2話
そして、変化があったのは六つ目の事件現場だった。
五人目の犠牲者は森の中で見つかっている。ルカがそれまでと同じように遺体の見つかった場所に立ち、ダウジングを構える。すると正面を向いていたロッドが震え出し、ゆらゆらと左右に揺れ始める。
飽き飽きとした思いでルカの作業を見ていたトレイシーは、変化が起きたことに驚いて目を見開く。
しかし、漸く変化が起きたというのにルカは喜ぶでもなく、それどころか眉間に皺を寄せて、揺れるロッドを見下ろしている。
「………………」
「調査員さん?どうかした?」
「いや、なんでもない。向こうに行ってみよう」
ロッドが指し示す方向は森の奥、それに導かれるままルカが歩を進める。トレイシーも慎重にその後ろを追いかけた。しばらく無言の時間が続く。
ルカは揺れるロッドの方向を見定めながら、トレイシーを振り返る。
「被害にあった女性の事は知っているかな?」
「ユリアって名前の人だよ。カフェの店員で美人で評判だったって聞いてる」
「ふむ、ユリア、カフェ店員か」
左手を口元に近づけ、言葉を復唱しているルカをトレイシーは怪訝そうな顔で見やる。さっきから被害者の事を尋ねるたびに、ルカが同じ事を繰り返しているのが気になったのだ。
「それ、さっきから何やってるの?」
「ん?ああ、一応音声記録を残しているんだ。事故で電流を発生させられる様になった代償に、記憶力と集中力に難が残ってしまったんだ。転化した時に人の身の不具合は消えたんだが、癖の様なもので」
トレイシーに開いて見せてくれたルカの左手には平たい形のマイクと、そこから伸びるコードがあった。コードはルカの左肩に乗せられた金属のタツノオトシゴに繋がっている。ラッパの様なタツノオトシゴの口から『ユリア、カフェ店員か』と音声が流れる。
肩の上でひょこひょこと動いているタツノオトシゴはトレイシーの興味を引いた様で、きらきらと目が輝いている。
「これはなに?」
「優秀な相棒の様なものだ。私は敬意を込めてディケンズ先生と呼んでいる」
「ふうん、ディケンズ先生ね」
金色のディケンズ先生にトレイシーが手を伸ばしたところで、カタカタとダウジングロッドが震え始める。
ルカは表情を引き締めて辺りを慎重に見回す。ロッドの向きをゆっくりと変えていくと、方位磁石のようにある一方をピタリと指し示す。
昼間でも薄暗い森の中をロッドの導き通りに進んでいくと、視界が開ける。その先は崖となっており、道が途絶えていた。
ロッドはその崖下を指し示しており、ルカがそちらに体を向けるとダウジングロッドは意思があるように外側に先端が開いていく。それは目的のものへの「終点」である事を示している。
「…………ここの様だな」
「は?ここって、この崖の下に何かあるの?まさか犯人の逃走経路とか言い出すつもり?」
「それなんだが、私も犯人に繋がる手掛かりが見つかればと思っていたんだが……どうにも『本命』の方を引いてしまったかもしれない」
「本命?」
「取り敢えず、下に降りてみるしかない。話はそれからかな」
「降りるって……」
気軽な口調で、まるで散歩に誘っているかの様なルカに、トレイシーは近くの木に手をつき、恐る恐る崖下を覗き込む。
崖の高さは十メートルはある様に見えた。伸び放題の草で地面が隠れているので、実際よりも緩やかな斜面に見えないこともない。それでもとてもではないが、トレイシーが降りられるようなものではない。
どこかに崖下に降っていける回り道でもあればいいが、この森の中で下手に動いて迷子になる訳にもいかない。森に詳しい人間に案内を頼む手もあるが、今から手配するにしても日が暮れてしまう方がきっと早い。
――これは日を改めるしかなさそうかも。
天辺を通り過ぎた雲越しの太陽を、トレイシーが確認しながらそう考えていると、ルカがトレイシーの肩に手を置いた。
「ん?」
「………………」
ぱちぱちと瞬きをしながらトレイシーが吸血鬼を見上げると、男はにんまりと酷く機嫌のいい笑顔を向ける。そのルカの顔に、トレイシーはぞわりと嫌な予感が頸を駆け上がっていくのを感じた。
トレイシーの顔が一瞬で青褪める。期待通りの反応をする少年に、ルカは逃げる隙を与えず、腕をか細い体に巻き付けると肩の上に担ぎ上げた。そうして崖に向かい、地を蹴る。
「ちょ、嘘嘘!やめてやめてえええっ!うきゃあああああああああああああああああああああ‼︎」
「あははははは!」
甲高い、少女の様な叫び声を上げて体にしがみつくトレイシーに、ルカは楽しくなって笑い声を上げる。
トレイシーは吸血鬼のルカにとって、必死にきゃむきゃむと吠える子犬に見えている。到底敵う訳がないのに、精一杯の威嚇をする姿は音の出るおもちゃの様だ。非常に弱くて可愛らしい子供なので、ついつい遊びたくなってしまう。
崖下に降り立ち、肩から降ろしてやるとトレイシーはへなへなと地面に座り込んだ。立ち直るのに暫く時間が掛かりそうだ。
ぜえぜえと荒い呼吸をしているトレイシーをほっぽり出し、ルカはダウジングロッドに電気を流し磁化させる。再びロッドを構えると長く伸びた草を踏み分け、辺りを探索する。
カタカタと震える方向にロッドを向ければ左右に大きく揺れ動く。
「うーん?反応が強すぎるかな」
「ちょ、ちょっと……!飛び降りるなら飛び降りるって先に言ってよ!」
「言ったところで了承するとは思えなかったんだ」
「それはそうだけど!覚悟決める時間くらい寄越しなさいよ!ほら、まだ足震えてるよ!」
トレイシーはガクガクと震える膝を指し示した。この反応を見るに、この子は高い所は苦手だったのかもしれない。
ルカはふいと顔をロッドの先端に向けると、素気なく「慣れてくれ」とだけ告げる。
「これしきの事で騒いでいたら、心臓がいくつあっても足りないぞ、助手くん」
「あんたは心臓に毛が生えてそうだもんね……ん?」
足の裏に違和感がある事に気付き、トレイシーはぼうぼうに生えている草に目を凝らす。草の間できらりと何かが光った様に見え、その場に屈み込む。
トレイシーが見つけたのは、瑪瑙の嵌ったペンダントだった。いつから放置されていたのか、ひどく土埃で汚れてしまっている。トレイシーはペンダントをハンカチを使って慎重に拾い上げると、ダウジングを続けているルカに声をかける。
「調査員さん。もしかしてさっきから探しているのってこのペンダント?」
「!見せてくれ」
トレイシーがペンダントを渡すと、ルカが指先で汚れを擦り落とす。宝石の嵌った銀の土台の裏に、文字が刻まれているのが辛うじて見える。「愛する我が子Fri」の後が黒ずんでしまって読むことができない。
ルカは口を引き結び、眉を顰めた。この森で亡くなった女性の名のスペルは「Julia」だ。何か手掛かりが見つかったのかと思ったが、ペンダントの持ち主のイニシャルはFなので、別人である様だ。
犯人の名前だろうかと考えを巡らせてるルカの隣で、トレイシーが手元を覗き込む。
「何か分かった?」
「このペンダントの持ち主がユリアではない事だけは分かったよ。Fで始まる名前で、デザインから女性のものと思うが」
「…………Fって言った?ちょっと見せて」
トレイシーはルカの手首をひったくる様に引き寄せる。ペンダントの文字列を確認するとトレイシーの顔色が変わる。
「これ、もしかするとフリーデかも」
「誰だ?知り合いかい?」
ルカは首を傾げてそう尋ねる。フリーデ。スペルは「Friede」だ。
トレイシーがポケットから手帳を取り出す。独自に事件を調べていたと言うのは本当のようで、ルカが上から覗き込めば、紙面にはびっしりと文字が書き込まれていた。
「三年前に行方不明になってる女性だよ。一人旅の途中でドラクルには船を利用する為に立ち寄ったそうなんだけど、泊まってたホテルをチェックアウトしたのを最後に、予約していた旅客船に姿を現さなかったって」
「なるほど。しかし、そんな女性のアクセサリーがこんなところに落ちているのは、おかしいな?」
ペンダントのチェーンを手に巻き付け、ルカはダウジングロッドを握る。先ほどまではゆらゆらと安定しなかったロッドが明確に動き出し、一点を指し示す。
先ほどまで、ルカは漠然とした事件の手掛かりを求めていたが、今は明確に探すものが決まっているのでロッドの動きにも迷いはない。
ロッドの導く場へと迎えば、伸び放題の草の合間に自然ではあり得ない色がある。草を掻き分ければそれは青い、服の成れの果てだった。三年の月日で色も褪めた女性用の外出着と、白骨化した遺体が無惨に転がっている。
近づいてこようとするトレイシーをルカが首を振って制す。
こちら側が調査に巻き込んだとはいえ、まさか死体そのものが出てくることは想定していなかった。生々しい現場を幼い少年に見せるわけにはいかない。
「そこにいてくれ。見て気分のいいものではない」
「わ、分かった」
トレイシーも死体を見たくはなかった様で、青い顔で大人しくその場に佇んでいる。それを目視してから、ルカは白骨の側に屈み込む。
警察には後程知らせるとして、確認できるものはしておきたい。ダウジングに引っかかったという事は、単なる事故であるはずはない。黒い手袋を嵌め直すと、ルカは死体や周囲の状況を調べ始める。
骨は既に風化が進み、原型を留めてはいないが死体はうつ伏せの状態だった様に見える。青い服が判断が難しかったのは服が色褪せていたからだけではなく、見える範囲の布地が黒く変色しているせいだった。
ルカはベルトに付けていた小瓶の液体を一滴、その黒い汚れに垂らした。液体が触れた黒い汚れが、赤い光を一瞬だけ放った。その反応にルカは眉間に皺を寄せる。
ルカが垂らしたのは血に反応する試薬だ。古いものなので一瞬だったが、それでも血である事は証明された。背中から血を流していた事は間違いなさそうだ。
崖の上を見上げ、足元の女性であろう死体を見やり、ルカは顎を摩る。
――崖から落ちた事が死に繋がったのだろうか。しかし背中からの流血の跡は、崖から落ちる前に負った傷では無いだろうか。
死体の服はボロボロではあるが、女性の外出ドレスである事は見てとれる。黒い汚れは背中から縦にスカートの部位にも伸びているので、恐らくは流血後に暫くこの女性は直立状態でいたのでは無いかとルカは予測する。落ちている最中に負った傷からの流血ならば、こうはならない筈だ。
何か身元が分かるものは無いかとルカが死体を検める。辛うじて形の残っていたポケットから小さな鍵と、服の残骸の中に錆びた短剣があった。今分かる事はこれだけの様だ。
ルカは錆びた短剣を眼前に掲げ、眉間の皺を更に深くして凝視する。
「……うん?」
短剣の刃の部分は十五センチ程で赤く錆びている。金色の柄は汚れてはいるものの、錆びてはいない。金製なのかもしれない。刃の部分と柄の部分が逆側に反っており、Sの字のカーブを緩くさせたような形になっている。
――どこかで見たような気がするな?
「調査員さん!」
「!」
トレイシーの呼びかけに、記憶を辿っていたルカは現実に引き戻された。鍵と短剣を元の位置に戻し、立ち上がる。
「どうしたんだ?」
「これ見て、これ!」
ルカがトレイシーの呼ばわる方へ向かえば、少年は布製の白いトランクの脇に屈み込んでいた。
それは少し前に流行った軽量を重視したトランクで、水や汚れを弾く防滴の魔法が掛かっているタイプのものだ。魔法の効果はまだ持続しているのか、そのトランクは多少草臥れて入るもの、まだまだ使用出来そうに見えた。
ルカが歩み寄れば、トレイシーはカバンに付けられていた楕円形のネームプレートをひっくり返して見せる。そこには「Friede」の文字が刻まれていた。
「白いのがちょっと見えたから、確認しに来たらこれだったんだよ」
「これはペンダントもフリーデのもので間違いないだろう。あのご遺体もフリーデという事だろうか」
「ご遺体って、やっぱり同じ犯人に?」
トレイシーが焦った様に問うが、ルカは首を横に振った。背中の流血と落ちていた凶器から、何者かに襲われた事は間違いないが、今分かるのはそれだけだ。
「他の犠牲者と違って血が抜かれた形跡はないんだ。それに、彼女の身元が証明できるようなものも見当たらないもので」
「そう。困ったな……残念ながらこっちのトランクも鍵がかかってて。私なら開けることはできるけど、警察に知らせる前だからやめた方がいいでしょう?」
「鍵……」
ルカはぽつりと呟くと、一度死体の元に取って返し、死体の服のポケットから小さな鍵を拝借する。それを白いトランクの鍵穴に差し込み捻ると、かちゃりと鍵の開く音がした。
「開いた……!」
「どうやら、彼女がフリーデで間違いないようだ」
ルカは少し迷ったが、トランクの鍵をもう一度かけて中身を開くことは諦めた。トランクの防滴魔法がどこまで保つか分からない。下手に触ってしまえば証拠を損失させてしまう可能性がある。そこは警察に任せよう。鍵も死体のポケットに戻しておく。
「ねえ」
「なにかな」
ルカが黒い手袋を外しながら振り返ると、ちらちらと死体のある方向を気にしているトレイシーが躊躇いながらも問いかける。
「フリーデは、その……事故だったの、そうじゃなかったの?」
「ああ」
トレイシーは連続殺人事件との繋がりを気にしているのだ。ルカは白い手袋を嵌め直し、首をゆるりと傾げた。
「それなんだが、死因は残念ながら分からない。ただ直接の死因が崖から落ちたか落とされたかだとしても、何者かに襲われた事は確実な様だ。ただそれが」
「同じ犯人かは分からない」
「そうなる訳だ」
言葉を引き継ぐトレイシーに、ルカは頷いてみせる。
行方不明と思われる女性たちは全員が身寄りがいない。そんな彼女らがドラクルから旅立つ日に消えてしまっているので誰も気付かない。探す人もいないのだ。
フリーデはその中で唯一行方が判明した人物だ。しかし、連続殺人事件との繋がりは見えず、それどころか違う殺人の被害者である可能性が出て来てしまった。
トレイシーは帽子を脱いで、遠い目で曇り空を見上げる。
「はー……折角一人手掛かりが見つかったと思ったのに……私の容疑はまだ晴れそうにないなあ」
「まあ、そう悲観する事はないさ。私の実力は少しは証明されただろう?」
「どうだか。ダウジングだっけ?ここ見つけたのも偶然じゃないとは言い切れないじゃん」
「おや、用心深いな」
ルカは困り顔で腕を組んでいる。トレイシーの言い分が否定が出来ない結果だったのは当人も分かっているのだ。とはいえトレイシーも本当にこれが偶然だと思っている訳ではない。
「あんたのお陰で彼女は見つけられたから、それには感謝してる。すぐとはいかないけど、それでも弔ってあげることは出来るだろうし。遅くなってしまったけれど、魂を聖杯の雫に還してあげられる」
「……………………………………」
穏やかな顔で微笑むトレイシーに、ルカはぽかんと口を開いて呆けた顔を向けてしまう。
今までルカは顰めっ面か無表情か、怯えた顔のトレイシーしか見ていなかったのだ。初めて見る柔らかな表情に、何故あれほどまで看板娘達が少年の顔の傷に拘っていたのかを知る。その顔は宗教画に描かれる様な聖母や天使達を彷彿とさせる。
「…………なに。その間抜けな顔は」
「いや、その。君に感謝されると思わなくて」
「どういう意味」
ぎろりとこちらを睨むトレイシーの顔からは宗教画の面影は消え失せる。勿体無いなとルカは思いながら、こほんと咳払いをする。
「さて、こうなってしまっては残りの調査は一旦お預けで、街に戻らなくては。早々にイライに報告が必要だろうし、警察に彼女の事を知らせなくては」
「それはその通りなんだけどさあ。問題はどうやって戻るの、これ」
トレイシーは崖の上を指差し、そう尋ねる。
崖の高さは上から見た時も高いと思った。当然下から見ても、とてもでないが道具無しで登っていける傾斜と高さではない。崖上へ戻る道も、考えなしの吸血鬼のせいで分からない。
「あんた、これ登ること考えて飛び降りた?」
「うん。何も考えていなかったな」
あっけらかんと答えるルカに、今更ながらトレイシーは背中に冷たい汗が流れるのを感じてしまう。
――シュテルンの開店時間……いや、閉店時間にも間に合わないんじゃないの……?それどころかこれは遭難になるのでは?
嫌な想像が膨らんでいくのを振り払い、トレイシーはルカの上着の襟を掴むと力の限り揺さぶった。
「どうすんの、これ⁉︎なんで何も考えずに飛び降りちゃったわけ⁉︎あんた頭いいの、考えなしなのどっちなの⁉︎」
「それ、よく言われるな……」
「よく言われるなら反省しなさいよ!」
「すまない」
「もー!吸血鬼なら蝙蝠に変わるとか、瞬間移動とか、空飛ぶとかなんか出来ないわけ?」
「変身能力があるのは血族くらいだよ。私は人のふりをするのが限度だね」
「あああ……」
トレイシーはその場に膝をつくと、頭を抱えた。
このまま帰れなければどうなるか。大騒ぎをするレーゲル屋敷の人々が目に浮かぶ。当然、シュテルンの従業員も心配するだろう。
きっと探してくれるだろうが、物騒な街の外の危険な森の奥、それもこんな崖の下にいるなどと、気付いてくれる人がいるだろうか。
ぎりぎりと歯軋りしながらトレイシーは呻く。
「やっぱりあんな協力申請、断ればよかった……!」
「断らせないけど」
隣に屈んで、いけしゃあしゃあと答えるルカに、トレイシーはそれだけで刺し殺せそうな鋭い目を向ける。
「あんた封神じゃなくて、厄病神なんじゃないの⁉︎」
「お、そんな酷い事を言うのか?私は傷ついてしまったよ」
「そんな繊細さがあんたにある筈ない」
「口が悪い子だな。そんな可愛くない事ばかり言うと置いていってしまうぞ」
「は?」
――置いていく?
トレイシーはきょとんとした顔で首を傾げる。ルカはそれを見てくつくつと笑い、自身の膝の上で頬杖をついた。
「うん。子犬というのは少し違うな。ぴよぴよとよく鳴くし、小鳥かな?」
「そんな事はどうでもいい。それより上に戻る方法があるわけ?」
「ああ。手はあるにはある。ただ、君には口を噤んでもらう必要があるんだ」
「?出られるんならなんでもいいよ」
「…………言ったな?」
ゆっくりとした動作で立ち上がったルカが、トレイシーに覆い被さるようにそう告げる。なんだか、目の前の男が一回り大きくなった様に感じる。そんな訳はないのだが。
頸を撫でる様な不快感を気のせいと押しやり、トレイシーは勢いよく立ち上がった。
「それで、どうするの」
「血族の様な変身は出来ずとも、私も飛ぶことは出来る。能力を封じられているので短時間になるが、この崖を越えるくらいなら問題ない」
「ふうん?でも封じられてるって事は、本来ならこの昇段試験期間には使っちゃいけない能力って事になるよね」
「そう。その通りだ」
トレイシーが意地悪く問えば、ルカはむうと口を尖らせる。
なるほど、口を噤むとは自分が吸血鬼の能力で飛行した事を口外するなと言う意味か。そうトレイシーは納得する。その程度の事なら、念押しされる必要もない。
「それなら……」
「待ってくれ、まだ話は終わってないよ」
「もう、なに?」
早々に上に戻りたいトレイシーは、不満を隠そうともしない。膨れっ面のトレイシーに、ルカは人差し指を口の前で立てる。
「口を噤んで欲しいのは、今から崖の上に戻るまで全ての事になる。約束してくれるかい?」
「……頷かないならここに置いていくって?」
「まさか!そんな事をする筈がないじゃないか。ただ、その場合は誰かに見つけてもらうまで、私と君の二人きりでここで過ごす事になるだけさ」
「それは嫌。分かった、いいよ。黙ってればいいんでしょ」
トレイシーがあっさりと即答するので、ルカは静かに笑みを深くする。
――さっき、過去の決断を後悔していたのにな。
潔い事は悪くないが、この分だとトレイシーが後悔する事はこれからも増えていくだろうなとルカは予想する。
「それで、何する気?」
「飛ぶのに追加の魔力が必要なんだ。私がイライから供給されている魔力量は普通に過ごす分には問題ない。しかし飛行するとなると、足りなくなってしまうんだ」
「だから、その追加分を私から取るって事?昨日も言ったけど、私は溜め込むだけで魔力操作はからっきしだからね。魔術師に魔力器官がないって言われたし」
「ふむ、なるほど?」
ルカは仏頂面なトレイシーの顔を無遠慮に覗き込む。その距離の近さにトレイシーは眉は顰めたものの、口では何も言わなかった。
距離感のおかしい吸血鬼にも、半日付き合っていれば慣れてくる。いくら注意したところでルカには聞く気が無いので、トレイシーも諦めた。
だから、ルカが更に距離を縮めても何もしなかった。
――まさかそのまま、口同士を重ねられるとは思っていなかったのだが。
「‼︎」
トレイシーが驚いている間にルカは離れていったので一瞬だったが、それでもキスされた事は間違いない。
怒りや衝撃を受けるべきところだが、そんな感情よりもなによりも「なんで?」という疑問でトレイシーの頭の中は一杯になる。――私、幻術で男だって思われてるはずでは?
「うん、充分だな」
己が行動が原因で混乱しているトレイシーに構わず、ルカは自身の体を確認して満足そうに頷く。少し強引な手法を選んでしまったのでトレイシーから魔力を取り過ぎないようにと気をつけたのだが、この少年の魔力は随分と純度が高く、ルカとの相性もいい。
早々に上に戻ってしまおうと、ルカは固まっているトレイシーを荷物の様に肩に担ぎ上げると、地を蹴り飛び上がった。
物の数秒で崖の上に到達すると、ルカは肩の上で動かないトレイシーの様子を窺う。トレイシーは未だ呆然としたままだった。流石に心配になってきたルカは、トレイシーを地面に下ろして目の前で手を振ってやる。
「おーい?大丈夫かい?」
「……は!」
ルカの呼びかけに、漸くトレイシーは正気を取り戻す。ぱちぱちと眼を瞬かせて数秒、トレイシーは状況を把握するとルカから後退って距離を取り、木の裏に隠れてしまう。
「どこに行くんだ、助手くん」
「キ……」
「うん?」
「キスした……!男の血は興味ないとか言って、男の人が好きだったの……⁉︎」
「違うが?私の恋愛対象は昔も今も女性だよ。言ったじゃないか。魔力の供給が必要だと」
「それで、なんで私キスされたの!」
トレイシーが木の影から顔だけ出してそう叫ぶと、ルカは困った様に頬を掻いた。
魔力の譲渡は気力や身体にも影響するので、トレイシーの様子がおかしかったのはそのせいかとルカは思っていたのだが、どうも違ったらしい。
「うーん……すまない、その程度でショックを受けると思っていなくて」
「その程度って」
「だって、そうだろう?重ねて言うが、私は男を恋愛対象では見ていないよ。いくら君が可愛らしかろうが、私が好ましく思っていようが、同性だもの。男同士、魔力の供給の必要が無ければこんなは事しないよ」
「ま、魔力の供給ってそういう……?まさか、いつもそうやって……!」
さあ、と口を覆って青褪めていくトレイシーに、ルカは慌てて否定に入る。
「待て待て、君が今何を考えているのか想像出来るがやめてくれ。普通の人間は魔力回路を通じて、手のひらから魔力が外部に流れ出るんだ。君の場合はその回路が閉じているから、体液か体内に通じる口からしか魔力を取り出すことが出来ないんだ」
「それなら先に言ってよ!だったら血の方が」
「勘弁してくれ、君にもう一度傷をつけたとなれば私は今度こそ終わりだよ。封神どころか永久封印されてしまう」
「自分で傷つけたって言うよ?」
「吸血鬼が封神への昇格試験で人の血を摂取したとなれば、違う問題が生じるじゃないか」
「う……そ、それは確かに……」
そうだった。この調査員は吸血鬼なのに、血を与えてどうするんだ。トレイシーは自身が思っていた以上に混乱している事に気がついた。
ルカのあっけらかんとした態度に、何してくれているのかと怒りが湧いていたのだが、改めて事情を説明されれば仕方がない事だったのは認めざるを得ない。
少しトレイシーが冷静さを取り戻したのが見て取れたので、ルカは宥めるための言葉を選ぶ。
「一瞬の事だし、止むを得ない状況だったし、何より同性同士という事で犬に噛まれたと思って我慢してくれないだろうか。誤解しないで欲しいんだが、女性相手にこんな手法は取らないよ。ちゃんと他に手がないか考えたさ」
「うぐっ……」
トレイシーは咄嗟に口から出そうになった文句を飲み込んだ。私はその女性だが、と叫びたい。でも今教会関係者、特にこの半封神の吸血鬼にその事実を知られる訳にはいかない。
トレイシーはゆっくりと深呼吸をすると、冷静に冷静にと繰り返し心で唱える。
ルカは大して気にしていない様子なのだから、こちらもそうするのが普通なのかもしれない。犬に噛まれたと思えと言うなら、そう思うことにしよう。
崖から飛び降りたのはルカの判断だし、そのせいでキスされる羽目にあったのは許せないが、それで野晒しになっていた哀れな女性を見つけることが出来たのも事実だ。だから一度だけ、トレイシーは大目に見ることにする。
「今回の事は、約束しちゃったから黙っててあげるけど、次やったらイライに言いつける」
「ああ、それでいいよ。ありがとう」
「突然行動しないで先に説明しなさいよ、あと」
「それについては、君がどんな反応をするかなとわくわくしなかったといえば嘘にはなる」
「あんたね……!」
ふく、と笑いながらそう答えるルカにトレイシーは拳を握りしめる。
――こいつ、やっぱり性格も人も悪い。
気のせいかと思いたかったが、どうにもトレイシーはこの性格の悪い吸血鬼におもちゃとして気に入られてしまったようだ。大変迷惑な事なのだが。こうなると崖から飛び降りたのも態とだったんじゃないだろうかとトレイシーは疑ってしまう。
こういうタイプは相手が挑発に乗って騒ぐほどに喜ぶに違いない。だから無反応が一番効く筈だ。
トレイシーは気を取り直すと、話題を事件に関することに切り替える。
「さっき、フリーデは襲われたって言っていたよね?」
「ああ。彼女の背に刺された様な痕跡があったのと、凶器と思われる短剣が転がっていた。彼女は森の中で何者かに短剣で背中を刺され、逃げようとして落下したか、落とされたか……そこは分からない」
「うーん……確かに、連続殺人と関連があるか今のところ判断できないね、それ」
「ああ。だから一先ずこの件はプロの手に委ねよう」
「だったら街に戻るんでしょう。警察に行くなら私は別行動させてもらうけど」
「君の事情は分かっているよ。そちらは教会に任せよう。私達は調査だけ担当さ。イライへの報告は君にも付き合ってもらう必要があるが」
「それならいいけど。告げ口もしやすいし」
「お手柔らかに頼むよ」
肩を竦めているルカに、トレイシーは冷たい一瞥をくれてやる。
すっかり舐められているのでどこかでぎゃふんと言わせてやらねば、この吸血鬼。
森の出口に向かって歩き出したとレイシーの後ろで、「ああ」とルカが声を上げる。
「そうだ。君のプライドを傷つけるつもりはないけれど念の為」
「今度はなに」
振り返ったトレイシーに、ルカは指先で自身の唇に触れ、にこりと微笑んだ。
「初めてだったのならすまない」
――こいつ、やっぱり性格が悪い。
トレイシーは眉間に深い皺を刻み、舌打ちをしたくなるのをぐっと堪えた。
五人目の犠牲者は森の中で見つかっている。ルカがそれまでと同じように遺体の見つかった場所に立ち、ダウジングを構える。すると正面を向いていたロッドが震え出し、ゆらゆらと左右に揺れ始める。
飽き飽きとした思いでルカの作業を見ていたトレイシーは、変化が起きたことに驚いて目を見開く。
しかし、漸く変化が起きたというのにルカは喜ぶでもなく、それどころか眉間に皺を寄せて、揺れるロッドを見下ろしている。
「………………」
「調査員さん?どうかした?」
「いや、なんでもない。向こうに行ってみよう」
ロッドが指し示す方向は森の奥、それに導かれるままルカが歩を進める。トレイシーも慎重にその後ろを追いかけた。しばらく無言の時間が続く。
ルカは揺れるロッドの方向を見定めながら、トレイシーを振り返る。
「被害にあった女性の事は知っているかな?」
「ユリアって名前の人だよ。カフェの店員で美人で評判だったって聞いてる」
「ふむ、ユリア、カフェ店員か」
左手を口元に近づけ、言葉を復唱しているルカをトレイシーは怪訝そうな顔で見やる。さっきから被害者の事を尋ねるたびに、ルカが同じ事を繰り返しているのが気になったのだ。
「それ、さっきから何やってるの?」
「ん?ああ、一応音声記録を残しているんだ。事故で電流を発生させられる様になった代償に、記憶力と集中力に難が残ってしまったんだ。転化した時に人の身の不具合は消えたんだが、癖の様なもので」
トレイシーに開いて見せてくれたルカの左手には平たい形のマイクと、そこから伸びるコードがあった。コードはルカの左肩に乗せられた金属のタツノオトシゴに繋がっている。ラッパの様なタツノオトシゴの口から『ユリア、カフェ店員か』と音声が流れる。
肩の上でひょこひょこと動いているタツノオトシゴはトレイシーの興味を引いた様で、きらきらと目が輝いている。
「これはなに?」
「優秀な相棒の様なものだ。私は敬意を込めてディケンズ先生と呼んでいる」
「ふうん、ディケンズ先生ね」
金色のディケンズ先生にトレイシーが手を伸ばしたところで、カタカタとダウジングロッドが震え始める。
ルカは表情を引き締めて辺りを慎重に見回す。ロッドの向きをゆっくりと変えていくと、方位磁石のようにある一方をピタリと指し示す。
昼間でも薄暗い森の中をロッドの導き通りに進んでいくと、視界が開ける。その先は崖となっており、道が途絶えていた。
ロッドはその崖下を指し示しており、ルカがそちらに体を向けるとダウジングロッドは意思があるように外側に先端が開いていく。それは目的のものへの「終点」である事を示している。
「…………ここの様だな」
「は?ここって、この崖の下に何かあるの?まさか犯人の逃走経路とか言い出すつもり?」
「それなんだが、私も犯人に繋がる手掛かりが見つかればと思っていたんだが……どうにも『本命』の方を引いてしまったかもしれない」
「本命?」
「取り敢えず、下に降りてみるしかない。話はそれからかな」
「降りるって……」
気軽な口調で、まるで散歩に誘っているかの様なルカに、トレイシーは近くの木に手をつき、恐る恐る崖下を覗き込む。
崖の高さは十メートルはある様に見えた。伸び放題の草で地面が隠れているので、実際よりも緩やかな斜面に見えないこともない。それでもとてもではないが、トレイシーが降りられるようなものではない。
どこかに崖下に降っていける回り道でもあればいいが、この森の中で下手に動いて迷子になる訳にもいかない。森に詳しい人間に案内を頼む手もあるが、今から手配するにしても日が暮れてしまう方がきっと早い。
――これは日を改めるしかなさそうかも。
天辺を通り過ぎた雲越しの太陽を、トレイシーが確認しながらそう考えていると、ルカがトレイシーの肩に手を置いた。
「ん?」
「………………」
ぱちぱちと瞬きをしながらトレイシーが吸血鬼を見上げると、男はにんまりと酷く機嫌のいい笑顔を向ける。そのルカの顔に、トレイシーはぞわりと嫌な予感が頸を駆け上がっていくのを感じた。
トレイシーの顔が一瞬で青褪める。期待通りの反応をする少年に、ルカは逃げる隙を与えず、腕をか細い体に巻き付けると肩の上に担ぎ上げた。そうして崖に向かい、地を蹴る。
「ちょ、嘘嘘!やめてやめてえええっ!うきゃあああああああああああああああああああああ‼︎」
「あははははは!」
甲高い、少女の様な叫び声を上げて体にしがみつくトレイシーに、ルカは楽しくなって笑い声を上げる。
トレイシーは吸血鬼のルカにとって、必死にきゃむきゃむと吠える子犬に見えている。到底敵う訳がないのに、精一杯の威嚇をする姿は音の出るおもちゃの様だ。非常に弱くて可愛らしい子供なので、ついつい遊びたくなってしまう。
崖下に降り立ち、肩から降ろしてやるとトレイシーはへなへなと地面に座り込んだ。立ち直るのに暫く時間が掛かりそうだ。
ぜえぜえと荒い呼吸をしているトレイシーをほっぽり出し、ルカはダウジングロッドに電気を流し磁化させる。再びロッドを構えると長く伸びた草を踏み分け、辺りを探索する。
カタカタと震える方向にロッドを向ければ左右に大きく揺れ動く。
「うーん?反応が強すぎるかな」
「ちょ、ちょっと……!飛び降りるなら飛び降りるって先に言ってよ!」
「言ったところで了承するとは思えなかったんだ」
「それはそうだけど!覚悟決める時間くらい寄越しなさいよ!ほら、まだ足震えてるよ!」
トレイシーはガクガクと震える膝を指し示した。この反応を見るに、この子は高い所は苦手だったのかもしれない。
ルカはふいと顔をロッドの先端に向けると、素気なく「慣れてくれ」とだけ告げる。
「これしきの事で騒いでいたら、心臓がいくつあっても足りないぞ、助手くん」
「あんたは心臓に毛が生えてそうだもんね……ん?」
足の裏に違和感がある事に気付き、トレイシーはぼうぼうに生えている草に目を凝らす。草の間できらりと何かが光った様に見え、その場に屈み込む。
トレイシーが見つけたのは、瑪瑙の嵌ったペンダントだった。いつから放置されていたのか、ひどく土埃で汚れてしまっている。トレイシーはペンダントをハンカチを使って慎重に拾い上げると、ダウジングを続けているルカに声をかける。
「調査員さん。もしかしてさっきから探しているのってこのペンダント?」
「!見せてくれ」
トレイシーがペンダントを渡すと、ルカが指先で汚れを擦り落とす。宝石の嵌った銀の土台の裏に、文字が刻まれているのが辛うじて見える。「愛する我が子Fri」の後が黒ずんでしまって読むことができない。
ルカは口を引き結び、眉を顰めた。この森で亡くなった女性の名のスペルは「Julia」だ。何か手掛かりが見つかったのかと思ったが、ペンダントの持ち主のイニシャルはFなので、別人である様だ。
犯人の名前だろうかと考えを巡らせてるルカの隣で、トレイシーが手元を覗き込む。
「何か分かった?」
「このペンダントの持ち主がユリアではない事だけは分かったよ。Fで始まる名前で、デザインから女性のものと思うが」
「…………Fって言った?ちょっと見せて」
トレイシーはルカの手首をひったくる様に引き寄せる。ペンダントの文字列を確認するとトレイシーの顔色が変わる。
「これ、もしかするとフリーデかも」
「誰だ?知り合いかい?」
ルカは首を傾げてそう尋ねる。フリーデ。スペルは「Friede」だ。
トレイシーがポケットから手帳を取り出す。独自に事件を調べていたと言うのは本当のようで、ルカが上から覗き込めば、紙面にはびっしりと文字が書き込まれていた。
「三年前に行方不明になってる女性だよ。一人旅の途中でドラクルには船を利用する為に立ち寄ったそうなんだけど、泊まってたホテルをチェックアウトしたのを最後に、予約していた旅客船に姿を現さなかったって」
「なるほど。しかし、そんな女性のアクセサリーがこんなところに落ちているのは、おかしいな?」
ペンダントのチェーンを手に巻き付け、ルカはダウジングロッドを握る。先ほどまではゆらゆらと安定しなかったロッドが明確に動き出し、一点を指し示す。
先ほどまで、ルカは漠然とした事件の手掛かりを求めていたが、今は明確に探すものが決まっているのでロッドの動きにも迷いはない。
ロッドの導く場へと迎えば、伸び放題の草の合間に自然ではあり得ない色がある。草を掻き分ければそれは青い、服の成れの果てだった。三年の月日で色も褪めた女性用の外出着と、白骨化した遺体が無惨に転がっている。
近づいてこようとするトレイシーをルカが首を振って制す。
こちら側が調査に巻き込んだとはいえ、まさか死体そのものが出てくることは想定していなかった。生々しい現場を幼い少年に見せるわけにはいかない。
「そこにいてくれ。見て気分のいいものではない」
「わ、分かった」
トレイシーも死体を見たくはなかった様で、青い顔で大人しくその場に佇んでいる。それを目視してから、ルカは白骨の側に屈み込む。
警察には後程知らせるとして、確認できるものはしておきたい。ダウジングに引っかかったという事は、単なる事故であるはずはない。黒い手袋を嵌め直すと、ルカは死体や周囲の状況を調べ始める。
骨は既に風化が進み、原型を留めてはいないが死体はうつ伏せの状態だった様に見える。青い服が判断が難しかったのは服が色褪せていたからだけではなく、見える範囲の布地が黒く変色しているせいだった。
ルカはベルトに付けていた小瓶の液体を一滴、その黒い汚れに垂らした。液体が触れた黒い汚れが、赤い光を一瞬だけ放った。その反応にルカは眉間に皺を寄せる。
ルカが垂らしたのは血に反応する試薬だ。古いものなので一瞬だったが、それでも血である事は証明された。背中から血を流していた事は間違いなさそうだ。
崖の上を見上げ、足元の女性であろう死体を見やり、ルカは顎を摩る。
――崖から落ちた事が死に繋がったのだろうか。しかし背中からの流血の跡は、崖から落ちる前に負った傷では無いだろうか。
死体の服はボロボロではあるが、女性の外出ドレスである事は見てとれる。黒い汚れは背中から縦にスカートの部位にも伸びているので、恐らくは流血後に暫くこの女性は直立状態でいたのでは無いかとルカは予測する。落ちている最中に負った傷からの流血ならば、こうはならない筈だ。
何か身元が分かるものは無いかとルカが死体を検める。辛うじて形の残っていたポケットから小さな鍵と、服の残骸の中に錆びた短剣があった。今分かる事はこれだけの様だ。
ルカは錆びた短剣を眼前に掲げ、眉間の皺を更に深くして凝視する。
「……うん?」
短剣の刃の部分は十五センチ程で赤く錆びている。金色の柄は汚れてはいるものの、錆びてはいない。金製なのかもしれない。刃の部分と柄の部分が逆側に反っており、Sの字のカーブを緩くさせたような形になっている。
――どこかで見たような気がするな?
「調査員さん!」
「!」
トレイシーの呼びかけに、記憶を辿っていたルカは現実に引き戻された。鍵と短剣を元の位置に戻し、立ち上がる。
「どうしたんだ?」
「これ見て、これ!」
ルカがトレイシーの呼ばわる方へ向かえば、少年は布製の白いトランクの脇に屈み込んでいた。
それは少し前に流行った軽量を重視したトランクで、水や汚れを弾く防滴の魔法が掛かっているタイプのものだ。魔法の効果はまだ持続しているのか、そのトランクは多少草臥れて入るもの、まだまだ使用出来そうに見えた。
ルカが歩み寄れば、トレイシーはカバンに付けられていた楕円形のネームプレートをひっくり返して見せる。そこには「Friede」の文字が刻まれていた。
「白いのがちょっと見えたから、確認しに来たらこれだったんだよ」
「これはペンダントもフリーデのもので間違いないだろう。あのご遺体もフリーデという事だろうか」
「ご遺体って、やっぱり同じ犯人に?」
トレイシーが焦った様に問うが、ルカは首を横に振った。背中の流血と落ちていた凶器から、何者かに襲われた事は間違いないが、今分かるのはそれだけだ。
「他の犠牲者と違って血が抜かれた形跡はないんだ。それに、彼女の身元が証明できるようなものも見当たらないもので」
「そう。困ったな……残念ながらこっちのトランクも鍵がかかってて。私なら開けることはできるけど、警察に知らせる前だからやめた方がいいでしょう?」
「鍵……」
ルカはぽつりと呟くと、一度死体の元に取って返し、死体の服のポケットから小さな鍵を拝借する。それを白いトランクの鍵穴に差し込み捻ると、かちゃりと鍵の開く音がした。
「開いた……!」
「どうやら、彼女がフリーデで間違いないようだ」
ルカは少し迷ったが、トランクの鍵をもう一度かけて中身を開くことは諦めた。トランクの防滴魔法がどこまで保つか分からない。下手に触ってしまえば証拠を損失させてしまう可能性がある。そこは警察に任せよう。鍵も死体のポケットに戻しておく。
「ねえ」
「なにかな」
ルカが黒い手袋を外しながら振り返ると、ちらちらと死体のある方向を気にしているトレイシーが躊躇いながらも問いかける。
「フリーデは、その……事故だったの、そうじゃなかったの?」
「ああ」
トレイシーは連続殺人事件との繋がりを気にしているのだ。ルカは白い手袋を嵌め直し、首をゆるりと傾げた。
「それなんだが、死因は残念ながら分からない。ただ直接の死因が崖から落ちたか落とされたかだとしても、何者かに襲われた事は確実な様だ。ただそれが」
「同じ犯人かは分からない」
「そうなる訳だ」
言葉を引き継ぐトレイシーに、ルカは頷いてみせる。
行方不明と思われる女性たちは全員が身寄りがいない。そんな彼女らがドラクルから旅立つ日に消えてしまっているので誰も気付かない。探す人もいないのだ。
フリーデはその中で唯一行方が判明した人物だ。しかし、連続殺人事件との繋がりは見えず、それどころか違う殺人の被害者である可能性が出て来てしまった。
トレイシーは帽子を脱いで、遠い目で曇り空を見上げる。
「はー……折角一人手掛かりが見つかったと思ったのに……私の容疑はまだ晴れそうにないなあ」
「まあ、そう悲観する事はないさ。私の実力は少しは証明されただろう?」
「どうだか。ダウジングだっけ?ここ見つけたのも偶然じゃないとは言い切れないじゃん」
「おや、用心深いな」
ルカは困り顔で腕を組んでいる。トレイシーの言い分が否定が出来ない結果だったのは当人も分かっているのだ。とはいえトレイシーも本当にこれが偶然だと思っている訳ではない。
「あんたのお陰で彼女は見つけられたから、それには感謝してる。すぐとはいかないけど、それでも弔ってあげることは出来るだろうし。遅くなってしまったけれど、魂を聖杯の雫に還してあげられる」
「……………………………………」
穏やかな顔で微笑むトレイシーに、ルカはぽかんと口を開いて呆けた顔を向けてしまう。
今までルカは顰めっ面か無表情か、怯えた顔のトレイシーしか見ていなかったのだ。初めて見る柔らかな表情に、何故あれほどまで看板娘達が少年の顔の傷に拘っていたのかを知る。その顔は宗教画に描かれる様な聖母や天使達を彷彿とさせる。
「…………なに。その間抜けな顔は」
「いや、その。君に感謝されると思わなくて」
「どういう意味」
ぎろりとこちらを睨むトレイシーの顔からは宗教画の面影は消え失せる。勿体無いなとルカは思いながら、こほんと咳払いをする。
「さて、こうなってしまっては残りの調査は一旦お預けで、街に戻らなくては。早々にイライに報告が必要だろうし、警察に彼女の事を知らせなくては」
「それはその通りなんだけどさあ。問題はどうやって戻るの、これ」
トレイシーは崖の上を指差し、そう尋ねる。
崖の高さは上から見た時も高いと思った。当然下から見ても、とてもでないが道具無しで登っていける傾斜と高さではない。崖上へ戻る道も、考えなしの吸血鬼のせいで分からない。
「あんた、これ登ること考えて飛び降りた?」
「うん。何も考えていなかったな」
あっけらかんと答えるルカに、今更ながらトレイシーは背中に冷たい汗が流れるのを感じてしまう。
――シュテルンの開店時間……いや、閉店時間にも間に合わないんじゃないの……?それどころかこれは遭難になるのでは?
嫌な想像が膨らんでいくのを振り払い、トレイシーはルカの上着の襟を掴むと力の限り揺さぶった。
「どうすんの、これ⁉︎なんで何も考えずに飛び降りちゃったわけ⁉︎あんた頭いいの、考えなしなのどっちなの⁉︎」
「それ、よく言われるな……」
「よく言われるなら反省しなさいよ!」
「すまない」
「もー!吸血鬼なら蝙蝠に変わるとか、瞬間移動とか、空飛ぶとかなんか出来ないわけ?」
「変身能力があるのは血族くらいだよ。私は人のふりをするのが限度だね」
「あああ……」
トレイシーはその場に膝をつくと、頭を抱えた。
このまま帰れなければどうなるか。大騒ぎをするレーゲル屋敷の人々が目に浮かぶ。当然、シュテルンの従業員も心配するだろう。
きっと探してくれるだろうが、物騒な街の外の危険な森の奥、それもこんな崖の下にいるなどと、気付いてくれる人がいるだろうか。
ぎりぎりと歯軋りしながらトレイシーは呻く。
「やっぱりあんな協力申請、断ればよかった……!」
「断らせないけど」
隣に屈んで、いけしゃあしゃあと答えるルカに、トレイシーはそれだけで刺し殺せそうな鋭い目を向ける。
「あんた封神じゃなくて、厄病神なんじゃないの⁉︎」
「お、そんな酷い事を言うのか?私は傷ついてしまったよ」
「そんな繊細さがあんたにある筈ない」
「口が悪い子だな。そんな可愛くない事ばかり言うと置いていってしまうぞ」
「は?」
――置いていく?
トレイシーはきょとんとした顔で首を傾げる。ルカはそれを見てくつくつと笑い、自身の膝の上で頬杖をついた。
「うん。子犬というのは少し違うな。ぴよぴよとよく鳴くし、小鳥かな?」
「そんな事はどうでもいい。それより上に戻る方法があるわけ?」
「ああ。手はあるにはある。ただ、君には口を噤んでもらう必要があるんだ」
「?出られるんならなんでもいいよ」
「…………言ったな?」
ゆっくりとした動作で立ち上がったルカが、トレイシーに覆い被さるようにそう告げる。なんだか、目の前の男が一回り大きくなった様に感じる。そんな訳はないのだが。
頸を撫でる様な不快感を気のせいと押しやり、トレイシーは勢いよく立ち上がった。
「それで、どうするの」
「血族の様な変身は出来ずとも、私も飛ぶことは出来る。能力を封じられているので短時間になるが、この崖を越えるくらいなら問題ない」
「ふうん?でも封じられてるって事は、本来ならこの昇段試験期間には使っちゃいけない能力って事になるよね」
「そう。その通りだ」
トレイシーが意地悪く問えば、ルカはむうと口を尖らせる。
なるほど、口を噤むとは自分が吸血鬼の能力で飛行した事を口外するなと言う意味か。そうトレイシーは納得する。その程度の事なら、念押しされる必要もない。
「それなら……」
「待ってくれ、まだ話は終わってないよ」
「もう、なに?」
早々に上に戻りたいトレイシーは、不満を隠そうともしない。膨れっ面のトレイシーに、ルカは人差し指を口の前で立てる。
「口を噤んで欲しいのは、今から崖の上に戻るまで全ての事になる。約束してくれるかい?」
「……頷かないならここに置いていくって?」
「まさか!そんな事をする筈がないじゃないか。ただ、その場合は誰かに見つけてもらうまで、私と君の二人きりでここで過ごす事になるだけさ」
「それは嫌。分かった、いいよ。黙ってればいいんでしょ」
トレイシーがあっさりと即答するので、ルカは静かに笑みを深くする。
――さっき、過去の決断を後悔していたのにな。
潔い事は悪くないが、この分だとトレイシーが後悔する事はこれからも増えていくだろうなとルカは予想する。
「それで、何する気?」
「飛ぶのに追加の魔力が必要なんだ。私がイライから供給されている魔力量は普通に過ごす分には問題ない。しかし飛行するとなると、足りなくなってしまうんだ」
「だから、その追加分を私から取るって事?昨日も言ったけど、私は溜め込むだけで魔力操作はからっきしだからね。魔術師に魔力器官がないって言われたし」
「ふむ、なるほど?」
ルカは仏頂面なトレイシーの顔を無遠慮に覗き込む。その距離の近さにトレイシーは眉は顰めたものの、口では何も言わなかった。
距離感のおかしい吸血鬼にも、半日付き合っていれば慣れてくる。いくら注意したところでルカには聞く気が無いので、トレイシーも諦めた。
だから、ルカが更に距離を縮めても何もしなかった。
――まさかそのまま、口同士を重ねられるとは思っていなかったのだが。
「‼︎」
トレイシーが驚いている間にルカは離れていったので一瞬だったが、それでもキスされた事は間違いない。
怒りや衝撃を受けるべきところだが、そんな感情よりもなによりも「なんで?」という疑問でトレイシーの頭の中は一杯になる。――私、幻術で男だって思われてるはずでは?
「うん、充分だな」
己が行動が原因で混乱しているトレイシーに構わず、ルカは自身の体を確認して満足そうに頷く。少し強引な手法を選んでしまったのでトレイシーから魔力を取り過ぎないようにと気をつけたのだが、この少年の魔力は随分と純度が高く、ルカとの相性もいい。
早々に上に戻ってしまおうと、ルカは固まっているトレイシーを荷物の様に肩に担ぎ上げると、地を蹴り飛び上がった。
物の数秒で崖の上に到達すると、ルカは肩の上で動かないトレイシーの様子を窺う。トレイシーは未だ呆然としたままだった。流石に心配になってきたルカは、トレイシーを地面に下ろして目の前で手を振ってやる。
「おーい?大丈夫かい?」
「……は!」
ルカの呼びかけに、漸くトレイシーは正気を取り戻す。ぱちぱちと眼を瞬かせて数秒、トレイシーは状況を把握するとルカから後退って距離を取り、木の裏に隠れてしまう。
「どこに行くんだ、助手くん」
「キ……」
「うん?」
「キスした……!男の血は興味ないとか言って、男の人が好きだったの……⁉︎」
「違うが?私の恋愛対象は昔も今も女性だよ。言ったじゃないか。魔力の供給が必要だと」
「それで、なんで私キスされたの!」
トレイシーが木の影から顔だけ出してそう叫ぶと、ルカは困った様に頬を掻いた。
魔力の譲渡は気力や身体にも影響するので、トレイシーの様子がおかしかったのはそのせいかとルカは思っていたのだが、どうも違ったらしい。
「うーん……すまない、その程度でショックを受けると思っていなくて」
「その程度って」
「だって、そうだろう?重ねて言うが、私は男を恋愛対象では見ていないよ。いくら君が可愛らしかろうが、私が好ましく思っていようが、同性だもの。男同士、魔力の供給の必要が無ければこんなは事しないよ」
「ま、魔力の供給ってそういう……?まさか、いつもそうやって……!」
さあ、と口を覆って青褪めていくトレイシーに、ルカは慌てて否定に入る。
「待て待て、君が今何を考えているのか想像出来るがやめてくれ。普通の人間は魔力回路を通じて、手のひらから魔力が外部に流れ出るんだ。君の場合はその回路が閉じているから、体液か体内に通じる口からしか魔力を取り出すことが出来ないんだ」
「それなら先に言ってよ!だったら血の方が」
「勘弁してくれ、君にもう一度傷をつけたとなれば私は今度こそ終わりだよ。封神どころか永久封印されてしまう」
「自分で傷つけたって言うよ?」
「吸血鬼が封神への昇格試験で人の血を摂取したとなれば、違う問題が生じるじゃないか」
「う……そ、それは確かに……」
そうだった。この調査員は吸血鬼なのに、血を与えてどうするんだ。トレイシーは自身が思っていた以上に混乱している事に気がついた。
ルカのあっけらかんとした態度に、何してくれているのかと怒りが湧いていたのだが、改めて事情を説明されれば仕方がない事だったのは認めざるを得ない。
少しトレイシーが冷静さを取り戻したのが見て取れたので、ルカは宥めるための言葉を選ぶ。
「一瞬の事だし、止むを得ない状況だったし、何より同性同士という事で犬に噛まれたと思って我慢してくれないだろうか。誤解しないで欲しいんだが、女性相手にこんな手法は取らないよ。ちゃんと他に手がないか考えたさ」
「うぐっ……」
トレイシーは咄嗟に口から出そうになった文句を飲み込んだ。私はその女性だが、と叫びたい。でも今教会関係者、特にこの半封神の吸血鬼にその事実を知られる訳にはいかない。
トレイシーはゆっくりと深呼吸をすると、冷静に冷静にと繰り返し心で唱える。
ルカは大して気にしていない様子なのだから、こちらもそうするのが普通なのかもしれない。犬に噛まれたと思えと言うなら、そう思うことにしよう。
崖から飛び降りたのはルカの判断だし、そのせいでキスされる羽目にあったのは許せないが、それで野晒しになっていた哀れな女性を見つけることが出来たのも事実だ。だから一度だけ、トレイシーは大目に見ることにする。
「今回の事は、約束しちゃったから黙っててあげるけど、次やったらイライに言いつける」
「ああ、それでいいよ。ありがとう」
「突然行動しないで先に説明しなさいよ、あと」
「それについては、君がどんな反応をするかなとわくわくしなかったといえば嘘にはなる」
「あんたね……!」
ふく、と笑いながらそう答えるルカにトレイシーは拳を握りしめる。
――こいつ、やっぱり性格も人も悪い。
気のせいかと思いたかったが、どうにもトレイシーはこの性格の悪い吸血鬼におもちゃとして気に入られてしまったようだ。大変迷惑な事なのだが。こうなると崖から飛び降りたのも態とだったんじゃないだろうかとトレイシーは疑ってしまう。
こういうタイプは相手が挑発に乗って騒ぐほどに喜ぶに違いない。だから無反応が一番効く筈だ。
トレイシーは気を取り直すと、話題を事件に関することに切り替える。
「さっき、フリーデは襲われたって言っていたよね?」
「ああ。彼女の背に刺された様な痕跡があったのと、凶器と思われる短剣が転がっていた。彼女は森の中で何者かに短剣で背中を刺され、逃げようとして落下したか、落とされたか……そこは分からない」
「うーん……確かに、連続殺人と関連があるか今のところ判断できないね、それ」
「ああ。だから一先ずこの件はプロの手に委ねよう」
「だったら街に戻るんでしょう。警察に行くなら私は別行動させてもらうけど」
「君の事情は分かっているよ。そちらは教会に任せよう。私達は調査だけ担当さ。イライへの報告は君にも付き合ってもらう必要があるが」
「それならいいけど。告げ口もしやすいし」
「お手柔らかに頼むよ」
肩を竦めているルカに、トレイシーは冷たい一瞥をくれてやる。
すっかり舐められているのでどこかでぎゃふんと言わせてやらねば、この吸血鬼。
森の出口に向かって歩き出したとレイシーの後ろで、「ああ」とルカが声を上げる。
「そうだ。君のプライドを傷つけるつもりはないけれど念の為」
「今度はなに」
振り返ったトレイシーに、ルカは指先で自身の唇に触れ、にこりと微笑んだ。
「初めてだったのならすまない」
――こいつ、やっぱり性格が悪い。
トレイシーは眉間に深い皺を刻み、舌打ちをしたくなるのをぐっと堪えた。
