色無き芙蓉(ナワトレ)
――そうして、現在。
「よっと!」
トレイシーは開いた傘で落下の勢いを殺し、谷の底に降り立つ。辺りを見回し、耳に装着した通信機に向かい報告をする。
「着いたよ」
『…………………………』
「駄目かぁ」
通信機は、ノイズどころか、うんともすんとも言わなくなってしまっていた。数分くらい保つかと思ったのに、こんなにすぐに通信が出来なくなるとは思っていなかった。
トレイシーは通信機を抑えていた指を、顳顬に当て直す。
「あー、聞こえる?イソップ、イライ」
《こっちは聞こえるよ、もう通信駄目になったんだ》
《こっちも問題ないよ》
耳ではなく、トレイシーの脳内にイソップとイライの声が直接響く。久々のやりとりにトレイシーは思わずくすくすと笑ってしまう。
「やー、懐かしいねえ。この感じ!」
《僕はあんまり嬉しくないけどね》
嫌そうなイソップの声に、それはそうだろうなあとトレイシーは目を閉じる。
『精神病棟』にいた頃、全てを記録されていたトレイシー達は互いに言葉を交わす事も、文章を交わすことも不可能だった。そんな中、脱走計画を進めることができたのは、深淵を通じてテレパシーで意思疎通が出来たからだった。
脱出計画の決行の日まで、ずっとこのやりとりをしていたのでイソップはそれを思い出してしまうのだろう。
イライは梟とのやりとりが似た様なものだし、トレイシーも失語症だったマルガレータと、ずっとテレパシーで会話をして来たので特に悪い記憶にはなっていない。
死の谷で通信機器が使えないなら、この能力を使えばいいのではとトレイシー達は思ったのだ。ここまで距離がある状態で使えるか少し不安だったが、それは問題ない様だ。
《本職のオペレーターの様にはいかないから、そこは分かってよね》
「分かってるよ」
トレイシーは傘を閉じると、霧で視界と足場の悪い谷底を歩き始めた。毒霧というが、特に色が変なわけでも匂いが変なわけでもない。こうしているとただの濃霧だ。この状態からあの洞窟を見つけたのは本当に運がいいと言えるだろう。
「これ、毒なんかなくても遭難しそうなんだけど……」
《不安な事言わないで欲しい》
《返事なくなったらすぐ納棺するから》
「気が早いって」
《ジルマンさんがドローンが特殊ペイント残してる筈だからそれ辿ってって。見えなくても臭いがするから分かる筈って》
「流石!助かる」
すん、と空気を嗅げば微かに鼻をつく臭気を感じる。この自然環境には合わない刺激臭に、これだなと目星をつけて、トレイシーは臭いの元へと足を進める。
偶々トレイシーが降り立った場所の霧が深かっただけのようで、場所を変えると少しだけ霧が薄くなった。目を凝らせば赤い顔料がところどころ、岩や木を染めているのが見えた。あれが例の目印で間違い無いだろう。
トレイシーはハイヒールで来た事を少し後悔しながら、特殊ペイントを辿って行く。飛んでいたドローンの残した跡だったので、時々見失いかけることもあったが、臭いのお陰で大体の方向を掴むことはできた。
そうして、映像通りの縦に岩肌にぽっかりと空いた洞窟に辿り着く。
「あった、霊廟の入り口。多分ここで合ってると思う」
《ドローンの操縦者が言うにはその先を三百メートル進むと、豪華な部屋があるらしい》
《中に入る前にドローンは壊れちゃったらしいけどね》
洞窟の中は黒い闇が広がっている。機器類は使えない事は分かっていたので、トレイシーは覆いのついた折りたたみ式の手持ち燭台に火をつける。広い闇を照らすことは出来ないが、それでも足元は良く見える様になった。
トレイシーはそろそろと洞窟の中に足を踏み入れる。何も見えない、広い空間と言うものはどこから何が来るかが分からないので、少し緊張してしまう。
《中入った?》
「今入った。あー、これ、気分は肝試しだよ」
《そういえば、トレイシーが単独で現場行くのは初めてだったね》
《出不精だから、トレイシーさん》
「それは否定しないけど」
イソップの言葉に、トレイシーは苦々しい表情になる。
実用性の高い異能持ちのイソップとイライとは違い、トレイシーは専ら研究と開発に明け暮れている。人の様に動く機械人形に、通信機器や探査機、設備の向上、深淵の武器の改良と、頭脳と技術の方がネストでも評価をされているのだ。
それをいいことにトレイシーは自宅としている放置された屋敷に引き篭もり、ネスト本部に来るのは本当に必要な時だけなのだ。
念話で二人と話ながら進んでいくと、燭台の灯りに不自然なものが照らし出される。
近づいてみれば、破損したドローンだった。トレイシーの身長よりも大きいサイズだ。ネストのマークが入っているので、探索に使われたもので間違いないだろう。
壊れてから大した日数は経っていない筈なのに、腐食と劣化が進み、数年放置されたものの様になっている。
「壊れたドローン、あったよ」
《だったら、部屋も近い筈》
「探索してみる」
トレイシーは燭台を掲げ、ドローンを中心として辺りを歩き回ってみる。すると、自然物ではない石壁に突き当たった。その壁に沿って進めば大きく開いたアーチ状の入り口に辿り着く。
扉のない、その入り口から燭台を掲げて、トレイシーは内部を窺う。重い埃とカビの臭いに口と鼻を覆いながら、部屋の中に足を踏み入れた。
室内は絵本で見る、お城の一室の様な内装をしている。天井からは重そうな豪奢な垂れ幕が吊り下げられ、綺麗な装飾の柱が等間隔で並んでいる。床にも高価そうな柄が織り込まれた絨毯が敷かれている。
当時はここで舞踏会が開かれていたとしても不思議ではない。とても死者を祀る霊廟とは結びつかない。――但し、床に大量に転がっている人骨が無ければの話だが。
《トレイシーさん、どう?見つかった?》
「ああ、うん。部屋は見つかって、中は――」
見えたものをトレイシーは事細かに二人に報告していく。映像が残せないので、文章で記録するしかないのだ。イソップが質問を繰り返し、イライがそれを記録していく。
トレイシーは説明を続けながら、部屋を見回す。二百メートルの長さに五十メートルくらいの幅の長方形の室内は、トレイシーが入ってきた入り口の反対側にもアーチ型の扉のない出入口が開いている。垂れ幕は元は鮮やかな紺碧。絨毯も深い群青色をしている。この分だと、壁紙も元は青色だったのだろう。
青色で全てを統一されている室内に、トレイシーは首を捻る。
「赤い死神って聞いてたのにな……」
ぽつりとトレイシーが呟くと、ふっと手に持っていた燭台の灯りが消えてしまう。風で消えない様に覆いもしてあったし、まだ蝋燭も健在だった。それなのに、炎が突然途絶えてしまったのだ。
暗闇に沈んだ空間に慌てたトレイシーだったが、火を取り出す前に、室内に青い光が差し込んだ。
「!」
一体どこからとトレイシーが思っていると、光は部屋に唯一ある、大きなゴシック調の窓から差している。窓には立派なステンドグラスが嵌め込まれており、反対側で大きな炎が揺らいでいるのが見える。宝石の様な様々な色合いの青い硝子を通し、炎の光は室内を青く明るく照らし出している。
突然灯った光に、トレイシーはポカンと口を開き、磨り硝子越しに揺らぐ炎を見つめてしまう。
《トレイシー?》
《トレイシーさん?》
「あ、ごめん。いきなり灯りが……」
報告しようとしたトレイシーの前で、窓の外をゆっくりと影が通り過ぎる。明るくなっていたので見間違いなわけがない。明確に人と分かる影が、窓の外を歩いていた。そのまま次の部屋へと向かっていった様に見えた。
――私の他に、誰かいる?
トレイシーはぐっと拳を握る。辺りには相変わらず、生物には致死量の毒を持つ霧が漂っている。こんな中に生きている人間がいるとでも言うのか。いや、果たして人間なのだろうか?
好奇心に勝てず、トレイシーは小走りで青い部屋を抜け、次の部屋へと駆け込んだ。部屋の境目で角度がついているので、次の部屋にまで青い灯りは届いていない。こちらは暗闇のままだ。
しかしトレイシーが一歩踏み入れた途端、部屋の内部が明々と照らし出された。先ほどのまでの部屋が青だったのに対し、この部屋は何もかもが紫で統一されている。同じように嵌め込まれたステンドグラスも紫色をしている。
その向こうに、佇む黒い影がある。その影はトレイシーが目を向けた途端、まるでこちらが見えているかの様にすーっと歩いていってしまう。
――追って来いとでも言っているみたい。
そっちがそのつもりなら、とトレイシーは駆け出した。紫の間を抜けると、次は緑で統一された部屋。窓の外をすっと影が通り過ぎる。そこを抜けると橙の間、白の間、そして菫色の間と続く。
それぞれの部屋の入り口に角度がついており、トレイシーは走り抜けながら、各部屋が円を描く様に配置されている事に気付いた。おそらく各部屋が一辺として、全てを繋げると六角形を形成しているのではないだろうか。そして各々の部屋についていた窓は六角形の中心を向いていた事に思い至る。
最後の菫の部屋は、全てが菫色で統一されている事は他の部屋と同じだった。しかし、出入口はトレイシーが入ってきた片方しか存在せず、反対側の壁には深いドレープの垂れ幕しかない。そして壁に嵌め込まれたステンドグラスは窓ではなく、両開きの扉になっている。
トレイシーはかなりの距離を走ってきていていたが、息切れもすることもなくその扉を見つめた。影はそこには映っていない。だが、きっとこの向こうにいる筈だ。
《トレイシー、何かあった?》
「誰か、いるみたい」
《誰か?毒霧は?》
「あるよ。私以外なら即死間違いなし。普通の人間じゃないよね、絶対」
《まさか、接触した?》
「まだ。ただ、向こうもこっちには気付いてるみたいで誘い込まれてるよ」
《は⁉︎》
《それ、すぐに引き返した方がいい。逃げられそう?》
「ん?なんで?今から相手を確認しようと思ってるけど」
テレパシーで会話を続けながら、トレイシーは菫色のステンドグラスの扉の前にまで、もう来ている状態だった。鼻歌すら歌いそうなトレイシーとは反対に、慌てた音声が脳内に響く。
《ちょっとちょっと!こっちがなんでって聞きたいんだけど!》
《無茶しないって話はどこに行ったの》
「まだしてないよ〜、無茶」
行動を止めにかかる二人に対し、トレイシーはウキウキとドアノブに手をかけた。
賢者の石がなかったとしても、なにかしらの手掛かり、若しくは死神の体の欠片でもあればいいなとトレイシーは思っていたのだ。それが、トレイシーが死神について言及した途端に、異変が起きたのだ。
これは絶対に当たりだ。これだけ派手に存在を主張するものの正体がただの幽霊なんて事はないだろう。
トレイシーは脳内で響く音声を勝手に小さくなるように調整して、ステンドグラスの扉を開け放った。
扉の先は黒が広がっていた。しかし、真っ暗だったわけではない。
円形のホールは天井に赤いステンドグラスが嵌っており、室内にも大きな燭台が六つ、青白い炎が煌々と輝いている。灯りはあるのだ。
その代わりにホールを囲う壁も、天井から吊り下がるとばりも、トレイシーが踏み締める絨毯も、なにもかもが黒で統一されていた。
部屋の中央には一つの大きな白い棺が配置されており、他には何もなかった。各部屋に転がっていた人骨もここには無い。それどころか、誰かに管理されていたかのように、塵一つ落ちていない。
「……………………」
トレイシーはホールをぐるりと見回した。青白い炎の燭台は、六色のステンドグラスの前に等間隔で並べられている。それぞれのデザインには見覚えがあるので、今トレイシーが走り抜けてきた部屋が窓の向こうにあるのだろう。
それならば、怪しい人影がいたのはこのホールで間違いない。出入口は見たところ、トレイシーが開けたこの菫の間にしか存在しないようだ。トレイシーは影を追ってここにきたので、すれ違って逃げ出すことは不可能だろう。
トレイシーはじっと部屋の中央にある棺を見つめると、顳顬に指を当てる。
「今、最深部の部屋まで来たよ」
《オーケー、説明してくれる?》
「うん」
ホールの内部の詳細を伝え、建造物の内部構造の事と各部屋の事も報告する。そして目の前にある棺桶の事もトレイシーは報告する。
「部屋の中央に、白くてとっても立派な棺が置いてある」
《他には何もない?》
「見たところは、無いね。隠し扉とかがなければ」
《さっき言ってた人影っていうのも見当たらない?》
「人の骨なら嫌ってほどあるけど、動けそうなのはないかな」
《ということは、トレイシーの見間違えか幽霊か》
《棺の中身かって事になるね。蓋、開けられそう?》
「ちょっとやってみる」
白い石棺は、大理石で出来ている。蓋だけで何百キログラムあるか分からない。試すまでもなく、女性の細腕で開く筈もなかった。
ところがトレイシーが石の蓋に指先で触れると、するすると蓋が滑るように動いてしまう。とんとトレイシーが払うと、からんと軽い音をたてて、蓋は地面に転がった。
「開いたー」
《え?もう?》
「古かったから脆くて…………」
適当な話を盛りながら、トレイシーは棺の中を覗き込んだ。そうして、言葉を失ってしまった。
棺の中には白い花々が敷き詰められており、その中に一人、男が横たわっている。ここまで来た部屋の痛み具合から、人がいなくなってから相当の年月が経っている筈だ。それなのに花も男も、今し方棺に収められたばかりの様に瑞々しく、眠っているようにさえ見えた。
青白い肌は男に命が無い事の証だったが、月光を紡いだような白い髪や彫刻の様な顔は、芸術家の手によって造られたものと言われても信じてしまいそうだ。
その遺体は葬送の儀に則られた通りに葬られている筈なのに、身に纏っているのは白や黒の礼服ではなく、ワイン色、ルベライトの色の華やかな衣だ。
トレイシーは棺で眠る男の姿を見つめたまま、動けなくなってしまう。これは、いくらでも眺めていたくなる。許されるならずっとずっと見ていたい。
だが男の腹の上で組まれた腕が血の様に赤く、魔物の様な爪をしていることに気付くと、本来の役割をトレイシーも思い出した。いくら美しくても見惚れている場合じゃない。
「男性の遺体が一つ入ってるよ。赤い服着てて、よく見てみないと分からないけど、ちょっと普通の人とは違うかも」
《男性って分かるの?服で判断したとか?》
「骨じゃないよ。腐ってもないし、ミイラでもない。なんか眠ってるみたいな状態の、綺麗なご遺体なの」
《他は全部白骨化してるのに……その人だけ特別って事かな》
《誰かとか分かればいいんだけど、何か手掛かりはある?》
「調べてみる」
そう言って、トレイシーは棺の周りをぐるりと一周する。何か石棺に文でも残って無いかと思ったのだ。だが棺はつるりと滑らかな面のみで、どこにもなにも刻まれてはいない。蓋も同じだった。
「ん……?」
手掛かりが無いことにがっかりしつつ、立ち上がったトレイシーの視界の端で、赤い光がちらついた。そちらに首を向けると、遺体の男の胸に乗った花束の下から赤い光が漏れ出ている。
駆け寄って、トレイシーが白い花束を持ち上げる。男の胸には石の壁のような深い罅割れがあり、そこの奥で赤く光を放つものがある。禍々しく輝くそれには、深い負の感情が渦巻いている様だ。
「……はっ」
トレイシーは棺の縁を掴んだまま、ずるりとその場に座り込んだ。
「ははっ!」
《トレイシーさん?何かあった?》
ただならぬ感情を読み取ったのか、イソップが訝しげに問いかけてくる。トレイシーはそれには答えず、頭上の赤いステンドグラスを仰ぎ見る。
「………………賢者の石が、人の死体だなんて聞いてないよ、マルガ」
トレイシーはぽつりとそう溢すと、目を閉じた。
赤い、賢者の石と呼ばれる宝石さえ手に入ればなんとかなると思っていたのに。人体と融合しているとは思っていなかった。
トレイシーは例え死体でも、人の体を利用したくはない。余程の罪がある人間や、恨みがある存在には非情にもなるが、見ず知らずの、それも疫病の被害に巻き込まれて、身を捧げた人の尊厳を傷つけたくはない。
アサイラムの連中と、同じ事はしたくないのだ。
「………………………………」
《トレイシー?平気かい?》
《死んだ?蘇生する?》
「生きてるよ」
気遣わしげにしつつ、そっと納棺しようとするイソップにトレイシーは思わず笑ってしまう。
――そうだ、今は感傷的になっている場合じゃない。こちらにもタイムリミットがあるのだ。
「いい知らせと悪い知らせがあるんだけど、いい知らせから報告するね」
《そこ、選ばせてくれないんだ》
「賢者の石らしきものが、見つかりました!」
《それは良かった》
「ただ、人の死体なんだよねえ」
《それは、もしかして棺の中にいるっていう……》
「そう、五体満足の綺麗な男の人。そんで、多分霧の発生源この人だと思う」
屈んだことでトレイシーも気づいたのだが、棺からうっすらと白い靄が次から次へと流れ出している。ドライアイスの煙の様にも見えるが、これはそんな無害なものではない。
もしもトレイシーがこの男を担ぎ出すことが出来たとしても、他の人間が死んでしまう様では、意味がない。
《トレイシー。一先ずご遺体から、髪の毛を少し戴く事は出来ないかって。サンプルが欲しいって》
「分かった」
そのくらいなら、問題はないだろう。トレイシーは小型のナイフを取り出し、男の長い髪に触れる。
