逆位置の御呪い(ナワトレ)





ナワーブがそのおかしな夢を見始めて数日。
そう、数日だ。あれから毎晩、あのおかしな夢をナワーブは見る様になった。トレイシーの部屋を訪ね、魘されている彼女を起こそうとする。そうしてそこで朝を迎える。
しっかり寝ているので体に不調はないが、どうにも夢が気になってしまって気分はすっきりしない。
そしてナワーブが気になる点はもう一つ。日に日にトレイシーがやつれていっている気がするのだ。
元々夜更かしを注意されるような不健康な生活をしているので、トレイシーの目の下に隈があるのも、多少の不調もいつもの事として周囲もあまり気にしない。
しかし、ナワーブの目には、どうにもただの不摂生が原因に見えないのだ。
夜更かしをするなら、その分昼過ぎまで寝ればいい話だ。トレイシーは大抵そういう生活をしているので予定がない限り、朝は姿を見ない事が殆どだ。作業に夢中で食事も取らない場合、マーサなりウィリアムなり、面倒見のいい奴が食堂まで引きずって来るはずだ。
ところが、ここ最近のトレイシーは朝から活動をしている姿をよく見るのだ。食堂にも朝食と言える時間にきちんとやってくる。
ここだけ見れば、健康的な生活をしている様に感じる。しかし。日を追うごとにトレイシーの目の下の隈は濃くなり、食事もスープだけの事が増えていた。顔色もどんどん白くなっていく。
今の所ゲームに支障は出ていないが、いつ倒れてもおかしくはないのではないだろうか。あんなに顔色が悪いのに、他の連中は気付いてないのか。
そう疑問に思った事で、ナワーブはふと思い至る。
トレイシーの不調に気付いたのは、ナワーブが彼女を想い、常に気にかけて見つめていたからに違いない。

だったら、俺の不調にトレイシーだけが気付いたのはどうしてだ?

トレイシーに怖がられていた事はナワーブも知っていた。しかし、そういえばいつもいつも耐えきれずにその場から逃げていたのはナワーブからだ。
トレイシーは怯えながらもナワーブを避けるような行動は取っていなかった。
怖がりながら、じっとナワーブを見ていたのか。ウィリアムが「トレイシーはよく見てる」とは言っていたが、それは人を見る目があると言う意味かと思っていた。
ふとした瞬間に、きらきらとした羨望の眼差しが向けられていたのは知っていた。その目が遠い記憶を刺激して、擽ったくも感じていた。それがいじらしかった。
あれは、あの時だけじゃなかったのか?もしかして、ずっとあの目を向けられていたのだろうか?
「っ……!」
その事実に今更気づいたナワーブは、熱くなった顔を片手で覆い隠した。
怯えられているから、嫌われていなくともトレイシーにはそこまで好かれていないものと、マイナス寄りのゼロのスタートだとばかり思い込んでいた。逆だったのか。
ウィラに言われた通り、鈍すぎる。あの辛口のウィラに「可能性がある」と評価された時点でもっと早く気づいていれば。
「あら、サベダーさんどうしたの?具合でも悪いのかしら?」
「いや、なんでもない」
エミリーの声に、ナワーブはすっと居住まいを正した。
時刻は深夜と言って良い。そんな時間に食堂の一角のバーカウンターで、ナワーブは誰もいないのをいいことに物思いに耽っていたのだ。
一人で百面相していたのを誤魔化す様にナワーブは咳払いをする。
「あんたこそどうしたんだ?こんな遅い時間に。寝酒を嗜みに来たようには見えないが」
「あら、私にもそういう気分の時はあるわ」
珍しいナワーブの軽口に、悪戯っぽくエミリーも答える。しかしその手には水差しがあるので、きっと酒など目的ではなくただ水を汲みに来ただけなのだろう。
「そういうサベダーさんは、こんな時間にお酒を飲むでもなく何をしているのかしら」
「あー……」
「当ててみましょうか。トレイシーでしょう」
「!」
ナワーブが驚いた顔でエミリーを見ると、彼女はくすくすと笑っている。
「もう、なんで同じことをしてるのよ、あなた達。全然タイプが違うのに行動パターンがお揃いなんておかしいんだから」
「は?同じ……?」
「ああ、そうよね。サベダーさんは知らないわよね。私、ここ数日トレイシーの姿を見ていないの。意図的にあの子が避けてるわね。こういう時は何かの不調を隠していることが多いわ。私に見つかったらすぐにバレてしまうから。……あなたと同じね?」
「……………………」
エミリーからの指摘にナワーブは黙ってフードの縁を掴み、視線を彷徨わせる。
怪我や熱があるのを隠し、エミリーを避け続けて後々こっ酷く叱られることは、ここに来たばかりの頃のナワーブがよくしでかしていたことだ。
こそこそとしているナワーブに構わず、エミリーは話を続ける。
「前にあなたが不眠症になって、とても調子が悪くなっていた事があったでしょう?あの時あなたってば上手いこと顔を隠していたものだから、私もそれに気づいていなかったのよね。でも、その時にトレイシーが今のあなたみたいにここで一人悩んでて。様子がおかしいから相談に乗るって言ったら、あなたの事を話してくれたのよ」
「……そんな事が」
「ええ。隈も顔色も酷いからどうにか出来ないかって頼まれたの。でも、本職の私が言い聞かせる前にトレイシーに見抜かれてるって気付かせた方があなたには効くと思って。だから本人に言ってごらんなさいって。怖かったらエリスさんに協力してもらいなさいって伝えたの」
「なんでウィリアムなんだ」
「あら、あなたエリスさんの押しにとっても弱いじゃない」
「………………」
確か、カヴィンにも同じ認識をされていたような気がする。
苦虫を噛む潰したような顔をしているナワーブに、エミリーはにっこりと笑う。
「あの時とは立場が逆転しているわね。さ、この話を聞いてあなたはどうするのかしら」
「…………様子だけ見に行って来る。寝てるかもしんねえけど」
「お願いね」
そう言ってエミリーは去っていく。ナワーブは女医様には敵わないなと苦笑しつつ、カウンターの席を立った。
「っと」
ナワーブは一度離れたバーカウンターにとって返し、炭酸水の瓶を二本取る。二人きりで話すのはトレイシーには間が持たないかもしれないと思ったのだ。


手土産を手に、ナワーブはトレイシーの部屋へと向かう。廊下を進みながら、夢に見てたのはこの暗示だったのかもしれないと考える。気にするくらいならとっとと行動しろ、という意味だったのかも。
トレイシーの部屋の前に立ち、ノブを掴みかけて慌ててナワーブは手を引っ込める。――夢じゃなくてこれは現実だっての。
ついつい夢と同じように忍び込むところだった。改めて丸めた手の甲で扉を二度ノックする。
「……………………」
室内からの反応はない。しかし人が動いている気配はするので眠っているわけではなさそうだ。ナワーブは少し間を開けて、もう一度ノックをする。
が、やはり返事はない。返事はないが、起きているならこちらに気付いてはいる筈。こんな時間に下手な居留守をするはずもない。
「トレイシー」
「!」
「寝てるのか?」
「お、起きてるよ!」
ナワーブが呼びかけるとがたがたと騒がしい音の後に、扉が開け放たれる。
飛び出して来たトレイシーは髪は乱れ、顔にはくっきりと布の皺の様な跡が残っている。トレイシーの体越しに散らかりっぱなしの作業机、シーツがくしゃくしゃになった寝台と、おかしな窪みが見える。
もう一度確認したトレイシーの顔は青白く、目の下の隈もより濃くなっている。
これは、と思ったナワーブはトレイシーの胸に炭酸水の瓶を押し付けると、半ば強引に室内に入り作業台にまで足を進める。
作業台をざっと見渡せば、不自然に壊れたパーツの山が出来上がっている。ゲーム中に壊れたものではなく、組み立てている最中にトレイシーの不注意で破損させたもの達だ。普段の彼女ならあり得ない。
椅子の座面に触れれば冷え切っている。トレイシーの体温は高いので、長いこと座っていればこうはならない筈だ。
大方、作業中に耐えきれずに寝台に倒れ、うたた寝をしていたという所だろう。
トレイシーは常日頃、床でも机でも待機所のロビーでも、どこでも構わず眠ってしまう。場所も時間も問わず、眠れる時に眠って睡眠不足を補おうとするのだ。
そのトレイシーが、こんな酷い不眠状態になっているのはナワーブも見たことがない。
横にならずに眠れる少女が、作業中にも関わらず全てを放り出して寝台に倒れ込む。これはナワーブにも覚えがある。過去の悪夢に苛まれ、不眠になった時に同じことをしていた。
眠れないのに体が休息を求める。耐え難い疲労に体だけでも休まりたくて、眠れないと分かっているのについついしてしまう行動だ。
――やっぱり、こいつも俺と同じ様に眠れてねえのか。
部屋を訪ねたのは正解だったかもしれない。このままではトレイシーが倒れるのも時間の問題だ。
ナワーブはおどおどしているトレイシーの顔を見つめ、どう話を切り出したものかと思考を巡らせる。
何故不調を言わないのかと臆病な少女を責め立てても仕方ない。そんなことでどうにかなるものではないことは、ナワーブが一番よく理解している。
だから一つ一つ、なるべく穏やかに聞こえるように。ナワーブが気付いた事実を伝えていくことにする。ずっと様子がおかしかったこと、トレイシーらしくない行動をしていること。
ナワーブのその指摘を、トレイシーは最初認めようとしなかった。「うっかりしてただけ」「うたた寝なんていつもの事」とへらりと笑って誤魔化そうとする。その、如何にも無理をしている姿が痛々しい。
何故そんなに頑ななのかと不思議に思いつつ、ナワーブは話を続ける。そうしているうちに見えて来たのは、どうにもトレイシーは「ナワーブに」意地を張っている様なのだ。
――なんだろう、この感じ。物凄く覚えがあるんだよな……
なんだったっけかと記憶を探り、一人でなんでも出来ると息巻いて、大人の手出しを意地を張って断っていた幼い弟妹の姿を思い出す。
そこでナワーブはピンと来た。
――もしやこいつ、俺に子供扱いされてると思ってるのか。
今の今までナワーブからすれば、トレイシーを子供扱いしているつもりは毛頭無かったのだ。ただただ、トレイシーの体調不良を心配していただけだ。
口調が穏やかになるようにとナワーブが心掛けていたのが、幼子に対するものと同じと受け取ってしまったのかもしれない。
ナワーブはその誤解を解くために、少し切り込んだ質問を投げる。
「トレイシー、なにか寝たくねぇ原因があんのか?」
「……………………………………」
「トレイシー」
だんまりを決め込むトレイシーに、ナワーブは身を乗り出した。
「もしかして、夢見が悪いのか?」
「!」
「当たりか」
当てずっぽうに、自分の不眠の原因をナワーブが口にすればトレイシーがびくりと体を揺らした。
目をまん丸くしたトレイシーに、ナワーブはしたり顔で腕を組む。
「お前、鏡見たか?本当にやべえんだよ、顔色が」
「な、なんで夢って分かったの?」
「特殊能力、って言いたいところだがな。なんでもなにもねぇよ、ただの俺の実体験だ。眠りたいのに眠れねぇ夜は俺にもあるからな」
ナワーブが自虐的に微笑むと、トレイシーも観念したらしい。自身の情けなさを吐露しながら、ナワーブに向き直る。
「あのね。……大した事じゃないの、本当に。ちょっと怖い夢見るから、寝たくないってだけ」
自嘲気味にそう話すトレイシーに、ナワーブは小さく首を横に振る。それがどれだけ苦しい事かは自分も分かっている。大したことがない振りなんてする必要はない。
それでも冗談めかして深刻にならない様にしているトレイシーに合わせ、ナワーブも「経験者の先輩を頼ってもいいんだぞ」と軽口を叩く。
そんな気安い姿にトレイシーは目を丸くして驚いていたが、やがてくすくすと愉快そうに笑い出す。やっと笑ったとナワーブもほっと胸を撫で下ろす。この部屋に来てから、トレイシーはずっと張り詰めた表情をしていたのだ。
トレイシーは戯けた様子で小首を傾げる。
「それじゃあ、先輩に頼ろうかな」
「おう、人に話すだけで気が楽になる夢もあるだろう。お前の好きにすればいい」
ナワーブがそう促すと、トレイシーはすうと息を吸い込み、覚悟を決めたように話し始めた。

トレイシーが語った夢の内容はこうだ。
誰かがこの居館の廊下を歩いている。トレイシーはその「誰か」の視点なのだが、自分ではないので体の自由は効かないらしい。
その「誰か」は真っ直ぐにトレイシーの部屋へとやってきて、鍵が掛かっているはずの扉を開き、部屋に入ると寝台の上に眠っている自分の姿があるのだという。
そして、そこでいつも恐怖で叫びながら飛び起きる。起きれば誰もいないし、部屋にも鍵が掛かっている。
しかしその夢があまりにも生々しく、再び眠ることが出来ぬまま朝を迎えるのだという。

「…………………………」
トレイシーの話を聞きながら、ナワーブはまず口を引き結び、次に眉を顰めた。ぐっと眉間に深い皺を刻み、これはあれだと目を瞑った。
――やべえ、めちゃくちゃ身に覚えがありすぎる夢なんだが。
トレイシーの話が終わる頃には、ナワーブはどうしようかと眉頭を抑えた。
まるきり同じ内容というわけではないが、あの夢とどうにも似通っている。これはもしや俺が見ている夢と関連があるのではないだろうか。
その事実を伝えるべきかと顔を上げると、迷子の子犬を思わせる様な、純真にひたむきに縋る目をしたトレイシーと視線がかち合う。「信頼してます」と顔に書いてある様だ。
こんな真っ直ぐな瞳を裏切れる筈もなく、ナワーブは絞り出すように「そりゃ寝れねえよな」と答えた。
とてもでないが、その悪夢の原因俺かもしれないとは言い出せない。不安気に「そう思う?」というトレイシーに、そんな不確定なことが言える筈もない。
一先ず、その事実確認は後回しだ。今はトレイシーの不眠を解消してやらなくては。
自分が弱いから悪い夢を見るんじゃないかと思い詰めているトレイシーをナワーブは宥めにかかる。「お前が意気地なしな訳あるか」と俯くトレイシーの額を軽く小突いた。
トレイシーは額を抑えて、ふにゃりと笑う。ゲームで活躍したトレイシーをナワーブが褒めてやると、決まってこの嬉しそうな表情になる。こっちまで幸せな気分になるのでナワーブは思わず、くしゃくしゃと頭を撫でてやる。
「ちょっと、ナワーブ。これ子供扱いじゃないの?」
「いや、つい。撫でやすい頭が目の前にあったからな。よーしよし」
「え、犬扱い……?」
「お前はどっちかっていうと猫かうさぎだけどな」
わしわしと頭を撫で続けるナワーブに、「もう!」と言いながらもトレイシーは大人しくされるがままになっている。
ナワーブも止められないのをいいことに、そのまま柔らかいトレイシーの髪を撫で続ける。撫でながらううむと解決策を考える。
ナワーブの悪夢の原因は、荘園に来たばかりで慣れない環境と極度の緊張感から来るストレスだった筈だ。
しかし、トレイシーはもうこの環境に身を置いてから数年が経っている。今更ストレスに感じる事があるとも思えない。最近新しく仲間になったメンバーと不仲、という事もないので、原因は別のところにある。
――仮に。仮にだ。ナワーブの夢とトレイシーの夢に何かしらの繋がりがあるとする。トレイシーの部屋を訪れる「何者か」はナワーブという事になるのかもしれない。その場合、ナワーブが眠らなければトレイシーは悪夢を見ないのではないだろうか。
そして、この場にナワーブが居れば如何だろう。そうすれば例え夢に繋がりがあろうとなかろうと、魘されているトレイシーを起こしてやれる。
ナワーブがここで、寝ずの番をする。それが一番手取り早い解決方法であり、そして二人の夢の繋がりを検証出来る方法なのではないだろうか。我ながら、これはなかなかいい案の気がする。早速ナワーブはその考えを実行することにする。
「まずはお前の寝不足を解消させよう。明日の朝のゲームは俺が代わる」
「え?や、でもナワーブの予定……」
「他を調整すりゃいいだけだ。んな事よりお前は自分がぶっ倒れる事を心配しろ。下手すりゃゲームで取り返しのつかないミスをしでかすことになんぞ」
「で、でも、代わってくれるのはありがたいけど、眠れないから」
「それも問題ない。寝ろ」
「へ?」
そう言って寝台を指すナワーブに、トレイシーは戸惑った表情になる。そんなトレイシーに、ナワーブは「寝ろ」と繰り返す。
それでもまごついているトレイシーに、ナワーブははっきりと伝えてやる。
「ベッドに横になれって言ってんだ」
「いや、聞こえてたけど……」
「だったら早く寝ろ。悪夢が来ねえように俺が見張っててやるから」
「へ⁈や、でもそれナワーブが寝れないんじゃ」
「寝ずの番なんざ一晩程度、屁でもねえよ」
「でも……」
「つべこべうるせえ。いいから、寝ろ!」
最後はきつい物言いになってしまったが、トレイシーは戸惑いながらも大人しく寝台に潜り込んだ。
他人に見られている状況で眠るのは抵抗があるだろう。トレイシーも落ち着かない事はナワーブも分かっている。それでも体は休息を欲している。力を抜いてしまえばすっと眠れる筈。
ナワーブの思った通り、最初はもぞもぞとしていたトレイシーだったが、数分もたたずにその動きが止まり、瞼が落ちていく。
完全にトレイシーが寝入るまではと、ナワーブは極力静かに気配さえ殺して様子を伺う。しかし、そろそろ眠れたかという頃合いになると、トレイシーはハッとしたように目を開けてしまう。それを幾度も幾度も繰り返す。
身体は睡眠を求めているのに、それが叶う瞬間にトレイシー自身がそれを拒絶してしまうらしい。
――そう簡単には行かないか。
ナワーブはトレイシーの枕元まで椅子を引きずり、その顔を覗き込んだ。
「どうした?まだ、眠るのが怖いか?」
「ごめん…………夢を、思い出しちゃって」
謝罪を口にするトレイシーだったが、彼女が謝る必要などあるわけがない。
ナワーブに声を掛けられても、トレイシーの目は半分閉じられている。今にも眠りたそうにしているのに、それでも恐怖が勝つのだろう。
やつれた頬も痛々しい。ナワーブも助けてやりたいが、どうすれば安心させてやれるかが思いつかない。
顔にかかった髪を払ってやることくらいしか出来ない自分が不甲斐ない。
「なわーぶ」
ナワーブが歯痒い気分を抱えていると、舌足らずな、幼気な口調でトレイシーに名を呼ばれた。
「あの、お願い……」
「なんだ?」
消え入りそうな声で囁くトレイシーに、ナワーブは上半身を寄せる。トレイシーは暫く迷った様に視線を泳がせた後、おずおずとナワーブを見上げる。
「手、繋いで欲しい。寝るまででいいから。そしたら、きっと大丈夫だと思う」
「っ……!」
そう言って恥ずかし気に瞳を伏せ、トレイシーは遠慮がちに捲った布団から、そろそろと右手を差し出す。
ナワーブは目を丸くして、あんぐりと口を開け固まってしまう。
――これは、まさかとは思うが、甘えてるのか?トレイシーが?俺に?マーサでもなくウィリアムでもなく、俺に?
背中に隠れられる事はあっても、頼りにされてる事は分かっていても、トレイシーはナワーブに自分から弱ってる一面を晒す事はなかった。今まで一度たりともだ。
そのトレイシーが、まるで幼子の様なおねだりをナワーブにしている。
これこそ俺の夢だったりしねぇか?俺いつの間にか寝てたか?とナワーブはぐるぐると脳内で間抜けな考えを繰り返す。しかし表情はいつものままなので、側から見れば少し悩んでる様にしか見えない。
だからトレイシーは不安になったのか、少し悲しげに「なわーぶ?」と眉尻を下げる。断られるとでも思ったのかもしれない。
そんな顔をさせるつもりはなかったのに。ナワーブはトレイシーがそろそろと引っ込めようとしていた手をしっかりと捕まえて、「いいぞ」と笑いかける。断るわけないだろ、という気持ちを込めて。
お願いを聞いてもらえた事に安堵したトレイシーは、体の力を抜くとすうと目を閉じた。繋いだ手の温度もとても高い。これならすぐにでも眠ってしまうだろう。少しでも休まればいいのだが。後は件の悪夢を見るか見ないかが問題か。魘されたら直ぐに起こしてやろう。
手を繋ぐのは寝入るまでの約束だったが、ナワーブが動けばトレイシーが起きてしまうかもしれない。だから暫くはこのままでいてやろう。
そう思っていたナワーブの視界の端で、何かがきらりと光る。気になって顔だけをそちらに向ければ、クローゼットの前に「枯れない花」が掛けられている。
偶然かもしれないが、毎夜ナワーブはクローゼットから溢れた衣服を掻き分けてあの衣装を取り出し、戸を閉めてやっていた。あの夢のままの状態だ。
トレイシーはここ暫く、あの服は着ていない筈。だとしたら、何の為に取り出しているのだろう。奇妙な一致にナワーブは落ち着かない気分になる。
そこでつい、「珍しいもんが出てるな」とナワーブは呟いた。独り言のつもりだったのだが、その声は静かな室内に思いの外大きく響いた。
しまった、と思った時には「なに?」とトレイシーから声が返ってくる。折角トレイシーが眠り掛けていたのに起こしてしまったらしい。
「悪い、独り言だったんだが」
「ひとり、ごと?」
トレイシーは開き切っていない目を、ナワーブが見ていたクローゼットに向ける。「ふく?」と尋ねるトレイシーに、ナワーブは気まずげに言葉を継ぐ。
「最近着ているところを見てなかったから、思わずな。明日、着る気だったのか?」
「……んーん、違う。ちょっとクローゼットの中を整理しようとしただけ」
「そうか」
顔には出さなかったが、ナワーブはほんの少しだけがっかりしてしまう。久しぶりに妖精姿のトレイシーを見れるかと期待したのだが。あれでちょこまかと動いているトレイシーは本当に可愛らしいのに。
「残念だな。お前によく似合うのに」
そんな事を悶々と考えていたせいで、ナワーブはまたもやついうっかりと本音が口から漏れてしまった。何を言ってるんだ俺はと慌てて口を抑えたが、もう音になってしまったものはどうにもならない。
トレイシーは閉じ掛けていた目を今度はパチリと開き、驚いたような顔をナワーブに向ける。
「似合う、かな?」
「……ああ」
言ってしまったものは仕方がない。ナワーブは頷きながら「寓話に出る妖精にそっくりだ」と伝えれば、トレイシーはふふ、とおかしそうに笑う。
「そんな綺麗じゃないでしょ……」
「…………」
――いいや。お前は綺麗だよ。血で汚れた俺と違って。
いつもいつも、ナワーブはそう思っている。トレイシーは記憶の彼方にある、まだ綺麗だった頃の日々を思い出させる。
トレイシーもこの荘園に招かれた人間なのだから、なにかしらの過去を持っているのだろう。それは承知の上だ。
それでもまだ、この幼い機械技師は俺と同じ位置まで落ちてはいない。そう願っている。
ナワーブは眠たげなトレイシーにふっと意地悪げな顔で笑いかける。
「妖精ってのはドジなのも多いだろ」
「どういういみ……」
「お前と同じだな」
「ちょっと……しつれい……」
むっとした顔をしながらも、うつらうつらと瞼が閉じていくトレイシー。こうして、話をしていれば怖いと思う事もなく眠りにつけるかもしれない。ナワーブはたわいもない話を続けてトレイシーの気が紛れる様にと努めてやる。
黙ってしまうとまた恐怖を思い出して覚醒してしまうかもしれない。だから最後まで話を続けてやろう。
ナワーブは徐々に声の大きさを落とし、短い返事だけで済む応答を心がける。こんなことを普段はしないのだが、不思議とすらすらと言葉が出てくる。
完全に、トレイシーの瞼が落ちる。その瞬間にナワーブは少しだけ欲を出す。
「なあ。あの服、また着て来いよ」
「どうして?」
「可愛いから勿体ねえ」
「……うん、じゃあ、そのうち、きる……」
「言ったな?着ろよ?」
眠気に負けそうなトレイシーは自分でも何を言っているのか分かっていないだろう。
騙し討ちの様だが、それでも服を着るという言質は取った。覚えていないとトレイシーが言っても絶対に着させよう。
しかし、トレイシーも中々に強かだった。してやったりと笑うナワーブにこう付け足したのだ。
「こわいゆめ、みなくなったら、いいよ」
「……っははは」
半分意識がない筈なのに、しっかりと交換条件を告げるトレイシーに、ナワーブは笑ってしまう。
本当にこいつには、いつもいつも驚かされる。か弱く見えてもしぶとく粘り強い。
言いたいことを言い、眠りの世界に落ちていったトレイシー。そんな彼女を起こさないように、ナワーブは金の頭を撫でてやりながら囁いた。 

「ああ、分かった。夢で来るのはやめてやる。――だから約束は守れよ」




「っと……」
はっとしてナワーブは目を覚ました。寝ずの番を約束していた筈がついつい眠ってしまっていたのだ。
起きていられる自信があったのだが、ついつい握っているトレイシーの手の温度に眠気を誘われてしまったらしい。
――こいつ、御守りだけじゃなくて本人にも安眠効果ついてんのかよ。
一体どれくらい寝てしまっていたのかと時計に目を向けると、短針は四を指している。大分がっつり寝てるじゃねえか阿保か、俺。
ナワーブはそっと握っていた手を外しながら、トレイシーの顔を確認する。トレイシーは寝入った時と変わらず、心地よさげに眠りについている。悪夢にうなされた形跡はなさそうだ。それにほっと息をつく。
「ん?」
そこで、はたとあることにナワーブは気付く。
――俺、今全然関係ない夢見てなかったか?
ナワーブは額を抑えて考え込む。
内容は大したことではない、馬鹿馬鹿しいものだったのでろくに覚えてはいない。が、いつものトレイシーの部屋を訪ねる夢ではなかった事は覚えている。それは確かだ。
トレイシーを見下ろせば、すやすやと穏やかに眠りについている。認めたくはないが、やはりトレイシーの悪夢とナワーブの夢が繋がっている可能性が出てきた。まだ、その理由には思い至らないのだが。
ナワーブがあの夢を見始めた時にトレイシーを心配していたのは確かだが、どうにもトレイシーの不調はそれよりも前から始まっていた様に思う。そしてまだ、彼女は何かナワーブに隠している気がする。
いろいろと確認したい事はあるが、ナワーブは朝のゲームをトレイシーと代わる約束をしている。開始時間の前に一度部屋に戻りたい。
トレイシーは気が済むまで眠らせてやるとして、何か残していくべきだろう。机にあったメモ用紙を千切り、「朝ならもう悪夢も来ねえだろ、ゲームに行く」と書きつける。ナワーブは少し考えて、もう一枚に「約束守れよ」と付け足す。
寝ぼけていたトレイシーが昨夜の口約束を覚えているかは分からないが、こうしておけば「何の話?」と会話の糸口になるかもしれないという下心もあった。
それにしても、何故自分とトレイシーの夢が繋がってしまったのだろうか。今日は違う内容だった訳だが、それもどうしてだろう。
夢の目的地である、トレイシーの部屋にナワーブ自身がいたからだろうか?ナワーブがトレイシーと手を繋いでいたからだろうか?
どれも有りそうだが、違うような気もする。すっきりしない。
自室に戻ったナワーブは、上着を脱ぎ捨て浴室へと向かう。気分を変えるために、シャワーでも浴びようと考えたのだ。
「!」
ちかり、と目の端で光るものがあった。壁に吊り下げたドリームキャッチャーの鏡が、ランプの光を反射している。
「…………」
ナワーブはドリームキャッチャーを数秒見つめ、浴室に向いていた足を寝台の方へと変える。白い御守り飾りを壁から取り外し、頭上に掲げ持つ。
トレイシーがナワーブを気にかけ、ナワーブの為にと拘りを持って製作し、その願い通りにナワーブの悪夢を消し去ったドリームキャッチャー。
トレイシーとナワーブに関わりのある、夢を繰る御守り飾り。
「………………もしかして、これか?原因」
ナワーブは神頼みを信じる気はない。そんな事は数え切れない程してきたが全て裏切られた。
だが、このドリームキャッチャーの力は信じるしかない。体験しているのは自分だけだが、あれだけ苛まれた悪夢が嘘の様に消えたのだ。あれがただの気の持ちようだけでどうにかなったとは思えない。
そして、また夢に関わる不可思議なことが起きている。ナワーブとトレイシーに繋がりがあるものなど、ナワーブにはこれくらいしか思い浮かばない。
――試してみるべきか。
ナワーブは机の引き出しの奥深くに、布で包んだドリームキャッチャーを仕舞い込む。
これでどうにかなるといいのだが。




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