色無き芙蓉(ナワトレ)
――触れたと思った瞬間に手首を、腕を、体を掴まれる。
棺の花の下から伸びて来た無数の手が、トレイシーを掴み、棺の中へと引き摺り込む。抵抗するという選択肢も頭に浮かばなかった、一瞬の事だ。
まずい、とトレイシーが思うと同時に棺の男が目を開く。銀色の虚の眼と視線がかち合った。それと同時にぐらりと脳が揺さぶられる様な不快感が襲い、瞼を閉じる。
「!」
目を開くと、ホールの天井を飾っていた赤いステンドグラスが見えた。棺を覗いていた筈なのに、今トレイシーは仰向けに横たわっている状態だ。拘束されているのか動く事は出来ないが、周囲で人がざわめいているのが分かる。硬い台座の様なところにトレイシーは寝かせられ、さながら手術台の上の患者か生贄の供物の様な扱いだ。
そんな状態なのにトレイシーは慌てるどころか、「幻覚だなあ、これ」とかなり冷めた思いでステンドグラスを見やる。
――触ったら特性発動するタイプだったのかな、あの遺体。認識災害とは油断していた。
見る、聞く、嗅ぐ、味わう、触れる。人がそれを五感のどれがで認識した途端に、危害のある特性を現すもの、認識災害。トレイシーは身体だけは訳あって不死身なのだが、精神や思考、知覚は通常の人と変わらないので幻覚には太刀打ち出来ない。
今、この状況は過去の出来事なのだろうか。トレイシーはきょろきょろと目を動かし、可能な限り周囲の状況を判断しようとする。
トレイシーが寝かせられている場所はあの黒いホールのままだが、少し様子が違う。灯された炎は赤く、香が焚かれ、場には熱気が溢れている。周囲を取り囲んでいる人間達は全員跪き、何かを一心に拝んでいる。
人々が拝んでいる方向にトレイシーが意識を向けると、暗く炎の光が届かない位置に赤いとばりに囲われた玉座があり、そこに誰かが腰掛けている。動かせる首をそちらに向け、トレイシーは目を凝らす。
玉座にいたのは棺の男だった。気怠げに肘掛けに体を凭せ掛けて足を組み、室内の熱狂など見えていないのか、氷のような冷たい目で人々を見下ろしている。
――あれでは死神というより、王様みたいだけど。
トレイシーがそんな事を考えていると、瞬きの間に風景ががらりと変わる。
今度は小高い位置から、跪いている沢山の人間達を見下ろしている。彼らは全てトレイシーに向かい、組んだ手を掲げて祈りを捧げている。
「は⁉︎」
突然の変化にトレイシーは驚き、その場に立ち上がった。今の今まで座っていたものを振り返ると、棺の男の座っていた玉座がそこにある。だが、男の姿はどこにもない。もう一度視線を人集りに向ければ、彼らの中央に白い石の台座があり、その中央に肌が黒く変色してしまった男が横たわっていた。
あの症状は、トレイシーも知っている。賢者の石の資料に記載されていた、実際に流行った疫病と同じだ。皮膚が内出血して黒くなるのだと書かれていた筈。
これはやはり過去に実際にあった出来事を見ているのだろうか。何故これを見せられているのだろう。
眼下の光景にトレイシーが気を取られていると、背後から伸びて来た腕に腰を攫われる。すっかりと油断していたトレイシーは、体勢を崩して後ろ向きに倒れ込む。
「あ!」
玉座に逆戻りしたトレイシーだったが、見上げた先には白い顔があった。あの棺の中にいた、赤い男だ。トレイシーは広い玉座に腰掛けた男の膝の上、そこに引き倒された状態だ。体を起こそうとするも、それより早く男はトレイシーの顎を掴み、顔を覗き込む。
「……客がここまで来るのは、随分と久しいな。お前は誰だ?」
「っ……!」
うっすらと笑う男に、トレイシーは冷や汗が噴き出した。
これは幻覚、それも過去の出来事の筈だ。それなのに、その登場人物、しかも死者に明確にトレイシーは干渉されている。つまりこれは意思を持った幻覚であり、こちらに実害を与えられるものである可能性がある。
そうなると、幻覚から覚めるのは簡単な物ではないのだ。少なくとも自然に覚める、なんてお気楽な事は期待出来ない。今トレイシーは単独行動だから、異変に気付いてくれる仲間は周囲にはいない。
テレパシーが途切れた事にイライやイソップが気づいてくれればまた違うかも知れないが、時間の経過が幻覚と現実で違えばそれがいつになるかも分らず、それまでトレイシーが無事でいられるかの保証もない。
どうしようと心中が大いに荒れているトレイシーだったが、赤い男はそれはそれは楽しげに、銀色の瞳を歪ませる。
「口は、利けるよな。さっきまで小鳥のように囀っていただろう?」
「……………………」
トレイシーは唇を閉じ、黙りを貫く。相手が生きているならいいが、死人と交流するのは危険だ。うっかりすれば、そのままあちらの世界へ、なんて事になる可能性もある。
「鳴かないのか?良い声だったのに」
「…………………………」
「気分じゃないのか、なら仕方ない」
緊張しているトレイシーに構わず、男はおもちゃで遊ぶ様にトレイシーの髪や顔を撫でる。関わらないようにしてるだけなのに、人の体で遊ぶなとトレイシーは苛立たしく思ったが、反論する事は出来ない。
今の所、害意は感じない。男を警戒しつつ、この幻覚から覚める方法をトレイシーは考える。そして、ふとあることに思い至る。幻覚の世界に落ちる前、トレイシーはナイフを手にしていたはずだ。
右手に意識を集中すると、手の中にその感触を感じ取る。武器として持ち歩いている物ではないので殺傷能力は大した事は無いが、現実に戻る切っ掛けにできる筈。
トレイシーはナイフを体の影で逆手に握り直す。中途半端な痛みでは目が覚めないかもしれない。思い切り、自身の太腿にナイフを突き刺す。トレイシーはそうしようとした。しかし、ナイフを持つ手を掴まれ、捻りあげられる。
「あっ!」
「逃すわけないだろう」
トレイシーの手から、ナイフが落ちる。赤い男はくつくつと笑いながら、トレイシーの右手を掴み、そこに口付けた。
「こんなところにまで来る愚者に興味があったんだが、小鳥かと思えば随分と物騒な人形だな」
「私は人間だよ!」
人形、と言われ、頭に血が昇る。怒りのままに、トレイシーは反射的にそう怒鳴ってしまっていた。
しまったと思った時にはもう遅い。トレイシーは死者の言葉に返事をしてしまった後だ。男が美しい顔のまま、にたりと嗤う。
――あ、これ本当にまずいやつ。
赤い男がトレイシーの胸倉を掴み、体の位置をぐるりと入れ替える。
「わっ……!」
いつの間にか玉座は消え、白い花が視界を覆い尽くす。一瞬目を閉じた間にまた場所が変わっている。トレイシーの目に映るのは、白い縁と赤いステンドグラス、そしてこちらを見下ろす沢山の人。全員が赤い仮面を被っている。
咽せ返るほどのこの花の香りには覚えがある。幻覚に落ちる前にずっと嗅いでいたものと同じ。
トレイシーはいつの間にか、あの赤い男の棺に仰向けに横たわっている。体は酷く重く、動かす気になれない。人々はそんなトレイシーの周りに白い花を供えて行く。次々に現れる人影は途切れる事はなく、花は棺の中に積み上がっていく。
トレイシーは花の海から逃れようと頭を横に振る。体は益々重く、動かすことが出来ないのでそれが精一杯の抵抗だったのだ。けれど、花は止むことなく、どんどんと降り積もる。このまま埋もれてしまいそうだ。
本気でトレイシーが慌て出した頃に、視界を覆っていた花が払われる。助かった、と思ったのも束の間、トレイシーの開けた視界には自分に覆い被さる赤い服の男の姿があった。
男は機嫌良さげにトレイシーを見下ろし、顔の周りにある花を綺麗に払い落とすと、手にした白く丸い花をトレイシーの耳の上に飾りつける。
「悪くはねえな」
「な、に……」
完全に人形遊びをしている男にトレイシーは文句を言おうとしたが、口も思う通りに開かない。幻覚の世界はままならない事が多すぎるので、トレイシーはぎりぎりと歯軋りをする。
死者は生者に明確に知覚されると、力を増したり執着したりとあまり良い影響はないものだ。返事をしてしまったので男はトレイシーへの影響力が強まってしまった。トレイシーは幻覚から覚めるどころか、どんどんと奥底に引き摺り込まれていく。
男は赤黒い指先で、トレイシーの髪を撫で、頬を撫で、唇を辿る。鋭い爪に皮膚をなぞられるのはあまりいい気分ではない。愉しげに歪んだ眼はこちらを嬲って遊んでいるのが丸わかりなので、トレイシーは仏頂面で男を睨む。
「はっ!」
男はトレイシーの眼光に怯むどころか、益々機嫌の良い顔で顎を撫で、首に触れる。頸動脈の辺りを爪で引っ掻き、鎖骨を通り、服の上から胸の中央にまで辿り着くと、そこに掌を当てる。
人間の心臓がある辺りだ。そこに男はぐっと爪を立てる。
「っ……!」
「ここに、穴が開いたら俺とお揃いになるが、どうだ?人形」
「じょう、だん……!」
「嫌か?人形の中身がどんな色なのか、見てみたいんだが」
赤い男は少し、残念そうな表情になる。そんな顔をされても、自分の体に穴が開くのを許可する人間がいるわけがない。
どうにも、良くないことにトレイシーはこの赤い男に気に入られてしまったようだ。久々に来たおもちゃと思われているのかもしれない。今更ながらイライの忠告、真面目に聞くんだったなあとトレイシーは後悔する。
どんな致命傷も即死の毒も、致死率の高い病気も効かない体を持つトレイシーは「人形」と揶揄されることも多い。それを昔から嫌っていたのだが、その異能を自分自身が過信していた事も事実だった。
精神攻撃、もしくはこうやって身体の強さが影響しない幻覚の世界に連れ込まれて仕舞えば、トレイシーはただの人間と変わりないのだ。
これ以上、幻覚世界の奥底に連れ込まれると、本当に戻れなくなる。なにかないのかとトレイシーは思考を巡らす。そんなトレイシーの焦りを他所に、男はトレイシーの顔の横に肘を付き、身を屈める。
「だったら趣向を変えるか」
「は……?」
「肉の中身が駄目なら、この中身でいいだろ」
言うが早いか、男はトレイシーの顎を掴んで浮かせると、半開きだったトレイシーの唇に口付けた。トレイシーは暫く何をされたのか分からずに硬直していたが、じわじわと現状が脳に浸透していくと同時に、顔に怒りと恥ずかしさで熱が集まっていく。
――こいつ!こいつは一体何をしているのか!自由に動けたら腹を蹴り上げて、顔面を殴ってやるのに!
「んむっ……!」
トレイシーは重い腕をなんとか持ち上げ、男の胸を押しやろうとする。が、突然脳をひっくり返されたような感覚が襲い、視界が回る。重なった男の唇が、不穏に吊り上がる。
トレイシーの頭の中で、記憶が逆再生を始める。
それは最初は死神の霊廟、死の谷に来るまでの道筋だけだったが、徐々に流れる記憶が数を増していく。大事な記憶も、嫌な記憶も、同時にいくつもの記憶が、無数に映画のフィルムを引き出すかのように時系列も何も関係なく、脳の中を駆け巡る。
最初にトレイシーは混乱した。これが、噂に聞く走馬灯なのかと思ったのだ。だが、それにしてはなにかがおかしい。記憶を思い出す、というよりも流れ出していく感覚なのだ。そうして、はっとして目を見開くと、銀色の眼が観察するような、面白がるような色でこちらを見ている。
――中身って、こいつまさか私の記憶を見てる?
それに気付いたトレイシーはジタバタと重い手足を動かして、どうにか男を押しのけようと抵抗する。
まずい。とてもまずい。それは本当にまずい。この幻覚世界で記憶まで奪われたら、自分のアイデンティティが保てなくなる。現実そっくりの幻覚を作られたら、もう抜け出すことは出来なくなる。
すぐにここから出なくては。トレイシーはそう思うが、幻覚世界の体はこの有様だ。すっかり男の支配下だ。棺の中は花以外には何もない。
――なにか、何かないのか。なにか覚醒に至る切っ掛けがあれば。現実であれば、なんとでも出来るのに。
「!」
はっとしてトレイシーは、右手にもう一度感覚を集中させる。
現実で手にしているナイフの事を思い出したのだ。こちらで奪われたので失ったものと思っていたが、現実の右手にはナイフは握られたままの筈だ。
初対面の男にキスをされた上、記憶を吸い上げられているという最悪の状態も、感覚をなるべく遮断して瞼を閉じる。手にだけ意識を集中すれば、遠くの、夢の向こうの様な感覚でナイフの感触を取り戻す。その感触を頼りにトレイシーは強く「右手」に念じる。
――動く。君は私の思う通りに。動ける。だからそのまま、貫いて。
「うがっ!」
胸に走る激痛に、トレイシーは目を見開き、呻き声を上げた。
「はっ……はあっ……」
トレイシーは白い棺の中にいる。しかしそこに横たわっているのは、死人の顔色をした赤い服の男で、トレイシーはその上に折り重なるように倒れ込んでいた。
体を起こせば、他には誰もいない。玉座も台座も見当たらなかった。
「うう……!」
胸が痛い。痛みの源を見下ろせば右手に握ったナイフが胸の中央を貫いている。トレイシーは呻き声を上げて、刺さったナイフを引き抜いた。棺の中にある白い花にも、男の顔にもトレイシーの血飛沫の斑点がついてしまった。が、血が噴き出したのは数秒で、胸に空いた穴はすぐに塞がっていく。
それはトレイシーにはとても見慣れた光景だった。
――現実だ。現実に帰ってきたのだ。
トレイシーはその安堵感に、全身から力が抜けていく。本当に危なかった。あのまま取り込まれるかと思った。生まれてきてここまで危険な目にあった覚えはない。もう自分の異能は過信しない。
棺の中にいると嫌な事を思い出す。トレイシーは早々にそこから出ようとして、大事な事を思い出した。この男の髪のサンプルを採取しようとして幻覚に巻き込まれたのだ。
同じ轍は踏まない。「もう死神の幻覚にはかかりませんように」と呟きながら、トレイシーは少々の恨みを込めて、男の長い髪を掴み、肩下まで切り落とした。
切れ味の良くないなまくらナイフのせいで、綺麗に切ることは出来ずに長さはバラバラになってしまった。しかし、多少の復讐心もあるので気にしないことにする。幻覚内とはいえ乙女の唇を奪った代償なら安いものの筈だ。
《トレイシー、どう?サンプルは》
「回収出来たよ」
棺から出たところで、イライからのテレパシーが飛んでくる。どのくらい時間が経っていたのかがトレイシーは気掛かりだったが、この感じだと数秒の出来事だったようだ。
《そうしたら、トレイシーさん。今日はもう引き上げてって。霊廟の内部構造は完全に分かったから、ある程度はタイムリミットがあっても無人探査機で探れる。トレイシーさんは毛髪のサンプルの検査が終わるまでは待機だそうだよ》
「分かった」
《下手に深入りして何かあってからじゃ遅いからね》
「ははは……そうだねー」
イライの言葉にトレイシーはぎくりとしたが、笑って誤魔化すことにした。どうせ後々の報告で幻覚に巻き込まれたことはバレるのだが、疲弊した今、更なる説教をされるのは勘弁願いたかった。
来た時の浮かれた足取りとは違い、すっかりと疲労困憊したトレイシーは立ち去る前に、一度部屋の中をゆっくりと見回した。
棺の中の男は、相変わらず精巧な彫刻の様だ。厳かな雰囲気で神々しさすらある。ここの王で支配者だった死神の姿に、トレイシーは冷めた視線を送る。
最初は見惚れるほど綺麗だと思ったのに。幻覚内の生きてる死神様は性格は悪いし、俗っぽい意地悪はしてくるし、何より手が早い。碌な男では無かった。想像してた死神像が音を立てて崩れてしまった。
棺を見下ろして、トレイシーは溜息をついた。
「黙って死んでる姿は本当に綺麗なのになあ……この状態なら飾っておきたいくらいなのに。この人に生きてる時に会わなくて良かったよ」
《トレイシー?何か言った?》
「なんでもないよー」
トレイシーはそう言って棺を最後に一瞥すると、外に向かって足を踏み出したのだった。
