色無き芙蓉(ナワトレ)
「ああ、トレイシー!素敵!きっとやってくれると思っていたわ!」
「喜んでもらえて何より……」
紫の石が嵌ったサークレットを手に、女は嬉しげな声を上げている。トレイシーはソファーにだらしなく寝転んだまま、依頼主である女に口先だけでそう答えた。
――そのうちに取りに来るだろうと思っていたけど、まさかその日のうちにやってくるとは思ってなかった。久々に動いたので、暫く家でだらけてから連絡すればいいかと思っていたのに。
「だって、早く欲しかったの。素敵な色でしょう?染まり具合も、素晴らしいわ……」
「ちょっと私には分からないかな……」
うっとりとサークレットを見つめる女に、トレイシーはハイヒールを脱ぎながら小さくそう呟いた。
深淵と呼ばれる異界の闇が、世界を侵食するようになって長い長い時が経った。
最初の頃、人々はそう予言した者達の話を虚言癖の戯言と笑い飛ばしていた。しかし住み慣れた場所が闇に沈み、次々と見慣れぬ魔物が現れ、深淵に触れ気が狂う者達が後を絶たず、侵食された生物が、隣人が化け物に変わる姿を目の当たりにし、現実と思い知らされたのだ。
トレイシーが所属するネストは、元々凶悪犯罪を取り締まる組織だったが、現在は世界が深淵に沈むのを阻止する為の財団になっている。制服が黒で統一されている為に「カラス」と呼ばれている事もある。
対して、鏡の前でサークレットを額に当てがい、鼻歌を歌っている女――マルガレータはアビス、深淵をこの世の救いと考え、信仰している団体に属している。属す、というよりも彼女自身が信仰されていると言っても過言ではないのだが。
マルガレータは、肉感的なボディラインを惜しげもなく強調したスーツを身に纏っている。黒地に金の装飾が入った服は決して彼女を下品には見せず、寧ろ女王の様な風格を与えている。
顔も非常に美しいが、左眼は金と黒の入り混じった謎の植物に侵食され、顔の半分を埋め尽くしてしまっている。美しいが、悍ましい。深淵の闇を顔に埋め込んだ女は「悪の花」と呼ばれ、信仰と恐怖を各々の人の心に呼び起こす。
敵対している様にしか思えない二つの組織だが、アビスは深淵を信仰し、侵食した物品を蒐集して仲間を集うという行動をしているだけなので、ネストも仲間ではないが、完全な敵という訳でもないという微妙な関係を保っている。時と場合によって、敵対することも協力することもある。
今回の白衣の男達の情報と、深淵に汚染された宝物の在り方を持ち込んだのはマルガレータなのだ。
トレイシーはジャケットを脱ぎ捨て、ネクタイを外しながらマルガレータに尋ねる。
「それ、回収してくれるんだよね?」
「もちろん!貴女達が持っていても処理に困るでしょう?あの人の美術館にちゃんと飾ってあげるわ。あ、今度見に来てくれてもいいのよ?」
「遠慮します……」
名案と言わんばかりに瞳を輝かせるマルガレータに、トレイシーは首を振って拒否を示す。彼女の言う美術館はアビスの本拠地にある。つまりは異界だ。行ってしまったら戻って来れない。
トレイシーはスラックスを脱ぎながら、疲れた顔をマルガレータに向けた。
「それ所蔵してる博物館と交渉して、アサイラムの残党の調査もして、内通者の割り出しして……なんか美味しいところだけマルガレータに持ってかれた感じなんだけど」
「嫌だわ。私がそんな、不利益な取引を持ちかける訳ないじゃない。最高の報酬を用意したわ」
紅い唇で蠱惑的に微笑む女が差し出した封筒。厚みのあるそれをトレイシーは受け取りながら、目を細める。
「最高の報酬?本当かなあ。そんな事言って、またうちを利用しようって言うんじゃないの?」
「信じて頂戴。今回は純粋な情報提供よ」
「ふーん……」
トレイシーは信じていない顔で封筒の中から書類の束を取り出す。そして中身を読み進めているうちに訝しげだった表情が、真剣なものに変わっていく。
マルガレータはソファーの肘掛けに座ると、歌う様に語り出す。
「死に至る伝染病が猛威を振るった時代、王様は病人が出た村々を全て封鎖して人の出入りを禁じた。彼らが全て死に絶え、病が消える事を願って。それから数年が経ち、病の脅威を人々が忘れた頃、あちらこちらの夜会に見慣れない、赤いドレスの女性達が現れるようになるの。そして、夜会の場にいた者達が数日以内に次々と血と死の疫病に倒れた。赤は死の色として恐れられたわ。王様は赤い女達の正体を突き止めるよう命じるの。兵士が彼女達の跡を追うと、病により滅びた村のその奥、深い谷へと女性達は消えていく。谷は死者とされた者達の享楽の宴の場となり、そこには赤い死神が君臨していた」
「……割とよくある御伽話に聞こえる」
「そうね。でも昔話、地域の伝承というものは馬鹿にできないの。そこに教訓や真実が潜んでいることがあるもの。少なくとも疫病と村の封鎖は実際にあったことだわ。死の谷も実在する」
「それで、この赤い宝石の話になるの?」
トレイシーが手元の書類を指で叩いた。書面にはモノクロで色はついていないものの、大きな石に向かい、祈りを捧げる人々とマントを纏った骸骨が描かれている。
「ええ。元々は村の守り神のような扱いを受けていたみたい。それが村人達の恨みや怒りを込めた呪いを受けて、死神になったんですって。実は王様はその宝石が欲しくて、村人達が死滅するのを狙ったんじゃないかとも言われていたそうね」
「……マルガレータも狙ったんでしょ」
トレイシーが目を細めてそう問えば、彼女はにっこりと笑って頬に手を添える。
「だって大きな宝石なんて、素敵でしょう?欲しくなってしまうわ。それに曰くつきなら、きっと深淵の力に染まったら素晴らしい美術品になると思うの。一説では不老不死になれる霊薬、賢者の石だったんじゃないかともあったわね」
「そんなに欲しいのに、私に譲ってくれるんだ?情報」
「そうねえ。ただの呪われた宝石だったら、良かったんだけど。その死の谷、深淵の力ととても相性が悪いの。私のお花も枯れかけちゃうし、ペットたちも動けなくなってしまうし」
「!それって」
マルガレータの話に、トレイシーは目を見開いた。深淵の花が枯れ、魔物が入れないのならば深淵の侵食が及ばない場所ということだ。しかし希望を見出すトレイシーに、マルガレータは首を横に振って見せた。
「残念ながら、人は住めないわ。死の谷と言ったでしょう。毒の霧が蔓延しているの。ガスマスクも効かないわ。調査に向かった人員は全滅よ、私以外ね」
「あー……そういう事。だからそっちは手を引くと」
「ええ。でも貴女は興味があるでしょう?」
手元の書類にトレイシーは目を落とした。情報はあるが、内部にまで調査が及んでいないので、赤い石が本当にあるかどうかは分からない。それでも深淵の影響を跳ね除ける要因は、非常に気になる。深淵の侵食と、日々戦うネストにはこの賢者の石は救いになるかもしれない。
それだけではなく、トレイシーのずっと抱えている望みを叶えるヒントになってくれるかもしれない。
トレイシーは書類を綺麗に揃えると、封筒の中に丁寧に戻した。
「じゃ、これはありがたく頂戴するね」
「気に入ってもらえて良かったわ」
「はい、じゃ帰って帰って」
トレイシーは猫の子を追い払うように手を振り、ごろりとソファーに横になった。シャツ一枚の霰もない姿で寛いでいるトレイシーに、マルガレータは不満げに唇を尖らせた。
「もう、本当になんて格好してるの!トレイシー」
「シャツ着てるだけいいでしょー……自分の家でくらい自由にさせてよ……」
「私というお客様がいるでしょ」
「…………………………」
トレイシーは黙ったまま、ソファーの肘掛けからこちらを見下ろしているマルガレータの顔をじっと見つめた。トレイシーは微かに微笑んで、手を伸ばす。
「マルガレータは、とっても綺麗になったねえ」
「…………貴女は、ずっと綺麗だわ」
頬に触れるトレイシーの手を好きにさせながら、マルガレータもトレイシーの冷え切った頬を撫でる。そうして囁いた。
「でも、ごめんなさい。私には美しいと思えない」
「うん」
「君は、それでいいんだよ」
『彼女の言い分は僕にも理解できるところはある』
耳に装着した通信機から聞こえる声に、トレイシーは苦笑する。
『人は死ぬからいいんだ。容姿もいつかは衰えるものだよ』
「イソップは、そう言うと思ったよ」
『アビスに染まるのは全然理解出来ないけど。あの人と交流するのやめたら?』
『それはそう』
「もう、イライはそろそろ機嫌直してよー……」
いつもの朗らかな声ではなく、どこか硬い声の賛同に、トレイシーは困った顔になる。数日前からイライはとても機嫌が悪い。ぶつぶつと文句を言い続けている。
『人には能力過信するなって言っておいて』
「今回は仕方ないんだってば。他に手がないんだからさあ」
トレイシーは慎重な足取りで断崖の縁に立ち、下を見下ろす。
眼下の深い渓谷には霧が立ち込め、日の光を浴びて錦の雲海を形成している。木々も所々が紅葉しており、思わず見惚れてしまいそうな絶景が広がっている。ここが死の谷と知らなければ、いつまでも眺めていたくなる。
トレイシーは少しだけ音質の悪くなった通信機を指で押さえつけて、口を開く。
「――着いたよ」
『もうノイズ入ってるけど、谷に降りた?』
「まだ崖の上だけど。機器類は使えないっていうのは本当なんだね」
ポケットから計測器を取り出したトレイシーはインジケーターを確認する。こちらはまだ正常に動いているらしく、エラー表示にはなっていなかった。但し、表示された数字に眉を顰めた。
「霧の毒性は、ここでもうアウト表示だけど」
『それは誰も近付けない筈だ』
「取り敢えず、降りてみるね」
『本当に行くのかい?』
心配そうなイライの声に、トレイシーは見えないと分かりつつもひらひらと手を振る。
「こんな時くらいしか私の異能役に立たないんだから、イライは心配しすぎ!」
『トレイシーさんが楽観的過ぎると思うんだけど……言っとくけど何かあっても誰もそこには回収に行けないんだからね?』
「分かってる分かってる」
『到底分かってる人の返事じゃない……』
きっと、イソップは苦虫を噛み潰したような、渋い顔をしているんだろうなあとトレイシーは忍び笑いつつ、ぱんと手に持っていた長傘を開いた。
心配してくれている二人には悪いが、トレイシーとしては、今回の死の谷の調査が楽しみで楽しみで仕方がなかったのだ。マルガレータから貰った資料によれば、賢者の石は「死神の霊廟」にある可能性が高いのだそうだ。
――死神の霊廟って事は、死神に関するものが何かあるのかもしれない。もしかしたら死神の死体でも残っているかも。
赤い疫病をばら撒いた死神。どんな姿をしているのだろう。あの絵の通りに骸骨なのか、それとももっとずっと悍ましい姿だったりするのだろうか。
「私以外の死神なんて、初めて見る……!」
『?トレイシー?何か言った?』
「なんでもないー!」
うきうきとした足取りで、トレイシーは崖の上から飛び降りた。
