3話


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大きくは無いし、施設は古いし、変わり映えのしない、穏やかな日々が続く、こじんまりとした町。
みんな同じ髪色で、見えなくても妖精の存在が当たり前にいて、雨の後にはくっきりとした虹が町の上に掛かる。夜には光のカーテンが空に浮かぶこともある。
妖精の最後の楽園、天使の休む町とも呼ばれるエジル。
産まれた時から当たり前の様にここで生活していたから、世界とはそういうものなのだと思っていた。
ただ、ここが好きだと言う気持ちはあった。外の世界への憧れもあるけれど、ここで生きていくのも悪くはないとも思う。だって大切な人はここにいる。

「いつか君が大きくなったら、もっと大事なものができるかも知れないよ」

そういって頭を撫でてくれる人に、そう言うものなのかな?とトレイシーは首を傾げたものだった。

――その、愛したものが全て、赤く赤く燃えている。

「嘘っ……!嘘だ!嫌だ!」
「トレイシー!駄目です!近づいては!」
「父さん!父さああああん!!」
今にも火の海に飛び込まんとするトレイシーを、町の牧師が必死に止める。
半日。たった半日だ。
依頼品の時計を届けに行くのに、馬車で少し遠くの町へと出かけただけだった。
夕方には帰ってくる。そして父親の作った、味の微妙なシチューで夕食を囲む。母の微笑む写真を飾って。今日あった事を語りながら過ごす。いつもと同じ風景。

その筈だった。

トレイシーの帰る時計屋が、近所に住む人々の家が、馴染んだ町の建物が赤く燃えている。
夕陽が地獄の業火の様だ。赤い空に赤い町。穏やかな世界が赤に引き裂かれる。
昔ながらの建物同士が隣接した町並み、乾燥した季節が災いし、火は全てを焼き尽くした。
優しくしてくれた人々も、よく話した近所のおじいさんも、隣の料理上手な奥さんも親切な旦那さんも、最愛の父も、みんな、みんないなくなってしまった。
空が泣く様に雨が降っても、何の慰めにもならない。誰も戻ってこない。

火が消えた夜、エジルの町から無数の白い不穏な光が空に昇っていく。それは幻想的とは程遠く、不気味で不安を掻き立てる光景だった。
残された人々は、トレイシーは、ただただその光を見送るしかできなかった。
誰もが胸騒ぎを覚えていたが、彼らに出来る事は何もありはしなかった。

後の調査で火災が人為的なものである事が発覚する。
悪意のある火はあっという間に人々の逃げ場を奪い、助かった住民はほんの僅かだった。
狙いは、トレイシーの創り出した技術とその権利。それを守る砦となっていた父親の存在。
何度も訪ねて来ていた同業者達。しつこく権利を売る様にと父に迫っていた人間の顔をトレイシーは覚えている。
――犯人はあいつらだ。あいつらに父さんは殺された。町のみんなも。
黒い想いがどろりとトレイシーの胸の奥に澱んでいく。
トレイシーの想いと重なるように、悪い知らせが重なっていく。
遠い街での魔族の暴走。血族の反乱。聖地の汚染。多発する子供の神隠し。
そして急激に増加した強力な死霊による、十月城の邪神の封印の崩壊。
強力な死霊の正体は、あの日の白い光、エジルの町の人々の霊魂だ。
元来の魔力が強く、妖精や天使、神の眷族に近い人々の不慮の死、抱えた無念、恨みが反転して凶悪な力に変わってしまった。
十月城のあったオクトロは悲惨な状況なのだという。グラール教会でもどうにもできない有様だ。邪教の信徒も、魔物も便乗しこの世の地獄に変わってしまった。

「どうでもいい」

――地獄?地獄ならもう目の前に広がっている。
トレイシーは瓦礫の山と化した町並みに立ち、低く呟く。

「どうでもいい」

戻らない。
手を繋いで歩いた散歩道も、トレイシーのお城だった狭い作業場も、お気に入りの本屋も、背中を押してもらった手作りのブランコも、愛してやまない故郷の町も。
人も場所も何もかもが戻らない。
片手で握り潰した新聞に、トレイシーが発明した技術の記事が載っている。知らない名前の男の、自慢げな顔写真と共に。
こんなものの為に、全てを奪われたのか。
初めて自らの手で形にした発明と言っていい技術。
大好きな人が本当に嬉しそうに笑ってくれて、これが「大事なもの」になるのかもしれないと思った。
しかし、心の奥底から冷えきった恐ろしい声が聞こえる。
――これは私のせいではないのか。
私が世に生み出した技術のせいでこうなった?私のせいでみんな死んでしまったのではないか?
「っ!」
トレイシーは唇を噛み締めて、首を強く振る。
じわじわと這い上がるその声に蓋をして、新聞をきろりと睨む。
――死霊になるくらい、みんなが無念なら。あいつらだけ生きているのは不公平だよね?
同じ目に合わせてやろう。いいや、もっともっと痛くて苦しくて辛いめに合わせてやろう。苦しんで苦しんで死ねばいい。
どろどろと黒い澱んだ感情が溢れ出る。
人を恨んではいけない?憎んではいけない?大切な人を助けてくれない、神様の言うことなんて聞く必要があるものか。

――殺してやる。あいつら全員。

トレイシーの心の中は真っ黒で、復讐の炎でいっぱいで。そのまま、心と同じく手も黒く染まる——その筈だった。

そうはならなかったのは、町の牧師が彼女を止めたからだった。
その人は穏やかでいつも笑顔で、悪さをした子供にも優しい声で注意をする、聖人のような牧師様と町民に慕われていた。
そんな壮年の牧師がトレイシーの前に跪き、頭を垂れる。

「トレイシー、どうか、どうか私の懺悔を聞いてくれませんか」

復讐の念に染まるトレイシーに、牧師は昔の話を語り出す。

「今から二十年前、産まれた赤子の洗礼の儀の最中に、小さな額に光る印が浮かび上がったのです。その事に気づいたのは赤子を抱えていた私だけでした。その印は聖杯の形をしていました。赤子が持っていたのは聖匙の使徒の証です」

「せいかいの、しと?」

「聖匙の使徒は、聖賢者様のご意志とお力を継ぐ存在です。その印が出たのなら、教会本部へと報告しなければならなかった。しかし…………私は、そうしなかった。報告してしまえば、赤子はすぐにでも聖都ラビエラに連れて行かれてしまったでしょう。最愛の人を、愛した妻を失ったばかりの男から、唯一の希望を取り上げて遠ざける事は私には出来ませんでした」

額に、印。その事に覚えがあるトレイシーははっとする。
微かに震える声で、二十年もの間、一人抱えていた罪を吐き出す牧師。トレイシーはすっかりとやつれてしまった彼に、改めて向き直る。
黒い炎はまだトレイシーの胸の内にあるけれど、少しだけその勢いは引いていた。

「貴女を、聖匙の使徒たる子を隠した罪と、教会の意向に背いた事実は私の中でとても重くのしかかりました。牧師を辞そうとも考えました。ですが、もし私の次の牧師が使徒の事実に気付いてしまったら?か弱き親子が引き裂かれてしまったら?私がしでかした事だと言うのに、無責任に逃げ出す事だけはあってはならない。何かあれば私が償うのだと、それだけは違えないと決めていました」

そう言いながら、牧師は懐から小さな箱を取り出した。その箱の中から出てきたのは大振りの鍵だった。
キーヘッドに時計が組み込まれていて、金色に煌めいている。聖匙の使徒が、本来なら所持していなくてはならなかった神器。
一目見ただけで、トレイシーにはそれが自分の為のものである事が分かった。そしてそれがどんな力を秘めているのかも理解する。
——この鍵は一度だけ、時空を操作することができる。
亡くなった聖賢者が持っていた、最後の奥の手。長い長い生の中で沈黙し秘匿し続けた、神にも匹敵する能力。
数多いる聖匙の使徒の中で、最も脆弱で、最も非力で、最も神の恩恵を浴び、最も無神論者に近く、最も冷静で平等な判断が出来る、無色透明の存在に託される力。
教団に入らず、神の眷属に近い町で育ったトレイシーはその条件に当てはまる。
全てを知ったトレイシーの額に聖杯の印が浮かび上がる。鍵を手に取れば、強い光を発する。
復讐の黒い炎はずっとトレイシーの胸の内にある。しかし、それが揺らぎ、小さくなっていくのを感じる。
時を戻す力。邪神と魔物によって、地獄と化してしまった世界を正常に戻すための力。
それはつまりトレイシーの父を、この町の人々を救える可能性があるという事に他ならない。トレイシーはその事実に喜び、打ち震えていた。
それと同時に、仄暗い思いも抱く。きっと、死んだのが父さんだけなら、この力は使えなかったんだろうな、と。
トレイシーは鍵を握り締め、覚悟を決めた目で牧師を見つめる。戸惑いは無かった。そんなトレイシーに、牧師は悲しげな顔になる。

「こんな役目を押し付けるために、貴女を隠したわけではなかったのに」
「牧師先生、私は世界とかどうでもいい。父さんとみんなが帰ってくるならそれでいい。でもね、先生がくれた分の恩は、世界に返してもいいと思ってるよ。だから、懺悔はいらない」

トレイシーの思いを受けて、鍵は眩いばかりに輝いている。
時を司る鍵の神器には、過去の出来事を修正する能力がある。但し、それが出来るのは一度きりだ。
時を戻すのに必要なエネルギーは、鍵に蓄積された聖力と、トレイシーの中にある膨大な魔力。
しかし、世界を修正するには代償も支払わなくてはならない。それを背負うトレイシーは歳若く、代償として差し出せるものは少ない。
寿命か、身体の一部か、その存在全てか。何を失うかはトレイシーにも分からない。

「………………」

時間を戻す事は決めている。覚悟は出来ている。
それでも、能力を発動するまでにトレイシーには数秒の躊躇いが生まれた。代償の重さに少しだけ怯んだ。

その僅かな間に、トレイシーの手を力強く握ってくれたのは牧師の手だった。
驚いているトレイシーの視界が光に焼き尽くされる寸前、そこにあったのは幼い頃から見てきた穏やかな笑顔だった。

「言ったでしょう。何かあったら償うのは私だと。貴女はどうか——」






———トレイシーが「一度目」の全てを思い出したのは、二度目の十四歳の春の事だった。

「トレイシー、ようやく君の洗礼の儀を行える所が見つかった」

年老いた白髪の牧師が朗らかに告げ、トレイシーの父親、マークは声を弾ませて「本当ですか⁉︎」と身を乗り出した。
トレイシーは虚弱な体質を補う為に、生物以外に宿る魔力や聖力を手当たり次第に吸い上げてしまう。それが故に洗礼の儀に使う聖水すら吸収してしまい、十四歳まで洗礼の儀式が行えないでいた。
全身を聖水に浸ける洗礼はグラールの信徒ならば必ず受けなくてはならない。そして信徒である事はこの国において確実な身分証明になる。様々な節目にある儀式においてもグラールの信徒である事は大事なのだ。
だからこそ、マークと牧師はどうにかしてトレイシーに洗礼を受けさせる方法はないかと、あれやこれやと四方八方に手を尽くしていたのだった。

「それで、どこに行けば良いのでしょうか、牧師先生」
「とても遠いところなのだが聖地として有名なところで、以前この町の牧師を務めていたお人が今は統括されているそうでね。……そう、ここだよ」

地図の上の地名を皺だらけの指が指し示す。その名前をマークが読み上げた。

「オクトロ、ですか。遠いところにある街なんですね」
「!」

地名を聞いた瞬間、トレイシーの脳内に赤い空と赤い町の光景が広がる。
オクトロ、十月城、亡霊、白い不穏な光、瓦礫の町、邪神、知らない「牧師」、聖匙の使徒、金の鍵。
一気に押し寄せるのは「一度目」の二十歳まで生きた自身の記憶。ぐるんと頭の中身を一回転させられたような不快感に耐えきれず、トレイシーは意識を手放した。



次に目が覚めた時、トレイシーははっきりと以前にあったことを全て思い出していた。今が自分の能力で時空を操作して戻った世界な事を知る。そして自身が負った代償も。
「一度目」は健康で何も問題が無かった体だったが、今のトレイシーは体力が著しく低下し、体調を崩しやすく弱くなっている。
同業者に故郷を燃やされる要因となった、革新的と絶賛された発明の内容が何も思い出せない。ここだけ綺麗に記憶が消えている。もう一度同じものを作り出すことは不可能なのだろう。
神器であった鍵はトレイシーの手元にあるが、今やただの飾りになっている。もう何の能力もトレイシーには無いのだろう。
だが、それも父と故郷を取り戻せたなら安いものだと思う。生きていく上に不足なものなど何もない。

けれど、トレイシーはここにいない「一度目」に存在した壮年の牧師を思い出し、唇を噛む。
恐らく一番重い代償を引き受けてくれたのは彼なのだろう。年老いた牧師に尋ねてみたし、教会にも問い合わせて貰ったけれど、あの恩人である牧師の名はどこにも無かった。
牧師の存在だけが綺麗に消え失せてしまった世界。

——恩を受けてばかりで、何も返せなかった。

あの牧師に庇って貰った「一度目」とは違い、今回は洗礼を受けられていないお陰でまだ聖匙の使徒である事は自分以外には知られていない。
そして、もうトレイシーの手元にある金の鍵は神器などではなく、ただの飾りになってしまっている。トレイシーにはなんの力もない。

——黙っていれば、普通の人生を送れる。

そんな考えが脳を過る。だけどもその度に額の聖杯の印が熱くなる。
聖匙の使徒の使命を果たせと責めるように。
あの恩人に申し訳なくないのかと詰るように。
洗礼を受けに行くのがオクトロなのも偶然とは思えなかった。エジルの町があの地獄の始まりなら、世界の崩壊の決定打となったのが彼の地にある十月城だ。
縁めいたものを感じる。何かに呼ばれているような予感をトレイシーは覚えていた。


「懐かしい気配がすると思ったら。君、とても複雑な因果を持っているね」


迷うトレイシーが行末を決めたのは、「一度目」は現れなかった赤毛の青年との出会いも大きかった。
生ける伝説とも言われる大魔術師は、トレイシーの「一度目」の話を興味深く聞き、自身の役割は終わったと思っているトレイシーに告げる。

「聖匙の使徒は世の為に存在し、行動が自らの証明になる。能力の有無は問われてないんだ。だから、君の額にはまだ印が残っているじゃないか」
「でも、何をすればいいか分かんない」
「まあまあ。慌てない慌てない。僕らはさ。進む方向に運命がうねっていくんだ。だから何かしようなんて今は考えなくていいんだ。その時に選べばいい」

クインランの言葉に、トレイシーはオクトロへ旅立つ事を決める。今がその選ぶ時だと感じたからだった。
——代償はまだ終わってない。これが運命なら、流れに乗ろう。


行く先々で次々と起きる事象が「一度目」の代償なのか。聖匙の使徒の使命なのか。
トレイシーには分からない。
分からないが、突き動かされるがままに流れるがままに動くしかない。
世界の崩壊も父を失う事もあってはならない。
もう二度目はないのだ。
もう同じことが起きても、自分には何もできないのだ。


それがトレイシーには怖くて仕方がない。



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