逆位置の御呪い(ナワトレ)




そうして着替えてきたナワーブは、益々と機嫌が下降することになる。
新しい洋服は気分が上がると誰かが言っていたが、ナワーブの場合は良くなるどころが、真逆に苛々を募らせる要因になった。
談話室にやって来た、白髪にワインレッドの衣装のナワーブを見た仲間達は、皆驚いた顔になりそそくさと距離を取る。そうして遠巻きにひそひそとなにか話しているのだ。これに苛立たないわけがない。
思わず「言いたい事があるなら言え」と怒り気味に言えば、何故か安堵した顔で「ああ、良かったナワーブだ!」と喜ばれる。全くもって意味がわからない。
ナワーブは腕を広げ、自身の姿を見下ろした。どうにもこの格好が仲間達を不安にさせているらしい。
衣装モチーフは黒死病の化身、死に追い詰められた村人たちの信仰の象徴、いわば死神のようなもので、名は「赤服の人物」という。
服の系統は貴族風、頭になにも被らず、髪も下ろした状態なのは初めてかもしれない。ナワーブはそう思った程度だった。しかしそれを言うと、マーサに呆れた顔を向けられる。
「止まって黙られると誰か分からなくなるわ」
「……そんなにか?」
「お前、鏡見たかのかよ。そんな髪も顔も真っ白けになってたら幽霊かと思うわ」
「化粧で顔変わるのって女性だけじゃないんだね……僕も知らなかった」
ウィリアムとイライにまでそう言われてしまい、ナワーブは居心地悪さに頬を掻いた。
ナワーブの格好は死人の顔色に、死の象徴の白い髪と赤い服、病の伝播者である赤黒い腕と黒い爪。胸の中央は罅割れ、罪悪の根源である藤の蔓と白い蝶がその罅を覆い隠す。正に死神だ。
蝶はナワーブの顔の右側も覆い隠しているので、ウィリアムは眉を顰めて首を傾げる。
「顔半分、隠れてるけどよ。お前それ目は見えてんのか?」
「一応見える」
「ならいいけども」
ナワーブの姿に慣れてきた面々は、漸くいつも通りのやりとりができる様になる。ナワーブとしても仲間に警戒されたままでは疲れてしまうので、緊張が解けた事に安堵する。


――だから、自身の姿が人からどう見えるのかを、ナワーブはつい失念してしまったのだ。


「やっ!」
「トレイシー?」
人一倍臆病な少女が、怯えた目をナワーブに向ける。
「か、噛まないでっ!」
肩を掴んでいたナワーブの手を振り払い、トレイシーはそう叫ぶと走り去ってしまう。


メリーに連れられて談話室にやってきたトレイシーは、最初から様子がおかしかった。顔色は悪く、きょろきょろと辺りを見回し、何かを探している。
ナワーブが話しかければ顔色は益々青くなり、本当にナワーブかと問いかける。不思議な事を言うトレイシーの顔を、ナワーブが心配して覗きこめば、悲鳴を上げて縮こまってしまう。
何か、ここに来るまでにあったのかと思い、ナワーブはメリーに目線を向ける。が、メリーにも心当たりはないらしく、首を横に振られてしまう。
その後、恐慌状態だったトレイシーの肩をナワーブが掴んだ途端、限界を迎えたトレイシーに逃げられてしまったのだ。
突然の事にナワーブはぽかんとしてしまったが、はたと自身の今の姿を思い出す。――もしや、怖がられていたのは俺のこの格好のせいか?だが、それだけであんなに怯えるだろうか。
ぐるぐると思考を巡らし、そうしてパズルが嵌まる様にナワーブはある事実に思い至る。
「そういうことか……!」
「え、おいナワーブ⁈」
ナワーブは自身を呼び止める声を振り切り、部屋を飛び出すと急いでトレイシーの後を追いかける。走りながらナワーブは歯噛みする。
――俺は馬鹿だ。なぜ気づかなかった。
悪夢に魘されていたトレイシーと、壊れてしまったドリームキャッチャー。悪夢を払う御守り飾り。
悪夢。そう、悪夢だ。キーワードはそれだ。
相変わらずナワーブが失った記憶は戻らない。だが、それが夢、悪夢に関わるものであった事は間違いない。そしてそれはおそらく自身が見ていた夢と繋がりがある。
今朝の夢で、何かが起きた。ナワーブ自身は御守り飾りと夢の記憶を失った。
寝起き姿のまま、憔悴した顔で何かを、誰かを探していたトレイシーはきっとなにかしらの悪夢を見たのかもしれない。
何かに追われる夢か、何かが迫る夢か。どちらにしろ、眠れなくなるレベルの悪夢だ。だから助けを求めてナワーブを探していたのだろう。
そんなトレイシーの精神が弱っている最中に、選りに選ってナワーブがこんな悪夢の権化の様な姿をしていたので、パニックを起こしてしまったのではないだろうか。
「ったく、タイミングが悪過ぎるだろ……!それとも狙ってんのか?」
ナワーブは悪態を吐きながら、回廊を走り抜ける。トレイシーの姿は疾うに見えなくなっていたが、あの様子ではどこに向かったかは大体予想がついている。
エントランスや階段ホール、廊下ですれ違う面々は疾走する赤いナワーブに驚いているのだが、当人はそれどころではない。息を切らしながら、死神の面影もなにもない姿でナワーブは走って走って目的地まで辿り着いた。
「はっ……はぁっ……」
ナワーブは膝に手をつき、体を折って呼吸を整える。額の汗を拭い、見上げた先にあるのは自室の部屋番号だ。そっと室内の気配を探れば、予想した通りにトレイシーがいるのが分かる。
「…………」
ドアノブに伸ばした自身の腕をナワーブは見下ろす。血のような色の手と、黒く鋭い爪に既視感を覚えた。だがこの衣装は今日、今し方来たばかりだ。何故そんな感覚になったのかがさっぱりと分からない。
少し逡巡して、ナワーブは魔物の腕にも見えるその手袋を外す。なんとなくだが、トレイシーはこの手に怯えていた様な気がしたのだ。
そもそも、ここに来るまでに着替えてしまえば良かった話なのだが、ナワーブにはその発想がすっかりと頭から抜け落ちてしまっていた。自身の間抜け加減に呆れてしまう。
音をさせないようにノブをそっと捻り、ナワーブは扉を少しだけ開ける。中を窺えば、トレイシーが床に座り込み、肩を震わせている後ろ姿が見えた。ナワーブがそのまま静かに扉を押し開けると、ぐすぐすと鼻を鳴らしている音も聞こえる。
――どう見ても、泣いてんな。
あのパニック状態から、トレイシーがナワーブを探してこの部屋に駆け込むであろう事は予測できていた。
だからこそ、やはり着替えてくるべきだったかとナワーブは後悔する。この格好で声を掛けたら、トレイシーを更に怯えさせることになるだろう。最悪、過呼吸を起こしてしまうかもしれない。
このまま落ち着くまで待つという手もあるが、この泣きじゃくっているトレイシーを放置するというのも無理な話だ。ナワーブが耐えられない。
「えっく……ひっく……うう……」
「………〜っ!」
ナワーブは髪を掻き毟り、考えることを放棄した。
大股で寝台に近づくと、その勢いのままシーツを引っぺがす。そしてそのシーツを、トレイシーの頭上にばさりと被せた。
「ひゃ……っ」
「動くな!」
突然シーツを被せられ、驚いて抜け出そうとするトレイシーにそう言い置く。ぴたりと動きの止まったシーツの塊を横目に、ナワーブはクローゼットを開け放つ。
中から普段着の替えを取り出すと、毟る勢いで赤い服を脱ぎ捨てる。下着姿になったが、トレイシーには見えていないので気にしない。見えたところでナワーブは全く困らないのだが。
服を脱いだ事で髪と肌は本来の色に戻った筈だ。ナワーブは普段着を手早く身につけ、整えられていた髪を手でぐしゃぐしゃに崩した。
確か、イライが化粧がどうのと言っていたなとナワーブは手近な布で顔を擦る。これで化粧が落ちたかどうかは分からないが、今は鏡を見る間も惜しい。
ナワーブはちょこんと言われた通りに大人しくしている白い塊からシーツを取り去ると、トレイシーの目の前に膝をついた。
「おら。これでいいだろ」
戸惑い揺れていたトレイシーの瞳が、ナワーブに据えられる。
乾きかけていたトレイシーの目元が潤み、新しい涙が流れ出す。まだ泣く涙があんのかとナワーブが呑気に考えていられたのはそこまでだった。
「ナワーブ‼︎」
「おうっ⁈」
両手を伸ばしたトレイシーが、ナワーブに飛びついて来たのだ。片方の膝をついただけだったナワーブは、バランスを崩してそのまま仰向けにひっくり返ってしまう。
後頭部をフローリングに強打したせいで星が見えたが、ナワーブはぐっと堪えた。今は、ひんひんと子供のように泣くトレイシーを宥めるのが先だ。
今までどこにいたのとナワーブを詰り、ぽかぽかと両手で胸を叩くトレイシーを抱きしめて背中を撫でる。
悪夢を見たら頼れと言ったのはナワーブ自身だ。助けてやると豪語したのも自分だ。この責苦は甘んじて受け入れるしかない。
「嘘つき……嘘つき!ナワーブいないもん……!いなかったもん……っ!」
「ああ、約束を守れなくて悪かった」
「ばかぁ……!ナワーブのばか!」
「お前にとったら、そりゃ馬鹿だろうよ」
トレイシーをあやしながら、ナワーブは上体を起こした。トレイシーのご機嫌はまだまだ悪いままだ。ナワーブに対して八つ当たりをし始める。
しかし惚れた弱みか、それすらも甘えられてるようでナワーブは口元が緩んでしまう。
「探してたのに……っ!どこにもいないし、怖いのいるし……!ナワーブなのに、ナワーブじゃないし……」
「分かった。分かったから。いい加減、泣き止んでくれ」
ナワーブはそう言って、ぽろぽろと涙を流すトレイシーの頬を指で拭う。逆の頬も同じ様に丁寧に拭ってやれば、トレイシーはきょとんとした顔でナワーブを見上げる。
「お前に泣かれると辛いんだ」
「なんで……?なんで、ナワーブが辛いの?」
「………………好きな奴が泣いてるのを、喜ぶ奴がいると思うか?」
囁くようにそう言いながら、ナワーブは自身の額をトレイシーの額にこつりと合わせる。
トレイシーはと言えば、ナワーブに言われた言葉の意味をすぐに理解出来なかったのが、ぱちぱちと目を瞬かせている。
「へ……?えっ?あっ、好き……って?わ、私?」
「ふっ。他に誰がいんだ?」
ナワーブがくく、と笑えばトレイシーの蒼白だった頬はみるみるうちに薔薇色になり、そして林檎の様に真っ赤に染まる。
「ふあっ⁈ええ⁈嘘っ!」
「嘘つき呼ばわりばっかしやがって。流石に俺でも傷つくわ」
「あ、ごめんっ!そ、そういう意味じゃなくてっ……その、私が信じられなくて……というか、え?なんで?いつから?」
「……さあ、いつからだろうな」
トレイシーの問いに、ナワーブは目を伏せながらくつりと笑う。
そんなこと、ナワーブの方が聞きたい。気付いた時にはもう手遅れな程好きだったのだ。
トレイシーの涙は、疾うに引っ込んでいた。それでも至近距離で見える目元は赤くなってしまっている。
――明日には腫れてるんじゃないだろうか。
そう心配しながら、ナワーブは親指で潤んだ目尻を拭ってやる。
「泣き止んだな」
「え、あ……」
ナワーブが顔を離すと、トレイシーからは惜しがるような声が漏れた。
しかしナワーブはそれには気付かず、無理矢理作ったような笑顔をトレイシーに向ける。
「……悪い。これでどうこうしようってつもりはねえよ。お前にその気が無いのは分かってる。だから忘れ」
「私も好きなのっ‼︎」
ナワーブの言葉を遮り、トレイシーがそう叫ぶ。
突然の告白にナワーブが呆気に取られていると、眦を決したトレイシーが両手でナワーブの胸倉を掴み、離れた体を引き寄せる。
「勝手に告白して、勝手に自己完結しないでよ!それに、なんで勝手に答え決めてるの!そんなの言い逃げじゃん!返事くらい聞いてよ!」
「わ、悪かった……」
トレイシーの剣幕に、ナワーブは謝ることしかできない。さっきまで怯えてみーみー泣いてた筈なのに、この力強さはどこから来ているのか。
「あのね、私はぼーっとしているだけなのに目つきの悪さで睨まれてると思われちゃうナワーブも、真面目な顔でボケた事言うナワーブも、ただただ食いしん坊なナワーブも、笑いの沸点が低すぎるナワーブも、おっちょこちょいでやらかしても澄ました顔で誤魔化してるナワーブも、本当は面倒くさがりなナワーブもみんな好きだよ!」
「おお……俺の総評やべえな」
ナワーブは呆気に取られながらもそう呟いた。ウィリアムが言っていた「格好いい兄ちゃん」くらいの評価はしてもらえてるかと予想していたのだが、勘違いだったらしい。
けれども、それだけ自分を見ていてくれたのかと思えば、悪くはない気分だ。
「だからねっ!ナワーブに、好きって言ってもらえて、嬉しかったの……」
最初は威勢が良かったのに、言っているうちに冷静になってしまったのかトレイシーの言葉はどんどんと小さくなって行く。
最終的にナワーブの胸倉を掴んでいる手に、顔を突っ伏してしまう。今更ながら恥ずかしくなってしまったらしい。
自身の胸に顔を埋めて、耳を真っ赤にしてる少女にナワーブはまたもや口元が緩んでしまう。
――こいつはどうしてこうも、やる事なすこと全てが可愛いんだろうか。
堪らず華奢な体を両腕で抱きしめる。もう遠慮する必要はどこにも無い。腕に力を込め過ぎたのか、トレイシーがじたばたと踠き始めるが離す気は起きない。
「ちょっと!苦しっ」
「そうか。俺も嬉しい。お前から同じ想いが返ってくるとは思ってなかった」
「私もだよ……で、確認なんだけど」
「なんだ?」
ナワーブに抱き竦められたまま、トレイシーは首を傾げた。
「これは両思いって事でいいんだよね?恋人になったんだよね?」
「ああ、そうなるな」
「じゃ、怖い夢見たら今度から一緒に寝ようね」
「……………………マジか」
信頼しきった顔で、純粋無垢な瞳でそう言うトレイシーに、ナワーブは天井を仰いだ。







ずっと突き刺さっている視線に耐えきれず、ナワーブは手遊びにしていたアヒル型のリモコンから顔を上げた。
「トレイシー、穴が空きそうなんだが」
「ごめん、でもなんか気になって集中出来ないんだもん……」
「お前が待てって言ったくせに」
「うう……」
トレイシーの膝には本が乗っている。今読んでしまいたいからというので、ナワーブは一度部屋に戻ろうとしたのだ。
それをすぐ済むからと引き止めたのはトレイシーだ。ナワーブは言われるがまま、大人しくトレイシーの部屋の寝台に寝転び、本の読了を待っていたのだ。待ち過ぎて、少し眠くなってきている。
ナワーブが不満げにトレイシーを睨むと、抱えた本を顔の前に掲げ、トレイシーも防御態勢になる。
「それは、私が悪かったけど。でも、ナワーブもなんでその服着てくるかな。視界の端に派手な色があって気が散るんだけど」
トレイシーの指摘の通り、ナワーブが今身につけているのは「赤服の人物」だ。物が溢れているトレイシーの部屋でも、これだけ大きな赤があれば嫌でも目を惹く。
唇を尖らせているトレイシーに対し、ナワーブは「気分だが」と答えて寝返りを打った。

長い片思いを終え、漸くトレイシーと恋人同士になれたナワーブだったが、一つ不満があった。
それは普段は子犬の様に懐いて甘えてくるトレイシーが、この「赤服の人物」を着ている時だけ絶対に近づいてこないことだ。同じゲームメンバーになったとしても、絶対に視線が合わない。
それがナワーブには非常に面白くなかった。
この服がトレイシーに怖がられていることは初日で思い知った。怯えられたくなければ、そもそも着なければいいことも分かっている。
分かった上でナワーブは「赤服の人物」を着続けた。遠回しに着ないで欲しいと願うトレイシーの言葉も、気付かないふりを貫いた。
だって、気に入らなかったのだ。
ナワーブはまだ何もしていないし、中身は同じで変わっていないのに、服装と髪型が変わっただけでトレイシーが怯えた目を向け逃げていく。ナワーブがいじめたわけでも怖がらせたわけでもないのに、トレイシーにそんな態度を取られるのは非常に腹立たしい。
あまりにあからさまな態度をトレイシーが取るので、裏で何かしたのではと疑われ、女性陣に尋問紛いの事までされたのだ。
そこまでの事をされてしまえば、ナワーブも引くわけにはいかない。
半ば意地になっていたと思う。他人から見たら、くだらなくても構わない。絶対にこの格好でもトレイシーを懐かせる。
そうナワーブは決めたのだ。

――まあ、粘り勝ちだな。
寝返りを打った先でナワーブはそう、ほくそ笑む。
以前のトレイシーだったらこの格好を見れば扉の影で震えていたのに、今や平然とした顔で部屋に招き入れてくれるまでになった。
ナワーブも、本当は気付いている。トレイシーは頑なに口を割らないが、悪夢で見た何かをこの姿に重ねている事を。残念ながら、ドリームキャッチャーと共に夢の記憶も失ったナワーブにはその内容は分からないままだが。
あれから新しい悪夢は見ていないとトレイシーは言う。だったら、忘れるのが一番だ。現実が夢に負けるとはナワーブには思えない。トラウマは消えないが、夢は消える。泡沫の記憶など上書きしてしまえばいい。
ぱたりと重い本を閉じる音に、ナワーブは体を起こした。トレイシーが手にしていた本は、まだまだページがあった筈だ。しかし集中が途切れたのか、トレイシーは本を棚に片付けてしまう。もういいのかとナワーブが問えば、「いい時間だし」と返して来たので続きは明日にするつもりの様だ。
ナワーブは寝台から降り、壁の時計を見た。時刻は午後八時を過ぎていた。
「なら飯にするか」
「そうだね。…………もしかして、ナワーブその誘いの為に来たの?」
「お前、本に夢中で昼抜いてただろ」
「……あはっ」
小首を傾げて子猫の様な仕草と笑顔で誤魔化そうとするトレイシーに、ナワーブは目を細めた。――誰が教えこんだ、このあざといポーズ。
恋人ってどうしたらいいのかと周りの女性陣にトレイシーが相談して回るせいで、二人の関係は荘園中に知れ渡っている。訳知り顔で揶揄ってくる連中にナワーブは非常に閉口しており、別に隠すつもりは無かったが、トレイシーにある程度の口止めはしておくべきだったとナワーブは後悔している。
大方これもマルガレータ辺りが「これであの堅物もイチコロ」とかなんとか吹き込んだのだろう。
ナワーブはふっと息を吐き出すと、トレイシーの頭を片手で乱雑に撫でる。
「わわっ」
「お前、あんまりあの連中の言うこと間に受けるなよ。揶揄われてる事自覚しとけ」
「え?そうなの?」
「ああ」
伸びをしているナワーブをきょとんとした顔で見上げているトレイシー。やはり、作った顔よりもこの方がナワーブには好ましい。
一度、女性陣には釘を刺す必要がありそうだ。ナワーブが面白がられる分にはまだいいが、トレイシーに余計な事を吹き込まれては困る。
そんな事を考えながらナワーブが扉に向かうと、慌てたトレイシーに呼び止められる。何事かとナワーブが振り返れば、トレイシーが赤い手袋を突きつける。
「手袋!置いてかないでって!」
ぐっと顔を顰めて、トレイシーは「赤服の人物」の手袋を指先で摘み上げ、視界に入れないようにしている。ナワーブがベルトを確かめると、そこに挟んでいた筈の手袋が無い。横になっている間に落としてしまったようだ。
トレイシーにあの手で触ろうとすると身を竦ませるので、彼女の自室を訪ねる時には必ず外すようにしていたのだ。トレイシーとしては赤い手を怖がっている事を隠そうとしている様なので、ナワーブは気づかないふりを続けているが。
しまった、とナワーブは内心で思いつつ、表向きはいつも通りの態度で手袋を受け取る。
「お前、この手袋だけは本当に慣れないな」
「…………なんか人の皮が落ちてるみたいで嫌なの」
表情を取り繕おうとして失敗しているトレイシーの顔は沈んでいる様に見える。ナワーブは指先でトレイシーの丸い額を軽く弾き、「飯いくぞ」と促す。
「もう!口で言ってよ……」
「ふっ」
トレイシーは額を抑えて不満そうに頬を膨らませていたが、その表情から翳りは消えている。ナワーブはその事に安堵して微笑んだ。
そんなナワーブの顔をまじまじと見つめて、トレイシーは首を傾げた。
「ナワーブって結構ちゃんと服変える事多いよね。なんか気にせず同じの着てそうなのに」
「ああ、どうにも勿体無い気がしてな」
ナワーブは自身の服を見下ろしてそう答える。
最初は気にせず普段着ばかり身につけていたのだが、増える一方の衣服達に、もしや荘園の主は痴呆で服を贈った事を忘れているのではないかと疑っていた時期があったのだ。それで贈られたものは数回は必ず袖を通すようにナワーブはしている。
ナワーブは背後のトレイシーを振り返り、いつも通りの作業着姿を見つめ、彼女のクローゼットに目をやる。
「俺より、お前も似たようなのばっか着てないで他のも着ろよ。別にその格好が悪いってんじゃねえが、お前の衣服も箪笥の肥やしにするには贅沢すぎるだろ」
「うーん……それを言われるとなあ。でも動きやすいし汚れるのも気にしなくていいし、楽でつい」
ナワーブの指摘にトレイシーは頬を掻きながら、億劫そうにしているのを隠そうともしない。
ここにウィラがいたら胸ぐらを掴んで揺さぶられること必至の発言だ。ナワーブはされたことがあるので、それ以降は発言に気をつけている。
「新しい洋服が嬉しくない訳じゃないよ?ただ、なんにも無いのに着ようって気になれないっていうか」
「気分でいいだろ」
「やけに食い下がるじゃん、ナワーブ。分かってるけどね。どうせ、妖精の服着ろって言うんでしょ。ナワーブあれ気に入ってるし」
「はっ!分かってるじゃねえか」
肩を竦めて答えるトレイシーに、ナワーブが声をあげて笑う。最近、「枯れない花」をトレイシーが全く着てくれなくなったので、ナワーブは非常に残念に思っていたのだ。
春の色を纏ったトレイシーが駆けている姿は、本物の妖精のようで――

ああ、とドアノブに手を掛けたナワーブは、これだけは伝えておかねばと思い立ち、トレイシーを振り返った。

記憶の奥底にある、粉々になってしまった妖精の羽。
金属の歯車を握り潰してしまった、赤い赤い鬼の手。

扉を引いて、ナワーブ――「彼」は片方だけ見えている銀の眼を細め、深く微笑む。

「また、着てこいよ。『こっち』じゃ羽根折ったりしねえから」

目を見開いたトレイシーが、息を呑んだ。ひゅ、と鳴った喉の音は、部屋を出て行くナワーブにも聞こえている。
何か、彼女が言おうと口を開いたが、それが音になる前に扉は閉じてしまった。
「……………………ん?」
ナワーブは数歩歩いた先で、はっとして立ち止まり、目を瞬かせた。
――今、俺は一体何を言ったんだ?
折るとかなんとか……なんの話だろう。全く覚えがない。はて、とナワーブが腕を組んで首を捻っているとガン、ととんでもない音を立ててトレイシーの部屋の扉が開いた。
「あ?」
「っナワーブううううううう!」
何事かとナワーブが振り返ると同時に、腰に衝撃が走る。身構えていなかったナワーブそのまま横向きに倒れ込む。弾丸の様な勢いでトレイシーが飛び込んで来たのだ。
うぐと呻くナワーブに構わず、トレイシーはその体に乗り上がると、泣きそうな顔で叫んだ。
「脱いで!!今すぐ!」
「はっ……?」
「その服脱いで!脱いでよ早く!脱いでくんなきゃやだああああ!」
「ま、待て待て!待てって!」
癇癪を起こしたトレイシーが、ナワーブの開いた服の胸元を掴む。しかしナワーブとしても、いつ人が来るか分からない廊下でひん剥かれては堪らない。トレイシーの腕を掴んでなんとか公開ストリップは阻止するが、トレイシーは半泣きの状態で駄々をこね続ける。
「それやだ!怖い!脱いで!脱いでよおおお!」
「分かったから落ち着け!こんな人が来るところで脱げるか!」
「それは二人きりならいいって事?」
「!」
降ってきた声にナワーブが顔を向けると、階段ホールの扉からノートンが顔を覗かせている。その後ろにはフィオナとルカもいる。
「お前らっ」
「エントランスにまで音が響いていたもので、何事かと」
「そう。だからまたトレイシーがなにかしたのかと思ったんだけどさ」
「何かしてはいたけど、予想してたのと違ったわ」
呑気にそう答える三人に、ナワーブが言葉を返そうとするより先にトレイシーが暴れ出す。
「脱いで!脱いでよおおおお!」
「待てっての!お前は一旦落ち着け!」
「やだあああああ!」
シャツが無理と知ると、トレイシーはナワーブのベルトに手を掛けた。本格的に不味いと思ったナワーブは、トレイシーの両手首を掴み阻止する。
「本当に!そこは!やめろ!」
「やだ!脱いで!」
「あら、トレイシーったら大胆」
「どんな痴話喧嘩したらこんな事になるんだか」
「サベダー、その……人の趣味趣向に口出しするのは野暮な事なのはわかっているんだが、あまり幼気な存在に妙なプレイを教えこむのは如何なものかと」
「違うわ!阿呆な事言ってねえで、こいつどうにかしてくれ!!」
そう必死に叫ぶナワーブの様子は、黒死病の化身とは程遠い姿だった。







「ナワーブ、その赤い服、徹底的に調べないと気が済まないから一週間貸して」
「もうお前の好きにしてくれ……」
「代わりに妖精の服貸してあげるよ?」
「中身が無いと意味ねえんだって」
「!そっか!じゃあナワーブの体も一週間ちょうだい!」
「……お前すげぇ事言うよな、本当に」






END


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