2話
翌朝。ルカは街の噴水広場で、おかしなものを発見して首を傾げた。噴水広場の大時計の下のその物体をまじまじと見つめる。
「……なんだ、これは」
時計のメンテナンスをすると言っていたので、トレイシーが作業をしているものとばかり思っていたのだが、ルカの目の前にいるのは朝日を照り返す、銀色の機械仕掛けの人形だ。
人形は大時計に取り付けられた大きなハンドルを両手で掴み、きりきりと音を立てながら回している。相当重いハンドルの様で、ゆっくりゆっくりと慎重に作業をしている。
もう一つ同じような音が頭上でするのでルカが目線をあげる。そうすると時計の文字盤の裏に空間があるのが見える。その空間にもう一体の機械人形がおり、やはりハンドルを両手で掴んでくるくると回している。
ペースを崩さずにハンドルを回している姿は、時計のからくりの一部にも見える。しかし、それにしては機械人形達は観賞に適した装飾、というわけでもなさそうだ。
ルカはこの広場は何度も通っているし、組み鐘が音楽を奏でている所も見ているが、一度もこの人形がいるところを見た事はない。一体、この人形の正体はなんなのだろう。
興味を惹かれ、ハンドルを回し続けている人形にルカが近づくと、肩のディケンズ先生から電子音が鳴る。肩に目を向けると、金のタツノオトシゴの目が光っている。なんらかの無線電波を傍受したらしい。
ルカは眉を顰めて辺りを見回す。この広場にはラジオも、通信機器の様なものもない。一体なんの無線シグナルを受けたのだろうか。
周囲に注意を払っていたルカの耳に、「ピーガガガ」という、無線の通信音を思わせるノイズが入ってくる。発生源は目の前の機械人形だ。
何故、人形からそんな音がするのだろう。そう考えながら首を捻って数秒、ルカはあることに思い至り目を見開いた。
――まさか、この人形は無線電波で動いているのか?遠隔操作で?このサイズのものが?
信じられない思いでルカが人形をよく見ようと足を踏み出すと、「ちょっと!」と鋭い声が飛んできた。その声に、ルカは伸ばしかけた手を引っ込める。声のした方向に目を向ければ、トレイシーが怒った顔でこちらを睨んでいる。
「勝手に私のアシスタントに触らないでよ!」
「君の?この人形がかい?」
「そうだよ。壊したら許さないから」
「分かった分かった。君の許可なく触れないよ」
トレイシーはぷりぷりと怒りながら、水の入ったバケツを一つ、えっちらおっちらと運んでいる。時計の側にはもう一つ、水の満ちたバケツがあるのでこちらは先に汲んで来たものなのだろう。
――この子、あまりに非力過ぎないか?
ルカは呆れた思いでトレイシーに目を向ける。細くて頼りない体つきをしているとは思っていたが、水の入ったバケツを一つしか持てないとは。女性より体力が無いのではないだろうか。よくも人の事をひょろいなどと言えたものだなとルカは眉を顰める。
トレイシーは運んでいたバケツを地面に置き、じろりとルカを睨みつける。
「で、なんであんたがここにいるの。調査はどうしたのさ」
「今日は夜に予定があるから、日中は時間があるんだ。だから見学に来たんだ。大時計のメンテナンスに興味があって」
「……別に面白い事なんかないと思うけど」
「とんでもない、既に気になる事しかないじゃないか!」
トレイシーは迷惑そうな目をルカに向けているが、ルカはそんなトレイシーの態度に構わず、楽しげに機械人形を指差す。
「君のアシスタントは何をしているんだい?上にももう一人いる様だが」
「それは、時計台の内部にある重りを巻き上げているんだよ。それが時計の動力なんだ。ゼンマイ時計は薄い金属を巻き上げて、それが解ける力を利用するわけだけど、これは重りが下がる力を利用して時計を動かしているの」
「なるほど。しかし、二つもあるのは何故?」
「上の子が巻き上げているのは時計の針の動力。この子が巻いているのは音楽を鳴らす組み鐘の動力だよ。時計が止まらない様に四日に一度は巻き上げる必要があるんだ」
「だから、こちらの方が重そうなのか」
「そう。百キロ以上あるからね。本来なら二人がかりの作業になるし、二時間以上も続けなきゃいけないんだから」
ルカは胡散臭い吸血鬼だが、自分の仕事に興味を持った相手にいろいろと尋ねられるのは悪い気分はしない。
トレイシーはルカの質問に答えながら、組み鐘を拭く為の長めの梯子を時計台に立て掛けた。低い位置の鐘用に脚立も設置し、バケツを使いやすい位置に移動させる。
「ところで、この機械人形は君が作ったのか?」
「そうだよ。上の子は試作機だからあまり複雑な事は出来ないんだけど、こっちの子はアシスタントを務めて貰ってる」
「その、もしやと思うんだが、彼らは遠隔操作が出来るのか?」
「……どうしてそんな事を聞くの」
「さっき、無線電波を発していたのをディケンズ先生が感知したもので。で、どうなんだい?」
ルカが重ねて尋ねると、トレイシーは苦虫を噛み潰したような顔でルカの肩にいる金属のタツノオトシゴを見やる。
「その先生、なんでもありだね。周りには簡単な動作を繰り返すだけの大きなからくり人形と思わせてたのに。そうだよ、これは無線電波を受信する人形なの。私の持つ送信機で動かせる。単純な動作は一度入力すれば電池切れまで繰り返してくれるから、操作不要なわけ」
「それは素晴らしい技術じゃないか。君、時計技師ではなく機械技師を名乗っていいんじゃないか?」
「私は時計職人が本業だから。こっちは趣味。あと鍵師もやってるけどあれは趣味寄りの成り行き」
「それは、実に多才だな」
トレイシーはバケツの水を数秒見つめ、時計を見上げているルカを一瞥する。
「……調査員さん。そんなに興味あるなら時計の中見て来たら?」
「!いいのかい?」
意外な提案をトレイシーがするので、ルカは目を瞬かせる。追い払われる事はあっても、見学を許可されるとは思っていなかった。
トレイシーはバケツの水に布巾を沈めながら、「だって」と言葉を続ける。
「ただそこにいられるのも鬱陶しいし。あ、巻き上げ作業の邪魔はしたら承知しないから」
「分かっているとも」
いそいそと時計台の階段を登っていくルカは、普段は見ることのできない時計の内部に興味津々の様子だ。
調査員の白い姿が視界から消えるのを待って、トレイシーは工具ホルダーから小型のナイフを取り出した。刃先を左の人差し指に当てて、力を込める。ぷつりと皮膚が切れ、血が溢れ出す。その血の量にトレイシーは顔を顰めた。
――少し深く切りすぎたかも。
悔いても、もう切ってしまったものは仕方ない。トレイシーは溢れ出る血を急いでバケツの水に垂らす。数滴の血が水に混じると金色の光を一瞬だけ放つ。もう片方のバケツにも血を垂らすと同じ反応が起こる。
金色は聖力の色だ。バケツに入った「インスタント聖水」を見下ろし、トレイシーは指にハンカチを巻きつけ止血する。
トレイシーが無機物を聖物化出来るのは事実だが、これほど大きな時計は数年掛けなくては聖の力を付与できない。そこでトレイシーは正体がばれてしまう危険度が上がるが、手っ取り早い方法を使うことにしたのだ。
元々トレイシーの血は魔力を溜めてしまう性質がある。それが十月城の聖泉を吸収した際に、聖の気も僅かにだが帯びる様になった。水は聖の気と相性がとてもいいので、トレイシーの血を少し混ぜれば簡単な聖水もどきを作る事が出来る。
時計の巻き上げ作業の際に、トレイシーは音楽を鳴らすカリヨン――組鐘を拭くという名目でこの聖水もどきで聖属性を定着させる。そうすれば鐘の音による魔除けの力が強まる。しかし、簡易な方法なので定期的に続けなくては効果は薄まってしまう。
「っ……」
ナイフで切ったばかりの時はなんともなかったのに、時間が経つと指先にじりじりとした痛みが湧き上がる。ハンカチにも血が滲んでしまっている。これは早々に傷を治す必要がある。
トレイシーはドーフリンの入ったガラス瓶を取り出す。これはデミに内緒で少しだけ貰ってきたものだ。
蓋を開けようと試みるが、指の痛みが強まって来たせいでうまく力が入らない。四苦八苦しながらトレイシーがどうにかガラス瓶の蓋を開こうと奮闘していると、上から伸びて来た腕に瓶を奪われる。
慌ててトレイシーが振り返ると、いつの間に戻って来たのか、ルカがそこに立っていた。
「!」
「おかしいと思った。君が意味もなく私に親切な提案をするなんて」
ルカはガラス瓶の蓋を開けると、鼻を近づけて中身を確認する。それがドーフリンであることに気付いたルカは、険しい顔になる。
トレイシーは体の影になるように傷のある左手を隠し、ルカを睨み上げる。
「それ、返してよ」
「こんなところで、こそこそと隠れて美酒の味見でもしようとしていたのかな?」
「だったらなに。あんたに咎められる覚えはないし」
「ふうん?それなら質問を変えようか」
「あっ」
トレイシーの左手首を、ルカが無理矢理掴み上げる。眼前の指に巻かれた血の滲むハンカチを取り去り、ルカは目を細めた。
「この傷は?出来たばかりのようだが」
「……うっかり切れただけだけど」
「そう?私には刃物で切った傷のように見えるけれど?」
「………………」
「今度はだんまりか。言葉巧みに私を遠ざけて、こそこそとなにをしようとしていたんだろうね」
「それは」
じわりじわりと真綿を絞める様に、ルカは問いを重ねて少年を追い詰める。最初は焦りを隠せずに劣勢に見えたトレイシーだったが、何かに思い至り、にやりと微笑むとルカの胸に指を突きつけた。
「そういえば調査員さん。私、昨日の崖の飛行の事をちゃんと黙っててあげたよね。あれって貸しだと思うんだけど」
「……そう来たか」
昨日の崖下でのやりとりを引き合いに出すトレイシーに、ルカは苦笑を浮かべる。ただ、ルカに丸め込まれた形だった筈の約束を、トレイシーが逆に利用してくるとは思わなかった。
「あれは崖下から脱出する為には仕方ないことで」
「そもそも勝手に崖から飛び降りたのはあんたでしょ。こっちはその前にあんたに怪我もさせられてるし、一つくらい譲るべきじゃない?」
ここぞとばかりに、ルカの以前のやらかしも引き合いに出して詰るトレイシー。
トレイシーの怪しい行動を抑えられたので今こそ踏み込める好機と判断したのに、どうしてもこの少年は自身の事をルカに詮索されたくないらしい。
勝ちを確信してにんまりと笑い顔で手を差し出すトレイシーに、ルカはふっと息を吐き出すと瓶を返してやる。ここは諦めるしかないだろう。
トレイシーが取り戻したドーフリンを指に振りかけると、みるみるうちに切り傷が塞がっていく。その様を近くで眺めていたルカは「おお」と感嘆の声を上げる。
「これはこれは。まるで神話に出てくる酒の様じゃないか」
「飲んだ方が効果はあるんだけど、まだ作業があるから酔っ払うわけにはいかないし」
「子供には飲ませられないと君のお姉さんが言っていた筈だろう?流石にそれは私も止めるよ」
トレイシーはむっとしてルカを睨み上げたが、男の顔には一切の揶揄いの意思は無かった。真面目にこちらを心配しているのが見てとれるルカに、トレイシーは複雑な思いでぐっと眉間に皺を寄せる。
「……誤解がある様だから、言っておくけども。私は成人してるからね」
「そんな見え透いた嘘をついて。背伸びをするものではないよ」
「嘘じゃないんだっての!背伸びじゃないっての!私は!二十一歳なの!」
「またまた」
「信じなさいよ!デミにもマルガレータにも何回も何回も言ってるのに全然聞いてくれないし!もおおお!」
少年が見栄を張っているだけと考えていたルカだったが、トレイシーの苛立たしげな様子は演技では無さそうだ。
ルカはぱちぱちと目を瞬かせ、目の前で地団駄を踏むトレイシーに首を傾げた。
「……………………………………まさか、本当なのか?」
「そう言ってるでしょ!」
「そんな。こんな、畳んで鞄に仕舞えそうなサイズで、片手で投げられそうな軽さで、バケツ一つしか持てない貧弱さで、テノールどころかソプラノも歌えそうな声なのに?精々十四、五歳にしか見えないんだが」
「当人を前にして、よくもそれだけ言えるもんだよ。あんた、吸血鬼になった時に人の心とデリカシーも置いて来たんじゃないの。人が傷つくとか考えないわけ」
「その、吸血鬼になった時の私が正に二十一歳だったんだよなぁ。つまりこの姿がそうなんだが。私が十四の頃だって君より発育は良かった筈だよ」
ルカは自身の顎の下あたりに手のひらを水平に当て、もう片方の手を胸の下に当てる。それが過去の自分と今のトレイシーの身長だと言いたいようだ。
それをトレイシーは鼻で笑い、ルカに濡れた布巾を放り投げた。
「人間の記憶に難があったあんたの言い分なんて、欠片も信用に値しないでしょ」
「……君は記憶力がいいな」
「そんなことより、暇ならそこの梯子登って上の列の鐘拭いてよ」
「私は暇な訳ではないんだが」
ブツブツと文句を言いながらも、ルカは上着と手袋を脱いで、言われた通りに梯子を登っていく。手伝ってくれるつもりはある様だ。
ルカは渋々といった態度ながら、大人しく鐘を拭いている。その様を窺い見ていたトレイシーは、ほうと小さく安堵のため息をついた。
ルカがどこからトレイシーの動向を見ていたのか警戒していたが、あの様子だと水を聖水もどきに変えていたところは見られてはいない様だ。
前々から妙に勘が鋭い男だとは思っていたけれど、より一層油断しないように気をつけねば。トレイシーは濡れた布巾を絞りながら、密かにそう決意する。トレイシーは自身も脚立に登り、低い位置にある鐘を拭き始めた。
「この鐘、そんなに汚れている様には見えないのだけど?」
「まあ、いつも巻き上げ作業のついでに拭いてるからね」
「この数の鐘をかい?それは時間がかかりそうだ」
トレイシーが見上げると、ルカは梯子に腰掛けて、早々に拭き掃除の自主休憩をしている。自由な吸血鬼にトレイシーは呆れてしまう。
――十分も経っていないのに、飽きるのが早すぎる。
「手伝わせといてなんだけど、あんた本当は何しに来たの?見学っていうのも嘘くさい」
「見学しに来たのは嘘ではないよ。でも本当に勘がいいな。君に用があってね」
「私に?今日は何も付き合えないよ。忙しいから」
「日中は、という話だった筈だよな」
「そうだけど……」
「それなら君の夜の時間を私にくれないか」
「は……?」
ルカは訝しげにしているトレイシーににこりと微笑みかける。
「私と二人でデートをしよう」
「……なんだ、これは」
時計のメンテナンスをすると言っていたので、トレイシーが作業をしているものとばかり思っていたのだが、ルカの目の前にいるのは朝日を照り返す、銀色の機械仕掛けの人形だ。
人形は大時計に取り付けられた大きなハンドルを両手で掴み、きりきりと音を立てながら回している。相当重いハンドルの様で、ゆっくりゆっくりと慎重に作業をしている。
もう一つ同じような音が頭上でするのでルカが目線をあげる。そうすると時計の文字盤の裏に空間があるのが見える。その空間にもう一体の機械人形がおり、やはりハンドルを両手で掴んでくるくると回している。
ペースを崩さずにハンドルを回している姿は、時計のからくりの一部にも見える。しかし、それにしては機械人形達は観賞に適した装飾、というわけでもなさそうだ。
ルカはこの広場は何度も通っているし、組み鐘が音楽を奏でている所も見ているが、一度もこの人形がいるところを見た事はない。一体、この人形の正体はなんなのだろう。
興味を惹かれ、ハンドルを回し続けている人形にルカが近づくと、肩のディケンズ先生から電子音が鳴る。肩に目を向けると、金のタツノオトシゴの目が光っている。なんらかの無線電波を傍受したらしい。
ルカは眉を顰めて辺りを見回す。この広場にはラジオも、通信機器の様なものもない。一体なんの無線シグナルを受けたのだろうか。
周囲に注意を払っていたルカの耳に、「ピーガガガ」という、無線の通信音を思わせるノイズが入ってくる。発生源は目の前の機械人形だ。
何故、人形からそんな音がするのだろう。そう考えながら首を捻って数秒、ルカはあることに思い至り目を見開いた。
――まさか、この人形は無線電波で動いているのか?遠隔操作で?このサイズのものが?
信じられない思いでルカが人形をよく見ようと足を踏み出すと、「ちょっと!」と鋭い声が飛んできた。その声に、ルカは伸ばしかけた手を引っ込める。声のした方向に目を向ければ、トレイシーが怒った顔でこちらを睨んでいる。
「勝手に私のアシスタントに触らないでよ!」
「君の?この人形がかい?」
「そうだよ。壊したら許さないから」
「分かった分かった。君の許可なく触れないよ」
トレイシーはぷりぷりと怒りながら、水の入ったバケツを一つ、えっちらおっちらと運んでいる。時計の側にはもう一つ、水の満ちたバケツがあるのでこちらは先に汲んで来たものなのだろう。
――この子、あまりに非力過ぎないか?
ルカは呆れた思いでトレイシーに目を向ける。細くて頼りない体つきをしているとは思っていたが、水の入ったバケツを一つしか持てないとは。女性より体力が無いのではないだろうか。よくも人の事をひょろいなどと言えたものだなとルカは眉を顰める。
トレイシーは運んでいたバケツを地面に置き、じろりとルカを睨みつける。
「で、なんであんたがここにいるの。調査はどうしたのさ」
「今日は夜に予定があるから、日中は時間があるんだ。だから見学に来たんだ。大時計のメンテナンスに興味があって」
「……別に面白い事なんかないと思うけど」
「とんでもない、既に気になる事しかないじゃないか!」
トレイシーは迷惑そうな目をルカに向けているが、ルカはそんなトレイシーの態度に構わず、楽しげに機械人形を指差す。
「君のアシスタントは何をしているんだい?上にももう一人いる様だが」
「それは、時計台の内部にある重りを巻き上げているんだよ。それが時計の動力なんだ。ゼンマイ時計は薄い金属を巻き上げて、それが解ける力を利用するわけだけど、これは重りが下がる力を利用して時計を動かしているの」
「なるほど。しかし、二つもあるのは何故?」
「上の子が巻き上げているのは時計の針の動力。この子が巻いているのは音楽を鳴らす組み鐘の動力だよ。時計が止まらない様に四日に一度は巻き上げる必要があるんだ」
「だから、こちらの方が重そうなのか」
「そう。百キロ以上あるからね。本来なら二人がかりの作業になるし、二時間以上も続けなきゃいけないんだから」
ルカは胡散臭い吸血鬼だが、自分の仕事に興味を持った相手にいろいろと尋ねられるのは悪い気分はしない。
トレイシーはルカの質問に答えながら、組み鐘を拭く為の長めの梯子を時計台に立て掛けた。低い位置の鐘用に脚立も設置し、バケツを使いやすい位置に移動させる。
「ところで、この機械人形は君が作ったのか?」
「そうだよ。上の子は試作機だからあまり複雑な事は出来ないんだけど、こっちの子はアシスタントを務めて貰ってる」
「その、もしやと思うんだが、彼らは遠隔操作が出来るのか?」
「……どうしてそんな事を聞くの」
「さっき、無線電波を発していたのをディケンズ先生が感知したもので。で、どうなんだい?」
ルカが重ねて尋ねると、トレイシーは苦虫を噛み潰したような顔でルカの肩にいる金属のタツノオトシゴを見やる。
「その先生、なんでもありだね。周りには簡単な動作を繰り返すだけの大きなからくり人形と思わせてたのに。そうだよ、これは無線電波を受信する人形なの。私の持つ送信機で動かせる。単純な動作は一度入力すれば電池切れまで繰り返してくれるから、操作不要なわけ」
「それは素晴らしい技術じゃないか。君、時計技師ではなく機械技師を名乗っていいんじゃないか?」
「私は時計職人が本業だから。こっちは趣味。あと鍵師もやってるけどあれは趣味寄りの成り行き」
「それは、実に多才だな」
トレイシーはバケツの水を数秒見つめ、時計を見上げているルカを一瞥する。
「……調査員さん。そんなに興味あるなら時計の中見て来たら?」
「!いいのかい?」
意外な提案をトレイシーがするので、ルカは目を瞬かせる。追い払われる事はあっても、見学を許可されるとは思っていなかった。
トレイシーはバケツの水に布巾を沈めながら、「だって」と言葉を続ける。
「ただそこにいられるのも鬱陶しいし。あ、巻き上げ作業の邪魔はしたら承知しないから」
「分かっているとも」
いそいそと時計台の階段を登っていくルカは、普段は見ることのできない時計の内部に興味津々の様子だ。
調査員の白い姿が視界から消えるのを待って、トレイシーは工具ホルダーから小型のナイフを取り出した。刃先を左の人差し指に当てて、力を込める。ぷつりと皮膚が切れ、血が溢れ出す。その血の量にトレイシーは顔を顰めた。
――少し深く切りすぎたかも。
悔いても、もう切ってしまったものは仕方ない。トレイシーは溢れ出る血を急いでバケツの水に垂らす。数滴の血が水に混じると金色の光を一瞬だけ放つ。もう片方のバケツにも血を垂らすと同じ反応が起こる。
金色は聖力の色だ。バケツに入った「インスタント聖水」を見下ろし、トレイシーは指にハンカチを巻きつけ止血する。
トレイシーが無機物を聖物化出来るのは事実だが、これほど大きな時計は数年掛けなくては聖の力を付与できない。そこでトレイシーは正体がばれてしまう危険度が上がるが、手っ取り早い方法を使うことにしたのだ。
元々トレイシーの血は魔力を溜めてしまう性質がある。それが十月城の聖泉を吸収した際に、聖の気も僅かにだが帯びる様になった。水は聖の気と相性がとてもいいので、トレイシーの血を少し混ぜれば簡単な聖水もどきを作る事が出来る。
時計の巻き上げ作業の際に、トレイシーは音楽を鳴らすカリヨン――組鐘を拭くという名目でこの聖水もどきで聖属性を定着させる。そうすれば鐘の音による魔除けの力が強まる。しかし、簡易な方法なので定期的に続けなくては効果は薄まってしまう。
「っ……」
ナイフで切ったばかりの時はなんともなかったのに、時間が経つと指先にじりじりとした痛みが湧き上がる。ハンカチにも血が滲んでしまっている。これは早々に傷を治す必要がある。
トレイシーはドーフリンの入ったガラス瓶を取り出す。これはデミに内緒で少しだけ貰ってきたものだ。
蓋を開けようと試みるが、指の痛みが強まって来たせいでうまく力が入らない。四苦八苦しながらトレイシーがどうにかガラス瓶の蓋を開こうと奮闘していると、上から伸びて来た腕に瓶を奪われる。
慌ててトレイシーが振り返ると、いつの間に戻って来たのか、ルカがそこに立っていた。
「!」
「おかしいと思った。君が意味もなく私に親切な提案をするなんて」
ルカはガラス瓶の蓋を開けると、鼻を近づけて中身を確認する。それがドーフリンであることに気付いたルカは、険しい顔になる。
トレイシーは体の影になるように傷のある左手を隠し、ルカを睨み上げる。
「それ、返してよ」
「こんなところで、こそこそと隠れて美酒の味見でもしようとしていたのかな?」
「だったらなに。あんたに咎められる覚えはないし」
「ふうん?それなら質問を変えようか」
「あっ」
トレイシーの左手首を、ルカが無理矢理掴み上げる。眼前の指に巻かれた血の滲むハンカチを取り去り、ルカは目を細めた。
「この傷は?出来たばかりのようだが」
「……うっかり切れただけだけど」
「そう?私には刃物で切った傷のように見えるけれど?」
「………………」
「今度はだんまりか。言葉巧みに私を遠ざけて、こそこそとなにをしようとしていたんだろうね」
「それは」
じわりじわりと真綿を絞める様に、ルカは問いを重ねて少年を追い詰める。最初は焦りを隠せずに劣勢に見えたトレイシーだったが、何かに思い至り、にやりと微笑むとルカの胸に指を突きつけた。
「そういえば調査員さん。私、昨日の崖の飛行の事をちゃんと黙っててあげたよね。あれって貸しだと思うんだけど」
「……そう来たか」
昨日の崖下でのやりとりを引き合いに出すトレイシーに、ルカは苦笑を浮かべる。ただ、ルカに丸め込まれた形だった筈の約束を、トレイシーが逆に利用してくるとは思わなかった。
「あれは崖下から脱出する為には仕方ないことで」
「そもそも勝手に崖から飛び降りたのはあんたでしょ。こっちはその前にあんたに怪我もさせられてるし、一つくらい譲るべきじゃない?」
ここぞとばかりに、ルカの以前のやらかしも引き合いに出して詰るトレイシー。
トレイシーの怪しい行動を抑えられたので今こそ踏み込める好機と判断したのに、どうしてもこの少年は自身の事をルカに詮索されたくないらしい。
勝ちを確信してにんまりと笑い顔で手を差し出すトレイシーに、ルカはふっと息を吐き出すと瓶を返してやる。ここは諦めるしかないだろう。
トレイシーが取り戻したドーフリンを指に振りかけると、みるみるうちに切り傷が塞がっていく。その様を近くで眺めていたルカは「おお」と感嘆の声を上げる。
「これはこれは。まるで神話に出てくる酒の様じゃないか」
「飲んだ方が効果はあるんだけど、まだ作業があるから酔っ払うわけにはいかないし」
「子供には飲ませられないと君のお姉さんが言っていた筈だろう?流石にそれは私も止めるよ」
トレイシーはむっとしてルカを睨み上げたが、男の顔には一切の揶揄いの意思は無かった。真面目にこちらを心配しているのが見てとれるルカに、トレイシーは複雑な思いでぐっと眉間に皺を寄せる。
「……誤解がある様だから、言っておくけども。私は成人してるからね」
「そんな見え透いた嘘をついて。背伸びをするものではないよ」
「嘘じゃないんだっての!背伸びじゃないっての!私は!二十一歳なの!」
「またまた」
「信じなさいよ!デミにもマルガレータにも何回も何回も言ってるのに全然聞いてくれないし!もおおお!」
少年が見栄を張っているだけと考えていたルカだったが、トレイシーの苛立たしげな様子は演技では無さそうだ。
ルカはぱちぱちと目を瞬かせ、目の前で地団駄を踏むトレイシーに首を傾げた。
「……………………………………まさか、本当なのか?」
「そう言ってるでしょ!」
「そんな。こんな、畳んで鞄に仕舞えそうなサイズで、片手で投げられそうな軽さで、バケツ一つしか持てない貧弱さで、テノールどころかソプラノも歌えそうな声なのに?精々十四、五歳にしか見えないんだが」
「当人を前にして、よくもそれだけ言えるもんだよ。あんた、吸血鬼になった時に人の心とデリカシーも置いて来たんじゃないの。人が傷つくとか考えないわけ」
「その、吸血鬼になった時の私が正に二十一歳だったんだよなぁ。つまりこの姿がそうなんだが。私が十四の頃だって君より発育は良かった筈だよ」
ルカは自身の顎の下あたりに手のひらを水平に当て、もう片方の手を胸の下に当てる。それが過去の自分と今のトレイシーの身長だと言いたいようだ。
それをトレイシーは鼻で笑い、ルカに濡れた布巾を放り投げた。
「人間の記憶に難があったあんたの言い分なんて、欠片も信用に値しないでしょ」
「……君は記憶力がいいな」
「そんなことより、暇ならそこの梯子登って上の列の鐘拭いてよ」
「私は暇な訳ではないんだが」
ブツブツと文句を言いながらも、ルカは上着と手袋を脱いで、言われた通りに梯子を登っていく。手伝ってくれるつもりはある様だ。
ルカは渋々といった態度ながら、大人しく鐘を拭いている。その様を窺い見ていたトレイシーは、ほうと小さく安堵のため息をついた。
ルカがどこからトレイシーの動向を見ていたのか警戒していたが、あの様子だと水を聖水もどきに変えていたところは見られてはいない様だ。
前々から妙に勘が鋭い男だとは思っていたけれど、より一層油断しないように気をつけねば。トレイシーは濡れた布巾を絞りながら、密かにそう決意する。トレイシーは自身も脚立に登り、低い位置にある鐘を拭き始めた。
「この鐘、そんなに汚れている様には見えないのだけど?」
「まあ、いつも巻き上げ作業のついでに拭いてるからね」
「この数の鐘をかい?それは時間がかかりそうだ」
トレイシーが見上げると、ルカは梯子に腰掛けて、早々に拭き掃除の自主休憩をしている。自由な吸血鬼にトレイシーは呆れてしまう。
――十分も経っていないのに、飽きるのが早すぎる。
「手伝わせといてなんだけど、あんた本当は何しに来たの?見学っていうのも嘘くさい」
「見学しに来たのは嘘ではないよ。でも本当に勘がいいな。君に用があってね」
「私に?今日は何も付き合えないよ。忙しいから」
「日中は、という話だった筈だよな」
「そうだけど……」
「それなら君の夜の時間を私にくれないか」
「は……?」
ルカは訝しげにしているトレイシーににこりと微笑みかける。
「私と二人でデートをしよう」
