逆位置の御呪い(ナワトレ)
――目を開けば、そこは暗い森の中だった。
木々の隙間から雲で霞んだ青白い月が見える。窓から見た月とよく似ているとナワーブは思う。
ゆっくりと体を起こし、ナワーブが辺りを見渡すと暗がりがただただ広がっている。朧月の光は木々に遮られて地上にまで届いていないらしい。
「?」
立ち上がったナワーブの足元で白い小さな光が煌めいた。屈んで拾い上げれば、それは見覚えのあるガラスのビーズだった。目を凝らせば同じものが点々と地面に落ちている。僅かな月明かりを反射しているのか、どういう原理なのかは分からないが、ナワーブはそのビーズに導かれるように歩き始めた。
このまま魔女の家にでも誘い込まれるんじゃねえだろうなとナワーブは考えていたのだが、目の前に現れたのはお菓子の家ではなく、ナワーブの背丈を倍は越える様な大きな蜘蛛の巣だった。
この蜘蛛の巣も原理は不明だが暗がりにも関わらず、淡く光を放っている。暗がりに浮かぶ蜘蛛の巣は非常に美しかったが、ナワーブには非常に鬱陶しいものの様に思えた。
網状の巣の向こうを透かし見れば、ビーズの光が点々と続いている。この巣が邪魔なせいで進めないのだ。
この護りがあるせいで、辿り着けない。これがあるせいでいつもいつも逃げられる。これがある限り、近付けない事を「ナワーブ」は知っている。
ナワーブは苛立った気分のまま、両手で巣を引き裂いた。その際に、手に僅かな違和感を覚えたが相変わらず暗闇の中なので何がおかしいのかは分からない。
ばりばりと蜘蛛の糸を切り裂き、巣を完全に破壊する。ナワーブはそのままボロボロになった蜘蛛の巣を潜り抜け、ガラスのビーズを辿っていく。
「!」
ひらりひらりと視界を横切る白い蝶。地面のビーズに集中していたので、突然眼前に白く発光するそれが現れたことにナワーブは驚いて足を止める。
蝶はどこから現れるのか、次から次へとひらひらと舞い飛びながら、その数を増やしていく。ビーズではなくその白い蝶達に導かれ、ナワーブは森の中を進んでいく。
歩きながらナワーブが差し出した指に、蝶が一匹ひたりと止まる。
「どこに連れて行こうっていうんだ?お前ら」
ナワーブの問いに蝶は答える気があるのか無いのか、はたはたと翅を羽ばたかせる。どっちなんだかとナワーブが苦笑いをしていると、その蝶がぱっと空中に飛び上がった。
その蝶を目線で追いかけると、遠くに丸い光が浮かび上がる。月やビーズ、蝶達とは違う、暖かな色の光が灯っている。その光に向かい、ナワーブを導いていた蝶達が一斉に飛んでいってしまう。
ナワーブも光に誘われる羽虫にでもなった気分だ。その光に引き込まれる様に、ふらふらと足を進めてしまう。
光源に近づく程に、土の地面がごつごつとした石畳に変わり、やがて滑らかな石のタイルに変わる。相変わらず暗い視界のままなのだが、靴越しの足裏の感触と足音の変化でそれを感じ取れる。
光源の正体は、大きな花だった。テントかと見紛う大きさの、ピンクの咲きかけの薔薇。ナワーブは直ぐに妖精服姿の少女を連想した。
見たところ、巨大な薔薇は蜜が取れるとも思え無いのだが、蝶達はその花びらの中へと吸い込まれる様に入っていってしまう。
長いこと暗闇にいたナワーブも、そろそろ光が恋しくなってきた頃合いだ。他に目的もないので暗闇に光を灯す、その大きな薔薇へと歩み寄る。
近づいて見ると、薔薇はナワーブの胸の高さ程まであり、開花すればあの巨大花のラフレシアも目ではない大きさになる筈だ。
――こんなにでかいと、中に何か入っていてもおかしくはなさそうだ。
ナワーブはそんな事を考えながら、何の気も無しに薔薇の花びらに触れようと手を伸ばす。今まで暗がりに沈んでいたので気付かなかったが、ナワーブは花の灯りに照らされた自身がワインカラーの衣服を身に纏っていることを知る。
赤い腕と長く伸びた黒の爪先に戸惑い、こんな服あったか?と疑問が浮かんだが、直ぐにそうではない可能性に思い至る。
この姿はもしかしたら、ナワーブ自身ではないのかもしれない。手を見た限りでは人間では無さそうだ。鏡でもあれば姿を確認できるのだが、とんでもない怪物だったら嫌なので知らないままの方が幸せかもしれない。
まあ、どうせこれも夢なのは分かっている。明晰夢というやつだろう。だからナワーブは気にしない事にする。
そんな事よりも目の前の薔薇が気になって仕方がないナワーブは、花びらに手を押し当てる。特に花に傷をつけるつもりはなかったので、硬いのか柔らかいのかを確かめようと思って取った行動だった。
ところが、ナワーブが薔薇に触れた途端に淡い色合いはみるみると失せていき、瑞々しかった花びらも萎れるように力無く地面に落ちる。
ナワーブはその様を見て、薔薇の花から慌てて距離を取る。しかし一度触れてしまった花弁から、まるで伝染するかのように次々と花びらが萎れていってしまう。一枚一枚、力無く開いていく花びら達をナワーブはただただ見ている事しかできない。触れてはいけなかったのか、と悔いてみるも朽ちる花を止める事は不可能だ。
そうしてはたはたと朽ちた薔薇の最後の花弁達が開き切る。そこから現れたものに、ナワーブは思わず声を上げる。
「あ⁈」
巨大な薔薇の中央に、胎児の様に身を丸めたトレイシーが横たわっている。朽ちた薔薇はもう光を発していなかったが、トレイシーが身に纏う「枯れない花」は以前見た夢と同じく淡く輝いている。
――何か入ってるとは思ったが、これでは本物の花の妖精みたいじゃないか。
ナワーブは暫く惚けた様に、トレイシーを見つめていた。目を閉じ微動だにしない少女の姿は作り物めいて、そこにいるのは人形なのではないかと不安になる。
この目の前の存在が本物なのか、それともそっくりな人形なのかを確認しなくては。
ナワーブはゆっくりと、横たわるトレイシーを刺激しない様に歩み寄る。今までの夢と同じものなら、これもトレイシーの夢と繋がっているのかもしれない。もしもこのトレイシーが本人ならば、何が悪夢になるか分からない。
そっと妖精を見下ろせば、胸が呼吸で上下しているのが確認出来る。人形ではない――トレイシー本人で間違いない様だ。
ナワーブはそのことに安堵しながら、眠り続けるトレイシーの傍にゆっくりと膝をつく。ふわりと鼻を擽る花の香りに、そういえば夢の彼女にここまで接近出来たのは初めてだなと気付く。妖精のトレイシーはすぐに逃げていってしまうので、手が届く距離にまで近づけたことはない。
すやすやと眠っているトレイシーに、ナワーブはふっと小さく笑う。
――全く、人の気も知らねえで気持ちよさそうに。
ナワーブの夢に出てくるトレイシーは、逃げるか寝てるかだ。夢でも相手をして欲しいと思うのは強欲だろうか。
トレイシーの顔にかかった髪を払ってやろうとナワーブが手を伸ばす。すると、それまで微動だにしなかったトレイシーがびくりと体を揺らした。
「うぅっ」
「トレイシー?」
トレイシーが顔を歪め、苦しげに呻き声を上げる。
今の今まで穏やかに眠っていたのに、一体どうしたのだろう。
困惑するナワーブの目の前で、トレイシーは何かに耐えるように地面に爪を立てる。
「う……や、いや……」
「やめろ!」
がり、と不穏な音がする。トレイシーの爪が剥がれてしまう事を危惧したナワーブは、咄嗟にトレイシーの体を抱え起こす。
「っ!」
ナワーブの赤い指先が妖精の薄羽に触れた途端、金属の歯車が軽い音を立てて割れてしまう。落ちる羽根を逆の手で受け止めるも、飴細工の様な脆さで砕けてしまう。
特に力を込めたつもりはナワーブにはなかった。本当に、ただ触れただけだったのだ。
ぱらぱらと手から落ちていく羽根の残骸に、ナワーブは呆然とする間もなかった。片腕に抱えたトレイシーが身を捩る。
「や、めて……!」
「あ、おい!」
落ちそうになったトレイシーの体を、ナワーブは両腕で支える。その時に、残っていたもう片方の妖精の羽根にも手が触れてしまう。金属の羽根はまたもやぱきりと音を立て、枯れ葉の様な呆気なさで地面に落ちる。今度はナワーブも受け止めることもできず、粉々に割れてしまう。
壊れてしまった妖精の羽根に、ナワーブは寂寥の思いを抱いた。それと同時に、胸の奥底に仄暗い感情がある事にも気付く。
――完璧な姿が失われてしまった事は残念だが、これでもうトレイシーが空に逃げることは出来ない。
夢で逃げられ続けたせいか、そうどこかで喜んでいる自分がいる事に、ナワーブは唖然とする。
「っ、だ、やだ……!」
「!」
ナワーブが自身の感情に戸惑っていると、トレイシーが再び暴れ始める。身を反らし首を振り、何かから逃れようとしている様だ。
身を捩るトレイシーを上向きに抱え直し、ナワーブは体を揺すり名を呼びかける。
「こわい、やだ!」
「トレイシー、おい!落ちつけ!」
「うう、うう……いや、いや……」
ナワーブの声はトレイシーには届いていないのか譫言をずっと繰り返している。
トレイシーの目がずっと閉じたままなので、もしやこれは悪夢に魘されているではとナワーブは思い至る。夢の中で夢に魘されるなど、頭が混乱しそうだ。
が、現にトレイシーは目の前で苦しんでいる。ナワーブとしてもどうにか起こしてやりたいが、呼んでも揺すっても起きないこの状況でどうすればいいのか。
やだやだと呟くトレイシーの眦から、涙が一粒溢れる。体力の無さは夢の中にも反映されるのか、トレイシーの暴れる力は徐々に弱まって来ている。ナワーブは首を振り続けているトレイシーの顎を捉え、しっかりと聞こえるように耳元に顔を寄せる。
「トレイシー」
「……っ」
ひくりとトレイシーの瞼が動く。今までこちらの声には何も反応をしなかったのだが、今回は少しトレイシーの様子が違う。ナワーブはこれなら起こせるのではと、呼びかける声を強める。
「トレイシー、おい。聞こえるか」
「ん……」
ふるりと白い瞼が震える。目覚める兆候と判断したナワーブは、トレイシーの頬に触れて顔を覗き込む。ナワーブの結んでいない髪が肩から滑り落ち、トレイシーの顔へと垂れ下がる。白い髪色がまるでベールの様だが、トレイシーを起こすのに夢中なナワーブは其れ処ではない。
「起きろ、トレイシー!」
「うぅ……ん」
トレイシーの瞼がゆっくりと開いていく。ぼんやりとしてはいるものの、「枯れない花」の金色の瞳が現れたことにナワーブは安堵し、ほうと息を吐いた。どうにか起こすことが出来た。
悪夢から逃れたばかりのトレイシーは幾度か重たげな瞬きを繰り返し、うろうろと視線を彷徨わせている。ナワーブに瞳の焦点が定るのに暫く時間を要した。
「………ぁっ……!」
額に汗を滲ませたトレイシーが、掠れた声を出す。何を言おうとしているのかは分からないが、そんなに慌てる必要はないのにとナワーブは首を傾げ苦笑する。まあトレイシーは状況が理解できていないのだから、無理もないのだが。
はく、とトレイシーが小さく口開く。しかしまだ声は出なかった。体も震えているのでナワーブは宥めるように腕の力を強める。
トレイシーが話せる様になるまで、いくらでもナワーブは待ってやるつもりだった。
「…………」
待つ、つもりだった。
視線が、吸い寄せられるように目の前の白い首に向く。
ナワーブはトレイシーの様子を確認したいと思っているのに、何度戻しても視線が勝手にトレイシーの喉元に引き寄せられる。抵抗しても無駄だった。
さわ、と頸をなぞられる様な感覚に襲われる。それはとても不快な筈のだが、遠くの出来事、他人事の様にナワーブには感じられる。そのうちにナワーブは意識がぼんやりとし始める。
自分が何をしているのかも分からない。ただ、妖精――ずっと、毎夜欲しくて欲しくて仕方がなかった獲物の喉笛を見つめて、微笑んだ。
――細くて、とても美味そう。
ぱきん、と硬い音が鳴る。
途端に「彼」の中から本体の気配が消えてしまう。どうやら目が覚めてしまったらしい。
夢の主が覚めた事で、夢で繋がっていた「彼」の手の中の獲物の気配も薄れていく。
折角、ここまで追い詰めたのに!
あまりに悔しいので、まだ触れるうちにとその首には食らいついておく。甲高い悲鳴を残して妖精も姿が掻き消える。
これだけいじめておけば現実でも忘れられることはないだろう。
誰もいなくなった空間で、「彼」は足元に目を向ける。無惨に砕けた、白と金の悪夢を防ぐ御守りの残骸が転がっている。
トレイシーが作ったドリームキャッチャー。
「ナワーブがよく眠れるように」と祈りを込めて作られた御守り飾り。
彼女の願いか、フクロウの羽根の影響か。祈りの通りの力を得たドリームキャッチャーは、ナワーブの悪夢をその通りに払った。
しかし年月と共に増した力は余計な効果ももたらしてしまった。
二人は覚えていないが、トレイシーとナワーブの夢を時折繋いでしまっていたのだ。
それを、「彼」が利用するようになった。
ナワーブの内側に存在する、深い位置にある感情。それが「ある事」で姿を得た。
夢では本体のナワーブよりも「彼」の影響が強い。繋がった夢は「彼」の独壇場だ。
あの愛らしい妖精をじわじわと追い詰めて、思う存分楽しむことが出来る。
ナワーブの為のドリームキャッチャーは、ナワーブには悪夢を見せない。一方でトレイシーにはそのままの悪夢を見せる。
同じ夢なのに、二人に見えているものが違うのはその為だった。
苛立たしい思いのままに、「彼」はドリームキャッチャーの残骸を靴底で踏み躙る。
ただ夢を繋げるだけの便利道具だと思っていたのに、最後の最後でこんなどんでん返しを喰らうとは。
獲物を追い詰めても、いつもいつも「彼」の邪魔をするので、今回こそはと本体自身の手で用済みのドリームキャッチャーを引き裂かせたのだ。なのに姿を失っても尚、本来の役目を果たした訳か。
これでもう二度とこの護符飾りは獲物と夢を繋げる事は出来ないだろう。本当に最後の機会だったのに残念で仕方がない。
「彼」は物憂く、白い面差しで崩壊を始めた夢の世界を見上げる。そうしてうっそりと微笑んだ。
――まあ、どうせすぐに出会えるけれどな。
「痛っ!」
突如手に走った痛みに、ナワーブは飛び起きる。いつの間にか眠っていた様だ。
慌てて痛みの元である右手を開くと、割れた鏡の破片があった。幸い刺さってはいなかったが、少し掌を切ってしまっている。他にもその鏡の欠片だけでつかないような、細かい傷がいくつも掌についているのだ。
何故こんな傷がと不思議がりながら、ナワーブは寝台の下に視線を向ける。そうして目を見開いた。
「ああ……」
絨毯の上に、無惨な姿に成り果ててしまったドリームキャッチャーが転がっている。原型は見る影もないが、あれだけ眺めていたのだ。パーツだけで、それが元々なんだったのかなどすぐに分かる。
――なんてことをしてしまったのだろう。
ずきずきと痛む手の傷。きっと自分が寝ぼけて、握り潰してしまったのだろう。ナワーブは寝台の脇に膝をつく。
真円を構成していたつるバラの枝は幾本にも折れ、紐も切れてしまっている。羽根飾りも金具もひしゃげ、チャームの鏡も割れてしまっている。どう見ても、例えトレイシーでもドリームキャッチャーの修復は不可能だ。
ナワーブは破片を集め、肩を落とす。形のあるものはいつか壊れるとは言うけれど、それでも思い入れのあるものの喪失はやはり悲しい。
ぐしゃぐしゃと前髪を掻き毟り、ナワーブは自身への苛立ちに舌打ちをする。
「何してんだ、俺……」
折角あいつが作ってくれたものだったのに。補強までしてもらったのに。
自身の不注意でこんなことになるなんて、トレイシーになんと言えばいいのだろう。
なにより、散々世話になったのかもしれない御守り飾りを握り潰すなど、とんでもない不義理を働いてしまったようにも思う。
あれだけ苦しめられた悪夢を追いやってくれたのに。
ただ少し、トレイシーとの――――
そこまで考えて、ナワーブは目を瞬かせる。トレイシーとの、なんだっただろう?
額に手を当て思い出そうとするが、指の隙間から水が漏れるように、何かが頭から溢れていく。今の今まで覚えていたのに、もう戻らない。捕まえたい記憶の筈なのに、流れていくのを止められない。
「あ、れ?」
右手の、血が滲む傷にナワーブは視線を落とす。
なにか、なにかこのドリームキャッチャーに関わることで、トレイシーとの間に何かがあったのだ。
重要な事……そうだ、トレイシーが悪夢を見ると言う話を聞いたのだ。それについてナワーブは何か長いこと思考を巡らせていた。だが今は何も思い出せない。
昨夜まで当たり前の様に記憶できていた事なのに、確かにそこにあった事なのに。一晩で、全てごっそりと抜け落ちてしまった。
どこかに書き留めていれば話は違うのかもしれないが、そんな習慣はナワーブにはない。荘園に義務付けられた日記も、人が見ると分かっているのに余計な事を書き記すわけもなく、ほぼ事実をそのまま残しているだけだ。
誰にも話していないし、相談も当然出来ていない。当事者であるトレイシーにも伝えていない。全てはナワーブの記憶の中だ。
まさか、それが泡沫の様に消え失せてしまうなどナワーブ本人も思ってはいなかった。
「…………嘘だろ」
どう頑張っても無駄だった。本当に何もナワーブは思い出せないのだ。起きたら消えてしまう夢の様に、なにもかもが消え失せてしまっている。
御守り飾りの残骸を前に、ナワーブは茫然としてしまう。
そのまま数分か数十分か、動かずにいたナワーブの耳にとかとかと変わったノックの音が聞こえてくる。
「ナワーブー!おーい、起きてるー?」
「……っ……」
「いやいや大丈夫だって!」
「……………………」
「気にしない気にしない!ナワーブー。おーい。朝ご飯行こーよー!早くー」
ノックの主はマイクだ。起きてるかどうかを聞きながら、こちらが返事をする前に勝手に予定を決められている。
ナワーブが脱力感を覚えながらも扉を開けば、マイクと申し訳なさそうな顔のビクターが立っていた。もうこれだけで何があったのかは大体想像がついた。
「朝から元気だな、お前」
「おはよう!そりゃ、朝からゲームだったからね。で、朝ご飯どう?」
「いいけどよ。俺を誘うなんざ、どう言う風の吹き回しだ?」
「ああ、ビクターと一緒のゲームだったんだけどさ。今日は昼と夜のゲームもビクターと重なる回があるんだよ。で、確認したらナワーブも一緒だったから、作戦会議兼ねてご飯にしたら一石二鳥じゃんって」
マイクが説明している後ろで、ビクターもさらさらと紙にペンを走らせる。ナワーブに向けられた紙面には、「時間早いから止めたんですけど無理でした」と書かれている。さっきのドア前のやりとりはそれだったのかと、ナワーブも納得する。ビクターに、行動力の塊のマイクが止められる筈がない。
手を合わせて謝っているビクターに、ナワーブは仕方がないと溜息を吐く。少しいつもよりも早い朝食になるが、そのくらいなら付き合っても問題はない。
ナワーブは、マイクとビクターと連れ立って食堂へと向かった。ところが食堂の扉を潜ろうとしたところで、今度はエドガーに呼び止められた。
「サベダー、丁度いいところに。今呼びに行こうとしていたところだったんだけど」
「あ?なんか用か?」
「期待通りの反応、驚くことも何もないね。あのさ、今日の日付分かってる?九月二日だけど」
「…………………………………………」
呆れた顔のエドガーの問いに、ナワーブは腕を組んでたっぷりと時間を使って記憶を辿る。しかし、いくら考えてみても何も思いつかない。
エドガーと約束した事も、特にはない筈だ。今日あるのはゲームの予定くらいではないだろうか。他には何もない筈だ。
悩みながら、どんどん眉間に深い皺を刻んでいくナワーブを見て、エドガーはふんと鼻を鳴らす。
「そんな事だろうと思ってたよ。君には取るに足らない事かもしれないけどね、今日は新しい真髄衣装が来る日だよ。君が主役のね」
「ああ、それの事か」
皮肉気な言動のエドガーに対し、ナワーブはなんだと気が抜けた様に頷く。それなら覚えている。
荘園から衣服が贈られるのなんてナワーブにはいつもの事だ。特別な感情も何もあるわけがない。イベントのメインに決まった時の方が余程面倒だ。
衣装だけなら指定された日のどこかで、適当に衣装を受け取れば済むだけの話だ。今日も昼のゲームが終わった後にでも、ナワーブはナイチンゲールの元へ向かうつもりでいた。そう伝えれば、エドガーは面白くなさそうな顔になる。
「はあ。衣装持ちの君にはその程度の話な訳か。でも今回はそうは行かない。主役の君が最初に受け取りに行かないと始まらないんだよ。だからすぐ行って」
「は?今からか?」
「そう言ってるじゃないか」
エドガーの言葉にナワーブはむすりとした表情になる。すっかりと朝食の気分になっていたのに、衣装合わせを優先しろというのか。
見るからに不満そうにしているナワーブに、ビクターは「主役がそんな顔したら駄目」とメモを掲げ、マイクは苦笑いでナワーブの肩を叩く。
「ナワーブ、残念だけど作戦会議は昼にしよう。諦めて行ってきな」
「はあ……面倒くせぇ」
朝食の後、トレイシーの様子を見にいこうと思っていたのに。こうなったら、ぱっといってすぐに帰ってこよう。
なんともやる気のない態度でナワーブは踵を返した。