2話
「さてと」
遠ざかる三人を見送った後、トレイシーは壊れてしまった機械人形を抱き上げ、近くの木の根本に座らせた。ざっと損傷の箇所を確認すると腕や脚の関節は壊れてしまっているものの、本体の心臓部にあたるところは無事な様だった。
それに胸を撫で下ろしながら、トレイシーはくったりと項垂れている人形の頭を撫でた。
「乱暴な扱いして、本当にごめんね。必ず元通りにするから」
トレイシーはそう囁くと、草むらに腰を屈めて目を凝らした。森の中では難しいが、出来る限り壊れたパーツも拾い集めておきたいのが本音だ。幸いな事に月光の反射で金属がきらりと光るので、ネジやパーツはある程度見つけることが出来そうだった。
「ふう……」
這いつくばった体勢から身を起こし、トレイシーは息をついた。全神経をパーツ探しに集中させていたので、どのくらい時間が経ったのかは分からないが、ルカが戻ってくる気配はないので大した時間は過ぎてはいないのだろう。
いつの間にか鳥の声も止んでいて、森の中は風の音くらいしか残っていなかった。先程まで殺人事件が起きかけていた現場とは、到底思えない静けさだ。
回収作業がひと段落ついたトレイシーは柵に手を掛け、湖の幻想的な光景を眺める。夜のこの森に来る機会はそうないだろう。だから、この美しい景色を今のうちに堪能しておきたい。
ルカが戻ってくるまで、トレイシーは湖の周囲を散策する事にする。
「…………ん?」
暫く、一人で湖の景観を楽しんでいたトレイシーだったが、視界の端で何かが光ったように感じた。そちらに目を向けると、きらりと湖のほとりで何かが月明かりを反射する。
――あんなとこにまで、人形のパーツが飛び散ったの?
首を傾げつつトレイシーが柵を越えて水辺に近付いてみれば、それの正体はネジやバネではなく、金色のカフスボタンだった。
拾い上げてまじまじと観察すると、紋が刻まれているのが分かった。双頭の獅子と、薔薇。どことなく貴族の家紋のようにトレイシーには見えた。
何故こんなところにこんなものが、とトレイシーが疑問に思っていると、背後で草を踏む音がする。漸く待ち人のご帰還かとトレイシーが振り返る。しかし、そこにいたのはルカではなかった。どこかに逃げ去ったはずの黒マントが、無言で佇んでいる。
「っ……!」
「…………いつも」
黒いマントの人物が、初めて言葉を発した。その声は高く年若い女の声の様だったが、やはりどこか不自然な印象をトレイシーは受けた。
「いつもいつもいつも、…………の邪魔をして……!」
不穏な雰囲気を纏いながら、ゆらりと黒マントが一歩を踏み出した。トレイシーも一歩後ろへと下がる。
先程はトレイシーには全く関心が無さそうだったが、今は相手から明確な憎しみをぶつけられているのが分かった。
更に一歩後ろに下がろうとすると、足裏に地面の感触が無い。振り返れば美しくも毒で満たされた湖面が広がっている。
「邪魔者は、消えちゃえ!」
「あっ……!」
強い力で湖に向かって突き飛ばされたトレイシーは咄嗟に腕を伸ばした。指先に何かが触れたが掴むには至らなかった。湖に落ちるまでの時間がゆっくりと過ぎていく。黒マントのフードから、金色の長い髪が溢れ出るのが見えたのが水上での最後の光景だった。どぷん、という音と共に水中に放り出される。
――飲んではダメ!
咄嗟にそれだけは意識して口を閉じる。しかし空気を吸い込む時間もなく水に落とされたので、トレイシーの息が続く筈もない。
すぐに水面に上がらなくてはとトレイシーは水を掻く。運動は苦手だが、泳ぎは覚えている。着衣での泳ぎは体力を大きく消耗するが、水面にさえ上がれれば。
頭ではそう理解しているが、僅かな間に手が、足が痺れていく。どんどんと体を動かしている感覚が失せていく。藻の毒はあっという間にトレイシーの体を侵食していく。
動いてと願うが腕の力が抜けていき、意識も霞んでいく。水面に近付くどころか、水を含んだ衣服は重い枷にしかならず、トレイシーの体は水底へと沈んでいってしまう。
一日に二回も、もうダメかもと思うことがあるなんてとトレイシーは何処か他人事の様に考えてしまう。
見上げた水面の向こうに歪んだ月が浮かんでいる。月と同じ髪色の男。彼は、自分の不在に気付いてくれるだろうか。
――頼ってくれればいい。
落ちかけた脳裏に、ふとトレイシーの耳に蘇るのは彼と交わした会話。
――言った筈だろう、私を呼べと。
――どうして助けを求めないんだ!そんなに私が信用出来ないのか!
――聞こえるよ、君の声なら必ずね
――私も名前で呼んでくれないか。ルカだよ。
「…………………………」
遠ざかる月の姿に手を伸ばし、トレイシーは消える意識の中で「るか」と小さく呟いた。
「!」
ルカはふと誰かに呼ばれた様な心地がして、立ち止まった。しかしすぐに、こんな森の中でそんなことがある筈がないと気付いて首を振る。
久々に怒りの感情が湧いたせいで、神経が高ぶってしまっているのかもしれない。封印される前はまだ人間の名残で感情に振り回される事もあったが、今となってはそんなものは錆びついていると思っていたのだ。
幼い姉妹を自宅に送り届け、ルカは足早に湖へと戻っている最中だ。トレイシーも日が昇る前に屋敷へ帰さなくてはならないのだ。
光源を所持していないトレイシーだけでは森から出る事は出来ないだろうし、市壁はルカが抱えて飛び越えてしまったので彼だけでは街中に戻る術もない。
もしも日の出に間に合わなければ、あの笑顔が恐ろしい執事にまたネチネチと嫌味を言われるに違いない。それに、何より一人きりであのか弱い少年を放置したままにするのもルカには気掛かりである。
賢く行動力もある少年なので、ここに来るまではルカは大してトレイシーの身の危険は気にしていなかったのだ。自分でどうにかするだろうという、漠然とした安心感すらあった。ところが、蓋を開けてみればトレイシーの自身の安全への無頓着さが露見した。
ルカはトレイシーを買い被っていたようだ。もっと冷静に物事を判断出来る人間だと思っていたのだが、そう言うわけでは無さそうだ。どうも自身よりもか弱き存在は、何があっても庇護しなくてはならないという考えがトレイシーは強い様だ。
どことなく、トレイシーには神職者達に似た印象を受ける瞬間がある。神など信じていなさそうなタイプに見えるが、本当は敬虔なグラール教の信者なのかもしれない。
「ん……?」
湖の畔まで戻って来たルカだったが、トレイシーが見当たらない。木の根元に壊れてしまった機械人形は残っているのに、持ち主の姿が無いのだ。ルカを待っている間に近くを散策している可能性も考えたが、湖の周辺に人の気配は一切感じられない。
暗い森を夜目の効かないトレイシーが一人で抜けられるとは思えないし、一人で残ってまで回収しようとしていた大切なアシスタントを置いていく筈がない。
――一体、あの子はどこへ?
じわじわと湧き上がる焦燥感にルカは視線を巡らせる。トレイシーが木陰にいないか、湖の対岸に姿はないか、木の上に登っている可能性はないか。そうして月の光を反射し、幻想的な輝きを放つ湖面に目を向ける。
そんな訳がないと思いながらも、ルカは湖の周辺を囲う柵を越えた。まさか、という思いはあった。トレイシーは慎重な人間だ。不必要に危険な場所に近づくとは思えない。それでも念のため、確認するだけとルカは湖の側に足を向ける。
「!」
水面に浮かんでいるものに気付き、ルカは目を見開いた。
茶色の革の帽子。ルカがトレイシーを見下ろす時に真っ先に目に入るものだから、見間違う訳がない。トレイシーが被っていた帽子が、湖を漂っている。
ルカは全身の血の気が引いていくのを感じた。この湖の水には毒が含まれている。人間が落ちれば命は無い。
しかし、湖面は静かで、トレイシーの姿はどこにもない。そうなれば沈んでいるという事では……?
「っ、嘘だろう⁈」
考えている間は無かった。装備と上着を脱ぎ捨て、ルカは湖に飛び込んだ。
皮肉な事に、毒の藻が発光しているお陰で水中は明るかった。またその毒性が原因か、水が酷く澄んでいる為に水底までがよく見えた。沈んでいくトレイシーの姿はすぐに見つかった。ルカは水を掻き、弛緩した体を掬い上げると水面へと急いだ。
「ぷはっ!」
水面から顔を出し、ルカは空気を思いきり吸い込んだ。抱えたトレイシーの顔を覗き込むと意識は無く、顔は異常な程に青白かった。状態が良く無いのは一目で分かる。
陸地に上がるとルカはトレイシーの呼吸を確認する。微かにだが、自分で息はしている。幸いな事に溺れてそれ程時間は経過していなかったようだ。だが、毒の影響は深刻だった。
「トレイシー!聞こえるか!目を開けてくれ!トレイシー!」
肩を叩いても、頬を叩いてみてもトレイシーの反応はなく、体はぐったりとして冷え切っている。唇の色は青く、顔色は蝋のように白く生気を感じない。腕の中で弱っていく呼吸と鼓動にルカは歯噛みする。この華奢な体躯では、医者のいる街まで体力が保つかどうかも分からない。
――どうする?どうすればいい?
人間の弱さを改めて思い知らされる。一瞬、「人間でなければ」という考えがルカの脳裏を過った。トレイシーの首筋を睨み、命がなくなるくらいなら一層のこと、同族に転化させてしまえばと思ってしまった。
しかしすぐに頭を振ってその思考を追いやる。グラール教の信徒に、半封神の自分は手出し出来ないのだ。その手段は使えない。
何か他に手は無いかと悩みながら、冷えていくトレイシーの体をどうにかしなくてはとルカは脱ぎ捨てた上着を手繰り寄せる。その時に何かが上着のポケットから転がり落ちた。
それは掌に収まる程度の小瓶だった。ラベルも何もないガラス瓶の中には、赤瑪瑙の色の液体が入っている。デミに渡された試飲用のドーフリンだった。受け取ったまま、飲酒の習慣が無いルカは今の今までその存在をすっかりと忘れていたのだ。
「!そうだ……!」
ルカは腕を伸ばして、小瓶を拾い上げた。
ドーフリンはある程度の体の異常を治す力があるという。その効果もルカ自身の目で見ている。それならば、毒にも効果があるかもしれない。
ドーフリンの蓋を開け、ルカは体を起こさせたトレイシーの口元に瓶を近づけた。だが、意識の無い相手に液体を飲ませるのは思いの外、難しかった。適量も分かっていない今、小瓶の中身は僅かも無駄には出来ず、溢すわけにはいかない。
「くっ!」
手段を選んでいる場合ではない。ルカは瓶の中身を口に含むと目を閉じたままのトレイシーの顔を上向かせた。顎を引き、開かせた唇に自身の口を重ね、そこに酒を流し込む。こくりと喉が鳴り、トレイシーがドーフリンを飲み込んだ。
願うような思いで白い顔を確認すれば、唇の色に徐々に赤みが戻って来ている。ルカの期待通り、奇跡の酒は毒にも効果がある事が証明された。
ルカは同じ動作を数回繰り返す。瓶の中身がなくなる頃にはトレイシーの頬に血の気が戻り、浅かった呼吸も安定してくる。意識は戻らないままだったが、危険は脱した様だ。
その事に安堵の息を吐き出しつつ、ルカは呆れた思いで腕の中の少年を見下ろした。
――この短時間で、目を離した隙に何故二回も死にかけているんだ、この子は。
何故、湖の柵の中に入ったのか。何故、湖に落ちたのか。何があったのかは目覚めたトレイシー当人から聞くしかないだろう。
一先ずトレイシーをこのままにしておくわけにはいかない。いくら夏の気候とはいえ、濡れた衣服のままでは風邪を引いてしまうかもしれない。
とは言え意識のない、濡れ鼠状態の少年をレーゲル屋敷に連れて行くわけにはいかない。あの笑顔で圧をかけてくる執事と、まだ見ぬ杖を振り回すと言う女主人に一人で立ち向かう勇気はルカには持てない。なので一度、宿泊しているシュテルンにトレイシーを連れ帰る事にする。
ルカはトレイシーを両手で抱え、立ち上がった。その弾みでトレイシーが胸に吊り下げていた金色の鍵が外れ、地面に転がる。
「おっと」
咄嗟に鍵の飾りを拾い上げようとルカは膝を曲げ、トレイシーを抱き込む形で屈み込む。
――そして、その時に二つの違和感に気付き、ルカは動きを止めた。
「………………………………」
ふわりと鼻に届くのは百年振りの香り。封じられる前にはそれを糧として生きていた。今の今まで感じなかったものだ。
脳の奥で一瞬起きた衝動に理性がぐらついてしまったが、封神化の影響でルカは踏みとどまる事が出来た。
抱き込んでいる体はか細く、あまりに脆弱で筋肉どころか余計な肉もついておらず、なんて薄っぺらい体躯の少年なのだろうとルカは呆れていたのだ。
それが、先程までは無かった厚み――いや膨らみがトレイシーと触れ合っている箇所にある。
ルカは事態を飲み込むのに暫く、固まったままぱちぱちと目を瞬かせる事しか出来なかった。
「…………んん⁉︎」
今起きている事実と情報を脳が受け入れ、処理し、ルカの思考が再起動するまでに数十秒。ルカは目を見開き、慌てて抱き締めていた形の「少年」から身を剥がしてその姿を確認する。
ルカの腕の中にいるのは間違いなく、トレイシーだった。別人などではない、共に行動し幾度も言葉を交わした、あのトレイシー本人だ。
しかし、その姿はルカの知るものとは違って見えた。
筋張っていた体は柔らかく、肉付きが少しだけ増している。腰のラインはより細くくびれ、肩幅も心なしか狭くなっている。濡れて張り付いたシャツは慎ましやかにだが、膨らんだ胸の存在をくっきりと主張している。
シャープだった顔の輪郭は頬に丸みがあり、少年らしかった喉元のラインからは凹凸が消えている。薄かった唇もふっくらとしたものになり、印象がぼやけていた目元を縁取る睫毛がくっきりと見えた。
少年ではなかった。ルカの腕の中にいるのは少女、いや成熟した女の体だ。
信じられない思いでルカはトレイシーの顔に触れる。幻覚などではなく、目に見えた通りの柔らかな頬の丸みがある。それにルカは戸惑いを隠せない。
「どうなっているんだ……?」
視界だけではなく、吸血鬼の嗅覚が訴える。強烈に理性を揺さぶる血の香り。ルカのかつての糧であった、女性の血の香りがトレイシーの体から立ち上っている。先程までは何も感じていなかったのに。
だが、それもおかしいのだ。ルカは半封神となった今、血は必要のないものとなっている。だからこのように、食欲をそそる香りがするはずがないのだ。それなのに何故こんなにも強烈に香るのだろうとルカは眉を顰めた。
トレイシーに変化が起きたのは何故か。ルカは手を開き、拾い上げた金色の鍵を見つめる。やはり、これが原因なのだろうか。
吸血鬼や天眼を持つイライをも欺く術など、かけられる存在は限られている。少なくとも魔力を扱えないトレイシーでは不可能だ。いや、そもそも人間が出来る芸当ではない。術者はもっと上位の存在である筈。
「っんん……」
「!」
ルカが考え込んでいる間に、トレイシーがふるりと体を震わせた。濡れたままでいた為に、体がすっかりと冷えてしまった様だ。
ルカは濡れていない上着でトレイシーの体を包んだ。
思考するのは後にしなくては。折角持ち直したトレイシーの具合が悪くなっては意味がない。
――目が覚めたら、この子には聞かなくてはいけない事が山程あるな。
意識の無いトレイシーの顔をじっと見下ろし、ルカは目を細めた。こうしていると、精巧な等身大のビスクドールの様だ。
最初に見た時から美しい少年だとは思っていたが、まさか幻術で姿を変えているとは。
「……困ったな」
昨夜、イライに協力者に入れ込み過ぎるなと注意され、ルカは女性なら口説いてしまうかもと、そう返したのだ。
それはただの軽口のつもりだった。トレイシーは少年で、どれほど容姿や中身が好みであってもルカには恋愛対象にはならない。その筈だった。
ルカは自身の濡れた前髪を掻き上げ、腕の中で女性に変わった存在を見つめたまま、ぽつりと呟いた。
「冗談では、なくなるかも」
続く……
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