色無き芙蓉(ナワトレ)
トレイシーが住んでいるのは、空き家になって久しい屋敷だ。庭は雑草で荒れ放題だが、室内は然程傷んではいない。作業場と日々過ごす部屋にだけ手を入れ、他は気まぐれに使う程度だ。
現場から直帰したトレイシーは、明かりもつけずに二人掛けのソファーに倒れ込んだ。今日は本当に疲れたのだ。眠ることはしないが、視界に何も入れずに休みたい。
うっかり認識災害のトラップにかかるわ、幻覚世界で死神に弄ばれるわで本当に散々だった。特に最後の件は、思い出すだけで、羞恥心でのたうち回って叫びたくなる。
あれは幻覚だからノーカウント。現実じゃないから数に入らない。そう必死に自分に言い聞かせて平静を保つ。
「ううううう……」
保とうと思うが、呻き声は漏れる。トレイシーはぎゅっと膝を抱えて蹲る。
あれはノーカウントだけど、そうだけど、それでもキスは初めてだったのだ。死んだ相手じゃ報復も出来ないのが、また腹が立つ。
トレイシーはぼすぼすとソファーに備え付けたクッションを叩き、憂さ晴らしをする。こんな事、だれにも聞かせられない。知られるわけにはいかない。
「はあ……」
クッションいじめにも飽きたトレイシーは、ソファーの上に仰向けになる。酷く悶々とした気持ちは晴れない。
――もう忘れよう。それしかない。
そう考えながら、瞼を閉じると、トレイシーの前髪が夜風に揺れる。すう、と新鮮な外気を吸い込んだところで、トレイシーは目を見開き、飛び起きた。
トレイシーは窓を開けていない。扉もしっかりと閉めている。室内に風が吹く訳がないのだ。
「……………………」
警戒したまま視線をゆっくりと巡らせる。居間にある、大きな出窓にトレイシーは視線を止める。
窓に掛けられたカーテンがふわりふわりと風に揺れる。一際強い風にカーテンが吹き上がり、風が収まった後には一人の男が窓枠に腰掛けていた。
月の光の色の髪に、銀の瞳。ルベライトの赤い衣に血の色の腕。胸に開いた穴の奥底で赤く賢者の石が煌めいている。
棺の中に横たわっていた、遺体であったはずの男がそこにいる。違うのは、青白かった死人の顔色が石膏の様な白になっている事か。生きていはいるが、人ではない。
トレイシーはソファーから立ち上がりながら、すうと目を細める。――幻覚、だろうか。
そう疑っているトレイシーの心を読んだかのように、赤い死神はくつくつと笑うと、態とらしくトレイシーに短くされた髪を払い除ける。
「会いたいと言うから、わざわざ訪ねて来てやったんだ」
「ご丁寧に。会いたがった覚えも、招待した覚えもなかったんだけど」
「まあ、そう歓迎するな、人形」
ひくり、とトレイシーは口角を引き攣らせた。本当にこの死神は性格が悪い。トレイシーが「人形」呼びを嫌っている事を分かって言っているに違いない。
ここで、怒りに任せてしまえば相手の思う壺だ。トレイシーは平常心を保ちながら、演技臭い動きで頰に片手を当て、困ったような表情を作る。
「残念ながら、お客さんをおもてなし出来る様なお菓子もお茶も、ここには無いんだよね。だから帰って欲しいなあ」
「そんなことは気にするな。お前に用があるだけだ」
「私に?」
「ああ、お前を死なせに来た」
赤い男が腕を横に払うと、空気が変わる。トレイシーにとって馴染みのある家なのに、全く知らない空間にでも変わってしまったかのようだ。この感覚は、あの霊廟のものとそっくりだ。
男の胸の裂け目から、黒と銀の藤蔓が伸びていく。それらは男の肩を覆い、頭にも絡みつく。
窓の外からも藤蔓が生き物の様にうねりながら、入り込んでくる。後から後から生えてくる藤蔓は伸びて太くなり、やがて窓を埋め尽くしてしまう。
それでも藤蔓は止まることなく、部屋をも埋め尽くそうと枝を伸ばし続ける。
窓を閉ざされ、月光も入らなくなった室内は完全闇に包まれたが、死神の周囲には白く輝く蝶が飛び交い、部屋を淡く照らし出している。これだけならとても幻想的な光景だ。
トレイシーが蝶に気を取られた一瞬の内に、距離を詰めて来た死神がトレイシーの顎を掴んだ。そしてそのまま鋭い爪で首を切り裂いた。太い血管から、大量の血が飛び散る。どう見ても致命傷だ。
しかし、瞬きの間に傷が塞がる。トレイシーは顎を掴まれたまま、ぎろりと男を睨んだ。
「いきなりなに?痛いんだけど」
「殺そうとしたからな」
会話をしながら、男は爪でトレイシーの胸を貫いた。だが、こちらもトレイシーは咳を一つしただけで、瞬く間に傷が塞がってしまう。死神は呆れた様な表情になる。
「随分と特別製なんだな、人形」
「そうだよ、それしか、取り柄がないもので!」
「道理で、あの霧の中で平然としていたわけか」
口調は世間話のような気軽さだが、赤い男の力は強かった。トレイシーはどうにか逃れようとしているのに、顎を掴む手はびくともしない。どうあってもこの死神はトレイシーを殺したいらしい。
「ふむ」
「うあっ!」
赤い男はトレイシーの首を掴むと、片手で高々と吊り上げる。首に全身の負荷が掛かったトレイシーは、苦しげに呻いた。人間では到底出せない握力で、首を締め上げられる。
自分の手の中で苦しむ女の姿を見て、死神はとても凄絶な美しい顔で微笑んだ。
「死ぬまでこのままなら、どうなるんだ?」
「っぁ…………!」
拘束から逃れようと爪を立てるが、男の手の力はその程度では弛まない。トレイシーは踠いて踠いて抵抗を続けたが、全く逃れられる気がしない。死神はじっとこちらを見上げたまま、面白がるような表情を浮かべたままだ。
死神とは力くらべでは敵わない。これではいつまでも終わらない。
トレイシーは死神の赤い腕を掴む。
「あああ、もう‼︎」
トレイシーは吊し上げられたまま、苛立ちを隠さずに叫んだ。途端にコルクが抜けるような音が鳴り、死神の男の手の中には女の首ではなく、造花の花束が収まっている。
「!」
手の中のものが変わったことに、男は驚いて目を見開く。死神の手から逃れたトレイシーは、首を抑え、眦を吊り上げた。
「……手品までするのか、お前は。器用だな」
「何しても無駄なのは分かったでしょ。諦めて欲しいんだけど」
「ああ」
死神は造花の束を投げ捨て、トレイシーの側に歩み寄る。そして、長い爪をトレイシーの胸の中央に突きつけ、ゆるりと首を傾げた。
「確かに、生きていないものを殺すのは不可能だ。人の振りが下手だな、人形」
「振りじゃない」
「俺の幻覚に囚われている間、お前の体は心臓の鼓動も呼吸も止まっていたが?中身が入っていなければ人間の真似事はできない。そうだろう?」
「……………………」
トレイシーは答えない。表情を消して、唇を閉じて、ただただ死神を虚な目で見上げる。
アサイラムに嘗て存在した、『精神病棟』
非人道的な実験で得た知識と技術を結集させた、殺人兵器にされた者達の収容所。
本部にはあらゆる悍ましい実験の数々、収容者達の異能と身体のデータが山の様に残されていた。
しかし、「スマイリー」と呼ばれた少女の記録だけは残っていない。
実験の記録はあるが、彼女の異能についての記載だけ綺麗に消えているのだ。
ネストに保護された彼女は、自身の異能について不死身であることだと答えた。
しかし、ある研究者が所持していた手帳にはこう残されていた。
『09 マークの娘
彼はオルフェウスではない。エウリュディケーは戻らなかったが、娘は取り戻した。
少なくとも彼はそう思っていた。
アサイラムの最高傑作にして、最悪の欠陥人形。
我々は神を作った。全てを思うがままに出来る。
しかし我々の神ではない。制御は不可能だ。
あれは死神だ。いつかあれはここを破壊する。
真実は残さない。
これは友を裏切った代償だ。トレイシー、君の報復を私は受け入れよう』
――現実を変える。
重い重い大理石の棺の蓋をとても軽くしたり。
自分と花束を入れ替えたり。
致命傷を無かったことにしたり。
心臓を鼓動させて、臓器を運動させて、生命の息吹に必要な全てを循環させて。
生きてる人間と寸分違わない様に、初めて目を開けた時からトレイシーが続けている作業。
「最初から知ってたんじゃん」
トレイシーがぱちりと指を鳴らすと、藤蔓に荒らされた室内は一瞬で元の居間に戻る。
赤い死神は面白がるように室内を見回している。
「あんた性格が悪いんだけど……!そういえば私の記憶見てたもんね!」
「ほー。現実を改変するのか。それがお前の本当の能力か。不死身よりもよっぽど面白え」
「…………魔法じゃないんだよ。自分の体以外は得意じゃないんだから、使わせないで」
言いながらトレイシーは胸を抑える。心臓は無いが、そこで脈動している存在はある。
今日は異能を大盤振る舞いし過ぎたせいで、深淵の侵食が大分進んでしまった。イライやイソップ程では無いが、トレイシーにも深淵の侵食は起こるのだ。
「うっ……」
違和感を覚え、トレイシーは左目を抑える。何かが眼球の下で蠢いている様な不快さ。収まれと念じるけれど、異界のものである深淵には現実改変は通用しない。
まだ大丈夫と言い聞かせるけれど、いつ、マルガレータの様な深淵の花が咲いてしまうか、分からない。
「おい」
「なにっ……」
死神はトレイシーの顎を掴んで上向かせると、顔を間近で覗き込む。数時間前の出来事が記憶に新しいトレイシーは、まさかまたキスする気かと焦ったが、死神の白い唇は左の瞼の上に落とされた。
すると、それまでトレイシーの中にあった不快感はみるみるうちに収まっていき、胸の奥のざわめきも鎮まっていく。
「!なに?」
「……収まったな」
死神は眉間に皺を寄せ、トレイシーの顔を両手で挟み、何度も何度も確認する様に左の頰や額を撫でさする。そうして死神は真面目腐った口調で告げる。
「勿体無いだろう、折角美しい顔をしているのに。変なものが生えてきたら」
「さっきまで殺そうとしてたくせに」
「顔に傷をつける気は無かった。ちゃんと持って帰る気だった」
「うわあ……」
トレイシーは嫌そうに体を抱きしめた。自身が影で白雪姫と呼ばれているのは知っていたが、死体愛好家に狙われるとか、そんなとこまで御伽話をなぞりたいくない。
そんなトレイシーに対し、死神は不満そうな表情を浮かべる。
「お前だって俺の死顔がお気に入りだっただろう」
「いや、死んでなくてもタイプ……ってそうじゃなくて。どういう風の吹き回し?私を殺すつもりじゃ無かったの?」
「気が変わった」
警戒して険しい表情を浮かべるトレイシーに、死神はくすりと笑う。
「どうしてやろうかと思ったが、時間はたっぷりあるしな。殺す前にお前の側で人間ごっこを眺めるのも楽しそうだ」
「諦めて欲しいんだけどなあ。厄介なのに取り憑かれちゃった……」
トレイシーが苦々しい顔で呟くのを、死神は上機嫌な猫の様に目を細めて見ている。
「諦めるのはお前だ、人形」
「人形って言うな」
「精々その人間の真似事、お前のいたあの檻の外でどこまで通用するのか見せてくれ」
「ほんっとうに性格が悪い死神だよ……期待通りになんかならないから!」
にたりと嗤う男に、トレイシーはむっとした顔で言い返した。
END
本編を書く際は内容が変わる可能性があるので、はんなりと雰囲気だけ伝わればと。
クトゥルフさっぱりなんですが、SCP財団が好きなのでちょいちょい挟んでます。
即興で書き上げたので辻褄が……おかしいとこ多いかも。
全体公開をするのはちょいと悩むので、イベント後はBOOTH公開にします……
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