3話




はたと気付くとルカはレーゲル屋敷の正門の前に居た。ついつい物思いに耽ってる間に、足が勝手に向いてしまったらしい。
何をしているんだかと髪を掻き毟る。トレイシーが起きたという話はまだ聞いていない。それをずっと気にしているのが良くないのかもしれない。
「…………戻るか」
そう独りごちて、ルカは踵を返す。こんなところにルカが突っ立っていたところで、トレイシーの目が早く目覚める訳でもない。
しかし、歩き出そうとしたところで、「おーい!」と聞き覚えのある声が耳に届く。とうとう幻聴まで聞こえてきたかと思いながらも、ルカは首をそちらを向ける。
すると、屋敷の二階のバルコニーに、ひらひらと手を振るトレイシーの姿がある。ルカはぱちぱちと目を瞬いて見るが、その姿はしっかりそこにあるので幻覚ではなさそうだ。
トレイシーはいつも通り元気そうに見えるが、この距離では顔色や異変までは分からない。
逡巡したのは一瞬で、ルカは助走をつけて門を飛び越えると、庭に一度着地し、もう一度飛び上がりトレイシーのいるバルコニーに降り立った。
瞬きの間に目の前にやって来たルカに、トレイシーはぽかんと口を開けて驚く。声をかけたのは自分だが、まさか真昼間に堂々と人外の跳躍力を披露するとは思っていなかった。
「こんな堂々とした不法侵入初めて見たんだけど。普通に正門から入ってくればいいのに」
「お行儀よく案内されるのを待つのが煩わしい」
「あんた、意外とせっかちだよね……」
トレイシーは諦めた顔で溜息を吐く。短い付き合いだが、この短期間にいろいろ体験したおかげでルカの性分はなんとなく分かって来た。
立ち上がったルカは、呆れ顔のトレイシーに構わず顔を心配げに覗き込む。
「いつ目覚めたんだ?体に不調はないかい?毒の影響は?体が濡れていた時間も長かったから熱でも出ていたらと気掛かりだったんだ」
「あー……うん。起きたのはさっきなんだけど」
ルカからの問いにトレイシーは歯切れの悪い返答をする。意識が無かったのでトレイシー自身も知らなかったのだが、二日程熱が出ていた事を先程執事から知らされていた。
しかし、わざわざルカに言うことでもないので、そこは視線を外してはぐらかしておく。
「沢山寝たからなんともないみたい。毒も多分大丈夫だと思う。痺れとか、そういう感じも無いし。私、泳ぎにはちょっと自信あったんだけど、あの湖じゃ全然そんなの意味なくてさ。ちょっと死んだかもって思っちゃったよね」
「…………………………………………」
「調査員さん?」
なんの反応もない相手に、トレイシーは視線を戻す。するとルカは、トレイシーをぼんやりとした顔で見つめている。様子のおかしいルカにトレイシーは戸惑いつつ、手を顔の前で振ってみる。
「ちょっと、ねえ!ルカ?」
「!あ、ああ。すまない、ぼーっとしていた」
ルカははっとした顔になると、取り繕う様に笑う。この男がトレイシーの前でこんな隙のある反応をするのは珍しい。トレイシーは訝しげに眉を顰めた。
「……大丈夫?話聞いてた?」
「ああ。あの毒の恐ろしさは私も感じたよ。君が手遅れになる前に救えて、本当に良かったと思っているとも」
「聞いてはいるんだね……なんか様子おかしかったけど」
「つい、他の事に気を取られてしまってね……本能には逆らえないというか。気を引き締めるよ」
「?うん」
もごもごと言い淀むルカの言葉の全てはトレイシーには聞き取れなかった。最後の方だけ聞き取れたので、取り敢えず頷いておく。
ルカはトレイシーを改めて見やる。意識の無い彼女の姿を見てはいたが、少年の幻術を被っていないトレイシーと向き合うのは今回が初めてだ。
顔は確かにトレイシーなのだが、少年と少女では明確に印象が違う。整った容貌はそのままではある。しかし眉や目元はもう少し凛々しかったとルカは記憶している。顔の輪郭もシャープで、ほんのりとではあるが精悍さがあった。
それが今のトレイシーは頬は丸く幼気で、目元も柔らかな印象。唇も少年の時は小さく薄かったのが今は赤みが増してふっくらとしてるので、変わらず生意気そうな表情をしていても、どうにも可愛らしさが勝つのだ。
ルカはトレイシーの事をずっと小柄で貧弱な少年だと思っていたのだが、それでも男の幻覚は多少の質量を補っていた様だった。女性の姿のトレイシーは肩幅と腰回りが細くなったせいか、一回り小さくなった様に感じられる。
また少年の衣服は体のラインをより明確に見せる効果があるようで、慎ましやかだが胸の女性らしい丸みも腰の括れも強調されている様に感じられた。
――そういえば、年若い愛人達に少年装をさせている、倒錯的な老いた貴族がいたな。
百年前の人間時代の記憶を思い出し、ルカは苦虫を噛み潰した様な気分になる。当時はその貴族を背徳的な趣向の持ち主と軽蔑していたのだが、少しだけその魅力を理解してしまった自分に嫌悪感を覚えてしまう。
その自己嫌悪中に、諸々のトレイシーと出会ってからの記憶全てを芋蔓式に思い出し、ルカは重い溜息を吐いた。こんなか弱い存在を出会った初日に壁に叩きつけ、傷をつけてしまったのかと更に自己嫌悪で気分が重くなる。
「ねえ。人の顔見て百面相するのやめてくれない?なんか文句あんなら言いなさいよ」
「……文句があるのは君の方なのでは?私は今こそ記憶障害が起きてほしいと思っている。数々のやらかしを忘れたい。私は女性に対してなんてことを……」
「ああ、一応そこは気にするんだ」
人当たりの良さそうな見た目に反し、ルカは随分と人使いも対応も荒い男だとトレイシーは思っていた訳だが、あの無遠慮さは誰にでも発揮されるものではなかった様だ。
今まであそこまでぞんざいに扱われたことも無かったので、トレイシーとしてはなんだこの男と思っていたのだが、どうも今はその事を悔いているらしい。実はフェミニストだったのかもしれない。
ルカに対し、こいつめという思いはある。が、自分の行動を思い出してあまりにも落ち込んでいるし、ルカが命の恩人であることも事実なので許してやるかとトレイシーは小さく笑う。送られた花も気に入っているし。
「私の扱いの悪さには文句はあるけどね。全く進展が無かった事件調査も調査員さんのお陰で動き始めたし、新たな犯行を止める事も出来たじゃん?そこは感謝してるよ」
「そう言ってもらえて良かったんだが、反省すべき点は数えきれなくてね。それに、どうにもこうにも気になってしまうというか」
「え、なに?」
なにやら言いづらそうにしているルカは額を抑えてううむと唸っている。うだうだとした態度のルカに何が言いたいのかとトレイシーが眉を顰めていると、ルカは観念したようにぼそぼそと話し始める。
「女性の身体に、脚部に直に触れてしまった償いはどうしたらいいのかと」
「……脚?」
「そう。君を抱え上げた時に。どうか勘違いしないでくれ、体を支えるためで決して不埒な意図があったわけでは無いんだが……」
赤くなった自身の頬を隠すように手を添えるルカに、トレイシーは眉根を寄せて首を傾げた。脚がなんだというのだろう?ルカが一体何が言いたいのかが、トレイシーにはさっぱりとわからない。
戸惑っているトレイシーに気付いたのか、ルカは「こほん」と咳払いすると説明を付け加えた。
「百年前は性道徳がかなり厳しくて、女性の肌の露出は性的であると制限されるのが当たり前で……特に脚部の露出は冒涜的とまでされていて、一番見えてはならない箇所だったんだ。だから君の身体に無遠慮に触れてしまった事に、私はとても罪の意識が湧いて仕方がない訳で」
「あー……」
ルカの言い分に、トレイシーは納得した声を出す。
当人の順応力の高さで現代に合わせてはいるけれど、ルカは百年前の人間だ。だからその時代の感覚を全て振り切れているかと言えば、なかなかそう簡単なものではないのだろう。
トレイシーにはとんと理解できないが、昔の感覚では女性の脚は胸や腰といった部位と同じくらい性的なシンボルだった様だ。ルカ曰く、靴下を脱いで同じ褥に男女が入れば同衾成立とされたのだとか。そんなことでとトレイシーも驚くしかない。
「古臭い価値観なのは重々承知しているんだが……呆れられてしまったかな」
「いや、なんか信じられない話過ぎて。そんなに違うのかぁ……って、つまりあんた、今私と視線合わないの、もしかしてなるべく脚見ないようにしてる?」
「………………早く慣れるように努力する」
トレイシーはぽかんと口を開けて、目線を逸らしてるルカを見上げる。――あんた、こないだまで全然平気な顔してたじゃん。
普段はこちらを覗き込むようにして話しかけていた男が、何故か今日は上の方を見ているなあとはトレイシーも思っていたのだ。
「そこまで態度が変わることある?確かに魔法はかかってたけど、私はそんなに男の時と変化あるとは思ってないんだけど」
「君という人間の大まかな容貌と雰囲気は変わっていない。けれど、君にその幻術をかけたのはクインラン、世界屈指の伝説級の魔術師だろう?完璧なまでに少年の姿になっていたんだよ……骨格から顔つきまで完璧で、本当に女性だなんて思いもしなかった」
「へえ。そんなに」
トレイシーはしみじみとした思いで自分の頬に触れる。トレイシー自身は少年に見える幻術がどんなものかは知らないのだ。
そもそもトレイシーは故郷にいる頃から短髪で衣服にも拘らず、機能性を重視して作業着でいるような性格だった。そのせいで昔から男の子と間違われる頻度がとても高かったのだ。
だからこそ、男に見える幻術と言っても、精々胸や腰のラインを誤魔化す程度のものだと認識していた。まさかそんな緻密な術が掛けられていたとは。
トレイシーが悪友の魔術の腕に感心していると、ルカが溜息をついた。
「森番姉妹のおチビさんが君を『星のお姉ちゃん』と呼んでいたのは幻術が効いていなかったんだな」
「ああ、うん。小さい子には気をつけるようには言われてた」
「そうか。それだとすけこまし呼びされたのも仕方ないのか……」
「ルカって一旦落ち込むとめちゃくちゃ面倒くさいタイプなの?もしかして。あんな小さな子の言葉にまで傷つかないでよ」
魔物ならではの人を食ったような態度をトレイシーに取っていたルカだったが、今日はとてもしおしおとしていてトレイシーも調子が狂ってしまう。
普段とは逆に、トレイシーの方がルカの顔を下から覗き込む。
「そんなに衝撃受けるとは思わなかった」
「君じゃなければここまで驚いていない」
「そうなの?」
「………………………………私の好みに更に寄ってくるとは思わないだろう」
「うん?なんて言ったの?」
「なんでもない」
ルカはついつい下に向いてしまう視線を遮断する為に、ぎゅっと瞼を閉じた。
少年姿のトレイシーはもう少し、身体が筋張ってはいた。それでも脚が綺麗な子だなとルカは思っていたのだ。成人男性になれば失われる、今だけの美しさ。
それが、女性。まさかの女性。女性の脚を私はあんなに見てたのかとルカは愕然としてしまう。
見たら駄目だとルカもわかっているのだが、トレイシーは助手として一緒に行動をしていた為に、習慣づいた癖でつい視線がそちらに向いてしまうのだ。
「…………」
下を見ない様に頑張っているルカに、トレイシーは不満気に口を尖らせた。トレイシーに言わせれば、ルカが反省するべき事項は違うところにあるのだ。
トレイシーは両腕を組んで、ルカを睨み上げる。
「あんた、脚のことばっかり気にしてるけど。それよりももっと怒られるべき事をしでかしてるの、忘れてない?」
「すまない、心当たりしかない」
「そうだけど、そうじゃない!ちゃんと思い出しなさいよ」
「………………………………………………………………」
ぐっと眉間に深い皺を寄せ、ルカは言われた通りに考え込んでいる様だったが、トレイシーがどれだけ待ってもルカの顔がどんどん険しくなっていくだけで、答えは出てこない。
本当に分からないらしい吸血鬼に、トレイシーは呆れた顔で溜息を吐いた。
「ああ、もう分かった。本当にあんたにとっては取るに足りない事柄だったわけだ。流石すけこましは違うわ」
「ちくちく刺して攻撃しないでくれ。それより答えを教えてくれないか」
「キス、したでしょ!魔力供給って言って!」
「あれか……」
眦を吊り上げているトレイシーに、ルカは額を抑えて呟いた。そういえば同性ならいいかと大分トレイシーを揶揄ってしまった事を思い出した。そして余計な事を言ってしまった事も。
ルカとしてはトレイシーに口移しでドーフリンを飲ませた記憶の方が新しかったし、どうやって飲ませたのかとは誰にも聞かれていなかったので、このまま黙っておこうと考えないようにしていたのだ。ついでにその前の出来事も記憶の片隅に追いやられてしまっていたのだ。
しかし、やられた方のトレイシーは忘れる訳がない。ルカと来たら「君がどんな反応をするかわくわくした」と揶揄う気満々だった事も自ら打ち明けてしまっているので、言い逃れは出来ない。
トレイシーは目を細めて、目の前の罪人に冷たい視線を送る。
「他の人間に黙ってるって約束はしたけど、あんたのやらかした内容は消えてないから。なんだっけ?犬に噛まれたと思って我慢しろとかその程度でショックを受けるなんてとか言ってたけど、その件について言う事は?」
「…………心底申し訳ないと思っている」
「申し訳ない?本当に?その割には思い出せなかったみたいだけど?」
「違うんだ、決して君を軽んじた訳じゃないよ。ただ、回数を重ねてしまった今となっては四回が五回になっても私のした事は変わらず罪深い」
「ちょーっと待って」
申し開きをし始めたルカに、両手を突き出してトレイシーはストップをかけた。
どうにも聞き流せない、そのまま放置は出来ない発言があったのだ。
「なに、回数を重ねるって。四回が五回って。なんの回数よ」
「……………………………………しまった」
「ちょっと、あんた今小さく『しまった』って言わなかった⁉︎」
ルカのネクタイを掴み、トレイシーは顔を背けて目を合わせようとしないルカを強制的に引き寄せる。
「説明しなさいよ。するまで逃さないんだから!」
「耳聡いな、君。分かった分かった、分かったから。君を湖から引き上げた時、毒のせいで弱りきっていて虫の息だったんだ。それで、覚えているかな?お試しで貰ったドーフリンがあっただろう?咄嗟にそれを君に飲ませてなんとか解毒には成功したわけなんだが……君、意識が無かったから、とても自力で液体を飲める状態ではなくてね」
「それ、もしかして」
トレイシーの指先が自身の唇に触れる。無意識であろうその動作を追って、ルカの視線もトレイシーの唇に向けられる。
少年の幻覚よりも、幾分か血色がよく見えるトレイシーの唇は、女性らしく小ぶりでふっくらとしていて愛らしい。つい、凝視してしまうのをルカは首を振って視線を外す。
「まあ、君の想像している通りだよ。あの時は口移しで酒を飲ませるしか方法が無かったんだよ。適量が分からなかったから、瓶の中身を全て消費するのに何回も口付ける必要があった訳で」
「口付けるって言う表現正しいの……?でも、それなら仕方ない事だし、助かったから感謝するしかないけど。ルカが変に隠そうとするから何かされたのかって無駄に警戒しちゃったじゃん」
「行為が純粋な人命救助だったのは確かだけども、一瞬でも少年より今の君が良かったなと考えてしまった自分に自己嫌悪が……」
「え?なんで?」
きょとんとした顔でこちらを見上げるトレイシーに、ルカはハッとした表情になる。つい、言わなくて良いことまで吐き出してしまった。ルカは咳払いをして、誤魔化しにかかる。
「気にしないで欲しい。今のはこちらの話だから」
「?なんだかよく分からないけど、あんたも反省してるみたいだし?最初のは馬鹿な犬に噛まれたって事にするし、その次は人命救助だったんだから、私は気にしない事にする。……流石にそういう相手は選びたいし」
小さく、そう言葉を付け足したトレイシーの頬は僅かに紅潮している。伏し目がちにはにかむ姿は如何にも少女らしい仕草だ。
初めて見たトレイシーの意外な一面に、ルカはぽかんと口を開けて惚けた顔になる。――あまりに淡々としているので、この子は恋愛には無頓着な子かと勝手に思っていたのに。
自分の顔を凝視しているルカに、トレイシーはじろりと不機嫌な目を向ける。
「なに、その顔」
「いや……」
乙女の顔から一転、鋭い眼光を向けてくるトレイシーにルカは両手を上げる。
とてもでないが「そんな可愛い顔も出来たんだな」などと馬鹿正直に答えてはならない事はルカにも分かる。
しかしなにも言わない訳にもいかない雰囲気なので、ルカは気づいた事を口に出す。
「本当に、あれが初めてだったんだなと」
「黙れ」
「ぐえ」
その結果、ネクタイを両手で掴んだトレイシーにルカは首を締め上げられてしまった。話を逸らそうとして彼女の逆鱗に触れてしまった事にルカも気付く。
トレイシーは平静を装うとしていただけで感情は消えていなかったらしく、瞳に怒りの色が煌めいている。
「余計なことに、気付くんじゃない。気付いても口に出すな。デリカシーが無さすぎる。あれは犬の仕業なの。あんたが自分で言ったんだから犬なの。忘れるな。犬に噛まれたの、キスのカウントに入らないの、分かった?」
「っぐぅ、分かった分かった……っ」
ネクタイの端を別々の手で掴み、左右に引き絞るトレイシーの目は据わっている。
人ではないルカはこの程度では死にはしないが、調査の協力者を怒らせたままにするのが得策ではない事は確実だ。ルカはトレイシーをこれ以上刺激しないように、こくこくと頷いて同意を示す。
トレイシーはルカの殊勝な態度にある程度気が済んだ様子で、鼻を鳴らしてネクタイから手を離す。軽く咳き込みんでいるルカにトレイシーは呆れた顔になる。
「ルカって本当に吸血鬼なわけ?あんた、高等魔族なんでしょ?女性を虜にして血を吸うとか無理そうじゃない?」
「失礼だな、上手くやっていたさ。能力を封じられていなければ証明したよ。私は君の好みではないのかもしれないけれど」
「顔はいい。けど、他がダメ」
「酷い言われようだ……でも、そうか。顔は好みなのか」
くつくつと笑っているルカに、余計な事を言ってしまったかなとトレイシーは後悔する。先ほどまで凹んでいたくせに、たった一言でこんな瞬時に回復するとは。
吸血鬼は見目が良い魔族だと聞いている。人間が吸血鬼になった時に容姿にも変化があるのだという。この目の前の姿がこの男の元々のものなのかは分からない。
だが、なんとなくだが元来の容姿なんだろうなとトレイシーは思っている。どうにもこの自信がありそうな態度がそう感じさせる。
にやにやとしているルカに「そんな事よりも!」と会話を無理やりに切り替える。
「イライと今日、会えそう?話したい事があるんだけど。事件に関わることで」
「今日は少し厳しいかもしれない。彼も数日心労で休んでいたから業務や報告書の確認が溜まっていてね。とはいえ事件解決は最優先ではある。私だけでは駄目かな」
「うん……調査するのはどうせあんたと私になるよね。だったらイライには後で言うって事でいいかも」
自身で提案したこととはいえ、あっさりとそれを受け入れたトレイシーにルカは驚いてしまう。あんたじゃ信用できない、と言われる事は覚悟していたし、どう言いくるめようかとまで考えていたのに。
トレイシーは意外そうな顔をしているルカに、少し不貞腐れた表情になる。
「……頼れって言ったのはそっちでしょうが。それに早く確認した方がいいと思うし」
「急ぐ必要があるのかい?」
「大方予想はついてると思うけど、私が湖に落ちたのはあの襲撃者に突き落とされたからなんだよ。その時に声も聞いた。女の人だったと思う」
「!」
トレイシーの証言にルカは眉を顰める。トレイシーの指に絡んでいた金髪を見ても、連続殺人鬼と今回の件の関連はほぼ確定だった。先入観で襲撃者は男だとばかり思っていたが、女性。その可能性は考えていなかった。
それにしても湖岸にこの子を一人にしてしまったが為に、あんな事になったのかとルカは自身を責めたい気持ちが押し寄せるが、今は呑み込む。そんな済んだ事をぐだぐだと悩んでいる場合かとトレイシーも言う筈だ。こうしている間にも次の犠牲者が選ばれているかもしれないのだ。
ルカは肩のディケンズ先生の録音機能を作動させる。トレイシーは犯人と明確に接触している。ならばその証言を聞き漏らすことがあってはならない。
「最初から話してくれるかな。私と別れた後の出来事を」
「分かった」
トレイシーはこくりと頷くと、湖に落とされる前の事を語り始めた。どうして湖岸に近づいたのか。機械人形のパーツと間違えて拾った金色のカフスボタン。背後にいた黒マントと、違和感のある女性の声。そして水面に落ちる寸前に見た、マントから零れ落ちた金色の長い髪について。
自身に起きた出来事を全て語り終えると、トレイシーは人差し指を立て、声を潜めた。
「それで、私の予測なんだけども。多分、犯人は私が死んだと思ってるんじゃ無いかな。あの湖に落ちたら助からないし、私には喪失の呪いがかかってる。暫くは私が生きている事は簡単にはバレない。だから、これはチャンスなんじゃないかって」
「というと?」
「なんとなくだけど、ただの私怨であのマントの奴はあそこに戻ってきたわけではないと思うんだ。あの金色のカフスボタンを取りに来たんじゃないかって。だって私が落ちてるボタンに気付くまでは気配を消して潜んでた訳だし、私達がいなくなるまでやり過ごそうとしていた可能性があるんじゃないかな」
「……言われてみれば、襲撃や復讐が目的なら姉妹を連れた私ではなく、君の元に犯人が現れたのもおかしな話ではあるか」
ルカはふむと腕を組んで考えてみる。
犯人は少女の生き血を狙っていたのだから、襲うならばルカの方が妥当な筈だ。もしも足手纏いでしかない少女二人を連れた状態で襲撃に敢えば、ルカも姉妹を守り切れた自信は無い。
トレイシーはか弱い姿をしているが、ルカも決して屈強と言われるような容姿ではない。実際に戦闘向きでは無い事も自覚している。
それなのに、殺せたとしても何の益もないトレイシーを見張っている理由は犯人には無かった筈。
――但し、トレイシーの正体を知っていたならば話は別となるが。
「君が女性と相手が分かっていた可能性は?」
「多分、それは無いと思うんだけど……あの黒マントね。私の事とっても殺したそうな怒りの感情を向けてたのに、絶対に標的をソフィーから変えなかったんだよ。なんて言うか、邪魔だけどあの短剣で私を刺したくないって感じがした。ルカが庇ってくれた時は勢いで刺されそうになってたけども」
「そうだったのか。刺されなかった理由は分からないが……君が女性と分かっていたわけではなさそうだね」
「でしょう?まあ、残念ながら突き落とされた時に問題のカフスボタンは無くしちゃったんだけど」
しょんぼりとそう告げるトレイシーに、ルカはふっと小さく笑う。カフスボタンとは別の重要な手掛かりを自分が掴んでいたことを、トレイシーは気付いていないらしい。
「あ、でも安心してよ。刻まれていた紋章は覚えてる。だからそれを調べれば何か手掛かりになるんじゃないかって」
「なるほど。だから急ぐ必要があると」
トレイシーの狙いに合点がいったルカは指を鳴らした。目覚めたばかりの筈なのに、トレイシーがしっかりと外に出る服装になっていたのはその為だったのだ。ルカが来なければ一人でも行動する気だったのだろう。もしかするとバルコニーにいたのは、家人に黙って抜け出す気だったのかもしれない。
ルカは感心が半分、呆れが半分の思いでトレイシーを見つめる。この子は本当に機転が効くし行動が早い。それが危うくもあるのだけれど。
「証拠隠滅とかされたら大変でしょう?目撃者を消したからって、安心してくれるような相手か分からないし、私が生きてることがバレても面倒だし」
「話は分かったんだけども、その紋章というのはどういうのなんだい?」
「こう、頭が二つあるライオンで、前脚が上がってて……ちょっと待って、これ描いた方がいいや」
トレイシーは小走りで室内に戻ると、机の上のメモ用の紙にさらさらと双頭の獅子と薔薇の家紋を描き上げる。
カフスボタンを見たのは一瞬だったが、トレイシーは記憶力には自信がある。記憶の通りに描けた紋章に満足げに頷き、トレイシーはメモを千切り取る。
「?」
トレイシーがバルコニーに戻ると、ルカは何故か少し驚いた顔で室内を凝視している。何を見ているのかとトレイシーが疑問に思っていると、ルカがぽつりと呟いた。
「……飾ってくれてるんだ、花」
「!」
窓辺に置いていた花瓶。ついさっき、部屋の隅の書物机から、よく見える日当たりのいい場所にと見舞いに贈られた牡丹を移動させたことをトレイシーは思い出した。バルコニーを出入りした時にカーテンがずれて、オレンジ色の可愛らしい花がこちらから丸見えになっている。
ルカがふっと微笑んだのを見て、慌ててトレイシーは窓を閉める。花を大事にしているのを贈った当人に見られるのは、なんだか気恥ずかしい。
「あれはメイドさんが飾ってくれただけだから!なんか毎日送ってくれてたんだってね」
「君への見舞いの品が他に思いつかなくて。気に入ってくれたみたいで良かった」
「別に、花が嫌いな人の方が珍しいでしょ」
ここでルカが、いつもの通りに揶揄う気満々の顔をしていれば怒ったふりで有耶無耶に出来るのに、にこにことして本当に嬉しそうにしているもので、トレイシーは居た堪れない気分になる。
もごもごと言い訳にもならない内容を口にすると、「そうか」と益々ルカが嬉しそうにしているのでなんだか調子が狂ってしまう。トレイシーは咳払いをすると、紋章のメモをルカに突き出した。
「それより見て、こんな感じ!」
「ああ、ありが…………」
メモの切れ端に目を落としたルカは、ぴたりとその動きを止めた。瞬きも忘れて描かれた紋章にじっと見入ってる男に、トレイシーはどうしたのだろうかと訝しむ。
「ルカ?どうかした?」
「……少し待ってほしい。今記憶を辿っているところなんだ」
「は?」
「見た覚えがある、この紋章」
ルカは紋章を見据え、考えに集中する為にか下唇を撫でている。これは邪魔はすべきではないと判断し、トレイシーはそれ以上言葉をかけることを控えた。
沈黙の時間は数分。ルカはゆっくりと顔を上げるとトレイシーに「分かった」と告げる。
「窓だ。ステンドグラス。この紋章の獅子と薔薇が再現されていた」
「!それ、どこで見たの⁉︎」
「美術館だよ」
トレイシーの問いに、ルカは険しい顔でそう答える。
ルカが美術館に行ったのはドラクルに来た初日の事だ。常に曇り空と言われるこの街には珍しく、とても晴れていたのを覚えている。
強い陽差しは嵌め込まれたステンドグラスをより鮮やかに照らし、美しい影をエントランスの床に作り出していたので印象に残っていたのだ。
――また、美術館だ。
被害者達の足取り、祓魔師の証言、凶器の短剣、そしてこの紋章。なにもかもがあの美術館へと繋がっている。これが単なる偶然である筈がない。
ルカはバルコニーの手摺りに凭れ、メモの紋章を指で叩く。
「やはりあの場所はきな臭いな」
「そう言えば前に言ってた、美術館の図録の貸し出しはどうなったの?」
マルガレータに、美術館所蔵の月の刀剣シリーズを図録で確認してもらう話が出ていた筈だ。
そのシリーズの一つが凶器の可能性が高いが、被害者である彼女を直接美術館へ連れて行く訳にはいかないからと立てた作戦だったが、その後の進展がトレイシーには分からず仕舞いだった。
記憶力のいいマルガレータの事だ。そこで凶器と確証が得られれば捜査に進展があるかもしれない。トレイシーはそう期待を込めていたのだが、ルカは難しい顔で首を振った。
「残念ながら、図書館に寄贈された図録は入れ替わりの少ない絵画や彫刻しか記載されていなくて、月の刀剣は載っていなかったんだよ」
「それって、偶然かな、狙ってのことかな?」
「そこまでは分からない。ただ、君が新たな手掛かりを提示してくれたからそちらから調べれば何かわかるかもしれない」
「死にかけたけど全くの無駄ってわけではなくて良かったよ」
「今後は命を大事にしてもらいたいけれども」
「んー……そうだねぇ……図録、いい案だったのにな」
ルカが苦言を呈しているのに、トレイシーは完全に上の空で話を聞いている態度ではない。ぶつぶつと呟きながら、うろうろとバルコニーを行ったり来たりし始める。落ち着きのない行動だが、彼女の思考する時の癖なのだろう。
トレイシー自身のテリトリーだから、いつも以上に気が抜けているのかもしれない。珍しいこともあるものだと、ルカはそんなトレイシーの行動を黙って観察する。ちょこまかしているのが冬支度をしている小動物の様で、少し面白い。
「うーん……」
しばらく歩き回っていたトレイシーはぴたりと足を止め、じっとバルコニーの手摺りを見つめる。そして徐ろに両手を掛け、手摺りをよじ登り始めた。
「よいしょっと」
「⁉︎こらこらこら!何をし始めた!」
驚いたのはルカで、慌ててトレイシーの肩を掴んで手摺りから引き剥がした。見るからに鈍臭い動きだったので手摺りに登り切る前に止めることが出来た。
「命を大事にしろって話を今した筈だよ⁉︎危ないだろう!」
「ちょっとここから降りられないかなって思っただけなのに」
「思うのはいいが実行しないでくれ、肝が冷える。何故、こんなことを」
ルカが問うと、トレイシーはむすりとした表情で自室を指差す。
「目が覚めたばかりで無茶はしないでって言われて、外出禁止なんだよ今。屋敷を抜け出した事も怒られてて」
「謹慎中なら大人しくしていたらどうだい」
「言ったじゃん、急ぎたいの!犯人の手掛かり消えたらどうするのさ」
「どこに行く気なんだ」
「美術館に決まってる。ここまで情報が同じ方向を指し示しているのに足踏みしてるのが無駄でしょ」
そう、言い切るトレイシーの瞳には強い光が宿っている。これはどうやってでも止めらるものではない。代わりに行くと言ったところで聞きはしないだろう。
そもそもトレイシーが屋敷を抜け出したのはルカが「デート」に誘ったからだ。トレイシーが危険な目にあう原因を作ったのもルカのせいではある。
肩を掴まれたまま、もだもだと抵抗しているトレイシーにルカは短く息を吐き出した。
「分かった分かった。こちらの無茶を叶えてもらった事だし、美術館に行きたいなら君がここを抜け出すのを手伝うよ」
「!本当?」
「だから、危険な事をしようとしないでくれないか」
「分かった」
ルカの言葉にトレイシーはこくりと頷くと、大人しくなった。実際のところ、トレイシーも困っていたからルカに手を貸して貰えるならありがたい話だ。深夜ならともかく、日中は人が多くて屋敷を抜け出す手段が見つからなかったのだ。
最後の手段としては、カーテンやシーツをロープ代わりにして、庭に降りるしかないとトレイシーは考えていたのだ。しかしトレイシーの体力では階下まで降りられるか怪しいところではあったのだけれど。
「抜け出せる時間はどのくらいかな」
「作業中は集中したいから邪魔しないでって言ってるからなあ。十八時がタイムリミットかな。夕食の確認しに来ると思うから」
「となると、あまりのんびりしていられないな」
ルカは太陽の位置を見やる。今はまだ明るい時間だが、レーゲル屋敷から美術館までは、歩いて行けばそれなりの時間がかかる。
――これは「ショートカット」をしてしまった方が良さそうだ。
そう判断したルカは装備を外し、上着を脱ぎながらトレイシーに向き直った。
「時間が惜しい。飛んで行こう、美術館まで。そうすれば向こうでも充分な時間が確保できる」
「は……?飛ぶって、吸血鬼の能力で?封じられてるんじゃないの?」
「魔力さえあれば飛行可能な事は分かった。飛んでいる間、姿は消せるから見つかる心配はないよ。ただ魔力が足りないと人の擬態が解けてしまうから、充分な量の魔力の供給が必要になるんだけれども」
「魔力の、供給って……まさか」
崖下での出来事を思い返して狼狽え、蹌踉けるトレイシーの手首をやんわりと掴み、ルカは真面目な顔で告げる。
「ああ。諦めて、大人しく犬に噛まれてくれ」
言うが早いか、ルカは強引ではない力でトレイシーの腰に手を回して抱き寄せると、後頭部に手を添え顔を上向かせる。流れるような動作に、唇同士が触れる寸前、トレイシーは大慌てで両手を突き出し、身を仰け反らせる。
「ま、ままま待って待って!」
「何をしているんだ。時間が限られているんだろう」
ルカの責める様な口調に、まるで自分がおかしな主張をしている気分になるが、流されるわけにはいかない。
トレイシーはルカの胸を押し返し、抵抗を続ける。考えはまとまらないが、とにかく何か言わなければ押し切られる。
「待ってってば!あんた女性相手にこんな手法で魔力は取らないとかなんとかあの時に言ってなかった⁈」
「他に君から魔力を貰う手を考えてはみたが、今は実行する手段がない。君が十秒で涙を流せると言うなら話は別だが」
「そ……れは確かにできないけど!でも、違うじゃん!」
「?何が違うんだい」
首を傾げているルカに、トレイシーは顔を真っ赤にして叫ぶ。
「前、もっとこう、さらっとやってたじゃん!もっと無頓着な感じだったのに!こんなじゃなかった!しかもなんか手慣れすぎなんだけど!」
「それは、私も一応女性を惑わす魔物をやっていたわけで……初心な訳がないと思わないかい」
「このっ!すけこまし!吸血鬼!」
「最後のは罵倒ではなくただの事実なんだが。全く、魔力を要求するなら先に言えというから事前に伝えているのに、結局抵抗するじゃないか。我儘な子だな」
「これ、私が悪いの⁈」
トレイシーが手のひらで腰を抱いているルカの腕を叩く。あっさりと解かれた腕に、トレイシーはそそくさと距離を取った。そうしてバクバクと鳴っている心臓を抑えた。
トレイシーにしてみれば、ぞんざいな小僧扱いを受けていた相手から、突然女性の扱いをされたので脳の切り替えが追いつかず、びっくりしてしまったのだ。
しかもルカの真面目な顔に油断していたら、流れる様にキスをされかけるわで本当に起きる事実についていけない。
ぐるぐると混乱している頭で、トレイシーはなんとか平常心を取り戻そうとする。しかし顔は熱いし心臓は変な鼓動のままだしで全く落ち着く様子がない。
「ま、魔力の供給って、あれ一回で終わりなんじゃ無いの……⁈」
「私には魔力の補給が必要だって話はした筈だよ?犬に噛まれたからカウントに入らないって言っていたのは君だし」
「言ったけど……!だからって受け入れた訳でもないんだけど……!」
「君は美術館に行くのか行かないのか、どちらにするんだ」
じりじりと後退るトレイシーの腕を掴み、ルカは眉を顰めている。いつまでも逃げ腰のトレイシーに少し苛立ってきたのが見て取れる。
トレイシーにしてみれば屋敷を抜け出すという話から、何故ルカとキスをするしないの話に発展してしまったのか、訳がわからない。ああだの、ううだのとトレイシーが唸っていると、ルカの機嫌が下降していくのを感じる。
「トレイシー」
一段低くなった声に名を呼ばれ、トレイシーはぎくりと肩を揺らした。
「わ、分かってる!だけどその、変な雰囲気作るのやめて」
「そんな事をしたつもりはないんだが」
「とにかく!前みたいに、一瞬で済ませて欲しいの!さっとやって!さっと」
「…………善処する」
トレイシーの願いに、ルカはそう答える。
覚悟を決めてぎゅっと目を瞑り、口を引き結ぶトレイシーを見下ろして、ルカはふっと口元を緩めた。
――そうしているとキスを待っている様にしか見えないのだけれど。
ルカは少し俯き気味のトレイシーの顎を持ち上げて、上向かせてから唇を重ねる。余計な事をするつもりはないが、大量の魔力を吸い上げるのに一瞬というわけにはいかない。
この行為を少し深くすれば簡単に魔力を摂取できるが、それをしたらイライに告げ口されて首枷を締め上げられる未来しか見えない。なので焦ったいがルカはそのまま、魔力を吸い上げることに集中する。
「………………………………っ」
トレイシーは一瞬で済ませろと言った筈なのに、ルカはなかなか離れる様子がなかった。
十秒を過ぎた頃、耐えきれなくなったトレイシーが目を開くとじっとこちらを窺っているルカと目が合った。
「!」
見られていると思わなかったトレイシーは、驚いて身を引く。そのまま互いに見つめ合ったのは数秒で、トレイシーは髪を撫で付けるふりをして視線を逸らした。
「も、もうこれで充分でしょ!」
「ふむ。確認してみよう」
ルカの言葉が終わると同時に、彼の背に灰色をした蝙蝠の翼が現れた。突然、眼前に広がったそれにトレイシーが目を丸くする。
驚いているトレイシーを他所に、羽根を数回羽ばたかせたルカは満足げに笑う。
「うん。問題ないね。魔力は足りる筈だよ、このくらいあれば」
「それはよかった……」
「?どうかしたかい。なんだか、おかしな顔をしてるけども」
「久々にあんたの吸血鬼らしいとこ見たなって。蝙蝠には変身出来ないって言ってたのに、羽根は蝙蝠なんだ……」
ぶつぶつと呟いているトレイシーに、ルカは自身の上着を着せ掛けた。その行為にトレイシーはきょとんとした顔になる。
「そろそろいいかい?早く行かないと時間が足りなくなるよ」
「え、なに?」
「君を抱えるのに脚に触れてしまうから、それを着てて欲しい」
「そこは拘るんだ……」
真面目腐った顔でそう言うルカに、トレイシーは渋い表情になってしまう。脚よりもキスする方をもっと気にして欲しい。乙女の唇をなんだと思っているのか、この男。
――犬の仕業って事にするとは言ったけど、これからの行為についてもそうするとは言ってないんだけど。
顰め面をしているトレイシーに構わず、ルカはその場に屈み込むと自身の立てた膝を叩く。
「じゃあ、ここに座って」
「へ?」
「早く」
「う、うん」
ルカの意図がわからなくてトレイシーが戸惑っていると、急かされてしまった。
仕方がないのでトレイシーは言われた通りにルカの膝に遠慮がちに腰を下ろすと、そのまま膝裏を掬い上げられる。
「うひゃ⁉︎」
体勢が崩れ、トレイシーは倒れないように慌ててルカの服を掴む。傾ぐ背中を支えられ、あっという間に視点が高くなる。自分がルカに横抱きされている事に気付いたトレイシーが目を白黒させていると、ルカはそのままスタスタとバルコニーの手摺りに向かって歩いていく。
「ちょ、ちょちょちょ、ちょっと待って待って!」
「今度はなんだい」
トレイシーがルカのベストの襟を掴んで揺らすと、ルカは苛立たしげに目を細めた。
「いきなり行動するのやめてって言ってるじゃん!」
「抱えるって言ったじゃないか、さっき」
「それはそうだけど、なんでこの体勢なの……!」
また頬に熱が集まってくるのをトレイシーは感じながら身を縮こまらせる。
今までのルカと言えば、トレイシーを肩に担いだり小脇に抱えたりと雑な扱いをしていたのだ。それが今は両腕で抱えるスタイルなのだ。こんな抱え方、結婚式の花嫁か病人がされているところしかトレイシーは見たことがない。
湖に向かった日までのルカからの扱いとの変化に、ただただ戸惑うばかりだった。
「これ、恥ずかしいんだけど……!」
「そうは言うけど、落とさない安全な抱え方じゃないか。君、病み上がりだし」
「前と同じでいいじゃん……!」
「あれは内臓に負担がかかるし、体勢が安定しないから危ない」
「あんた、分かっててやってたんだ⁈吐くかと思ったんだけど⁈」
「悪かったと思ってるよ。だから大人しく抱っこされてくれないか」
「抱っこって……!」
腕の中で真っ赤になって、まだまだ不満がありそうなトレイシーにルカは小さく溜息を吐く。
――このままだと駒鳥の威嚇は終わらなそうだ。
何かを言おうと口を開きかけるトレイシーに、ルカは「捕まっててくれ」とだけ言い置いて、翼を広げる。一気に上空に飛び上がると「うきゃあ⁉︎」という悲鳴が腕の中で上がる。
「さあ、急ごうか。目的地へ」
「……………………」
突然、空に連れて行かれたのが余程怖かったのか、トレイシーはルカの首に縋りついてふるふると震えている。先程までの威勢は鳴りを潜めてしまっている。
少し驚かせ過ぎたかなとルカが様子を窺うと、蚊が鳴くような声でトレイシーが何かを呟いた。
「?なんだい?」
「……高いの、怖い……やだ、ルカ……」
か細い声で、自身の首にしがみついてそう言うトレイシーに、ルカは一瞬目を見開いて、すぐに含み笑いを浮かべる。
どうやらトレイシーは高い所が苦手の様だ。そういえば崖から飛び降りた時も凄まじい悲鳴を上げていた事を思い出す。腕の中でふるふると震えている姿は弱々しくてとても憐れだ。
――この駒鳥、本当に可愛いなあ。
ルカは安心させるようにトレイシーに告げる。
「それじゃあ、なるべく急ぐからしっかり捕まってて欲しい」
「…………」
返事はなかったが、こっくりとトレイシーが頷くのを感じ、ルカは飛ぶ速度を上げたのだった。
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