3話



上空から人気が無い事を確認し、ルカは美術館の庭園に降り立った。
あれからぴくりとも動かなくなったトレイシーの様子を窺ってみるが、トレイシーはルカの首にしがみついたままうんともすんとも言わない。
「トレイシー、着いたよ」
ぽんぽんと背を軽く叩き、そう告げてみるも無反応。暫く待ってみたが、やっぱりトレイシーはそのままだ。抱えた腕に伝わる程にふるふると体も震えているし、余程上空を飛ぶのが怖かったらしい。
——ひゃんひゃんと小鳥のようによく鳴くのに空を飛ぶのは駄目なのか、この駒鳥。
小柄な体躯を更に小さく縮こめて震えているトレイシーがルカにはとても可哀想に思えてきた。なので落ち着くまで待ってやろうとルカはトレイシーを抱えたまま、高い生垣に囲われた通路を歩き出す。
時間が限られているのでゆっくりと待ってやる暇はない。美術館に着くまでにはトレイシーも気が付くだろう。
「……ん?」
五分くらいは経っただろうか。首筋に縋り付いていた腕の力が緩み、もぞもぞとトレイシーが身じろぎをする。
きょろきょろと周囲を見ていたトレイシーの視線が、自分を抱えているルカに止まる。
「ここって」
「美術館の敷地内だね」
「つ、着いたんなら早く言ってよ!なんで黙って運んでんの!」
「言ったよ。でも君ときたら全く聞いてなくて。だからこのままでいいかなと」
「はあ?いいわけないでしょ!」
「よしよし、分かった分かった」
「何が分かったのさ!」
トレイシーの強がりを流してルカが歩みを進めていると、眦を吊り上げたトレイシーがルカのネクタイを引っ張る。
「ちょっと!降ろしてってば!」
「うぐぅ……君な。犬の首輪じゃないぞ、私のネクタイは」
「自分で犬ってさっき言ったじゃん」
「あれはものの例えじゃないか。立てないだろう?無理をしなくていい」
「平気だから!馬鹿にするな!」
「馬鹿にしてるつもりはないんだけれど」
ルカの脳内には尾羽を立てて、高い声で激しく縄張りを主張し続ける胸の赤い小鳥の姿が浮かんでいる。何故こうも駒鳥にそっくりなのか、この子。
「君が震えてしがみついているから、この方が早いかなと判断したんだが」
「こ、怖がってなんかないし。安全性を優先して掴まってただけだし」
ぷい、と顔を逸らしてそう強がるトレイシーにルカは笑いそうになる口元を引き締めた。
——君が自分で高いのが怖いって言っていたんだけどな。
思わず漏れた本音だったので当人は覚えていないのか、それとも忘れたふりをしているのか。ルカからはその判断はつかない。しかし、これだけ元気に言い合いが出来るならもう大丈夫だろう。ルカがトレイシーを地面に下ろしてやる。
トレイシーは漸く地に足がついたことに安堵した様だ。しかし疲れ切った顔を見る限り、精神的な疲弊は隠し切れていない。空の旅はやはり彼女には堪えたのだろう。
羽織っていた白いコートをルカに返しながら、トレイシーはぼそりとぼやく。
「ねえ、帰りは違う方法がいいんだけど……」
「そうは言うけれど、これが一番速い移動手段なんだよ」
「分かってる。時間制限あるのは私の事情だし、あんたが付き合ってくれてることも分かるんだけど、でももう一度空飛ぶのは遠慮したいって言うか」
「まあ、調査が短時間で終われば飛ばなくても君の帰宅タイムリミット前に戻れるとは思うが」
「それなら急ごう、本当に急ごう」
「あ、待ってくれ!」
ずかずかと歩いていくトレイシーの背を、上着を着直したばかりのルカが慌てて追う。そんなに空を飛ぶのが嫌なのか。酔わないようにちゃんと気を使ったのに。
ディケンズ先生に繋がるマイクを手に装着しながら、ルカはふと、ここでトレイシーを追いかけるのは二度目だな、と気付く。
「ふふふ」
「何を笑ってんの」
つい漏れてしまった笑い声に、トレイシーがギロリときつい眼差しをルカに向ける。
——さっきまで、私の首に縋りついてか細い声を出していたのに、この態度か。
ルカを犬とトレイシーは言うが、ルカにしてみればトレイシーの変わり身の早さの方が猫のようだと感じる。
しかし機嫌の悪そうなトレイシーにはそんな事を考えてることはおくびにも出さず、ルカは隣に並んでにこりと笑う。
「君とこの庭園で追いかけっこをした時の事を思い出してね。まだ一週間も経っていない筈なのに懐かしく感じるなと」
「よく言うよ。こっちは殺されるかと思ってどれだけ必死で走ってたか……最悪の思い出だよ」
「それは申し訳なかった。あの時は犯人なのではないかと疑ってしまっていたものだから。随分と必死で逃げていくし」
「目が赤くて肌が青白くて、明らかに魔物にしか見えない男に追われて、本気で逃げるなって言う方が無茶じゃない?」
「ううむ。そう言われればそうかもしれない」
吸血鬼は恐ろしい存在だが、容姿の美しさに魅了されて獲物は自ら首を差し出すものだ。
だが魅了されていない状態で、本性が剥き出しの吸血鬼に追いかけられたら、それは恐怖体験に他ならない。
ルカとしては犯人らしき存在を捕まえなくてはと思っていただけだが、追われたトレイシーからすれば鬼気迫る追跡者に死を連想しても仕方ないことだ。
「誤解させたのは悪かったけれど、私は封神だからグラールの信徒は襲えないし、そんな心配はいらないのに」
「封神ってまだ半分だけでしょ。あんな生きた心地のしない鬼ごっこは懲り懲りだよ。まあ血が吸えないあんたに怯える必要なんかなかったわけだけど」
はん、と鼻で笑ってそう言ったトレイシーに、ルカは不思議そうな表情になる。
「私の封神化が半分でも完全でも、君には変わらないと思うのだけれども」
「え?なんで?」
「何故って、一度正体を知ってしまった幻術は封神の私には二度と効かないから。最上位魔術師が五感を惑わせていた全てが意味を為していないんだ」
「そうなの?」
「ああ」
目を丸くして驚いているトレイシーは、本当にその事は知らなかった様だ。と言うことは、トレイシーは幻術で隠されていた秘密がルカに筒抜けになっている事も気付いていないのだろう。
ルカは自身の唇に触れながらにっこりと深く微笑んだ。
「だから君の姿も質量も声も勿論、君の纏う香りも本来の」
「ああっ!」
ルカの言葉を遮り、トレイシーが声を上げる。突然の事にルカが驚いていると、半歩先を歩いていたトレイシーがくるりと体の向きを変える。
「それだ」
「うん?何がだい?」
「何か忘れてると思ったんだ。あの襲ってきた相手、揉み合った時に甘い香りがしてて……香水だと思うんだけどなんかちょっと癖があって、それで気になってたんだよね」
「癖、とは」
「うん……なんか、甘いだけじゃなくてスパイスみたいな匂いがしてて、金払いのいい客とかがつけてるみたいな。あ、成金趣味って意味じゃないんだけど、なんか高価そうというか」
トレイシーが一生懸命に襲撃者の香水の説明をしようとするが、香りを言葉で伝えるのは容易ではない。これに関してはあまり参考に出来そうにないなとルカは考えた。
「あまり得意な匂いではなかったんだけども」
「ふむ。なるほど。覚えておくよ」
まだ、何か言いたそうにトレイシーがしているのは分かっていたが、今は時間が惜しい。その話題は切り上げて、美術館へと足を進める事を優先する。
高い生垣を抜けた先に、美術館が待ち構えている。オーナーが趣味で作ったものとは思えない程、しっかりとした作りのその建造物にはシンボルの様に大きな円形のステンドグラスがある。十枚の花びらの様な窓枠には色とりどりのガラスで双頭のライオンと薔薇の紋章が象られている。
彫刻の施された石のアーチの下に立ち、ルカは繁々とステンドグラスを観察する。初めて見た時はただの飾りと思い気にも止めていなかったが、改めて確認すると確かに貴族の家紋に見えなくもない。
事件の手掛かりを追うと、必ずこの美術館に導かれる。ドラクルに来た初日にここに目をつけた自身の勘は間違っていなかったのだとルカは口角を上げる。
「さて」
ルカが横を向くと、ステンドグラスを眺めていたトレイシーと視線が重なる。
「気を引き締めようか。謎の答えがあるか、更なる秘密を見つけるか、はたまた殺人犯が潜んでいるか。何と出会うか分からないよ」
「真実に近づけるなら今よりはマシだけどね」
トレイシーが胸につけた鍵に手を翳すと、一瞬だけブローチが強い光を放った。彼女の正体を知った、半封神のルカの目には変化は見えなかったが、トレイシーが少年の幻術を纏ったのが分かる。
緊張した面持ちで前を見据えるトレイシーに、ルカが手を差し出す。

「行けるかい?トレイシー」
「当たり前。ちゃんと案内してよね、ルカ」

差し出された手に、トレイシーが手を重ねる。二人は「ラックプロフォン美術館」と刻まれた石のアーチを潜り、美術館へと足を進めたのだった。





続く……



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