2話
トレイシーが昨日の顛末と、客人とした話を聞かせると、金髪の老婦人――屋敷の主であるパウラは、ベッドの中で顔を青くした。
「まさか吸血鬼が調査員だったなんて……!」
「私もまさか、聖匙の使徒と人外が来るとは思ってなかったので、困っちゃったなあと」
「貴女は大丈夫なの?そんな……危ないじゃない」
パウラは心配気に眉根を寄せる。それにトレイシーは弱りきった声を出す。
「私も嫌は嫌なんですけど、これ以上の犠牲者を出したくないって言われたら断れなくて」
「貴女がそういう人なのはよく分かっているわ。でも貴女、血液に魔力が溜まってしまうと言っていたじゃないの。それは?」
「流石にそれは言ってないです。魔力異常症までは言いましたけど」
「そうよね」
「いくら半分封神されてるとはいえ、吸血鬼にその話はしたくない……」
トレイシーはむむ、と唸りながら自分の体を抱きしめる。
魔力異常症と診断されたトレイシーだったが、正確には少し違う。トレイシーの故郷は遥か昔に魔術師達が作ったとされ、住民達もその魔術師の子孫に当たる。
魔術師は体を構成する段階で自然界にある魔力を取り込むものがいたらしく、トレイシーはその祖先返りを起こしている。だから血液に魔力を溜め込んでしまう体質なのだ。
その診断をしてくれた血族であり魔術師である人は「魔力が豊富な血液とか、吸血鬼が大歓喜しちゃうよ」と憐れみの目をトレイシーに向けてくれたものだ。
「吸血鬼って今とっても数が減ってて、滅多に見ない魔物って聞いてたのになんでいるのかと。まあ、封神なら人襲わないと思うけど」
「……トレイシー。言いにくいのだけれど、貴女はその襲われない対象ではないわよね?」
おずおずとそう尋ねるパウラに、トレイシーはぐっと眉間に皺を寄せてこくりと頷いた。
成人している今は緩やかになったが、成長している最中のトレイシーの体は、とにかく虚弱な身体を補うために魔力を吸収する力が強かった。そしてその体質は最大にして最悪の問題を引き起こした。
グラール教は赤子の全身を特殊な聖水に浸ける洗礼を受け、正式な信徒となる習わしがある。
赤子のトレイシーも当然その習わしに従ったのだが、洗礼を受けさせようとしても器に入った聖水が全て蒸発してしまうのだ。町の牧師も幾度も試したが、何度やっても同じ結果になる。
聖力も元を正せば魔力と同じ元素な上に、魔力よりも純度が高い。だからトレイシーの体に触れた聖水はその成分を吸収されて消えてしまうのだ。
これは赤子用の小さな器ではどうにもならない。聖水の泉や井戸の様な大きな器がある教会に行けば、トレイシーに洗礼を受けさせることが出来るが、どこも故郷の町からは遠い。トレイシーは産まれた時には母親を亡くしてしまっているので、父親だけで乳飲み子を連れて旅に出るのは難しい話だった。
その為にトレイシーは浸礼の洗礼を受けられていないので、正式なグラールの信徒ではないのだ。
魔物の封神が襲ってはならないと縛られているのは、グラールの信徒のみだ。信徒ではないトレイシーはその対象から外れている。
「本当に、大丈夫なのかしら?」
「あ、でもあのルカって吸血鬼の前で怪我しても特に何も反応してなかったし、それどころか男の血は興味ないとか言ってたから!これがあれば平気じゃないかなと」
トレイシーはそう言ってサスペンダーに吊り下げた、大振りの金色の鍵に触れる。それは実用性は皆無のお飾りの鍵だ。しかしトレイシーにとってはとても大事なお守りでもある。
喪失の呪いはトレイシー自身にかけられたものだが、姿を少年に見せる幻術はこの鍵にかけられている。偉大な魔術師による強力な術だ。視界だけではなく五感を惑わしてくれる。
ルカだけではなく、目に何かしらの能力があるらしいイライも幻術に騙されていたので、その力は確実な筈だ。
この幻術を見破ったのは二人だけ。シュテルンの女将のイルダと、目の前にいるパウラだけだ。パウラもまた、強力な神霊眼の持ち主なのだ。
そのパウラの深い緑の瞳が、トレイシーをじっと見つめている。ガーゼが貼られたトレイシーの頬と顎を気にしているのだろう。
「その傷、吸血鬼の男がつけたのでしょう?やっぱり心配だわ。知らなかったとはいえ女の子の顔に傷をつけるなんて」
「すぐ治るから大丈夫ですって」
「そういう問題ではないの。痕が残ったらどうしましょう」
トレイシーの頬に手を当てる。けらけらと笑って取り合わない少女にパウラは眉を顰めた。
遠い昔に自身が母に言われていた事を、子供のいない自分が口にすることになるとは思っていなかった。
パウラは咎めているのに、トレイシーはくすくすと笑っている。悪戯好きの妹が、パウラが叱る度にこんな反応をよくしていたものだ。
別れる時に聞いた、「行ってらっしゃい、お姉ちゃま」という妹の幼い声が蘇る。
「パウラさん?どうかしました?」
「!いえ、なんでもないわ。今からでも貴女が洗礼を受けられれば安心なのだけれど」
「あはは……それは聖都じゃないと無理って太鼓判押されているので、難しいですね」
トレイシーは乾いた笑いを浮かべて、首を横に振った。
故郷の町にいた親切な牧師は、哀れなトレイシーに洗礼を受けさせようと四方八方に手を尽くしてくれたのだ。そうして古い伝手を辿り、オクトロという街へトレイシーを向かわせた。その頃にはトレイシーは既に十五歳になってしまっていた。
オクトロは別名で十月城とも呼ばれる、風変わりな「聖女」の伝説が残された地だ。独特の祭事と大きな聖水の湧き出る泉が有名で、観光地としても知られている。ここでならトレイシーも浸礼式の洗礼を受けられると誰もが思っていた。
ところがだ。トレイシーはこの泉の水も枯らしてしまったのだ。聖泉は儀式の際に三十人が同時に入ることが出来る大きさだった。その泉の水が、トレイシーが入った途端にすうと消え失せた。
トレイシーの体が成長した事で、魔力を受け入れる容量もまた増えてしまっていたのだ。想定していなかった事態に、街を統べる首席顧問が顔色を無くしていたものだ。
その時に偉大な魔術師で血族の青年と、鉄仮面の様な首席顧問の二人に「聖都ラビエラ以外では洗礼は不可能」とトレイシーは宣言されてしまったのだ。
その事を思い出しながら、トレイシーは腕組みをして苦い顔になる。
「ラビエラに向かう道中でこんな事に巻き込まれるなんて、思ってなかったです。教会のテレポート使えれば一瞬なのに、それもグラールの信徒じゃ無いと使えないわけで」
「洗礼を受けに行く道中で洗礼が必要になるなんて、本末転倒ね。でも、貴女はいつでもここから出て行けるのだから、自分の身の安全を優先しても誰も責めないわ。この街から出るというなら、手伝いは喜んでさせていただくわ」
パウラはトレイシーの手を両手で包み、真剣な眼差しで告げる。けれどトレイシーはふっと微笑むと、その手をゆっくりと外しにかかる。
「ありがたいですけど、それは出来ないの。縁ができてしまったし、私の目的に無関係ではないから。それに『兄弟』にお願いされちゃったので……」
トレイシーがそう言いながら額に触れると、三角形を縦に二つ、向かい合わせに繋げた模様が青白く浮かび上がる。それは砂時計の様にも、見ようによっては杯の様にも見えた。
それはトレイシーが「兄弟」と呼んだイライの体にもあるものだ。偽物が出ない様に世間には隠されているが、この光る模様こそが聖匙の使徒の証である。トレイシーもまた暦とした使徒の一人なのだ。
苦笑しながらトレイシーは前髪を撫で付ける。
「行動が使徒の証明になるっていうのは言い得て妙だなあって。吸血鬼は怖いし、疑われるのも嫌だけど、それよりも人が死ぬ方が私には辛いから、全て終わるまではここにいさせてください」
「それは構わないわ……私はいくらでも貴女にいて欲しいくらいだもの。ただ、本当に吸血鬼が気がかりで」
「んー……でも彼には『首枷』が付いているそうだから、そこは安心していいかと思っているんです」
「………………」
老婦人を安心させる為に、トレイシーは大袈裟に肩を竦めて見せる。しかしパウラは顔を曇らせ、ガーゼの貼られたトレイシーの頬に触れた。
――大したことはないさ。安心して待っててくれ。
パウラの脳裏には、遠い昔に肩を竦めて戯けて見せた、金色の髪の少年の姿が浮かんでいた。二度と会う事が叶わない、永遠にその時のまま変わる事がない兄の姿がトレイシーに重なる。
言いたいことは山程あったけれど、覚悟を決めてしまった相手には通じない。パウラは目を閉じると、小さく囁いた。
「……どうか、本当に気をつけてね」
