1話


美術館の庭園の一角。そこの鏡のオブジェに凭れてルカは空を見上げる。雲越しにぼやけた月が見えている。
「あー…………やらかしたな」
ルカは手を顔の前に翳す。黒く伸びた爪と白を通り越して青白い肌。鏡に視線を向ければ、そこには何も映っていない。吸血鬼に戻ってしまった証だ。人間に擬態している間は映っていたのに。今は確認できないが、きっと眼も赤くなっている事だろう。
ルカが自身の勘が囁くままにやってきた美術館だったが、結果的に言えば「当たり」だった。
目に見える手掛かりは見つからなかったが、古物に紛れた幾人もの血の匂いは人は騙せても吸血鬼は誤魔化せない。
すぐにでもダウジングで匂いの大元を探してやりたかったが、まだ正式に調査許可を得ていないのにそんな事をして警戒されては堪らない。下手をすれば証拠を隠されてしまうかもしれない。
なのでルカは大人しくただの入館者として、内部をじっくりと見て回る事にしたのだ。オーナーが個人で集めた美術品というものにもそれなりに興味はあったし、ついでに怪しいところに目星をつけておこうと考えてのことだった。
館内にいる間、ざわざわと頸を逆撫でされるような不快感もあったので、恐らく何かが内部にいる事も確かだ。が、受付の女性やスタッフはいたって普通だった。悪意も何もない本当に普通の善良な人間だった。
――勝手に何かが住み着いているのか、何か美術品が魔物に変化したのか、それとも。
ゆっくりと美術品を鑑賞する振りをしながら、一つ一つの展示物の気配を探る。ルカは館内の隅々まで見て回ったが、魔物もそれらしいものも発見できなかった。もしかすると表にあるものではないのかもしれない。
それとなく職員に確認すれば、やはり地下の収納にそれなりの数の美術品があるのだという。管理が大変だと苦笑する相手に、駄目元でそれらを見せてもらうことは出来ないかと問えば、オーナー次第なので、戻ってきたら連絡をするという約束を取り付けられた。美術館のオーナーは今は新たな展示物を探す為に出かけているのだという。
ルカは少しでも手掛かりになるものはないかと閉館間近まで内部を探っていたのだが、それが良くなかった。
調子に乗って、うっかりと魔力の残量を測り損ねたルカは、とっぷりと暗くなった頃には人間の擬態を保つ事ができなくなってしまっていたのだ。
これでは、とてもでないが営業時間の真っ最中であろう酒場まで行くことは出来ない。
人気が失せた美術館の庭園に紛れ、ルカはどうしたものかと頭を抱えてしまう。ルカの行き先はイライも知っているので、中々宿泊先に来ない事を不審に思えばここまでやって来てくれる筈だ。そうなったらイライの説教も呆れた目線も全て甘んじて受け入れるしかない。
――やっぱり、初日から幸先不安過ぎるな。
鏡に映る、ぼんやりと輪郭もあやふやな月を見上げてルカは一人溜息を吐く。
「早いところ昇格してもらわないと、人間社会じゃやり辛くて仕方ないな……」
誰もいない庭園で、映らない自分の影に向かって独り言を呟く。ただの虚しい行為に返ってくる言葉があるはずはなく、ルカは自嘲の笑みを浮かべた。
ところが、静まり返った場に、ぱきんと枝を踏み抜く音がする。ルカは鋭い視線を音の出所に向ける。
「誰だ?」
「っ!」
微かに息を呑む気配がし、それから走り去る足音が続く。その相手の慌て振りに、ルカは舌打ちを一つしてその後を追いかける。――これは正体を見られてしまったに違いない。
捕まえて口封じ、などと手荒い事をするつもりは無いが、周囲にルカの正体を言いふらされては堪らないのでその前に確保しなくては。その後どうするかはイライと教会の人間に任せるしかない。
もうこうなってしまっては説教なんて可愛いものでは済まないだろうが、今は余計なことを考えている場合ではない。あの目撃者に追いつかなくてはならない。
美術館の庭園は花々の美しさを楽しむ低い生垣で生成されたスペースと、高い生垣で空間を区切り、それぞれに大きなオブジェを配置した天然の展示場のスペースが有り、ルカが居たのは後者だった。身を隠す為に選んだ場所だったのだが、これが今は追う相手に有利に働いている。
ルカが追っている相手は動作は然程すばしっこくは無いのだが、細い隙間や抜け穴を熟知していて、それらを駆使して逃げていく。背の高いルカは到底通れないので、その度に別のルートを通るか生垣を飛び越えてその影を探す羽目にあっていた。
そうしている間に一瞬、空にかかっていた雲が途切れる。地上に降りた光に相手の髪がきらりと輝く。それにルカは目を見開いた。
――金髪じゃないか!
夜な夜な女性を惨殺した犯人と同じ色。それにルカの眼差しが鋭くなる。
目撃者の確保を目的としていたが、相手が連続殺人犯の可能性があるなら話は変わる。何がなんでも、どんな手を使ってでも捕えなくてはならない。


「はっ、はあっ!はっ……」
トレイシーは必死で生垣の間を走り抜ける。呼吸は辛いし、肺は痛いし、足もまともに上がっている感覚が無い。それでも立ち止まる訳には行かなかった。そうしてしまえばどうなるか分からない。
――とんでもないものを見てしまった。鏡に映らない、青白い肌に尖った耳、赤い眼をした恐ろしい魔物、吸血鬼。
酒場の仕事を終えて屋敷に帰る前に、夜の街をあちこち見回るのはトレイシーの習慣の様なものだ。今日は美術館の庭園を見回っていたのだ。広場の時計に細工をしてからは街中で襲われる人はいなくなったが、それでもマルガレータのような被害者が出ないかがトレイシーは気掛かりなのだ。
何もなければそれでいい。そう思っての見回りだった。庭園は昼もいいが、夜に訪れても美しい。だから散歩を兼ねて、その風景も楽しもうとトレイシーは気楽に考えていたのだ。
まさかそこで、吸血鬼に遭遇してしまうとは夢にも思っていなかった。
――なんでこんなところに?!やっぱり事件の犯人って吸血鬼だったの⁉︎でもそれならあの手口はおかしいし、それとも異常者か何かなの?!
走りながらもぐるぐるとそんな事を考えてしまう。いや、そうやって何かを考えていないと、恐怖でどうにかなってしまいそうなのだ。
幸いな事に、向こうはこの庭園の造りには詳しくは無い様だ。ここは幼い子供達も楽しめるようにとあちらこちらに趣向が凝らされている。その為の抜け道やトンネルを使い、トレイシーは小柄な体躯を活かして逃げ回る。
相手が人間であれば、トレイシーが視界から消えて三秒もすればこちらの存在が朧げになり、記憶から消えてしまうのだが、魔物にはその呪いの効果はないのか。しつこくしつこく追って来ている。
どうにか、人のいる場所に出られれば。トレイシーはそう考えながら敷地の外へと繋がるルートを進んでいく。
いつの間にか、被っていた帽子を落としてしまっていたが、そんな事に今は構っていられなかった。まずは身の安全を確保しなくては。
距離の長い生垣のトンネルを数回利用して、吸血鬼を上手く撒いたトレイシーは、相手の気配がない今のうちと庭園から外へと逃げ出す事に成功する。
そのまま街中まで走って走って、慣れた路地にまで到達する。そこまで来て、漸くトレイシーは人心地がつけた思いだった。それでも立ち止まってしまうと動けなくなる。だからなんとか足を進めて、粗い呼吸を整えようと努力する。
「はあっ、はあ……っは、はぅ、はあ……」
呼吸が辛い。肺も心臓も痙攣しているんじゃないかとすら思う。こんなに走ったのはいつ以来だろう。苦しくて堪らないが、早く屋敷に戻らなくてはみんなに心配を掛けてしまう。トレイシーは重く鉛の様になった足を動かして、壁に手をつきながら前へと進む。
そうしていると、前からカツカツと石畳を歩く足音が聞こえてくる。一瞬あの吸血鬼かとトレイシーは警戒したが、路地からそちらを窺えば、顔馴染みの巡査の姿が遠くに見えた。
――良かった。あの人なら大丈夫。
安堵したトレイシーは巡査を呼び止めようと口を開いた。
「むぐっ……!」
けれど、声を出す前にその口を後ろから伸びてきた手に塞がれる。しまったと思った時にはもう片方の腕に体を拘束されていた。そのままトレイシーはなす術なく、暗い路地裏へと引き摺り込まれたのだった。


「うぁ……っ!」
胸倉を掴まれ、体を路地裏の壁に叩きつけられる。思わず呻き声を上げたトレイシーに、ギョロリと冷たい赤い眼が向けられる。
「よくも、ちょこまかと逃げ回ってくれたな……!」
「っ!」
暗闇に光る眼に睥睨され、トレイシーは身が縮こまって動けなくなる。蛇に睨まれた蛙というのは、こういう気分なのかもしれないとどこか他人事の様に考えてしまう。
「言え。何が目的であそこに居たのか。次の目当てでも探っていたのか?それとも、私の後を付けていたのか」
高圧的に問いかける吸血鬼に、トレイシーはどうしようという思いで一杯になってしまう。吸血鬼が何を言っているのかを理解することよりも逃げたいという思考が先走り、この場から逃れなくてはと焦るばかりだ。
直ぐに殺されることはない様だが、いつ相手の気が変わるかわからない。吸血鬼はとても危険な存在だから、絶対に近づいてはいけないとトレイシーは言われてきたのだ。
ぎゅっと目を瞑って、何かないかと思考を巡らせる。こんな、直接的に危険な目にあったことは無かったので、いざとなると思う様に体は動かないのだと思い知らされる。
「答える気は無いのか?しかし、沈黙を貫いても無駄だ。どちらにしろ私の姿を見られてしまっては、連れて行くしかないからな」
「っ……!」
連れて行く、という言葉にトレイシーは目を見開いた。――行くって、まさか吸血鬼の根城に?それだけは、本当にまずい。
「ん?」
それまで詰問を繰り返していた吸血鬼だったが、トレイシーと目があった事で何かに気づき、目を眇める。トレイシーの顎を掴んで上向かせると、確認するようにその顔を覗き込む。
「……もしや君、さっきの」
「いやっ!」
赤い眼がぐんと近づいた事で、トレイシーの恐怖の限界値が振り切れてしまう。こっそりと取り出していたアイテムを、相手に目掛けて投げつける。
それはマルガレータが所持していたのと同じタイマーだ。あの事件でその音に魔除けの力があることが分かってから、酒場の従業員は全員が万が一のためにと持ち歩くようになっていた。もちろん製作者であるトレイシーも例外ではない。
ジリリ、と小さなタイマーからけたたましい音が鳴り響く。当然魔除けの力は吸血鬼にも効果はある。呻き声を上げて、相手が怯んだその隙にトレイシーは男の胸を全力で突き飛ばして拘束から逃れる。
そのまま走って逃げてしまえれば良かったのだが、美術館からここまでの逃走劇にトレイシーの体は限界を迎えていた。元々、屋内で作業をする事を好み、体を動かす事を苦手としているのだ。もう一ヶ月分以上の運動をしたと言ってもいい。そんな状態なので、足がもつれてまともに走ることなど出来ない。
それでも壁伝いに立ち上がり、どうにか逃れようとするトレイシーの背後で、タイマーの音が止んだ。そちらに目をやれば頭を抑えながらタイマーを踏み潰す吸血鬼の姿がある。すう、とその目がこちらに向くのが分かり、トレイシーの全身から血の気が引いていく。――殺される!
「待て!」
「あぅっ!」
余力を振り絞って逃げ出そうとしたトレイシーだったが、三歩も行かないうちに緩んでいたサスペンダーを捕まれ、力尽くで引き戻される。
しかし今度は怯えてばかりもいられない。捕まった後もおとなしく殺されて堪るかとばかりに、トレイシーは手足を滅茶苦茶に振り回して抵抗をする。
「離せ!触るな!離せー!」
「ぐっ、ちょ、待て、待ってくれ!」
吸血鬼からはすっかりと高圧的な雰囲気は消え失せ、トレイシーの扱いに戸惑っている状態だったのだが、必死なトレイシーには伝わらない。抱えられたままジタバタと暴れる少年に困り果てた吸血鬼――ルカはどうしたものかと眉尻を下げる。
犯人かと思って捕まえてしまったが、よく見れば相手は図書館で言葉を交わした、あの年端も行かぬ少年だった。どうしてこんな夜更けにあんなところにいたのかは分からないが、相当怯えさせてしまったようで、パニックを起こしてしまっている。
解放してやれば少しは落ち着くのかもしれないが、この状態では十中八九逃げ出そうとする。この少年は自分の正体を見てしまったという事実は変わらないので、逃してやることはできない。
「このっ、離せってば!誰か、誰かー!」
「あ、こら!」
「むぐっ」
怯えて声も出なかった先程までとは違い、余裕が出てきたが為に叫んで人を呼ぼうとし始めた少年に、ルカは大慌てで口を塞ぐ。目撃者を増やされては堪らない。
周囲の気配を探るが、夜も遅かった為に誰かが気付いた様子は無さそうだった。ルカはその事に安堵しつつ、この少年の扱いにいよいよ困ってしまう。暴れるし騒ごうとするし、少々手荒になるが沈黙させるのが話が早いだろうか。
ルカは仕方がないとばかりにため息をつくと、少年に一応の謝罪をしておこうと考える。
「勘違いとは言え、君を追い詰めた事は申し訳ない。けれどあんな夜中に子供が一人で出歩いているのもどうかと私は思う。この姿を晒してしまったのは私のミスでもあるが、それを目撃した君のタイミングの悪さには正直哀れみすら覚える。少々手荒になるが、この後の事は君自身に運が無かったとして、どうか諦めて欲しい。そして私の事を恨まないでくれ」
「んぐっ!んん!」
ルカのその物言いは、聞く者によっては「これからお前には死んでもらう」と言っているように取れる内容だった。ルカに抱えられているトレイシーは間違いなくそう思っていよいよ暴れ出したし、その言葉を途中から聞いていたもう一人もそう受け取った。
「うがっ!」
「!」
自身を拘束していた腕が緩み、トレイシーはまろぶ様に放り出される。急いで吸血鬼から距離を取り、壁に背を預けたトレイシーの目に、頭を抑えて蹲る吸血鬼の姿が目に入った。突然苦しみ出した相手に、何が起きたのか分からずトレイシーが呆然としていると、その視界を遮るように誰かが目の前に立ちはだかった。
「ぐっ……がっ……!」
「何を、しているんだ君は!こんな子供に手を出そうとするなんて、見損なったよ!」
「イ、ライ……!ぐうっ………!」
トレイシーを庇うようにして立っていたのは、白い司祭見習い――イライだった。現れた第三者の姿にほっとしたトレイシーは、その場にぺたりと座り込んだ。気が抜けてしまったのでもう立てそうにない。
柔和な空気を纏っていた青年は、今や険しい顔でパートナーだった筈の吸血鬼を見下ろしている。グラール教の象徴である十字のロザリオを手に巻き付け、両手で複雑な印を組んでいる。仄かに青く光るロザリオと連動するように、ルカの頭に嵌った不可視の青い輪が浮かび上がる。
「今までの協力的な姿勢、利他的に真剣に事件に向き合う姿に、分かり合えると思っていたけれど全ては我々を油断させる手段だったという訳かい」
「ま、待て……!誤解だっ……!うぐぅっ!」
「誤解だって?今君は『運が無かったと諦めて私を恨むな』と言っていたじゃないか!僕の目を盗んで吸血行為に及ぶつもりだったんじゃないのか!この子に何をする気だったんだ!」
「だから、誤解っ……ぐがっ!そ、そもそも私は、男の血は、吸わないっ!」
「………………男?」
ルカの渾身の叫びに、イライは訝しげにそう呟き、印を組んだまま背後を振り返る。へたり込んでいる相手は可愛らしい顔をしてはいるが、確かに少年だった。その姿にイライの頭の中は疑問符で一杯になる。
――あれ?さっきは女の子に見えたんだけどな……?
なんだか、ついさっきも同じ感覚になった様な、と思ったところでイライはっとする。服装が乱れてしまっているせいで印象が違って見えたが、この子は酒場にいた少年だ。
「君は、シュテルンの……どうしてここに」
「そんなこと、どうでもいいでしょ!」
イライの問いかけに、きっと眦を釣り上げた少年が叫んだ。
「なんで、吸血鬼がこんなとこにいるの!あんた達まさか仲間じゃないでしょうね?!殺そうとして来るし!」
「そうだ、なんでこの子に襲いかかってたのか聞いてない」
「誤解なんだって。そろそろ私の話を聞いてくれ……」
イライの印が解けたので、ルカはよろめきながら体を起こした。それと同時に空を覆っていた雲の切れ間から月の光が差し込む。そうして光が当たった少年の姿にイライは「あ」と声を上げる。
金色。小柄な少年の頭髪は月の色と同じだった。サイズの合っていない帽子を不思議に思っていたが、これを隠すためだったのかとイライも合点がいく。
散々話題に上がっていた、警察も手を出せなかった容疑者の少年。まさか、こんなところで会うことになるとは。憮然とした表情でこちらを睨んでいる相手に、イライは額を抑えた。
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