたくなる。
トレイシーが今着ている「鍵芯」は、今までトレイシーの元に来た服とは大分毛色の違うものになっている。
猫の耳にも見えるスクエア帽にパープルレンズのゴーグル、胸下丈の黒レザーのボディコンシャスのトップス、同じ素材のホットパンツ、破けた黒タイツとアシメントリースカートというパンクファッションに、鋭利すぎる武器のような指先の手袋。
カチカチと指先を鳴らしながら、「これじゃリッパーじゃん」と思ったのは自分だけではないはずだ。
トレイシーが何より気になったのは、お腹に何もない事だ。着替えてすぐに、他に衣装がまだあるのではないかと探してしまった。え、本当にこの格好なの??と固まってしまった。
着ている自分が驚いたのだから、他のメンバーの反応も一緒だった。みんな最初に無言で目を丸くするか、二度三度とこちらを確認する。
ジョセフが掛けていた眼鏡を一度外して、レンズを拭いていたのをトレイシーは見逃さなかった。――あれ、伊達メガネじゃなくて老眼鏡だったんだ。
既に数時間、この格好でいるので流石にトレイシーも服装には慣れてきた。だがそれでもじろじろと人に見られるのはやっぱり嫌なのだ。
ルカは金属の爪を払い除け、組んだ足に頬杖をついた。
「可愛らしいと思っているのは本当だよ?ただやっぱり面白いというか不思議というか……」
「不思議ってとこは同意するかなあ」
「はあ?イライまで」
「多分それみんな思ってるよ」
イソップの言葉にトレイシーは目を瞬かせた。思わぬ方向からのルカの賛同者が出た。訝しげな目をイソップに向けるも、彼は答える気はないらしく猫に目線を戻してしまう。
「何が不思議なのさ」
「うーん……」
トレイシーの問いに、答えづらそうに言葉を濁すイライとは裏腹に、あっさりとルカが答える。
「なんでそんなころころ服によって体型変わるんだろうかと。君もっと全体的に寸胴だったろう」
「ず……っ!」
「うわあああ!トレイシー待って待って!」
「ストップストップ!早まらないでトレイシーちゃん!」
一瞬で般若の様な顔に変わったトレイシーが鋭い爪を振りかぶったのを見て、イライは慌ててルカを後ろに引き倒し、エマはトレイシーに抱きついて暴挙を止めにかかる。
「今日という今日はそいつ殴らせろぉー!」
「駄目ー!今その手だと流血騒動になるのー!」
「突然何をするんだ、クラーク」
「こっちのセリフだけど⁈バルサーさん、デリカシーって言葉知ってる⁈女性になんてこと言うんだい⁈」
「そうは言うが君も不思議に思ってたんだろう。つまりは同じことを思ってたんじゃないのか」
「………………………………………………」
ルカの指摘にイライは黙り込み、そろそろと俯く。それを見たトレイシーは益々怒り心頭で、エマの拘束を振り切ろうと暴れ出す。
「イライ、あんたまでええええ!」
「ちょ、イソップさんも見てないで手伝って欲しいの!」
なんとか体格と体力の差で負けずにはいるけれど、エマも武闘派な訳ではないのでいつまでもトレイシーを押さえてはいられない。
一人マイペースに猫を撫でているイソップに助けを求めれば、緩慢な動作で顔を上げたイソップが首を傾げる。
「トレイシーさんは体型が変わってるんじゃないよ」
「え?なんの話なの?」
踠くトレイシーを抑えながら、突然話し始めたイソップにエマは困惑した目を向ける。出して欲しいのは手であって、口ではないのだが。
助けを求めるエマの視線に気付いているのかいないのか、イソップはいつもの調子を崩さない。
「『ご準備』の為に、僕はいろんな年齢や人種の『人』に関わって来たよ。『状態』がいい人ばかりじゃないから全て揃ってない人や判別ができない人もいるんだ。そうやって失ったものがあっても、縫い合わせて、ある程度の薬品で整えて、化粧をすれば見れるようにはなるんだ、大抵はね。女性の中にはそうやって時間が止まってしまった後に、不思議な事に見違える人がいる。失った部位があってもあの人達は美しいんだ。そう言う人達はきっと、沈黙した後が一番美しく映える人か、生前の『装い方』が間違っていたかじゃないかって思うんだ。失礼だけどトレイシーさんってきっと女性の装いを省略して生活しているよね。その印象がみんなには本来の君と認識されている。君の七変化見てると、死化粧で見違える様になったってご遺族に感謝された『お客』の事思い出すよ。そういう時の人に君、とてもよく似てるから。「こんなに綺麗にしてもらって」って感謝されるけど、僕らの力だけではないんだよね。僕らは出来うる限りご遺体の破損を修復して見目が良くなるように『ご準備』するけれど、やっぱり持って生まれたものはどうにも出来ないんだ。トレイシーさんはあのお客さん達と同じ。いつも作業着な事が多いから女性らしい体型が埋もれてしまって、分かりづらいだけなんだよね。それがきっちりとした服装に変わると、体の凹凸が明確になる。それをバルサーさんもイライさんも不思議だって言いたいんじゃないかって。言い方が悪かったけど、悪口のつもりはないだろうから、トレイシーさんも少し冷静になった方がいいと思うんだよね」
「………………」
イソップが語っている言葉を聞いているうちに、徐々にトレイシーの動きが弱まっていく。エマも何か薄寒いものを感じて身を震わせる。
恐らく彼はただただ説得を試みてくれているのだろう。その筈だ。だけどなんだか、空気が重く感じる気がする。場がしんと静まりかえる中、イソップがゆっくりとトレイシーに目を向ける。
「君は黒いスーツが似合ってたから、きっと『御装束』も素晴らしく映えると思うよ」
「っ……」
「『状態』も綺麗だといいね」
「ひっ……」
青褪めたトレイシーが小さく悲鳴を上げ、自身を止めていた筈のエマの体にぎゅっとしがみつく。
イソップは多分悪意もないし、ただ褒めてるつもりなのだろう。その筈だ。そう思っているのにエマも血の気が引いていくのを感じる。視線だけ動かせばルカとイライも固まっている。
話の内容が特段おかしい訳ではない。いや、おかしいはおかしいのかもしれないが、そこまで恐怖を感じるようなものではない。しかし、温度が先ほどから氷点下なのはなぜだろう。イソップの淡々とした語り口のせいだろうか。珍しく彼がこんなにおしゃべりなのに、誰も相槌を打つこともできなければ、言葉を発することもできない。イソップだけはいつも通り何を考えているのか分かりづらい顔で、頭を擦り寄せる猫の顎を擽ってやっている。
静まり返った空間に、突如拍手する音が鳴り響く。凍りついていた場がその音で解けていくのを感じ、ほうと全員が息を吐き出す。皆が音の元に目を向ければ、いつからそこに居たのか、ジャックが立っていた。
「素晴らしい!斬新な喧嘩の仲裁ですね。お見事」
ジャックは大仰に両手を広げると、背後を振り返った。「夜来香」の格好のせいかいつもよりも芝居がかった動きに見える。
「これは確かにずうっと眺めていられますね」
「仲裁というより場を凍らせただけだが、面白くはあったな」
こちらもいつからいたのか、ジョゼフが靴音を鳴らして歩み寄ってくる。今の話振りからするに、ずっとトレイシー達五人のやりとりをどこかから見ていた様だ。
まだ着替えていない「D.M」姿のジョゼフに、エマは目を瞬かせた。いつもはすぐにいなくなってしまうのに珍しい。
「ジャックに、ジョゼフまでいたの……?」
「ジョゼフさんもみんなと見学なの?」
「きゃんきゃん喚く子犬どものやりとりが面白そうだったからな」
「その子犬って僕らも入ってるのかな?」
イライがそう呟けば「だろうな」と仰向けにひっくり返ったままのルカが答える。その体勢から動こうとしないルカに、イソップはちらと視線を向ける。
「バルサーさんはいつまでひっくり返ってるの?」
「そうだな、手を貸してもらえると助かるんだが」
「自分で起きれねえのかよお前……」
頭上から降ってくる呆れた声に、ルカ達がそちらを見ると渋面のナワーブが額を抑えている。
ナワーブは小さく溜息をつくと、ルカの腕を掴んで体を引っ張り起こしてやる。
「いやあ、助かった」
「お前、もうちょっと腹筋つけろよ、せめて」
「面目ない」
「ナワーブももう出番は終わりかい?」
「おう」
イライの質問に頷いたナワーブは髪もタイも崩しており、服はそのままだが雰囲気は「Mr.リーズニング」ではなくすっかりと「傭兵」に戻ってしまっている。
――なんか、こうしてるとリーズニング探偵がうらぶれたみたいで嫌だな。
イライがこっそりとそんな失礼な事を考えていると、ナワーブが嫌そうな顔でこちらを睨む。まさか考えが読まれたのかと危ぶんでいると、ナワーブがイライの服を指差す。
「なんか、お前がその格好してると俺のコスプレされてるみたいで気持ち悪ぃんだが」
「酷い言われよう。そこまで嫌がるかい?僕は結構気に入ってるよ?探偵服」
「私も同じ格好しようか?」
「やめろやめろ、気味が悪い。増えるな」
うきうきとそう提案するルカに、ナワーブは心底嫌そうな顔で首を振る。イライもルカもどうにも胡散臭い見た目をしているせいで、探偵服を着ると怪しさが倍増するのだ。それと同じ格好をしていると思うとナワーブは我慢ならない。俺まで胡散臭いみたいだろうが。
しかし、そう思っているのはナワーブだけの様で、不満の声は他のところからも上がる。
「ええー!みんなでお揃い素敵なの!イライさんだってとってもそのお洋服、似合っているなの!」
「そうかな?」
「そう!自信持って!ルカさんもきっととっても似合うなの!」
「ほら、彼女もそう言っているじゃないか、反対しているのは君だけだぞ、サベダー」
「多数決じゃねえんだよ……」
我が意を得たりとにやにやしているルカに、ナワーブは顔を顰める。百歩譲ってイライ一人ならまだいいが、野朗三人で仲良しこよしのお揃い姿になるのだけは嫌だ。
ジャックは顎に手を当てて「ふむ」と頷く。
「全員同じ格好で決めた探偵事務所ですか、それはなんとも」
「絵面的にはシュールで面白いな」
「違いないですね。どれが本物の探偵かわからなくなりますが」
「お前らも面白がるなよ」
他人事とこの場を楽しんでいるジョゼフとジャックを睨みつけ、ナワーブは髪を掻き毟った。
トレイシーを見れば、あまりに撮影の邪魔者が多いのですっかりと仏頂面になっている。こんな状況だ、流石に笑えとは言わないが『メイン』とは思えない有様だ。
「おい、新章の看板がなんて顔してやがるんだ」
「だって!みんな帰って欲しいって言ってるのに!全然言うこと聞いてくれない!」
「まあまあ。貴女がそんな物珍しい格好をしているから皆さん気になってしまっているんですよ」
ジャックは改めて新衣装姿の少女を見下ろし、仮面の裏でくつりと笑う。
「私としても不思議な心地ですねえ。あんな吹けば飛びそうだった子供が、こんな立派な女性になるとは」
「ちょっと、そこまで貧弱だった覚えはないけど」
そう言ってジャックに鼻白むトレイシーに対し、イソップはキョトンとした顔で「え?」と声を漏らす。
「トレイシーさん、前に湖景村の船の上から風で飛んでった事あったよね」
「ちが!強風に煽られて海に落ちただけじゃん!」
「……本当に吹き飛んでるのか」
信じられないという顔を向けるジョゼフに「違うってば!」とトレイシーは否定の声を上げる。そんなトレイシーの訴えを聞いているのかいないのか、エマも「そういえば」と思い出した内容を話し出す。
「トレイシーちゃん、最初の頃肋浮いてたから『赤ずきん』の服ぶかぶかで、マーサさんが頑張って布巻いてたの」
「ああ、あれな。最初、胸んとこ余ってちょっと浮いてたからな。どこに目をやればいいのか本当に困った……」
ナワーブも当時を思い出したのか、渋い顔でそうぼやいた。
口うるさく注意し続けたおかげで、食生活が改善されたトレイシーは今は女性らしい体型になっているが、当時は本当にガリガリで薄っぺらい体つきだったのだ。
「でも、今はとっても健康的なの!トレイシーちゃん、胸もちゃんと女の子になったなの!」
「そ、そう言う事は言わなくていい……!」
満足気に頷いているエマに、顔を赤くしてトレイシーは胸元を両手で抱きしめて隠す。露出が多い服なのを意識しない様にして平常心を保っているのだから、思い出させないでほしい。
ただでさえ、自然と男性陣の視線がそこに向いているのを感じているのだ。やましい気持ちがなくても気になってしまうのは仕方がないのは分かっているので指摘はしない。しないけれども恥ずかしいものは恥ずかしい。
「うう、もう……健康的になったことは感謝するけど」
「ああ。あんな細っこかった小僧が、すっかりふくふくつやつやになったもんだしな。頑張って肉を食わせた甲斐があった」
ナワーブがしみじみとしていると、ルカが訝しげに眉を寄せる。
「先輩が今より細いと言うことは、もうそれは骨と皮だけなのでは?」
「ええ、風船にしたらそのまま飛んでいきそうでした」
「大袈裟過ぎるでしょ、そこまで酷くはない!」
芝居くさい動作で大仰に首を振るジャックに、トレイシーは勢いよくそう吠えた。この男は言葉遣いだけは慇懃だが、人を小馬鹿にした物言いしかしないので本当に気に入らない。
そんなトレイシーを頭の先からつま先までじっくりと見回し、ジャックはくすりと笑う。
「ですから、そんな小枝の様だった貴女が女性らしいシルエットの衣服を纏う日が来るとは、感慨深いと心から言っているのですよ」
「本当かなあ」
胸の前に手を当ててお辞儀をする男に、トレイシーは疑いの目を向ける。ただただ面白がっているだけに感じる。嘘くさい。
警戒心を剥き出しにしているトレイシーに対し、ジャックは身を起こして長い爪を自身の眼前に翳す。
「本当ですとも。霧深い夜にお会いしたらエスコートして差し上げたくなるくらいに」
「お断りです!」
腕で大きなばつ印を作ってトレイシーが舌を出す。ジャックは肩を竦めて「それは残念ですね」と全く残念ではなさそうな声で笑いながら、立ち去っていった。
その背を憎々しげに睨みつけ、トレイシーが呟く。
「ったく、ちょっと着飾るとジャックはいつもこれだよ」
「彼なりの称賛のつもりなのでは?」
「いい迷惑!」
イライのフォローを一蹴し、トレイシーはまだその場にいる面々を睥睨する。
「で。本当にいつまでそこにいるつもりなの、みんなは」
「うん?トレイシーの撮影が終わるまでかな?」
「私もなの!」
「付き合ってくれなくていいっての」
「僕はこの子達に用があるだけだから気にしないで」
「飽きたら帰る」
「イソップと猫はいいとしてなんでジョゼフ増えてんの」
いつの間にやらイライの隣に腰を落ち着けたジョゼフは、すっかりと寛いでいて動く気はなさそうだ。
見物客を減らすどころか増えている。どうしてこうなったのか。
トレイシーが無言でナワーブを見る。訴えるようなその目に、ナワーブはため息をついた。
「安心しろ、俺はすぐ帰る」
「ナワーブ……!」
「あ、私は残るよ」
流石ナワーブの兄さんは話がわかるとトレイシーが感動していたのに、空気の読めないルカはひらひらと手を振っている。
トレイシーはそんな男にくわりと目を剥いた。
「寸胴って言ったやつは今すぐ帰れ!」
「根に持つなあ、君。言葉の綾なのに」
苛々としているトレイシーと、無言でずっと待っているナイチンゲールを見やり、ナワーブは無駄とわかりつつも見物客に「程々にしとけよ」と言い残してスタジオを出る。
――これはまだまだ終わらねえだろうなぁ。
「帰れー!」と怒鳴るトレイシーとわいわいと見物人達の騒ぐ声を聞きながら、ナワーブは一つ欠伸をするのだった。
end
モノクルを外してポケットに仕舞いながら、ついつい文句が口から溢れてしまう。
「これ、俺いる必要あったのか?」
「おやあ、ご機嫌斜めですね、『主人公』」
「夜来香」の仮面越しでもにやにやしているのが分かるジャックは仏頂面のナワーブとは真逆に機嫌が良い。こちらもワンシーンしか出番はなかったはずだが、酷く楽しげだ。ナワーブは鬱陶しげにジャックを追い払うように手を振る。
「『壁向いて立ってろ』って言われる主人公がどこいんだよ、人間じゃなくて人形でいいだろ、面倒くせえな」
「完全に背景と同化してましたねえ」
年に数回、荘園の主に「主人公役」として駆り出される探偵劇。それに付き合わされるのはいい加減にナワーブも慣れた。
今年は一度だけ丸々と出番が無かったのでラッキーだと思っていたのに、こんな年の暮れにまさかほんのちょっとの出番の為に撮影に付き合わされるとは思っていなかった。
面倒臭いは面倒くさいが、しかしまあ長い台詞を覚えさせられるよりはマシなのだが。
ナワーブはジャックを見上げ、不可解そうに片眉を跳ね上げた。
「お前はなんか機嫌いいな」
「今回はただ立ってるだけで良かったので楽です」
「ああ……」
どこか遠い所を見ているジャックに、以前の撮影を思い出してナワーブは納得する。ジャックは前回、范無咎と激しく戦うシーンがあったのだ。
探偵劇に最初から出ている自分もそんな激しい動きを求められたことはないので「大変だな」と他人事のように眺めていたものだ。
ジャックは長い爪を鳴らし、くつくつと笑う。
「それに、やはり女性がメインですと場が華やぎますし」
「そういうもんか」
ジャックの言い分にナワーブは首を捻ったが、よくよく考えてみれば男だらけのむさ苦しい場よりは確かに良い気はする。
それにしてもあのガリガリだった「小僧」が華とまで言われるようになるとはなあとしみじみしてしまう。
最後の写真撮影をしているアニーを残し、ナワーブが向かう先は今回のメインの撮影現場だ。全ての出番は終了しているので着替えに戻ってもいいのだが、なんとなく足が向いてしまう。どうせ先に出番を終わらせたエマやイライもそこにいるだろう。ジャックも予定が無いのか勝手に後ろをついてくる。
「そういや、他の連中は?」
「ガラテアさんとグレイスさんなら、折角おめかししたのだからと協力狩りに。ジョゼフさんは、あそこですね」
ジャックが指差す先に、柱にもたれる黒衣の青年の姿があった。
普段なら、早々に着替えてしまうジョゼフが珍しく「D.M」の姿のまま撮影現場に残っている。珍しいことがあるものだ。
何かあるのかと気になったナワーブがジョゼフの方へと体を向ける。それと同時にきんきんとした怒鳴り声が響いた。
「ああああ!もおおおおお!!」
「!」
怒鳴り声の主は今回の撮影の『メイン』だ。まだ撮影は終了していないはずなのに、酷く怒っている様だ。
――なんだ?
「帰れってば!」
苛立たしげに足を踏み鳴らし、トレイシーは見物客達をきっと睨む。
「もう!もう!なんでいんの!もうみんな出番終わったでしょ!」
「ああ、終わったとも」
「終わったから見てるの」
「終わったからね」
「終わって暇だし」
「だったら帰れー!!!」
横一列に並んで座っている四人に対し、トレイシーはそう怒鳴った。
探偵劇の新章はトレイシー扮する「鍵芯」がメインになる。
彼女は少しばかり特殊な立ち位置の人物らしく、撮影シーンも他の人間と一緒にいる場面が数少ない。なので先に他の登場人物達の出番を優先して撮影していたのだ。
それぞれのシーンの撮影を終え、残りはトレイシーのソロシーンのみとなっている。
トレイシーとしても他の人間がいない状態の方が緊張もしないし安心できると思っていたのに、出番を終えたはずの面々が目の前に揃っているのだ。
今から短いダンスシーンを撮るのに、雁首揃えて待たれていてはとても恥ずかしくて恥ずかしくて踊れたものではない。トレイシーは顔を真っ赤にして怒る。
「そこにいられると集中できない!!」
「邪魔はしていないよ?僕らは静かにしているし」
「そうだとも。集中できないのは君の問題だろう」
「見られてるのが嫌なの!」
「それなら早く終わらせればいいんじゃない」
地団駄を踏んでいるトレイシーに対し、イソップは平坦な声でそう告げる。
「騒いでる間にもどんどん時間が過ぎてくだけだと思うけど」
イソップとしては撮影風景には興味はないが、この探偵劇は普段会えない「ガット」の猫達と会えるのが嬉しい。肩や膝の上に乗ってごろごろと喉を鳴らしている猫達を撫でながら、この時間が長引くなら長引くで別に構わないと思っている。
自分がメインだった時はこうはいかないが、今回は大した出番もなかったので、この恩恵に預かれるのは感謝している。
トレイシーは猫に囲まれてほっこりしているイソップに拳を握る。
「だったら見えないとこ行って欲しいんだけど」
「僕は見てないから気にしないで」
「うう!もう、じゃあイソップはいいけど!あんたらはなんなの!」
「私はトレイシーちゃんの撮影終わるの待ってるの」
「えー、僕一瞬の撮影のために『ホワイト』にも着替えてるんだよ、もう着替えなきゃ駄目かい?」
ナワーブと同じ探偵服の襟を摘んで苦笑するイライに、トレイシーはうぐ、と唸る。
確かに、イライは少ない出番の中で、更に一瞬の撮影の為に全身着替えをしてもらっている。だからそこを突かれると、反論しづらい。
「……イライもまあいいとして、ルカは帰れ」
「私も着替えてるのに」
「あんたは精々上着変えただけでしょ!エマも待たなくていいし!」
「トレイシーちゃん、とーっても可愛いなの〜」
「あー!それが嫌だって言ってんの!」
頬に手を当てて、可愛くて仕方がないという顔でニコニコしている「トゥルース」姿のエマにトレイシーは髪を掻き毟る。
探偵劇の新章は、実際にメインの元に衣装が届くより遥か前に撮影が実行される。だからイライの時もイソップの時も、探偵劇の関係者以外は詳細を知らされていなかったのだ。
今回もナイチンゲールから発表があるまで、ここにいないもの達はこの撮影の事は気付いていない。緘口令も当然荘園のルールにある。
探偵劇にいるものでも、呼ばれていなければ今回のことは知らされていない。だから今年選ばれた范無咎や謝必安、フィオナもトレイシーが新章に選ばれたことは知らないのだ。
露出の高い『鍵芯』を見れば、うっきうきで絶対に揶揄ってくるフィオナがいないのは良かった。
良かったのだが、エマのこのお姉ちゃんぶった反応もトレイシーには非常に鬱陶しい。撮影中もずっと可愛い可愛いと言われるのもイライラする原因だ。
ぷんぷんに怒っているトレイシーに、エマは困ったように首を傾げる。
「どうしてそんなに怒っているの?可愛いのは本当なの!」
「そんな連呼しなくていい、むず痒い」
「そんなに意固地にならなくても。先輩は実際に面白い、ではなく可愛いと思うけれど」
「本音が漏れてるんだよ、後輩」
薄ら笑いで飄々としている「霊犀調査員」をトレイシーは睨みつける。こいつ今、何と抜かしたか。
トレイシーが尖った指先を顔面に突きつけるとルカは両手を上げる。
「おいおい、危ないじゃないか」
「面白いって言った?今」
「おっと、うっかり」
態とらしく口を塞ぐルカに、トレイシーは冷たく目を細めた。揶揄う気満々のルカに、フィオナよりこいつの方が質が悪そうだとトレイシーは舌打ちをしたくなる。
トレイシーが今着ている「鍵芯」は、今までトレイシーの元に来た服とは大分毛色の違うものになっている。
猫の耳にも見えるスクエア帽にパープルレンズのゴーグル、胸下丈の黒レザーのボディコンシャスのトップス、同じ素材のホットパンツ、破けた黒タイツとアシメントリースカートというパンクファッションに、鋭利すぎる武器のような指先の手袋。
カチカチと指先を鳴らしながら、「これじゃリッパーじゃん」と思ったのは自分だけではないはずだ。
トレイシーが何より気になったのは、お腹に何もない事だ。着替えてすぐに、他に衣装がまだあるのではないかと探してしまった。え、本当にこの格好なの??と固まってしまった。
着ている自分が驚いたのだから、他のメンバーの反応も一緒だった。みんな最初に無言で目を丸くするか、二度三度とこちらを確認する。
ジョセフが掛けていた眼鏡を一度外して、レンズを拭いていたのをトレイシーは見逃さなかった。――あれ、伊達メガネじゃなくて老眼鏡だったんだ。
既に数時間、この格好でいるので流石にトレイシーも服装には慣れてきた。だがそれでもじろじろと人に見られるのはやっぱり嫌なのだ。
ルカは金属の爪を払い除け、組んだ足に頬杖をついた。
「可愛らしいと思っているのは本当だよ?ただやっぱり面白いというか不思議というか……」
「不思議ってとこは同意するかなあ」
「はあ?イライまで」
「多分それみんな思ってるよ」
イソップの言葉にトレイシーは目を瞬かせた。思わぬ方向からのルカの賛同者が出た。訝しげな目をイソップに向けるも、彼は答える気はないらしく猫に目線を戻してしまう。
「何が不思議なのさ」
「うーん……」
トレイシーの問いに、答えづらそうに言葉を濁すイライとは裏腹に、あっさりとルカが答える。
「なんでそんなころころ服によって体型変わるんだろうかと。君もっと全体的に寸胴だったろう」
「ず……っ!」
「うわあああ!トレイシー待って待って!」
「ストップストップ!早まらないでトレイシーちゃん!」
一瞬で般若の様な顔に変わったトレイシーが鋭い爪を振りかぶったのを見て、イライは慌ててルカを後ろに引き倒し、エマはトレイシーに抱きついて暴挙を止めにかかる。
「今日という今日はそいつ殴らせろぉー!」
「駄目ー!今その手だと流血騒動になるのー!」
「突然何をするんだ、クラーク」
「こっちのセリフだけど⁈バルサーさん、デリカシーって言葉知ってる⁈女性になんてこと言うんだい⁈」
「そうは言うが君も不思議に思ってたんだろう。つまりは同じことを思ってたんじゃないのか」
「………………………………………………」
ルカの指摘にイライは黙り込み、そろそろと俯く。それを見たトレイシーは益々怒り心頭で、エマの拘束を振り切ろうと暴れ出す。
「イライ、あんたまでええええ!」
「ちょ、イソップさんも見てないで手伝って欲しいの!」
なんとか体格と体力の差で負けずにはいるけれど、エマも武闘派な訳ではないのでいつまでもトレイシーを押さえてはいられない。
一人マイペースに猫を撫でているイソップに助けを求めれば、緩慢な動作で顔を上げたイソップが首を傾げる。
「トレイシーさんは体型が変わってるんじゃないよ」
「え?なんの話なの?」
踠くトレイシーを抑えながら、突然話し始めたイソップにエマは困惑した目を向ける。出して欲しいのは手であって、口ではないのだが。
助けを求めるエマの視線に気付いているのかいないのか、イソップはいつもの調子を崩さない。
「『ご準備』の為に、僕はいろんな年齢や人種の『人』に関わって来たよ。『状態』がいい人ばかりじゃないから全て揃ってない人や判別ができない人もいるんだ。そうやって失ったものがあっても、縫い合わせて、ある程度の薬品で整えて、化粧をすれば見れるようにはなるんだ、大抵はね。女性の中にはそうやって時間が止まってしまった後に、不思議な事に見違える人がいる。失った部位があってもあの人達は美しいんだ。そう言う人達はきっと、沈黙した後が一番美しく映える人か、生前の『装い方』が間違っていたかじゃないかって思うんだ。失礼だけどトレイシーさんってきっと女性の装いを省略して生活しているよね。その印象がみんなには本来の君と認識されている。君の七変化見てると、死化粧で見違える様になったってご遺族に感謝された『お客』の事思い出すよ。そういう時の人に君、とてもよく似てるから。「こんなに綺麗にしてもらって」って感謝されるけど、僕らの力だけではないんだよね。僕らは出来うる限りご遺体の破損を修復して見目が良くなるように『ご準備』するけれど、やっぱり持って生まれたものはどうにも出来ないんだ。トレイシーさんはあのお客さん達と同じ。いつも作業着な事が多いから女性らしい体型が埋もれてしまって、分かりづらいだけなんだよね。それがきっちりとした服装に変わると、体の凹凸が明確になる。それをバルサーさんもイライさんも不思議だって言いたいんじゃないかって。言い方が悪かったけど、悪口のつもりはないだろうから、トレイシーさんも少し冷静になった方がいいと思うんだよね」
「………………」
イソップが語っている言葉を聞いているうちに、徐々にトレイシーの動きが弱まっていく。エマも何か薄寒いものを感じて身を震わせる。
恐らく彼はただただ説得を試みてくれているのだろう。その筈だ。だけどなんだか、空気が重く感じる気がする。場がしんと静まりかえる中、イソップがゆっくりとトレイシーに目を向ける。
「君は黒いスーツが似合ってたから、きっと『御装束』も素晴らしく映えると思うよ」
「っ……」
「『状態』も綺麗だといいね」
「ひっ……」
青褪めたトレイシーが小さく悲鳴を上げ、自身を止めていた筈のエマの体にぎゅっとしがみつく。
イソップは多分悪意もないし、ただ褒めてるつもりなのだろう。その筈だ。そう思っているのにエマも血の気が引いていくのを感じる。視線だけ動かせばルカとイライも固まっている。
話の内容が特段おかしい訳ではない。いや、おかしいはおかしいのかもしれないが、そこまで恐怖を感じるようなものではない。しかし、温度が先ほどから氷点下なのはなぜだろう。イソップの淡々とした語り口のせいだろうか。珍しく彼がこんなにおしゃべりなのに、誰も相槌を打つこともできなければ、言葉を発することもできない。イソップだけはいつも通り何を考えているのか分かりづらい顔で、頭を擦り寄せる猫の顎を擽ってやっている。
静まり返った空間に、突如拍手する音が鳴り響く。凍りついていた場がその音で解けていくのを感じ、ほうと全員が息を吐き出す。皆が音の元に目を向ければ、いつからそこに居たのか、ジャックが立っていた。
「素晴らしい!斬新な喧嘩の仲裁ですね。お見事」
ジャックは大仰に両手を広げると、背後を振り返った。「夜来香」の格好のせいかいつもよりも芝居がかった動きに見える。
「これは確かにずうっと眺めていられますね」
「仲裁というより場を凍らせただけだが、面白くはあったな」
こちらもいつからいたのか、ジョゼフが靴音を鳴らして歩み寄ってくる。今の話振りからするに、ずっとトレイシー達五人のやりとりをどこかから見ていた様だ。
まだ着替えていない「D.M」姿のジョゼフに、エマは目を瞬かせた。いつもはすぐにいなくなってしまうのに珍しい。
「ジャックに、ジョゼフまでいたの……?」
「ジョゼフさんもみんなと見学なの?」
「きゃんきゃん喚く子犬どものやりとりが面白そうだったからな」
「その子犬って僕らも入ってるのかな?」
イライがそう呟けば「だろうな」と仰向けにひっくり返ったままのルカが答える。その体勢から動こうとしないルカに、イソップはちらと視線を向ける。
「バルサーさんはいつまでひっくり返ってるの?」
「そうだな、手を貸してもらえると助かるんだが」
「自分で起きれねえのかよお前……」
頭上から降ってくる呆れた声に、ルカ達がそちらを見ると渋面のナワーブが額を抑えている。
ナワーブは小さく溜息をつくと、ルカの腕を掴んで体を引っ張り起こしてやる。
「いやあ、助かった」
「お前、もうちょっと腹筋つけろよ、せめて」
「面目ない」
「ナワーブももう出番は終わりかい?」
「おう」
イライの質問に頷いたナワーブは髪もタイも崩しており、服はそのままだが雰囲気は「Mr.リーズニング」ではなくすっかりと「傭兵」に戻ってしまっている。
――なんか、こうしてるとリーズニング探偵がうらぶれたみたいで嫌だな。
イライがこっそりとそんな失礼な事を考えていると、ナワーブが嫌そうな顔でこちらを睨む。まさか考えが読まれたのかと危ぶんでいると、ナワーブがイライの服を指差す。
「なんか、お前がその格好してると俺のコスプレされてるみたいで気持ち悪ぃんだが」
「酷い言われよう。そこまで嫌がるかい?僕は結構気に入ってるよ?探偵服」
「私も同じ格好しようか?」
「やめろやめろ、気味が悪い。増えるな」
うきうきとそう提案するルカに、ナワーブは心底嫌そうな顔で首を振る。イライもルカもどうにも胡散臭い見た目をしているせいで、探偵服を着ると怪しさが倍増するのだ。それと同じ格好をしていると思うとナワーブは我慢ならない。俺まで胡散臭いみたいだろうが。
しかし、そう思っているのはナワーブだけの様で、不満の声は他のところからも上がる。
「ええー!みんなでお揃い素敵なの!イライさんだってとってもそのお洋服、似合っているなの!」
「そうかな?」
「そう!自信持って!ルカさんもきっととっても似合うなの!」
「ほら、彼女もそう言っているじゃないか、反対しているのは君だけだぞ、サベダー」
「多数決じゃねえんだよ……」
我が意を得たりとにやにやしているルカに、ナワーブは顔を顰める。百歩譲ってイライ一人ならまだいいが、野朗三人で仲良しこよしのお揃い姿になるのだけは嫌だ。
ジャックは顎に手を当てて「ふむ」と頷く。
「全員同じ格好で決めた探偵事務所ですか、それはなんとも」
「絵面的にはシュールで面白いな」
「違いないですね。どれが本物の探偵かわからなくなりますが」
「お前らも面白がるなよ」
他人事とこの場を楽しんでいるジョゼフとジャックを睨みつけ、ナワーブは髪を掻き毟った。
トレイシーを見れば、あまりに撮影の邪魔者が多いのですっかりと仏頂面になっている。こんな状況だ、流石に笑えとは言わないが『メイン』とは思えない有様だ。
「おい、新章の看板がなんて顔してやがるんだ」
「だって!みんな帰って欲しいって言ってるのに!全然言うこと聞いてくれない!」
「まあまあ。貴女がそんな物珍しい格好をしているから皆さん気になってしまっているんですよ」
ジャックは改めて新衣装姿の少女を見下ろし、仮面の裏でくつりと笑う。
「私としても不思議な心地ですねえ。あんな吹けば飛びそうだった子供が、こんな立派な女性になるとは」
「ちょっと、そこまで貧弱だった覚えはないけど」
そう言ってジャックに鼻白むトレイシーに対し、イソップはキョトンとした顔で「え?」と声を漏らす。
「トレイシーさん、前に湖景村の船の上から風で飛んでった事あったよね」
「ちが!強風に煽られて海に落ちただけじゃん!」
「……本当に吹き飛んでるのか」
信じられないという顔を向けるジョゼフに「違うってば!」とトレイシーは否定の声を上げる。そんなトレイシーの訴えを聞いているのかいないのか、エマも「そういえば」と思い出した内容を話し出す。
「トレイシーちゃん、最初の頃肋浮いてたから『赤ずきん』の服ぶかぶかで、マーサさんが頑張って布巻いてたの」
「ああ、あれな。最初、胸んとこ余ってちょっと浮いてたからな。どこに目をやればいいのか本当に困った……」
ナワーブも当時を思い出したのか、渋い顔でそうぼやいた。
口うるさく注意し続けたおかげで、食生活が改善されたトレイシーは今は女性らしい体型になっているが、当時は本当にガリガリで薄っぺらい体つきだったのだ。
「でも、今はとっても健康的なの!トレイシーちゃん、胸もちゃんと女の子になったなの!」
「そ、そう言う事は言わなくていい……!」
満足気に頷いているエマに、顔を赤くしてトレイシーは胸元を両手で抱きしめて隠す。露出が多い服なのを意識しない様にして平常心を保っているのだから、思い出させないでほしい。
ただでさえ、自然と男性陣の視線がそこに向いているのを感じているのだ。やましい気持ちがなくても気になってしまうのは仕方がないのは分かっているので指摘はしない。しないけれども恥ずかしいものは恥ずかしい。
「うう、もう……健康的になったことは感謝するけど」
「ああ。あんな細っこかった小僧が、すっかりふくふくつやつやになったもんだしな。頑張って肉を食わせた甲斐があった」
ナワーブがしみじみとしていると、ルカが訝しげに眉を寄せる。
「先輩が今より細いと言うことは、もうそれは骨と皮だけなのでは?」
「ええ、風船にしたらそのまま飛んでいきそうでした」
「大袈裟過ぎるでしょ、そこまで酷くはない!」
芝居くさい動作で大仰に首を振るジャックに、トレイシーは勢いよくそう吠えた。この男は言葉遣いだけは慇懃だが、人を小馬鹿にした物言いしかしないので本当に気に入らない。
そんなトレイシーを頭の先からつま先までじっくりと見回し、ジャックはくすりと笑う。
「ですから、そんな小枝の様だった貴女が女性らしいシルエットの衣服を纏う日が来るとは、感慨深いと心から言っているのですよ」
「本当かなあ」
胸の前に手を当ててお辞儀をする男に、トレイシーは疑いの目を向ける。ただただ面白がっているだけに感じる。嘘くさい。
警戒心を剥き出しにしているトレイシーに対し、ジャックは身を起こして長い爪を自身の眼前に翳す。
「本当ですとも。霧深い夜にお会いしたらエスコートして差し上げたくなるくらいに」
「お断りです!」
腕で大きなばつ印を作ってトレイシーが舌を出す。ジャックは肩を竦めて「それは残念ですね」と全く残念ではなさそうな声で笑いながら、立ち去っていった。
その背を憎々しげに睨みつけ、トレイシーが呟く。
「ったく、ちょっと着飾るとジャックはいつもこれだよ」
「彼なりの称賛のつもりなのでは?」
「いい迷惑!」
イライのフォローを一蹴し、トレイシーはまだその場にいる面々を睥睨する。
「で。本当にいつまでそこにいるつもりなの、みんなは」
「うん?トレイシーの撮影が終わるまでかな?」
「私もなの!」
「付き合ってくれなくていいっての」
「僕はこの子達に用があるだけだから気にしないで」
「飽きたら帰る」
「イソップと猫はいいとしてなんでジョゼフ増えてんの」
いつの間にやらイライの隣に腰を落ち着けたジョゼフは、すっかりと寛いでいて動く気はなさそうだ。
見物客を減らすどころか増えている。どうしてこうなったのか。
トレイシーが無言でナワーブを見る。訴えるようなその目に、ナワーブはため息をついた。
「安心しろ、俺はすぐ帰る」
「ナワーブ……!」
「あ、私は残るよ」
流石ナワーブの兄さんは話がわかるとトレイシーが感動していたのに、空気の読めないルカはひらひらと手を振っている。
トレイシーはそんな男にくわりと目を剥いた。
「寸胴って言ったやつは今すぐ帰れ!」
「根に持つなあ、君。言葉の綾なのに」
苛々としているトレイシーと、無言でずっと待っているナイチンゲールを見やり、ナワーブは無駄とわかりつつも見物客に「程々にしとけよ」と言い残してスタジオを出る。
――これはまだまだ終わらねえだろうなぁ。
「帰れー!」と怒鳴るトレイシーとわいわいと見物人達の騒ぐ声を聞きながら、ナワーブは一つ欠伸をするのだった。
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