2話



じっと待つ時間というものは、どうしてこうも倍に長く感じるのだろうか。
トレイシーは屈んだまま、腕時計に視線を落とす。さっき文字盤を見た時から五分と経っていなかった。体感では十分は過ぎている気がしていたのに。
なにも起きて欲しくは無いが、まだかと焦れる気持ちもある。このまま、あっという間に夜が明けてしまえばいいのに。早く時間が過ぎ去って欲しい。
事件現場は湖の周辺という、ざっくりとした情報しかない為、トレイシーは四方が気になって仕方がなかった。だがこの緊張だって、そう長くは保ってはいられない。
――何時までって時間確認しとけば良かった。
トレイシーがそう後悔していると、湖の向こう、おそらくルカがいるであろう方向から、微かに叫び声の様なものが聞こえてくる。
「っ!」
「ひゃあっ!」
勢いよく立ち上がったトレイシーの背後で、どさりと何かが落ちる音がした。トレイシーが振り返れば、小さな女の子が地べたに座り込んでいる。彼女はオイルランプを片手にトレイシーを見上げ、ぽかんと口を開いている。その脇にはバスケットが転がっており、中身の青い花が溢れ出てしまっている。
トレイシーが草むらから突然姿を現したので、驚いて尻餅をついてしまったのだろう。まさかこんな夜更けにこんなところに子供がいるとは思っていなかったトレイシーは、大きな目をぱちぱちと瞬かせている幼い少女に慌てて駆け寄った。
「ご、ごめんね!驚かせちゃったね!」
少女を助け起こして服の汚れを払ってやりながら、「怪我はない?」と尋ねるトレイシーに少女はこくりと頷いた。
歳の頃は五歳か六歳くらいだろうか。黒髪を二つのおさげにしている少女は人形の様に可愛らしい顔立ちをしている。彼女は無言でランプを地面に置くと、屈み込んでバスケットから散らばった花を集め始めた。
トレイシーはそんな少女の側で逸る気持ちを抑え、湖の対岸に目を向ける。先程聞こえてきた悲鳴は、間違いなく女性のものだった。今すぐあちらに向かいたいところなのだが、しかしこんな森の中で幼い少女を見つけてしまった。今の時刻は深夜の二時も間近なのだ。そんな時間に彷徨っている幼子を、殺人鬼がいるかもしれない森の中に一人残して行けるだろうか。
対岸と少女を交互に見やること数秒。トレイシーはぐっと唇を引き結び、湖に背を向けた。
――あっちは、あの人がどうにかすると信じよう。
もしも襲撃犯が現れたのだとしても、トレイシーが今から向かったところで出来ることなど無いに等しい。それよりも、この小さな子供の方が気掛かりだ。
花を掻き集めている少女の側に膝をつき、トレイシーは落ちている花を拾う。それはトレイシーも見知った雑草の花で、特段に珍しいものではなかった。しかし、少女はとても大事そうにその花を集めている。
「ねえ、君は一人なの?誰かと一緒?」
「………………」
少女はぶんぶんと横に首を振る。近くに保護者がいることをトレイシーは願っていたが、やはりこの子は一人きりで森に来ているようだ。バスケットの中に花を入れてやりながら、トレイシーは更に尋ねた。
「たくさん集めてるけど、これどうするの?」
「……お薬になるから、いっぱいいる」
「薬に?この花が?」
「うん。お熱にいいって、おばあちゃんが言ってた」
ランプを持って立ち上がった少女は、まだ追加で雑草の花を探すつもりのようだ。しかし、これ以上この子を森に居させるわけにはいかない。トレイシーは歩き出そうとしている子供の腕を掴んだ。
「ま、待って待って!」
「?なあに?」
「えっと…………その、花は明るくなってから探しに来た方がいいんじゃないかなって思うんだけど」
こんな幼い子供に、「今この森には殺人鬼がいるから危ない」などと言えるわけがない。どうにかして安全なところまで連れて行ってやらなくては、とトレイシーは思考を巡らす。
「ほら、こんなに暗いと花も見つけにくいし、それにお家の人が心配するんじゃない?吸血鬼の王様が来ちゃうかもしれないよ」
ドラクルでは「大人の言いつけを守らないと吸血鬼の王様に攫われる」と子供は教え込まれているのだそうだ。トレイシーはそれを引き合いに出して脅かしてみたが、少女は何故か「大丈夫!」と胸を張って言い切った。
「お姉ちゃんは大きくなったら美人だから危ないって、夜はお外に出ちゃダメって言われてたの。だからソフィーが代わりにお花取りに来た」
「なにが大丈夫なのか、分からないなぁ?」
「王様は綺麗な女の人は食べちゃうから、暗くなったらお外に出ちゃダメってみんな言ってるの。ソフィーはちっちゃいから、食べるとこないもん」
「…………うーん」
トレイシーは、無垢な目で「名案」を語る少女、ソフィーにどう説明したものかと唸ってしまう。サイズの問題ではないのだ。
――子供ってなんでこう、面白い発想が浮かぶんだろう。ちょっと羨ましい。
トレイシーは悩んで悩んで、ソフィーと目線を合わせて話しかける。ここは少女の想像している「吸血鬼の王様」を利用させてもらおう。
「あのね、ちっちゃくても夜にお外に出るのは危ないんだよ」
「なんで?」
「大人より、子供の方がお肉が柔らかいから美味しいんだよ。だからね。君は王様にはとっても美味しいご馳走なんだ」
「!」
大きな目をまん丸くしている少女の反応があまりに可愛らしいので、トレイシーは噴き出したくなる。しかしここで笑ってしまえば嘘だとばれてしまうので、出来うる限りの真剣な表情を保ち、トレイシーは耐えた。
きょろきょろと周りを見回すソフィーは、急に不安になってしまったようだ。今すぐにでも木々の間から吸血鬼の王様が出てきてしまうのではと心配になったのだろう。トレイシーは地面に置いてあるバスケットを持ち上げて、ソフィーに差し出した。
「ね?危ないから、ソフィーはお家に帰ろうか。安全なところまで送っていってあげるから」
「……でも、でもお花まだいる」
怖くて仕方がないだろうに、ソフィーは頑なだった。花を探すのを諦めたくはないらしい。
トレイシーはそこではたと気付く。もしや、熱冷ましの生薬をこんな時間に少女が集めていたのは、すぐにでも必要だからだろうか。
「誰か、熱がある人がいるの?それでこの花が必要なのかな?」
「うん。お父さんだよ。だからいっぱいお花いるの。ソフィーのお父さん大きいから、ご飯もお薬もいっぱいいる」
「その事、誰かお家の人に言ってきた?おばあちゃんとか、お母さんとか」
「ソフィー、お母さんいないよ。ソフィーが生まれた時に、ソフィーの天使さんになったんだって!」
「………………そうなんだ」
トレイシーは辛うじて笑みを作り、それだけを呟いた。
この子の母親はソフィーを産んですぐに亡くなってしまったのだろう。まだ幼い子供に真実をそのまま伝えるのは酷と判断し、天使になったことにしているのか。どこも似たような事をするんだなとトレイシーは苦笑を浮かべる。
ソフィーはトレイシーがじっと話を聞いてくれるので、家の事を楽しそうに話している。今日は家人が父親の看病に手一杯で、一人で過ごしていたのかもしれない。だから相手をしてくれる大人がいる事が嬉しいのだろう。
「お家はね、いつもはお姉ちゃんだけ。お父さんは見回りのお仕事で森の中にいるよ。今日はおばあちゃんがお手伝いに来てくれてる」
「ああ……」
トレイシーはふと事件の事を思い出して、自身の顎を撫でる。
そういえば、五番目の被害者ユリアの遺体を見つけたのは森番の男だった筈。それがソフィーの父親なのだろう。
「お父さん朝から具合悪くて、夜になったらお熱が出て、おばあちゃんはすぐ良くなるって言ってたけど、お父さん苦しそう。ソフィーは治るまで近づいちゃダメって言われてて、だからお薬取りに来た」
「なるほど」
トレイシーはこの状況になった理由を知り、眉間に指をあて、眉を顰めた。
きっと父親の看病で、この子の家人達は忙しかったんだろう。その様を見ていたソフィーは、自分も何かしなくてはという使命感に駆られてしまったのかもしれない。
こんな夜も遅い時間だ。普通なら小さな子供は眠っているものと思うだろう。まさか家から抜け出して、こんな危険地帯に来ているとは思わない筈だ。だからソフィーががいなくなっている事に、家族は気付いていない可能性もある。
――騒ぎになる前に穏便にこの子を家に戻さなくては。
トレイシーは少しだけ考えて、ガラス瓶を取り出した。中に入っていたドーフリンはトレイシーの指の治療に使ったので、コップ一杯にも満たない量しか残っていない。それでも熱を下げるくらいは出来る筈だ。
「ソフィー。お花よりも、もっとよく効くお薬をあげるよ。だからお家に帰ってお父さんに飲ませてあげて。これだったら飲んだらすぐ治るよ」
「本当!?」
「うん。でもその代わり、私から貰ったって話は言っちゃダメだからね」
人差し指を唇の前に立てて、「しーっ」と言うトレイシーに、ソフィーも大きく頷いて「しー」と真似をする。
ガラスの瓶をトレイシーがバスケットに入れてやると、ソフィーはランプを地面に起き、大事そうにバスケットを両手で抱え込んだ。
「じゃあソフィー、早くお家に帰らなきゃ」
今のソフィーはドーフリンを父親に届ける事に夢中なのだ。ランプどころではないのだろう。でもきっとこのランプは森番の仕事道具だろうから、こんなところに置いて行ってしまったら仕事にならなくなってしまう。
誰にも取られないようにバスケットを抱きしめてそわそわしている幼子に、トレイシーはくすくすと笑いながらランプを手に持ち立ち上がる。
「それならお家まで送って行ってあげる。吸血鬼の王様が来たら危ないからね」
トレイシーがランプを掲げてそう言うと、ソフィーはじっとトレイシーを見上げ、不思議そうに問いかける。
「お姉ちゃんは危なくないの?」
「え?」
「お姉ちゃんも、髪の毛きらきらでお星様みたいだよ。お星様は綺麗だから美味しいんじゃないの?」
「んん⁉︎」
今度はトレイシーがびっくりする番だった。幻術を纏っているトレイシーは、誰が見ても少年に見える筈なのだ。見破れるのは神霊眼持ちくらいの筈だ。
――あ、でも確か小さい子はまだ神様に近いから、幻術が効かない事があるよって言われてたような。
トレイシーは記憶の片隅にあった、幻術をかけてくれた魔術師の言葉を思い出す。ここまで色々な場所に行ったし、幼子に会うこともそれなりにあったがそんな指摘をされる事は無かったので、すっかりと忘れかけていた。
「ねえ、ソフィー。それ……」
少女に話しかけようとしたトレイシーだったが、首の後ろに総毛立つ様な不快感を覚えた。
トレイシーはその嫌な予感に勢いよく顔を上げ、辺りを見回す。先程まで森に響いていた筈の、夜の鳥達の声がいつの間にか消えている。
「お姉ちゃん?」
今の今まで和やかだったトレイシーの表情の変化に、ソフィーも不安そうな顔をする。幼い子供を怖がらせたくはないが、そんな事を言っている余裕は無かった。
風も無いのに、木々が揺れている。その音が段々とこちらに近づいて来ている様な気がする。
トレイシーがそちらから目を離さずにいると疑う余地もなく、何かがすぐ近くまでやって来ていた。
どうしよう、どうすればいいと悩みながら、ソフィーを背に庇い、トレイシーは微かに震える手で魔除けのタイマーを取り出そうとする。相手が人間だったら魔除けの効果は無いけれど、それでも一瞬の威嚇程度にはなる筈。その隙にソフィーだけでも逃がせれば。或いは、タイマーのけたたましい音にルカが気づいてくれれば。
もたつく手でなんとか目的のものを取り出したトレイシーの眼前に、黒い影が落ちてくる。
「あ……っ!」
至近距離に現れた黒マントの人物に驚き、トレイシーの体は固まってしまう。何が起きたのか理解するまでに数秒、相手が危険な存在であることに気付いたのは、その手に抜き身の刃が握られていたからだ。頭の中で「危ない」という思考は動いているのに、体は全く動かない。ランプの光を反射する刃に、生命の危機が迫っている事実を知覚しているのにどう動けばいいのかが分からない。
もう駄目だという思いで頭がいっぱいになっていたトレイシーだったが、服をぎゅっと握る小さな手の温度にはっとする。この場に自身がいる理由と、守らなくてはならない存在がいる事を思い出す。
「くっ!」
「きゃあ!」
真っ直ぐに迫る刃先に対し、対抗手段の無い人間の選択は限られている。トレイシーは幼子を抱え、咄嗟に横に身を投げ出した。頬の真横を鋭い風が過ったのを感じ、間一髪凶刃を躱すことが出来た。
しかし、息を吐く間もなく次の攻撃が来る。倒れてトレイシーの動きが鈍ったところに、不穏に煌めく刃が振り下ろされる。まずいとトレイシーは手に持った魔除けタイマーを起動させる。じりりと耳障りな音が手の中で鳴り響くと、凄まじい悲鳴が上がる。
「うぎゃあああああああああ!」
やった、と喜んだのは一瞬で、目の前で襲撃者の怒気が膨れ上がる。まずいと思ったトレイシーは地面をごろごろと転がり、その場から出来るだけ遠くへと逃れる。振り返ればトレイシーのいた場所に短剣が突き立ち、取り落としたタイマーが真っ二つにされている。
――嘘でしょ、あれ真鍮製なのに……!
唖然とするトレイシーだったが、襲撃者が地面から刃を引き抜くのを見て慌てて体を起こす。魔除けはもう手元には無い。トレイシーに身を守る術は残っていなかった。次はどうしようと背中に冷たい汗が流れる。
襲撃者はゆらりと立ち上がると、トレイシーへと視線を向ける。突き刺さる怒りにトレイシーは身を屈めたまま警戒を強める。次の殺意の刃は躱せるか分からない。
ところが黒マントは興味を失ったようにトレイシーに背を向けると、地面に座り込んだまま動けないでいるソフィーに、ゆっくりと体の向きを変える。
攻撃を躱している間に、トレイシーとソフィーの距離が離れてしまっていたのだ。今は二人の間に襲撃者がいる状態だ。
明確に敵意を持った相手が、自分を標的としている。その事に気付いた少女は、怯えた顔で身を縮こまらせる。
「ひぅ……っ!」
「ソフィー!」
トレイシーが手を差し伸べても、恐怖に囚われた幼子は襲撃者を見つめたまま動く事ができない。黒マントはゆっくりと足を踏み出し、ソフィーへと短剣を向ける。
――あいつを止めなくては!
何か無いかと視線を走らせたトレイシーは、転がっていた森番のオイルランプに目を止める。急いでランプを掴むと襲撃者に向けて力強く叩きつけた。狙いは少し反れてしまったが、ランプから流れ出たオイルと炎がマントへと引火し、裾から上へと燃え上がる。
「きゃあああああ‼︎」
襲撃者は甲高い悲鳴を上げ、火を消そうと地面を転がり回る。その声に違和感を覚えつつもトレイシーは送信機を操り、アシスタントの機械人形を起動させた。そして火は消えたがまだ倒れた状態の襲撃者を上から抑えつけ拘束する。軽量型の機械人形なのでどのくらい保つかは分からないが、これで時間は稼げる筈。
トレイシーは立ち上がってソフィーへと走り寄った。少女はへたり込んだまま、襲撃者を見つめて動けないでいる。そんなソフィーの肩をトレイシーは揺する。
「ソフィー!しっかり!」
「!おね、お姉ちゃん……」
「逃げるよ、立って!」
よたよたと立ち上がったソフィーの手を掴み、トレイシーは思考を巡らせる。光源のランプは失ってしまった。この状態であの暗い森の中を走る事は不可能だ。そうなれば湖の反対側、ルカがいる方向を目指すしかない。
「走るよ!」
「うん」
湖の柵に向かってトレイシー達が走り出すと、背後で硬いものが折れる音がした。トレイシーが一度だけ振り返ると、機械人形を振り払い、立ちあがろうとしている黒マントの姿が見えた。フードの中身は見えないが、立ち昇る様な怒りは離れていても感じられた。
――とってもまずい。
追いつかれたら、当然ただでは済まない。トレイシーは遠くに見える湖の対岸に、もどかしい思いで足を動かす。前に進んでいるのに、気が急いているせいか自身の足が遅く感じてしまう。
「あっ!」
がくんと体が下に引っ張られ慌てて振り返れば、ソフィーが転んでいる。トレイシーが足を速めてしまったが為に、子供の足では追いつけなくなっていたのだ。
トレイシーは「ごめん」と謝りながら急いでソフィーを起こす。足が痛むだろうに、ソフィーは顔を顰めてはいてもグッと唇を噛み締めている。幼いながらに、泣いている場合でないことを理解しているのだ。
怪我の有無を確認している間は無い。トレイシーが再び走り出そうとする前に、黒い影が物凄い速さで迫ってくる。その動きはどこか歪で、明らかに人間では無かった。小さかった影が伸び上がり、トレイシー達の目の前で膨れ上がった。頭上で湖にだけ降る月光が、襲撃者の抜き身の刃を光らせる。
「つっ!」
――刺される!
死ぬかもしれないと思うこの瞬間にも、トレイシーの体は聖匙の使徒の「使命」に突き動かされる。短剣は明確に、トレイシーではなく幼い体躯を狙っている。トレイシーは細い腕を引き、ソフィーの上に覆い被さる。痛みを覚悟してぎゅっと目を閉じる。

「キュイイ!」

ばさりと首の後ろで起こる大きな羽音と風。間近で響く甲高い鳴き声。「え?」とレイシーが閉じていた目を開くと、光る何かが背後にある。そちらに首を向けると、翡翠色の瞳と視線がかち合った。
金色の王冠を被った、白いフクロウがトレイシーの背を守るように翼を広げる。金色の星と黒の星を纏った鳥は、黄金の光を撒き散らして高く吼えた。黒い影の持つ凶刃は光に弾かれる。それを見届け、フクロウは消え失せた。
「トレイシー‼︎」
何が起きたのか分からず、呆然としているトレイシーの前に、フクロウと入れ替わるように白い影が飛び込んでくる。それがルカだと認識すると同時に、視界で七色の光が弾けた。ルカを中心に広がる光が黒いマントにまで到達すると、襲撃者は凄まじい悲鳴を上げて体を痙攣させる。
「ぐぎゃあああああああああああ!」
「⁉︎」
タイマーの魔除けの音を食らった時の比では無い、叫び声と苦しみ方だった。立ったまま痙攣していた襲撃者は、光が止むとカラスの様な叫びを上げながら木を駆け上がる。不気味な苦悶の声が遠ざかっていき、やがて森は夜の静けさを取り戻す。警戒していたが、黒マントはそのまま逃げ去ってしまったようだ。
静まり返った森に、夜鳥達の声がちらほらと戻ってくる。すっかりと元の森に戻ったのを感じ、トレイシーも緊迫していたものが霧散していくのを肌で感じる。――危険は、去ったの?
「ソフィー!ソフィいいいい!」
「お姉ちゃん!」
カンテラを手にした、ソフィーよりも年長の少女が湖岸沿いを走ってくる。泣きそうな顔で両手を広げる姉の姿に、ソフィーはトレイシーの下から這い出すとまろぶように駆けていく。姉妹は抱き合った後、姉は小さな妹の体を確認する。
「ソフィー、怪我はない?大丈夫?どこも痛い所はない?どうして一人で外になんて出たの!無事でよかった!ああ、もう本当に、本当に、心配したんだから……!」
「ごめんなさっ……うっ……うあ、うあああああああん‼︎」
家族に会えた事で緊張の系が切れたのだろう。それまで気丈に振る舞っていたが、幼いソフィーは姉にしがみついて泣き出してしまった。そんな妹を抱き締めて、「馬鹿!良かった……」と年嵩の少女も泣き始める。
そんな姉妹のやりとりを見ながら、ようやくトレイシーはほう、と息を吐き肩に入っていた力を抜いた。
――良かった。誰も死ななくて。
「あっ……」
トレイシーは立ち上がろうとして、腕と足に上手く力が入らない事に気付く。その事に戸惑っていると、目の前にルカの手を差し出される。いつになく親切だなと不思議に思いつつ、トレイシーがその手を握ると体を引っ張り起こされる。
「ありが」
「何故、あんな事をした」
トレイシーの言葉に被せる様に、ルカが低い声でそう尋ねた。それまで聞いたことの無いような重く、押し殺した声にトレイシーが顔を上げると、怒りでギラギラと光るルカの目と視線がかち合う。無表情なのに目だけが激しい感情を燃やしており、トレイシーはぎょっとして一歩後ろへと下がってしまう。
その動作にトレイシーが逃げようとしてると思ったのだろう。ルカはトレイシーの肩を強い力で掴むと、顔を寄せた。
「何故、刃の前に身を投げ出すような真似をした。死ぬ気だったのか」
「っ、そんなつもりは……」
「だったら、物語の主人公にでもなったつもりか。なんて愚かな事をしたんだ。刺されたらどうするつもりだったんだ。無力な君に、そんな事までしろと言った覚えはない!人を救えても君が傷ついたら意味がないのが、分からなかったのか!」
ルカが駆けつけた時、トレイシーの背に振り下ろされる短剣を見て全身の血の気が引いたのだ。最悪の展開が脳裏を駆け巡ったが、それはイライの能力で防がれた。そのお陰でルカの介入も間に合い、襲撃者を追い払うことが出来た。
安堵の後に来たのは、少年の無謀すぎる行動への怒りだった。この事態に巻き込んだのはルカだが、トレイシーが自らの身を犠牲にしようとするとは思っていなかったのだ。
ルカの怒声に対し、トレイシーは戸惑いの表情を浮かべている。その顔は何故、ルカに怒られているのかが分かっていない様だった。
「なんで?だって、あの子を助ける為に私は呼ばれたんでしょう?何をしても守らなきゃいけないでしょう?」
「何を言って」
「私は、しなきゃいけないことをしただけなのに」
――それなのに、どうして怒っているの?
トレイシーの瞳は澄んでいて、無色透明な眼差しはルカにそう問いかけているようだった。駒鳥の様な仕草で首を傾げている少年に、ルカはぞわりとした不快感を覚えた。
グラール教の総本山である聖都ラビエラには熱心な信徒が多く、狂信的な者も多い。俗世を知らず、教会の清廉な側面だけしか見ていない幼い神職見習い達は、皆この無垢な目で盲信的に神に祈り、その手足となる。
歳を重ねることで現実と世界を知り、人間味を帯びるが、ルカはその神の傀儡のような、殉教を恐れない若者達に不気味さを覚えていたのだ。今のトレイシーには彼らと同じものを感じ取れる。ただの少年なのに、何故そんな感覚になるのか。
ルカは怒りを抑え、一度目を閉じると吸い込んだ息を静かに吐き出す。そうして不思議そうにしているトレイシーに視線を合わせる。
「……私が、手を貸して欲しいと頼んだのは、君に自己犠牲を強いる為じゃない」
「でも、それならどうすれば」
「私が何故、君に怒りを覚えているのか分からないか?君を守ったフクロウの正体が、君には分からなかった?」
「…………」
ルカの問いに、トレイシーは一瞬だけ見たフクロウの翡翠の瞳を思い起こす。目を見たことがないのに、何故か白い司祭見習いの姿を連想した。
怒りに燃えているルカの目を見るのが怖くて、トレイシーは視線を彷徨わせたまま自信なさげに呟いた。
「…………イライ、の?」
「そう、彼の相棒だ。そして彼の目でもある。動けないイライの代わりに君を連れて行くことは伝えてあったから、心配でずっと見ていたんだろう」
「心配?……どうして?」
きょとんとしたトレイシーの顔は、ルカの目には本当にあどけなく見えた。これがトレイシーの素の表情で、今までルカが見ていたのは仮面の表情だったのだと気付かされる。
「調査員さんはパートナーなのに、なんでイライは関係ない私の心配をするの?」
「銀の武器でもなければ傷もつかない私を心配?そんな無駄な事をする必要はない。司祭見習いならば、短剣一つで簡単に死んでしまう劣弱な市民の君を気にかけるのは当たり前だろう。こんなに震えている癖に、どこまで虚勢を張るつもりだ」
「は……震え……?」
ルカの指摘にトレイシーは目を瞬かせた。――震えている?私が?
ふとトレイシーが視線を落とすと、ふるふると自身の腕が震えているのが目に入った。足も同じだった。もしや、先程立てなかったのはこのせいだったのだろうか。
「何故、自分だけでどうにかなると思ったんだ。非力な君に何が出来ると言うんだ。イライが助けなければ、あの子供と諸共殺されていたかもしれないんだぞ。言った筈だろう、私を呼べと。手を貸せと頼んだのは私だが、君の身を危険に晒す為に呼んだわけではないんだ。だというのに危ない目に遭う前に、どうして助けを求めないんだ!そんなに私が信用出来ないのか!」
険しい表情で、厳しい言葉でルカはトレイシーの肩を強く掴んで揺する。
飄々としていたルカの豹変っぷりに、最初は訳も分からずに「怒られている」と怯えてしまったトレイシーだったが、今はその言葉の端々に、ルカの怒りだけではない何かを感じ取れた。
「えっと、調査員さんは……もしかして、私の心配をしてくれているの?」
「っ、それ以外に!何がある!」
トレイシーのあまりに気の抜けた表情と質問に、ルカは言葉を一瞬詰まらせてから、そう叫んだ。――この子は一体、何を聞いていたんだ。
呆れ果て、少年に対する怒りの感情も解けてしまったルカは、髪を掻き毟り大きく溜息をついた。
トレイシーの行動を子供の英雄ごっこか虚勢故の無茶なのかとルカは思っていたが、それは勘違いであったらしい。トレイシーは心配されるべき対象、守られるべき対象に自身が入っていないのだ。他者に助けを求めるという選択肢が無かった様だ。
華奢な外見を裏切り、我が強く賢い少年を気に入って調査協力を頼んでいたが、今後は危険な場所に赴く時には気をつけなくてはならない。念の為にとトレイシーを天眼で見ていたイライも、今頃は肝を冷やしているに違いない。
トレイシーは「そう、そっかあ」と俯いたまま、ぼそぼそと呟いている。
「私が心配されてたんだ。そうか、そうなんだ」
「それが当然なんだ。君はどこかちぐはぐだな。………………感情と表情も一致していないし」
「え?」
トレイシーが顔を上げると、呆れた表情のルカの姿が滲んで見えた。滲んだ視界から溢れた雫が頬を伝い落ちていく。後から後から溢れる涙に、トレイシーはぱちぱちと瞼を瞬かせる。
はたはたと地面に落ちていく雫。自分が泣いている事は分かった。分かったけれど、どうして泣いているのかが分からない。
「ねえ、私泣いてる」
「見れば分かるよ」
「なんで泣いてるの?」
「はあ……それを私に聞くのか。君は本当にミステリアスな人間だよ」
不思議そうに首を傾げたまま、ほろほろと涙を流しているトレイシー。
この少年は本当にどこかおかしい。表情を変えずに泣いている姿は痛ましくも感じるが、酷くいじらしげにも見えた。雨に打たれている子犬の姿を連想してしまう。
――頭を撫でたら、機嫌を損ねるだろうな。
プライドの高い彼を子供扱いするのはやめた方が良い。そう判断したルカはトレイシーの後頭部に右手を添えると、自身の胸に額を押し付けるように抱え込んだ。
「!なに……」
「心配だから気にかけるし、心配だから怒ったんだ。体が震えているのは怖かったから、涙が流れるのは安堵したから。君がどういう人間で、何を隠しているのかは分からない。それでもイライと私からすれば君は保護すべき市民なんだ。協力を頼んだのはこちらだけれど、それは君が保護対象から外れたという意味じゃない」
「それじゃあ、何しろっていうの……」
「今までやっていたじゃないか。君が出来る範囲の事をしてくれればいい。その範疇を越える事が起きたなら、頼ってくれればいい。言った筈だよ、危ない目に遭う前に私を呼べと。君は忘れて」
「うりゃー!!!」
「うぐっ……!」
ルカの言葉が不自然に途切れた。何が起きたのかとトレイシーが頭を起こせば、渋面のルカが呻いている。視線を下に向ければ、ルカの脛を棒で殴っているソフィーの姿があった。
「これでも喰らえ、すけこましー!」
「すけこまし……?」
「きゃあああああ!何してるのソフィー!」
ソフィーの姉は慌てて幼い妹をルカから引き剥がしにかかる。しかし気の弱そうな姉の制止を物ともせず、ソフィーは木靴でルカの脛を執拗に攻撃し続ける。
「痛っ!だっ!ちょ、ちょっと待ってくれ!」
「えい!えい!星のお姉ちゃんから離れろー!」
「わあ、痛そう」
「やめてやめて!ソフィー、なんてことするの!その人は教会の人なのよ!私達を助けてくれた人なの!」
「こいつ、星のお姉ちゃんいじめてた!悪い奴だもん!すけこましだもん」
「いじめたわけでは……いだっ!」
「ふっ、すけこまし……っ」
木靴と木の棒の攻撃を痛がるルカの横で、トレイシーが肩を震わせて笑いを堪えている。ソフィーのすけこまし呼びがツボに入ってしまったのだ。
幼い子供は覚えたての新しい言葉を使いたがるものだ。一体どこで誰が「すけこまし」などと教えたのかは不明だが、吸血鬼は女性をたらし込み、拐かす存在な事を考えると間違ってはいない言葉選びではある。ルカの正体を知らない筈の子供がそれを連呼している、その奇妙な一致がトレイシーには面白く思えてしまう。
気弱そうな姉は顔を青くして妹をルカから引き剥がすと、それ以上暴れないように幼い体を抱き込んで頭を下げた。
「本当にすみません!助けていただいたのに、とんでもないことを!」
「そんなに気にしないでくれ。君達が無事で良かった」
何度も頭を下げて謝る少女に、ルカはなんとか笑顔を浮かべてそう返した。
トレイシーも一連の騒ぎの間に、涙などとうに引っ込んでしまっていた。くすくすと笑いながら、トレイシーは鼻息荒くルカの脛を狙っているソフィーの側に屈み込んだ。
「ソフィー、もう私泣いてないからすけこましは許してやって」
「誰がすけこましだ」
幼い女の子の言葉は聞き流せても、明らかに面白がっているトレイシーの言葉は聞き流せなかったルカは不機嫌な声を出す。少女らを助けただけなのに、何故こんな理不尽な目に遭っているのか。
「ソフィー!失礼でしょう!すけこましだなんて、変な言葉ばかり覚えないで!」
「変じゃないもん!お父さん、顔がいいだけの男には気をつけろっていっつもお姉ちゃんに言ってるもん!」
「ああ……」
ソフィーの発言に、ルカはなるほどと納得してしまう。
美しく育った、まもなく年頃になってしまう娘を心配する父親の気苦労は計り知れない。きっと何度も何度もこの類の注意を繰り返し聞かせているのだろう。幼い妹が覚えてしまうほどに。
そして、どういう訳だかこの短時間でトレイシーに懐いてしまったこの幼子は、トレイシーを怒鳴りつけて泣かせたルカの事をすっかりと敵認定してしまった様だ。
ソフィーは木の棒をルカに突きつけて、じろりと睨み上げる。
「こいつ、星のお姉ちゃん泣かせてた!女の人泣かせて、抱きしめて慰めるのはすけこましの手口だってお父さんが言って、むぐ」
「もう、本当にやめて……!お願いだから失礼な事これ以上言わないで……!」
必死でソフィーの口を手で塞いでいる年嵩の少女は、泣きそうな顔になっている。怖い目に遭った直後、精神的にも体力的にも滅入っている筈なのだから、無理もない事だった。
しかし、弱っている姉とは真逆の性質を持つ妹は、同じく危険な目に遭ったというのにむしろ興奮して攻撃性が増してしまっているらしい。
――これは、どうにかしてやらなくてはお姉さんが可哀想かな。
そう思ったトレイシーは屈んだまま、まだまだ攻撃する気満々の幼女に囁きかける。
「ソフィー。そんな事よりバスケットはいいの?お父さんの熱を下げる薬、なくなっちゃうよ?」
「‼︎そうだった!」
ソフィーの手には、あれだけ大事に抱えていたドーフリンと花の入ったバスケットが無かった。
小さな子は目の前の事に夢中になりやすい。怖い目に遭って、家族に会って安心して、白い男に怒ってと色々起きてる間に最初の目的はすっかり頭から消えてしまっていたのだろう。
木の棒を放り出すと、ソフィーはキョロキョロと辺りを見回しながら、湖の方へと走って行ってしまう。どこかに置いて来てしまったバスケットを探しに行ったのだろう。
置いて行かれてしまった姉は慌ててその背に「待って!」と呼びかける。走り出そうとして、一度ルカとトレイシーの方を振り返るとぺこりと頭を下げる。
「あの、本当にごめんなさい、あの子ったら人の話を聞かなくて……!もう!ソフィー!勝手に何処かに行かないで!危ないわ!」
そう叫びながら妹を追いかける少女の背を見やり、トレイシーはルカの方にちらりと視線を送る。ルカも丁度トレイシーに視線を向けたところだった。
二人は暫く互いの顔を眺め、どちらともなく大きなため息をついた。それは呆れではなく、安堵の篭ったものだった。トレイシーは遠く離れた幼い姉妹に視線を送り、ポツリと呟く。
「……彼女が、犠牲者になるはずだったのかな」
「恐らくは。私が駆けつけた時には既に襲われていた所だったからね。けれど、まさかもう一人子供がいるとは思っていなかったよ。イライが這ってでも、どうしてもついて来ようとするから代わりに君に声を掛けたんだが、もしかするとイライにはあの子の存在も見えていたのかもしれない」
「そう。先に説明して欲しかった、って文句言いたかったんだけど調査員さんも知らなかったなら仕方ないね。……結局、私はあまり役に立ててなかったみたいだし」
「…………そうでもないよ」
「とってつけた様な慰めならいらない。私が無力って言ったのそっちでしょう。まあ事実だし気にしてないけど」
硬い声と表情でそう言いながらも少ししょんぼりとしているトレイシーに、ルカは内心「まずい」と焦っていた。先程、高ぶった感情に任せて放った言葉がトレイシーを落ち込ませてしまっている。
ルカは魔除けのタイマーを取り出し、少年の眼前に翳して見せた。トレイシーは表面のガラスがひび割れてしまっているタイマーを見つめ、訝しげに首を傾げた。
「どうしたの、これ」
「無力は言葉が過ぎたよ、謝る。これのお陰であの襲撃者を一度撃退出来たんだ。話に聞いた通り、魔除けに激しい拒絶反応を示していた。君の言う通り、あの子の身を守ることが出来たんだ」
「ふうん、そう。それならいいんだけど」
表情は変わらないが、トレイシーの頰に赤みが戻っている。ほんの少し、機嫌は上向いたようだ。ルカは更に言葉を続ける。
「それに君が居なかったら、私だけではあの姉妹の片方しか守る事は出来なかった。君が妹さんを見つけてくれて助かったよ。ただ、無茶は本当にしないで欲しかったけれど」
「ちょっと時間稼ぎしたくらいだと思うけど。結局追い払ったのは調査員さんだし。あんなピカって光る強力な技出せるなら、教えておいて欲しかったけど」
「………………うん。まあ、実は連続では放てない技なものでね」
トレイシーが照れを隠す為にわざと詰る様にそう言うと、ルカは歯切れ悪く相槌を打った。そのおかしな間に違和感を感じたトレイシーが目線を上げると、ルカはどこか気まずげな表情で視線を逸らした。
そのあからさまな態度にトレイシーはぴんと来てしまう。
「もしかして、教会に使えるの隠してた技だった?」
「いやー……隠してはいないよ。彼らも知っている能力だよ。ただ、今も使える状態なのは知らないというか、なんというか」
「…………そういえば、あの黒マント、なんかだか感電してるみたいな反応してたよね。電流って吸血鬼の能力じゃなくて調査員さんが人間の時に得た能力だって言ってたよね。それって能力封印の対象じゃ無いってことでしょう。どれだけ隠し事してるの、あんた」
「君、本当に呆れるほどに記憶力と勘がいいな」
ルカは苦笑いで肩を竦めた。どうしようもない状況だったので能力をトレイシーにも見せてしまったが、隠していたというよりもただ「黙っていた」だけなのだ。滅せられるくらいならば半封神になるのは構わないが、いざという時の奥の手は持っていたい。そう考えての事だった。
「言い訳をさせてもらうなら、あの強電流は魔物にだけ効くから人には害にならないよ。だから悪意があるわけではないんだ」
「まあ、それに関しては至近距離にいた私とソフィーが無事だったから信じるけどね」
「それは良かった」
「これでまた調査員さんの新しい弱みが知れたなーって」
「おいおい」
にやにやと悪い笑みを浮かべるトレイシーに、ルカはどう口止めしたものかと頭を悩ませる。そこに「あったー!」と叫び声を上げながらソフィーが戻って来た。頭の上にバスケットを掲げて、自慢気に見せている。
「星のお姉ちゃん、お薬あった!」
「なくなってなくて良かったね」
「……………………」
トレイシーとソフィーが会話をしている間、夜目の効くルカにはバスケットの中身が丸見えの状態だった。萎れたたくさんの青い花と、昼間に見た覚えのあるガラス瓶。それは子供が持っていていいものではなかった筈だ。
ルカは無言でトレイシーの肩を掴んだ。訝しげな顔でこちらを振り向いた少年にぐっと顔を近づけ、低い声で問う。
「助手くん。何故、何故あの子がドーフリンの瓶を持っているのか、説明して貰えるかい。子供に飲ませたらいけないと君にも分かっている筈だよな」
「あー……っと。そのぉ……えっと」
トレイシーは視線を泳がせ、もごもごと返事をはぐらかす。ルカに、ソフィーに持たせたドーフリンの瓶を見られてしまったのは想定外だった。口止めしても実物を見られてしまっては意味がない。
目的は違えど、未成年の、それも幼児に酒を渡したなんて事を知られたらデミに大目玉を食らう。自分だけならまだしも、ドーフリンの横流しに協力してくれた酒場の主人も巻き込んでしまう事になる。それだけは避けなくては。
どう誤魔化そうかと悩んでいると、ソフィーの姉も遅れて戻ってくる。彼女はきらきらとした目をトレイシーに向けていて、少し潤んだ目で感謝を告げる。
「あの、ソフィーから聞きました。父の為に解熱薬をありがとうございます!ずっと熱が下がらなくて心配してたんです!お二人は私達家族の命の恩人です!」
「あはは……お気になさらずー」
「ふうん?そうか、そうか。そういう事情があるのか」
猫撫で声で、納得した様に頷くルカだが、トレイシーは背中がぞわぞわして仕方がない。事情がわかったと言いながら、なんだか肩を掴む手にも圧を感じる。
とてもでないが、背後の男の顔を見る気にはなれない。正面にいる少女達に引き攣った顔でなんとか笑い返すトレイシーの耳元で、ルカが囁いた。
「理由はともかくとして、お姉さんに黙って勝手に持ち出した酒を、勝手に君が子供に渡したという事実は変わらないな?」
「何が言いたいのさ」
「私は何も言わないよ。君が口を噤んでくれれば」
「…………分かったよ、弱みがあるのはお互い様って事にすればいいんでしょ」
優位に立てたと思ったのにとトレイシーは苦々しくそう呟く。ルカはと言えばトレイシーの返事に機嫌良く、肩を二度叩いた。これは昼間の仕返しも兼ねているのだろう。
やり込めてやったと思った時は爽快だったが、逆に自分がやられると大変に面白くない。トレイシーは不機嫌に、肩に乗せられた手を払い落とした。
ルカはトレイシーのつんけんとした反応に腹を立てるどころが楽しげにくつくつと笑うと、幼い姉妹に向き直った。
「さて、そろそろ戻らないと。その前に君達を家まで送ろう。森の中がまだ安全かどうかは分からないからな」
「はい……」
「あ、その子達の護衛は調査員さんお願い。私、アシスタントを回収しなきゃ」
トレイシーが指す先にはパーツが飛び散った機械人形が倒れている。硬い素材の人形の酷い壊れ具合に、どれだけの無茶をしたんだとルカは眉を顰めたが姉妹の手前、文句を口には出さなかった。
聞けば、姉妹の家はここからそう遠くはない場所にあった。トレイシーもこの場に一人で残して行くのは、ルカとしては気掛かりではあった。しかし二人を送り届けて戻るだけならば大した時間は掛からない。
それに月の角度が変わったお陰か、少し森の中にも月光が流れ込んでいる。これならば光源がなくとも、トレイシーも幾分か視界が確保できる筈だ。
「それなら、少し行って来る。戻るまでそこで待っていてくれ」
「はいはい。分かってるよ。早く行って」
「じゃあね!星のお姉ちゃん!」
「本当にありがとうございました」
「うん。これからは気を付けるんだよ」
元気に手を振る妹と、深く頭を下げる姉をトレイシーは優しい目で見ている。また、あの穏やかな宗教画の聖母の顔だとルカは思った。



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