逆位置の御呪い(ナワトレ)
それから数日間、ナワーブはトレイシーが無事に眠れてるかどうかが気になって気になって仕方がなかった。どこかで自分のせいではと感じてもいたので、当然の事かもしれない。気になりすぎてナワーブ自身が眠れない日もあったくらいだ。
そんな人の心配などどこ吹く風で、部屋を訪ねるナワーブにトレイシーは実にさっぱりとした顔で「大丈夫!」と元気に返事をする。
日に日にトレイシーの目の下に刻まれていた隈は消えていくし、顔色も良くなっていく。慎重にナワーブもトレイシーを観察していたが、無理をしている風でもない。
本当にあのドリームキャッチャーが原因だったのか。この荘園は不可思議な事がよく起きるが、なにがどう作用するか分かったものではない。取り敢えず、ドリームキャッチャーは今後気軽に作らせない様にしよう。カヴィンにもどこかで伝えようとナワーブはこっそりと考える。
トレイシーといえば、あれからすっかりとナワーブに懐いてしまい、高く聳えていた壁など完全に消え去ってしまった様だ。平時でも普通に話しかけてくる様になったし、打ち解けた笑顔も向けてくれる。
こいつ、本当に可愛いなとナワーブが思っていると、ウィリアムやイライが脇を突き「顔、顔」と囁いて来るので、気を引き締めていないと相当崩れた表情をしているらしい。
寝ぼけていたものと思っていたが、約束もしっかりと覚えていたトレイシーはまた「枯れない花」を身につけるようになってくれた。
派手で見つかりやすいからとゲームでの着用回数は少ないが、それでもナワーブは嬉しい。トレイシーは「枯れない花」を着る度に見て見てとばかりにナワーブの前にやって来るのだ。
夢で見ていた妖精は逃げるばかりだったが、現実の妖精は笑顔でナワーブに走り寄ってくる。想い人にそんな事をされて、可愛く思わないわけがない。
真夏の太陽がじりじりと照りつける空の下。目の錯覚かと思うような光景にナワーブは足を止めた。
「なにやってんだ?引き篭もり」
「ううう、ナワーブううう」
「……本当になにやってんだ、お前」
太陽とは縁遠そうなトレイシーが、大きな麦わら帽子を被りこの炎天下に如雨露を手に項垂れている。絶対にこいつが自主的にそんなことをするわけがない。
そう思ったナワーブは顎を摩り、思いついた名前を口に出す。
「エマに引き摺り出されたな?」
「ご明答……向こうの花壇にルカとイソップもいる……偶には太陽浴びろって」
「それはそうだろ。お前ら生白いもんなあ」
ナワーブは廊下の窓から身を乗り出し、ふはと笑う。
世話焼きの少女は、「お日様に当たらないと駄目なの!」と引き篭もり達を外に放り出し、花壇の水やりを命じたらしい。可愛らしい見た目に反し、体力のいる庭師が本職なのでエマはかなり力がある。ゲーム終わりに上背のあるアンドルーを楽々背負って帰って来るような彼女にかかれば、小柄なトレイシーなど余裕で連れ出せるだろう。
「ナワーブお願いがあるんだけど」
「なんだ?代わってはやんねえぞ」
「そんなことしたら罰の水遣り増やされるよ……そうじゃなくて、話し相手になって。気でも紛らわさないと倒れる自信がある」
「とんでもねえ自信を持つな。まあいいが」
「ありがとー」
トレイシーのお願いなら聞いてやるのも吝かではない。ナワーブは窓枠に横向きに腰掛けた。
「エマは見張ってないんだな」
「そりゃあ、逃げても無駄なのは分かってるもん。今はアンドルーとイライ探しに行ってる」
「ああ……あいつも引き篭もり判定なんだな」
「フクロウちゃんはともかく、イライは夜行性じゃないって言ってた」
「ごもっとも」
ナワーブは深く同意する。大抵の事はのらりくらりと躱すイライだが、意外に体育会系のエマの猛攻は躱せまい。
相棒に合わせて行動していることが多いイライは、ゲーム以外で屋外にいる姿は夜しか見ない。日光に当たっていないので当然アウトだ。
トレイシーはのろのろとした動作で如雨露の水を花壇に撒いて行く。ふらふらとしている姿は本当にぱったりと倒れてしまいそうだ。ナワーブは仕方がねえなと話しかけてやる。
「美智子に聞いたんだが、こういう暑い時は怖い話がいいんだと」
「え?なんで?」
「怖い話を聞いた時にぞっとするのを『肝が冷える』って表現するんだと。だから体の芯が寒くなって丁度いいんだそうだ」
「ふうん。じゃあ今日の夜エマに話してあげよう」
トレイシーはぽそりとそう呟く。
意外なことにトレイシーはホラー耐性が強い。真逆にエマはとても怖がりだ。水遣りの報復をトレイシーはするつもりの様だ。ナワーブは「俺が言ったって言うなよ」と巻き込まれないようにと予防線を張る。
「お前に美智子から聞いた『怪談』ってのを聞かせてやろうかと思ったんだが、あんまり効果がなさそうだな」
「うーん、折角なら本人から聞きたいからやめとく」
「それもそうだな」
美智子は芸事の達人なので話を語るのも上手い。素人のナワーブが語るよりもその方がいいだろう。
それなら何か他の話題にするかとナワーブは腕を組む。しかし話し上手ではないナワーブはすぐに次の話題は思いつかない。ううむと唸る男に、トレイシーは「ねえ」と声を掛ける。
「面白い話教えてくれたお礼に、私が怖い話していい?」
「お前が?……別に構わないが、珍しいな」
トレイシーは耐性があるというだけで怖い話を好き好んでいるイメージがない。だから聞いていることはあっても、自らホラーを語っている姿を見た事はない。
そんなトレイシーがする怖い話とやらに、ナワーブは少しだけ興味をそそられた。
身を乗り出すナワーブに、トレイシーはふっと意味有りげな顔で笑う。
「まだ話してなかったでしょ。私が妖精の服着なくなった理由」
「……理由があったのか?」
「うん。私が眠れなくなってたの、実はあの服のせいだったんだよね」
ポンプから水を出しながら、トレイシーは語り始めた。
トレイシーを悩ませていた悪夢は春頃から始まったらしい。
その夢の中のトレイシーは必ず「枯れない花」を着ている。場所は森の中であったり、見慣れたゲームのフィールドだったりするのだが、共通点は決まって夜なのだ。
意識がはっきりすると、何かが迫ってくるのが分かる。それは足音だったり、草木を掻き分ける音だったりするのだが正体はいつもいつも分からない。分からないが捕まってはいけないという恐怖と焦燥感に駆られるのだ。
まるでゲームの様だが、追っ手が近づいても心音はしない。それにハンターに追われるのとは全く違う恐怖なのだ。
ただただ怖い捕まりたくない、捕まったらどうなるか分からないと怯えながら逃げ続けるのだという。
「振り返ったら相手が見えたのかもしれないけど、怖すぎて振り向けなくて」
「…………………………」
「どうしたの、ナワーブ」
「……………………いや」
ナワーブは片手で顔を覆い、「なんでもない」と絞り出すように答える。だらだらと流れる冷や汗は決して暑さのせいだけではない。
――今の話と、似た様な夢を見ていた覚えがある。
夜のゲームフィールド、妖精の服、逃げるトレイシー。そして春。そうあの妖精を追いかける夢をナワーブが見ていたのは春の間だ。
――あのドリームキャッチャー、そんな前から効力発揮してたのか?というか俺が見てる夢が、なぜトレイシーにはホラーチックになっているのだろうか。
ぐるぐるとナワーブは考えながら、いやいや俺の夢のトレイシーは楽しそうだったし、俺と分かってそうだったし、追ってこいって態度で示していたし違う夢かもしれないと心の中で言い訳を始める。
それに、あれはトレイシーが「枯れない花」を着ていた時にだけ見ていたから偶然かもしれない。そう思い直し、ナワーブはしれっとトレイシーに尋ねてみる。
「その夢も、毎晩見てたのか?」
「ううん。妖精の服着た時だけ見てたんだ。だから、着なければ怖い思いしないかなーって思って」
「……そうか」
ナワーブは何食わぬ顔で頷く。内心では両手で頭を掻きむしりたい気分だった。
――完全に繋がってやがる。御守りではなく呪いのアイテムか、あのドリームキャッチャー。
悶々と眉間に皺を寄せるナワーブに、トレイシーは「皺がすごい」とけらけらと笑う。
「まあまあ、こっちはまだいい方でさ。もう一個の夢の方が最悪で」
「他にもあるのかよ」
顔を顰めるナワーブに、トレイシーは水で重くなった如雨露を抱えながら「最悪の夢」について話し始めた。
その夢ではトレイシーはうつ伏せに横たわっている。
真っ暗闇に舞う白い蝶と、自身が纏う「枯れない花」がぼんやりと発光している。
しばらくすると誰かの靴音が聞こえるのだが、それがあの悪夢で追ってくる「存在」のものなのだ。トレイシーは逃げねばと思うのに、体が全く言う事を聞かない。
焦るトレイシーを嘲笑うように、足音はゆっくりとゆっくりと近づいて来る。その音は空間に反響し、トレイシーの恐怖を増幅し煽る。
近づけば近づくほど、その足音が動けないトレイシーの正面から聞こえてくる事が分かる。
目は閉じれない。来れば嫌でも「追っ手」の姿が見えてしまう。
嫌だ嫌だと思うトレイシーだが、もう音はすぐ側まで迫っている。もう姿も見える――。
「ってとこで目が覚めるの」
「それは、バリエーションに富んでやがるな」
そう答えながら、ナワーブはこっそりと胸を撫で下ろした。その夢は全く身に覚えがない。
全部の悪夢がナワーブ及びドリームキャッチャーと関連があったわけではない事が証明された。トレイシーには悪いが、このままだとナワーブは罪悪感でどうにかなってしまうところだった。
しかし、そうなると悪夢の原因はどこにあったのだろうか?ナワーブはフードを脱ぎ首を傾げる。
「なんでそんな夢ばっか見てるんだ。ホラー小説が好きなのか、お前」
「まさか。苦手とまではいかないけど好き好んでは読まないよ」
「へえ。それにしちゃ上手い語りだったがな」
「本当?じゃあ夜はエマを怖がらせちゃお」
「あんまりいじめてやるなよ」
麦わら帽子を押し上げてにやっと笑うトレイシーに、ナワーブは窓枠に片膝を立てながらそう忠告する。
トレイシーと距離が縮まって、ナワーブも改めて気付かされたことがある。
臆病だから怖がりなのだとばかり思っていたのに、トレイシーはホラーに全く怯えない。生きてる人間の方が余程怖いのだとか。
意外な事に運動神経も悪いわけではない様だ。泳ぐことも出来れば木に登ることも出来る。ダンスもそれなりに出来るので、ただただ体力が無くて迅速に動くのが苦手なだけらしい。
そして実はとても悪戯好きだ。ナワーブがうたた寝をしている隙に、髭を描くわ髪にリボンを付けるわとやりたい放題だ。
気付いたナワーブがトレイシーを睨むときゃーと楽しげに逃げていく。それを見た仲間連中に「二人は仲いいよなあ」と言われると、トレイシーはそれはそれは嬉しそうに笑う。
その顔を見ているとしかたがないなとナワーブも怒る気が失せて許してしまう。惚れた弱みと言うやつだ。
「やったー!終わった!」
トレイシーの声に顔を上げれば、大きく如雨露を振り上げている。どうやら水遣りのノルマが終了したらしい。
ナワーブも「ご苦労ご苦労」と手を叩いて労ってやる。サボらず最後までやり切ったのだから褒めてやらなくては。夏はもうすぐ終わるが、まだまだ今日の日差しは秋には遠い。
そそくさと如雨露を片付けたトレイシーは、ポーチに向かわずにナワーブのいる窓に一直線に向かってくる。
「ナワーブ、退いてー」
「……ここから入る気か?」
窓枠からナワーブは言われた通りに降りてやる。しかし窓はトレイシーの胸の辺りにある。どうやって越える気だろうか。
「うんー!」
「………………」
「ううー!」
「………………」
「うー!」
「いや、無理だろ」
窓枠を掴み、頑張ってぴょこぴょこしているトレイシーに、ナワーブは至極真っ当な指摘をする。そこを越えるにはトレイシーには跳躍力も腕の力も何もかもが足りていない。
「ったく、仕方ねえな。掴まれ」
「え、うん」
ナワーブが差し出した手を、トレイシーが掴む。そのままぐいとトレイシーの体を引っ張り上げ、室内へと入る手助けをしてやる。
「おおう、力持ち」
「お前と比べたら誰でもそうだろうが」
トレイシーはようやく太陽の直射日光から身を隠せたので、ずるずるとその場に座り込んだ。
「あーもー、疲れた……」
「そんなところでへばるな。ったく、悪夢より太陽のがお前にゃ強敵みたいだな」
「そうだね、違いないよ」
ナワーブはトレイシーの被っていた麦わら帽子を取り上げると、扇の様にして煽いでやる。ぐったりとしていたトレイシーは気持ちよさそうに目を閉じてそれを受ける。
「ふわー、生き返るー」
「そりゃ、良かった。しかし、なんでそんな夢を見てたんだか。何か心当たりはねぇのか?」
「無いんだよねぇ。妖精の服が呪われてたのかと思ったくらいだし」
「そうか……」
膝を抱えてそう答えるトレイシーに、ナワーブはその可能性もあったのかと気付く。
そういえばトレイシーとの共通点はドリームキャッチャーだけではなかった。トレイシーに関わる夢には、あの衣装も毎度出て来ていた。
そう考えて、いやとナワーブは否定する。完全に無関係では無いのだろうが、今はトレイシーがあの服を着てもなにも影響が無いのだから、やはり悪夢の切欠にはドリームキャッチャーも関わっているはずだ。
今、確実なのは悪夢の原因候補はどちらもトレイシーに関連していることだけか。
そこでふと気になったことがあったナワーブは、トレイシーに疑問をぶつけてみることにする。
「さっき、お前怖い夢が原因で妖精の服を着なくなったって言ってたが、効果はあったのか?」
「あったよ。ちょっとの間だけだったけど」
「というと……」
「ナワーブに最初に話した、あの誰かが部屋に迫って来る夢見るようになっちゃって」
「ああ、あれか」
ナワーブは腕を組み、顎に拳を当てる。
一時的にでもトレイシーの夢に変化があったのなら、やはり無関係ではないのか。そうなると、妖精服とドリームキャッチャーの両方が悪夢の発動条件なのだろうか?
それならばナワーブがドリームキャッチャーを仕舞い込んでいる限り、トレイシーが再びあの悪夢達に苛まれる事はないだろう。
これで一安心、とナワーブは思うが目の前のトレイシーは沈んだ表情でカーペットを見つめている。見なくなったとは言え、悪夢への恐怖は消えないのだろう。
思い悩んでいるトレイシーの向かいに屈み、ナワーブは彼女の顔を覗き込む。
自身が気付いたことをトレイシーに伝えるべきかと一瞬、ナワーブは考えた。しかし対象法らしきものに気づいただけで、はっきりと悪夢の原因が分かっているわけではない。
なんとなく、自分とトレイシーの夢が繋がっていて、それにトレイシーの作ったドリームキャッチャーが関係していて、そして妖精の衣装にもなにかしら紐付いている事を知っているだけだ。
どれもこれも確定情報ではない。下手にこれで解決と期待をさせて、予想が外れていたらトレイシーを糠喜びさせてしまうことになる。
何か確証が得られるまでは、まだ黙っておこう。口を噤む事をナワーブは選んだ。
その代わりと言ってはなんだが、ナワーブが出来る範囲の安心感をトレイシーには与えておきたい。だから「なあ」と考え込んでいるトレイシーに話しかけた。
「なに?」
「また変な夢見たら、寝れなくなる前に言えよ」
「え?」
「見張りくらいはしてやれる」
「!」
目をまん丸くしたトレイシーの顔に、故郷のスワヤンブナートの小猿を思い出す。ナワーブはふは、と噴き出しながらトレイシーの丸い額を指で小突いた。
痛みはない様にしてやったのに、トレイシーはぺちりと額を両手で隠し、剥れた顔になる。
「なにすんの」
「アホ面晒してんなと」
「誰がアホ面だよ!」
がうと吠えるトレイシーに、ナワーブはにやりと笑う。
「ん?見張りだけじゃ不満なら、また手でも繋いでやる」
「!い、いらないよ!子供じゃないんだから!」
ぶわっと赤くなった顔を、トレイシーは抱えた膝に埋めてしまう。寝ぼけていたとはいえ、甘々になっていた態度をトレイシーは酷く悔いている様だ。
そんな意地っ張りのトレイシーの反応が可愛くて、ついついナワーブは揶揄いたくなってしまう。しかし折角懐いてくれたのだから、あまりいじめるのはよくないだろう。
蹲ったトレイシーの機嫌を取る様に、ナワーブはその形のいい頭に手を乗せ、わしゃわしゃと髪を掻き回す。
「言っただろ。悪夢は子供だけが見るもんじゃねえよ。そん時は俺に頼れ。助けてやる」
「…………」
ナワーブがそう告げる。トレイシーは口ではなにも答えず黙ったままだったが、ナワーブの手の下でこくりと頷いたのが分かった。
壁に凭れた仏頂面の男に、妖精姿の少女が駆け寄っていく。小柄な妖精がくるりと目の前で回るのを男は和やかな眼差しで見やり、一言二言何か話しかけている。
こちらからは、はたはたと動く羽根しか見えないが、背中越しでも少女が楽しげにしているのが伝わってくる。何を話しているのか、男が珍しく顔をくしゃくしゃにして笑っている。
暫くして手を振って走り去っていく妖精に、男も片手を上げて答える。
一通りのやり取りが終わったのを見届けて、妖精の背中を見つめ続けているナワーブに歩み寄り、ウィリアムは態とらしく咳払いをする。
「うおっほん」
「!なんだ?風邪か?」
「違えわ」
振り返ったナワーブが訝し気な顔をしているので、ウィリアムは拳で脇を小突いておいた。
「デレデレしやがってまあ。お前の表情筋は固まってるか弛んでるかしかねぇのかよ」
「んなわけあるか」
「鏡見て言えよ、鏡」
ウィリアムの言い様に、そんなにおかしいのかとナワーブは自身の顔に手を当てる。自分では変えているつもりは無いのだが。
ぺたぺたと自分の顔を確認しているナワーブに、ウィリアムは肩を竦めた。
「サベダーくんや。窓の外を見てみろや。夏も終わりだ、もう秋だ。お前の恋模様が始まって半年経つわけだが、いつになったら進展しやがる」
「うるせえ、構うな。俺の勝手だろ」
「かー、よく言うわ。俺に指摘されなきゃ恋の自覚もしなかった野郎がよ」
「うっ……」
そこを突かれると、ナワーブは何も反論出来ない。ウィリアムの言う通り、彼に言われなければナワーブは全くトレイシーへの想いを気付かなかった筈だ。
決まりの悪い顔をしているナワーブを後目に、ウィリアムはトレイシーの去って行った方向に目をやる。
「あの服だって、最初はあんな突っ張って興味ない振りしてた癖に。なーにちゃっかりリクエストしてんだよ、このムッツリが」
「…………聞いてたのか」
「聞こえたんだわ」
眉間に皺を寄せ、責める様な物言いをするナワーブに、ウィリアムも顰めっ面で言い返す。
あんな人の集まる時間帯の食堂で堂々と「今日は着てこいよ、妖精の」「ナワーブ、あれ気に入ってるよねえ」なんていちゃいちゃしておいて何を言っているんだこいつは。
「お前がトレイシーにびびられてた時期があったのが嘘みたいだぜ」
「いろいろ頑張った」
「そのいろいろの内容が気になるんだって。今度聞かせろよ」
がっしりと肩を捕まえて、とてもいい顔で笑うウィリアムに、ナワーブは苦々しい顔で「そのうちにな」とだけ答えた。
ここで拒否したところでこの男が諦めるはずがない。それにウィリアムにはいろいろ助けられた事実がある。話を酒の肴にされるのは釈然としないが、どこかで洗いざらい話す羽目になるだろう。
見るからに嫌々だったが自分の頼みに是と答えたナワーブに、ウィリアムは満足気だ。頭の後ろで腕を組み、にかりと笑う。
「まあ、進展は無かろうが、ちゃんとお前の努力が実ってるみたいで良かったぜ。最近はボーッとしてる事も減って来たみたいだしなあ。前のお前はちょっと凹むとすぐにあのトレイシーの作った御守り飾りぼんやり見つめてたからな」
「そうだったか……?」
ウィリアムにそう言われ、ナワーブは頬を掻き掻き、首を傾げた。
自分ではそんなにあのドリームキャッチャーを見つめていたつもりは無かったのだが。ただ、なんとなく飾ってあるから目に入っていただけというか。なにせ、ナワーブの部屋は物が溢れているトレイシーの部屋と、同じ内装とは思えない殺風景さなのだ。
しかし、話題に出されるまですっかりとドリームキャッチャーなど存在も忘れていたなとナワーブが考えていると、ウィリアムも不思議そうに尋ねる。
「そういやあの御守り、お前あんなに大事にしてたのに、いつの間にか見なくなったよな。どうしたんだ?飽きたとかか」
「いや、そう言うわけじゃねえが」
ウィリアムが最近ドリームキャッチャーを見なくなったのはナワーブが仕舞い込んでいるからだが。
まさか「これがあると俺とトレイシーの夢が繋がって、あいつが悪夢で魘されるんだ」なんて理由を説明するわけにもいかない。
どう言い訳したものかとナワーブが思考を巡らせていると、ウィリアムはにやにやと笑いながらナワーブの背中を叩いた。
「悪い悪い。皆まで言わんでも分かってるって。あれだよな、本物がいるから、だろ」
「は?」
「もうトレイシーとの距離はぐっと近付いたし、代わりのドリームキャッチャーは必要ねえってことなんじゃねえの?」
「っ、はあ⁈」
勝手にそう納得しているウィリアムに、ナワーブは裏返った声を出してしまう。
全然違う!という思いから出たものだったが、ウィリアムは「照れるな照れるな」としたり顔で頷いている。これはもうどう説明したところで聞き入れては貰えない。
「お前らは相性いいと思うんだよなぁ。だから応援してるぞ!」
ぐっと親指を立ててウインクをしているウィリアムに、ナワーブは反論を諦め、「おう」と返すだけに留めたのだった。
引き出しを開き、中から布包みを取り出す。ナワーブが布を取り払うと、御守り飾りのガラスビーズがランプに煌めいた。
ナワーブは久しぶりに件のドリームキャッチャーを取り出した。ウィリアムに言われて、なんとなくまたあの白い御守り飾りを見たくなったのだ。
手に持ったドリームキャッチャーを眼前に翳せば、網目越しに窓の外が見える。今夜は曇り空なので星の姿は見えない。あるのは月だけだ。
部屋が暗いからか、白い筈のドリームキャッチャーは少しだけ色が燻んで見えた。
もしくはナワーブが後めたさを感じているせいだろうか。不眠の時に世話になったのに、あんまりな扱いをしている事はナワーブも自覚している。
ドリームキャッチャーを掲げたまま、ナワーブは寝台に仰向けに倒れ込んだ。
「……用済みのつもりはないんだがな」
つるバラの枠を指でなぞりながら呟く。
この御守り飾りのデザインも色も気に入っているし、思い入れもある。ただ、この飾りよりもトレイシーの方が大事なだけだ。
悪夢に苛まれるトレイシーは見ていられないし、屈託のない笑顔を向けてくれるようになったのに、またあの顔を曇らせたくない。
――せめて、悪夢の因果関係が分かれば良いんだが。
「はあ……」
ドリームキャッチャーを握ったまま、ナワーブは両腕を投げ出して目を閉じた。